ローリング√コンクルージョン 〜俺のヒロインはどこだ!〜   作:胡麻蝉あぶら

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2話 デジタル社会

 

 

「ミッションコンプリート!」

 

 

ノイズの走る電子音が、ネオンブルーに明滅するデジタル空間に響き渡った。

そこは現実世界のネットワークの裏側に存在する、無数のデータが交錯する仮想領域だ。

 

基盤となる電子回路のような床の上で、一人の魔法少女が息を弾ませていた。

 

青髪のショートヘアに、頭部には犬の耳を模した愛らしいカチューシャを装着している。

身体にぴったりとフィットしたデジタルなアンダースーツをベースに、活動的なパンツスタイルで纏められたその姿。

 

魔法少女エンターワンである。

 

彼女の細い腕には、まばゆい光を放つビームブレードと、重厚なエネルギーキャノンが装備されていた。

 

その足元には今しがたデリートされたばかりの電脳怪獣アナローグの残骸が、光の塵となって霧散していくところだった。

 

 

『上出来だぞ、合ヶ音』

 

 

デジタル空間の虚空に、巨大な記号の集合体として投影されたシルエットが彼女を称えた。

 

声の主は、現実世界から彼女の後方支援を行うエンジニア──廻木渡である。

 

 

「相変わらずだな、君は。葵と呼びたまえよ」

 

 

エンターワンこと合ヶ音葵(あいがね あおい)は、ビームブレードの光を収めると、ふっと不敵な笑みを浮かべてみせた。

中学生らしい幼さを残しながらも、芝居の舞台に立つ王子様のような口調だった。

 

 

『勘弁してくれよ、王子様』

 

 

シルエットの向こう側で、廻木は苦笑交じりにそう返した。

 

今でこそこうして息の合ったコンビとしてデジタル空間の脅威に立ち向かっている二人だが、一年前の出会いは決してまともとはいえない。

 

当時の廻木はこの世界に突如として出現したばかりの、身元不明の不審者だった。

しかも上半身が裸という異様な格好で路地裏に佇んでいたのだから、弁明の余地もない。

 

運の悪いことにこの街は社会を支える高度なネットワークシステムに巣食う邪悪な存在──アナローグの脅威に晒され始めていた。

アナローグは電子の海から現れ、人々の端末やインフラを汚染し、混乱を引き起こす。

 

そんな折に、ネットワークの基幹施設の近くで半裸の巨漢がうろついていたのだ。

当然、葵やその関係者からはアナローグを植え付けようとしているテロリストか、悪質なハッカー犯罪者ではないかと厳しく疑われることになった。

 

 

廻木は『危険はない』という女神の言葉を思い出し、社会的に死にそうになってるじゃねぇかと心の中で叫んでいた。

 

 

絶体絶命の窮地に立たされた廻木は、その場を切り抜けるため、咄嗟に脳細胞をフル回転させた。

かつてどこかで聞きかじった専門用語やIT用語をデタラメに羅列し、自分は怪しい者ではなく、流しの凄腕エンジニアなのだと大嘘を吐いたのである。

 

当然、そんな苦し紛れの嘘が長く通用するはずもない。

 

葵からは鋭い眼差しで「じゃあ、明日本当にエンジニアとしての実力があるかチェックさせてもらうから」と言い渡されてしまった。

 

後がなくなった廻木は、その足で街の図書館へと猛ダッシュ。

閉館間際までのわずかな時間、彼は猿でもわかるエンジニア入門といった初心者向けの技術書を片っ端から読み込んだ。

文字通り血眼になって知識を脳内に詰め込んだのだ。

 

そして翌日の試験本番。

廻木が披露したのは、もはや技術云々を超越した超人的な身体能力によるゴリ押しだった。

 

迫り来るウイルスプログラムやセキュリティの迎撃に対し、廻木は自身の圧倒的な反射神経と、超高速で回転する思考能力をフル稼働させた。

 

プログラムの挙動を肉眼と直感で捉え、敵の先回りをし続けるという、天才的かつ力技な動きで防壁を構築してみせたのである。

ヤバイ級に近い、スゴイ級ハッカーくらいの高速タイピング。

 

結果としてウイルスは見事に駆除された。

 

葵をはじめとする周囲の者たちは、その常軌を逸したハッキング速度に圧倒され、彼を異端の天才ハッカーだと認めざるを得なかった。

こうして、半裸の不審者は一転して彼女の頼れる相棒となったわけである。

 

しかし、廻木の規格外な資質は、それだけに留まらなかった。

 

葵の傍らにいつも浮いている、青色のワニのぬいぐるみのような風貌をした妖精ニアリー。

この世界のネットワークの監視者でもあるニアリーが、廻木の持つ魂の波長に、ある重大な適性を見出したのだ。

 

