英雄回収局   作:自給自足

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9話

街は、静かに切り捨てられていた。

夜明け前の空は灰色に濁り、高層ビルの隙間で赤色灯だけがぼんやり滲んでいる。低い警報音が止まらない。サイレンは遠くで重なり合い、湿った空気の底へ沈むように鳴り続けていた。

ナギは人気のない裏路地を歩いていた。

いや。

歩いているというより、倒れないよう無理やり前へ進んでいるだけだった。

靴裏が濡れたアスファルトを擦る。

一歩進むたび、身体の奥が軋んだ。

肺は焼けるように熱いのに、指先だけが異様に冷たい。呼吸をするたび胸の内側へ細い針を押し込まれているみたいだった。

右腕へ視線を落とす。

黒線は肩を越え、首筋近くまで侵食を広げていた。皮膚の下で脈打つそれは血管にも見えたが、もっと異質だった。見ていると、自分の身体へ別の何かが入り込んでいるような錯覚を覚える。

耳鳴りが酷い。

だが、完全な無音よりはましだった。

静かになると、別の声が聞こえる。

『寒い』

『助けて』

『置いていかないで』

感情が、頭の奥へ直接流れ込んでくる。

フィアのもの。

違う誰かのもの。

自分のもの。

境界が曖昧だった。

「……っ」

ナギは壁へ手をつく。

吐き気が込み上げる。

その瞬間、一瞬だけ息が詰まった。

理由は分からない。

ただ。

何かを置いていく直前みたいな感覚だけが、胸の奥を掠めた。

後ろから、小さな足音が近づく。

「……ナギ」

掠れた声。

振り返る。

フィアは数歩後ろに立っていた。

白い髪は汚れ、黒変した右腕は首筋近くまで侵食を広げている。それでも赤い瞳だけは、不安そうに真っ直ぐナギを見ていた。

その視線を受けた瞬間、胸の奥が小さく軋む。

だが、ナギは気づかないふりをした。

フィアはナギを見つめ、それから少しだけ視線を逸らした。

「……ごめんなさい」

小さな声だった。

ナギは眉を寄せる。

「何がだ」

フィアは答えない。

代わりに、遠くの通りへ目を向けた。

幹線道路の向こうでは封鎖線が張られている。青白いライトが雨上がりの道路を照らし、防護服姿の人間たちが慌ただしく動いていた。

避難誘導の放送が繰り返される。

【東部封鎖区域において感情汚染災害が発生しています】

【住民の皆様は——】

機械的な音声だった。

妙に冷たい。

まるで台風情報みたいに淡々としている。

その時だった。

近くのコンビニ跡からノイズ音が響く。

壊れたテレビ。

画面が乱れながら、緊急速報を流していた。

【高危険度残響、および高侵食者の逃走を確認】

【対象周辺では重度の精神汚染が発生——】

映像が切り替わる。

誰かが撮影したらしい、荒れた動画。

黒霧。

泣き叫ぶ避難民。

道路脇へ蹲る男。

『違う……俺は見捨ててない……!』

壊れたみたいに同じ言葉を繰り返している。

その奥で、一瞬だけ白い髪が映った。

フィアの身体が強張る。

テレビの向こうで、誰かが叫んだ。

『化け物だ!』

『近づくな!』

『頭がおかしくなる——!』

映像が途切れる。

ノイズだけが残った。

静寂。

遠くのサイレンだけが響いている。

その時、封鎖線近くを避難していた親子連れがこちらを見た。

まだ幼い子供だった。

フィアと目が合う。

次の瞬間。

子供は泣き出した。

「やだ……こわい……!」

母親が反射的に子供を抱き寄せる。

まるで感染源を見るみたいに、怯えた目でフィアを見る。

「見ちゃダメ」

その一言が、妙に鋭く刺さった。

フィアは俯く。

小さな肩が震えていた。

「……わたし」

掠れた声。

「……こわく、した」

ナギは言葉を失う。

フィアは理解している。

自分が何を壊したのか。

何人傷つけたのか。

だからこそ。

ゆっくり、一歩後ろへ下がった。

ナギから距離を取る。

その動きを見た瞬間、ナギの呼吸が止まりかけた。

身体が先に動く。

気づけば、フィアの腕を掴んでいた。

強く。

離さないように。

フィアが目を見開く。

ナギ自身も、一瞬遅れて自分の行動を理解した。

「……あ」

声が掠れる。

理由はうまく分からない。

ただ。

離れていく感覚だけが、どうしようもなく嫌だった。

フィアの感情が流れ込んでくる。

怖い。

苦しい。

でも。

少しだけ、安心した。

その感情が胸を締めつけた。

ナギはゆっくり手を離す。

何も言えなかった。

フィアも何も言わない。

ただ、服の裾だけは弱く掴んでいた。

二人は再び歩き出す。

封鎖された街を。

怪物として追われる側の人間として。

その時。

遠くの交差点で、複数の白いライトが点灯した。

静かなエンジン音。

研究部の車両だった。

防護服姿の隊員たちが、ゆっくりこちらへ向かってくる。

避難民を見る目じゃない。

災害を見る目だった。

直後、無機質なアナウンスが夜の街へ響く。

【対象を確認】

【高侵食者および保護対象F-021を発見】

【これより回収を開始します】

フィアの指が、小さく震えた。

ナギは反射的にその手を掴む。

「……走るぞ」

掠れた声だった。

次の瞬間、二人は路地を駆け出す。

背後でサーチライトが動く。

警告音。

無線。

封鎖シャッターが次々閉まり、人気の消えた街がさらに静かになっていく。

逃げ場が消えていく。

濡れた非常階段を駆け下りる。

地下通路へ続く扉は半分壊れ、水が流れ込んでいた。

ナギは荒い息を吐きながら、その暗闇へ踏み込む。

地上の警報音が、少しずつ遠ざかっていった。

 

地下通路へ降りた瞬間、空気が変わった。

湿っている。

冷たい。

古いコンクリートと鉄錆の臭いが肺へまとわりつき、地上より静かなはずなのに、逆に呼吸音だけがやけに大きく聞こえた。

天井は低い。

剥き出しの配管から雨水が落ち、ぽたり、ぽたり、と一定の音を繰り返している。

ナギは壁へ背を預けた。

肩で息をする。

肺が熱い。

身体の芯では何かが燃えているのに、指先だけが異様に冷たかった。

右腕を見る。

黒線は鎖骨を越え、首筋近くまで侵食を広げている。脈打つたび、感覚が少しずつ曖昧になっていく。

耳鳴り。

ノイズ。

『寒い』

『助けて』

『置いていかないで』

感情が直接流れ込んでくる。

フィアのもの。

違う誰かのもの。

自分のもの。

もう境界が分からない。

「……っ」

吐き気が込み上げる。

その時だった。

細い指が、そっと服の袖を掴んだ。

フィアだった。

「……だいじょうぶ?」

小さな声。

ナギは答えられない。

平気なわけがなかった。

視界は時々ずれる。

時間が半拍遅れて追いついてくるみたいに、景色がぶれる。

感情も、記憶も、自分のものじゃなくなり始めていた。

フィアはナギを見上げる。

赤い瞳には怯えが残っていた。

それでも離れない。

だが次の瞬間。

彼女はゆっくり手を離した。

ナギが目を向ける。

フィアは少し距離を取るように後ろへ下がっていた。

「……わたし、いると」

掠れた声。

「……また、こわくする」

地下通路の冷たい空気より、その言葉の方が痛かった。

ナギは言葉を失う。

フィアは理解している。

自分が何を壊したのか。

どれだけ人を傷つけたのか。

だから、離れようとしている。

ナギを壊さないために。

その時だった。

通路の奥から、静かな足音が近づいてくる。

一人。

ゆっくりと。

焦りも、敵意も感じない歩き方だった。

やがて非常灯の下へ、黒いコート姿が現れる。

鷺沢だった。

雨に濡れた靴のまま、静かに立っている。

護衛はいない。

武器も持っていなかった。

それが逆に、逃げ場のない圧力になっていた。

ナギは短剣を握る。

「……よく追ってきたな」

掠れた声。

鷺沢は数メートル先で足を止める。

「あなたが逃げると予想していたからです」

声は穏やかだった。

怒りもない。

苛立ちもない。

その静けさが、逆に神経を削る。

鷺沢はゆっくり視線を動かした。

フィアを見る。

彼女は反射的に身を強張らせる。

黒変した右腕を押さえ、呼吸を浅くする。

鷺沢は静かに言った。

「……もう限界ですね」

フィアの肩が小さく震える。

ナギは一歩前へ出た。

「黙れ」

鷺沢は構わず続ける。

「このまま共鳴が進めば、感情汚染はさらに拡大します」

淡々とした口調だった。

だが、その声には現場を知る人間特有の疲労が滲んでいる。

「次に暴走すれば、死ぬのは通行人かもしれません。避難が遅れた子供かもしれない。家族を探して戻った人間かもしれない」

ぽたり、と雨水が落ちる。

地下通路の空気は重かった。

逃げ場がない。

壁も、天井も、湿った空気も、全部がナギを追い詰めてくる。