それは魔法少女の力を引き出し、サポートするための特別な適性だった。

その適性が形となった結果、廻木の手元に現れたのは、きらびやかなステッキなどではなかった。

 

魔法の紙煙草(シガレット)だった。

 

もちろん、マジカルで違法な成分が含まれた草などではない。

彼の魔法力を高めるステッキがこれである。

 

廻木がこの紙煙草に火を点け、紫煙を深く肺に吸い込むと、彼の脳細胞とパソコンの処理スピードは、文字通り限界を超えて文字通り強化される。

 

キーボードのキーが摩擦熱で砕け散るほどの超高速でタイピングを行っても、廻木の脳が焼き切れることはなく、指の動きに完全に同期して正確なコードが生成されるのだ。

それどころかキーボードも強化され、買い替えなくて済むというお得な効果まである。

 

この煙の魔力によって、廻木はデジタル空間で前線に立つエンターワンを支援する。

周囲に絶対的な強度を誇る防壁を展開したり、彼女が手にする武装の出力を数倍に引き上げたりする補正をリアルタイムで実行できるようになった。

 

無骨なハッカーと、デジタルの魔法少女。

二人は互いの力を掛け合わせ、街の通信網を脅かすアナローグたちを次々と撃破していった。

 

だが、廻木が支えているのは彼女の戦いだけではなかった。

 

私生活においても、彼は彼女の面倒を見るようになっていた。

というよりも、見ざるを得ない状況だった。

 

実は廻木は現在、葵の家に居候という形でお世話になっている。

 

葵は、かつてアナローグが引き起こした自動運転システムの暴走による凄惨な交通事故によって、最愛の両親と弟を同時に失っていた。

 

彼女はまだ中学一年生という若さでありながら、天涯孤独の身だった。

 

彼女のリビングの棚には、笑顔を浮かべる両親と弟の入った写真立てが静かに飾られている。

それを見るたびに廻木は胸の奥が締め付けられるような、深い悲しみと切なさを感じずにはいられなかった。

 

そんな重い背景を背負っている葵だが、学校では全く異なる顔を持っていた。

 

彼女はそのボーイッシュな魅力と端正な容姿から、クラスメイトや女子生徒たちの間で、まるで本物の王子様であるかのように扱われ、絶大な人気を誇っている。

同級生の女子たちはもちろん、上級生の先輩たちからも黄色い声を浴び、バレンタインデーの季節ともなれば、下駄箱や机の上がチョコレートで埋め尽くされるほどだった。

 

その影響からか。

彼女は家の中でも廻木に対して、舞台の上の王子様さながらのキザな喋り方をするのが癖になっていた。

 

廻木自身はそんな彼女の格好付けを特に気にしてはいなかった。

むしろ彼女の調子に合わせて、からかうように王子様と呼び返してあげるのが、二人の間のささやかな定番のやり取りになっていた。

 

しかし、そんな学校での完璧な王子様像とは裏腹に、家での彼女は目も当てられないほど筋金入りのズボラ人間だった。

 

私生活における彼女の生活能力は皆無に等しかった。

 

日々の食事はコンビニの冷凍食品やカップ麺、あるいは外食で済ませるのがほとんど。

 

女の子らしい可愛らしい服には一切興味がなく、クローゼットを開ければどれも似たような地味なシャツばかりが並んでいる。

 

部屋の掃除や片付けも全くしないため、放っておけばリビングはまたたく間にゴミや脱ぎ散らかした服で埋め尽くされてしまう有様だった。

 

見かねた廻木は、家に泊まらせてもらっている身としての義理もあり、彼女の私生活を全面的にバックアップすることを決意した。

 

毎朝早起きして彼女のために栄養バランスの取れたお弁当を作り、夕方には温かい夕飯を用意する。

洗濯物を回し、部屋の隅々まで掃除機をかける。

驚くべきことに、廻木はこういう家庭的な家事全般においても妙に多才で手際が良かった。

 

だが、廻木が良かれと思って頑張れば頑張るほど、葵のズボラっぷりは加速していった。

 

ある朝などは、寝ぼけて廻木のシャツを自分の制服のカバンに詰め込んで学校に持っていってしまったりした。

 

お風呂上がりに至ってはタオルで髪を拭きもせずに、ソファの上で濡れた頭のままぼーっと座り込んでいる。

廻木が業を煮やしてタオルを奪い取り、ガシガシと髪を拭いてやらない限り、彼女は微動だにしないのだった。

 

さらにこの前などは、部活の帰りに激しい雨に濡れて帰ってきたかと思えば、廻木の目の前で制服のボタンを外し、その場で衣服を脱ぎだそうとした。

 

 

「何考えてんだ馬鹿野郎!」

 

 