鷺沢は一歩も近づかない。

ただ静かに、容赦なく言葉を重ねる。

「あなたは現場の人間だ」

低い声だった。

「理解しているはずです」

その瞬間。

胸の奥が強く軋んだ。

理由もなく、呼吸が止まりかける。

置いていく。

その感覚だけが、一瞬喉元までせり上がった。

ナギは反射的にフィアを見る。

彼女は俯いていた。

小さな肩が震えている。

「……ごめんなさい」

掠れた声。

「……ナギ、こわれる」

その言葉が、胸へ深く刺さる。

ナギの呼吸が乱れる。

耳鳴りが激しくなる。

視界が歪む。

感情が流れ込む。

怖い。

離れた方がいい。

でも、離れたくない。

フィアの感情が、そのまま胸へ流れ込んでくる。

苦しい。

胸の奥が焼けるみたいに痛い。

鷺沢は静かに言った。

「また後悔しますか?」

その瞬間。

ナギの中で、何かが止まった。

雨の音。

閉まりかける扉。

伸ばした手。

届かなかった感覚。

全部を思い出すわけじゃない。

だが、身体だけが覚えていた。

置いていった後悔を。

ナギは気づけば動いていた。

フィアの腕を掴む。

強く。

離さないように。

フィアが目を見開く。

ナギ自身も、自分の行動に少し遅れて気づいた。

呼吸が苦しい。

胸が痛い。

でも。

離れる方が、もっと嫌だった。

「……うるせえ」

掠れた声が落ちる。

鷺沢は静かに目を伏せた。

「正しい選択をしてください」

怒りも軽蔑もない声だった。

ただ、疲労だけがあった。

「彼女を、渡してください」

その瞬間。

フィアがゆっくりナギの手を外そうとする。

自分から離れようとしている。

壊さないために。

その動きが、胸を締めつけた。

ナギの中で、何かが切れる。

理屈じゃなかった。

身体が先に動いていた。

ナギは反射的に、フィアの手を掴み返す。

離さない。

その瞬間。

右腕の黒線が脈打つように熱を放った。

耳鳴りが爆発する。

視界のノイズ。

感情流入。

恐怖。

孤独。

後悔。

身体そのものが、人間側から軋み始めていた。

それでも。

ナギはフィアを庇うように前へ立つ。

「……正しいから何だ」

掠れた声。

鷺沢の目が、わずかに細まる。

ナギは顔を上げる。

目の奥が熱かった。

「置いていけって言うのか」

声が震える。

怒りじゃない。

もっと根源的な痛みだった。

「また、腐らない後悔を抱えろって言うのか」

地下通路へ、雨水の音だけが響く。

鷺沢は数秒、何も言わなかった。

その沈黙が妙に重い。

ナギは短剣を握り直す。

「……もう嫌なんだよ」

掠れた声だった。

「置いていった後悔が、ずっと残るの」

その瞬間。

最後の枷が、静かに外れた。

感情の流れが見える。

黒霧の揺らぎ。

遠くの回収班の恐怖。

足音。

呼吸。

全部が、異様なほど鮮明だった。

侵食が、知覚そのものを書き換え始めている。

ナギは短剣を構える。

「……もう抑えねえ」

残響理解。

共鳴。

感情予測。

侵食そのものを、武器として受け入れる。

その瞬間。

ナギは初めて、自分が人間側から踏み外したことを理解した。

 

地下通路へ、低い警報音が響いていた。

遠くで重い防火扉が閉まる音がする。金属同士が擦れる鈍い音が、湿った空気の中で長く尾を引いていた。

研究部が包囲を狭めている。

それが分かった。

非常灯の緑色の光だけが、細長い通路をぼんやり照らしている。壁を伝う雨水が床へ落ち、小さな波紋を繰り返し広げていた。

ナギは短剣を握ったまま、荒い呼吸を繰り返す。

肺が焼けるみたいに熱い。

呼吸するたび、胸の奥へガラス片が刺さるようだった。

右腕の黒線は、もう首筋近くまで侵食を広げている。脈打つたび、感覚が少しずつ自分のものじゃなくなっていく。

耳鳴り。

ノイズ。

感情流入。

怖い。

寒い。

置いていかないで。

フィアの感情が、そのまま胸へ流れ込んでくる。

もう境界が曖昧だった。

自分が苦しいのか。

フィアが苦しいのか。

分からない。

ナギは壁へ手をつく。

視界が歪む。

呼吸が乱れる。

立っているだけで精一杯だった。

その時。

通路奥で複数のライトが点灯する。

白い照明。

黒い防護服。

研究部回収班だった。

隊員たちはゆっくり距離を詰めてくる。銃口の先端には銀色の装置が取り付けられていた。

共鳴阻害器。

黒霧対策装備。

完全に、“災害鎮圧”だった。

「対象を確認」

「高侵食者およびF-021」

「感情汚染濃度、危険域到達」

無機質な声が地下通路へ響く。

人間へ向ける声じゃない。

ナギは苦く笑った。

当然だった。

もう、自分たちは怪物側だ。

回収班がさらに距離を詰める。

阻害装置が低く唸り始めた。

その瞬間。

フィアの肩が大きく震える。

黒霧が揺らぐ。

怖い。

また壊す。

また傷つける。

その感情が流れ込んできた。

フィアは一歩後ろへ下がる。

逃げた方がいい。

離れた方がいい。

その感情が伝わる。

ナギの胸が軋んだ。

その動きを見た瞬間、呼吸が止まりかける。

理由なんて分からない。

ただ。

離れていく感覚だけが、どうしようもなく怖かった。

「……やめろ」

掠れた声が漏れる。

フィアが止まる。

ナギは震える手を伸ばした。

「……行くな」

声が掠れる。

情けないくらい弱い声だった。

「もう……置いてくの、嫌なんだよ……」

呼吸が崩れる。

言葉の途中で喉が詰まる。

胸が痛い。

肺が熱い。

それでも。

手だけは伸ばした。

その瞬間。

フィアの表情が崩れる。

怖い。

苦しい。

でも。

離れたくない。

その感情が、直接流れ込んできた。

フィアは唇を噛む。

黒変した右腕が細かく震えている。

逃げた方がいい。

離れた方がいい。

でも。

ナギを見た瞬間。

その迷いが、少しだけ変わった。

崩れかけている。

呼吸もまともにできず、壁へ身体を預けながら、それでも自分を離そうとしている。

その姿が、痛かった。

フィアはゆっくり前へ出る。

今度は、自分から。

ナギの前へ。

小さな背中だった。

黒変した右腕は痛々しく脈打ち、呼吸も不安定なのに、それでも彼女は立っている。

震えながら。

怖がりながら。

それでも。

逃げなかった。

回収班がさらに前へ出る。

阻害装置が強く唸る。

隊員の一人が叫ぶ。

「共鳴濃度上昇!」

「来るぞ——!」

その瞬間。

フィアが小さく息を吸った。

怖い。

壊したくない。

でも。

今は。

守りたい。

その感情だけが、真っ直ぐ流れ込んできた。

フィアはゆっくり手を伸ばす。

黒霧が静かに揺れる。

暴走じゃない。

恐怖でもない。

意思だった。

回収班の足が止まる。

感情が流れ込む。

孤独。

後悔。

喪失。

痛み。

絶望。

だが今回は違った。

黒霧は破壊ではなく、“拒絶”として広がっていた。

踏み込めない。

近づけない。

感情そのものが壁になっている。

阻害装置が不安定な警告音を鳴らした。

隊員の一人が膝をつく。

「……っ、感情流入が……!」

別の隊員が壁へ手をついた。

呼吸が乱れている。

フィアは震える声で言った。

「……こんどは、わたし」

ナギの胸が軋む。

守る側だった。

ずっと。

守らせたくなかった。

失わせたくなかった。

なのに。

今。

初めて。

守られている。

その事実が、痛いほど苦しかった。

同時に。

どうしようもなく、救いだった。

ナギはゆっくり立ち上がる。

膝が震える。

視界はまだ歪んでいる。

それでも。

フィアの隣へ並んだ。

肩が触れる。

冷たい。

でも、確かな温度だった。

「……ずるいだろ、それ」

掠れた笑いが漏れる。

フィアは少しだけ目を丸くする。

それから。

ほんの少しだけ、口元を緩めた。

壊れそうなくらい小さな笑顔だった。

その時。

通路奥で、鷺沢が静かに目を伏せる。

疲れたように白い息を吐き、小さく呟いた。

「……そうやって、壊れた」

誰にも聞こえないほど小さな声だった。

次の瞬間。

地下通路の非常灯が一斉に落ちる。

闇。

ナギは反射的にフィアの手を掴んだ。

冷たい。

でも、確かな温度だった。

「……走れるか」

フィアが小さく頷く。

その時、一瞬だけ。

彼女の表情が空白になる。

赤い瞳が揺れる。

「……ナ」

声が止まった。

ナギが振り返る。

フィアは数秒、困ったように瞬きを繰り返した。

まるで。

名前を思い出せないみたいに。

やがて。

「……ナギ」

小さく呼ぶ。

だが、その一瞬の空白が妙に怖かった。

ナギは何も言わない。

言えなかった。

二人は闇の地下通路を走り出す。

怪物として。

共犯者として。

それでも。

もう、一人ではなかった。

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