その時ばかりは廻木も本気で怒った。

彼女の脳天に容赦のないゲンコツをお見舞いしている。

 

体罰だの何だのと言われるかもしれないが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。

年頃の男と一つ屋根の下で生活しているのだ。

それなのにこのような性に対する危機感の無さ、無関心さは、彼女の今後の将来にとって著しく悪影響を及ぼすに違いない。

大人の男として、ここでガツンと厳しく教育し、叱り飛ばすのが義務だと廻木は考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、また少しの月日が流れた。

 

街の中心にそびえ立つテレビ塔。

 

その最上階のさらに上、現実の風景が歪んで反転したデジタル空間に、二人はいた。

 

彼らの目の前に鎮座しているのは無数の黒い太いケーブルが蠢き、のたうつ、まるで神話のメデューサを想起させるような巨大で禍々しい化け物だった。

 

これこそが街中の通信網に無数の手下アナローグを送り込み、システムを麻痺させていた元凶、アナローグの親玉だった。

 

激しい電脳戦が繰り広げられる中、廻木は限界まで魔法の紙煙草を吸い込み、爆煙を上げながらタイピングを続けた。

 

 

「──これで決めろ、エンターワン!」

 

 

画面越しに廻木の鋭い怒号が飛ぶ。

 

 

「了解!」

 

 

エンターワンは力強く頷くと、エネルギーキャノンの砲口をメデューサへと向けた。

 

今回の敵は、これまでの有象無象とは比較にならないほど高い処理能力を持っていた。

まともに攻撃を仕掛けても、その強大な演算速度で全て無効化されてしまう。

 

だが、この化け物には受信する情報をすべて受け止めて処理しようとする、プログラム上の性質があった。

 

廻木はその弱点を見抜き、あえて無駄なゴミデータやエラー処理の数々を凝縮した莫大な負荷を、エンターワンの放つレーザーキャノンの光軸に上乗せして送信した。

 

エンターワンの砲口から、まばゆい光線が炸裂する。

 

直撃を受けたメデューサ型のアナローグは、そのエラーデータの奔流をまともに受信してしまい、処理能力が完全に限界を迎えた。

 

画面がフリーズするように、その巨大な身体の動きがピキリと停止する。

そこをエンターワンは逃さなかった。

 

手にしたビームブレードが、電光石火の速度で一閃する。

 

光の刃によって切り裂かれた化け物は断末魔のノイズを上げながら、完全にデリートされて光の破片へと消失していった。

 

デジタル空間のネオンブルーの光が徐々に薄れ、現実のテレビ塔の展望台へと景色が戻っていく。

 

 

 

 

 

「終わったな……」

 

 

廻木は口元から煙草を外し、静かに呟いた。

 

戦いは終わった。

 

今後も、アナローグのようなネットの怪物が二度と現れないという保証はない。

しかし、最も危険だった親玉のデータは完全に消滅した。

これでようやく、この街にも平穏な日常が戻ってくるはずだった。

 

現実空間に戻り、いつものセーラー服姿に戻った合ヶ音が、廻木の前にと歩み寄ってきた。

廻木は彼女の姿を見て、少しだけ寂しげに微笑んだ。

 

 

「これで、俺たちもお別れだな」

 

 

そもそも、廻木にはこの世界におけるまともな戸籍がない。

異世界に突然出現したのだから当然だ。

これまでは戦いという大義名分があり、ハッカーとしての協力関係があったからこそ彼女の家に身を寄せていた。

 

しかし、街は平和になった。

 

これ以上中学生の女の子の家に、身元不明の不審者が居座り続ける正当な理由などどこにもなかった。

彼女の将来のためにも、速やかに身を引くべきだと考えていた。

 

 

「ああ、そうだった。これを君に渡していなかったね」

 

 

しかし葵は寂しがる様子もなく、むしろどこか楽しげな笑顔を浮かべると、ポケットから小さなプラスチック製のプレートを取り出し、廻木へと手渡した。

 

それはこの街の高度なデジタル住民IDが登録された、公的な証明証だった。

驚くべきことに、そこには廻木の顔写真が印刷されている。

 

 

「これは……?」

 

 

廻木が怪訝そうに眉を寄せると、葵は片目を可愛らしくつむってみせた。

 

 

「君のためにね。ちょっとだけ……頑張ったのさ、ね?」

 

 

ウインクをしながら微笑む彼女に、廻木は苦笑するしかなかった。

 

どうやら彼女は、魔法少女としてのハッキング能力を駆使し、政府の基幹ネットワークに直接侵入。

存在しないはずの戸籍データを完全に捏造、生成してしまったらしい。

 

公的な書類をハッキングで改ざんするなど、決してお行儀のよろしい行いとは言えない。

 

だが、すべては自分の行く末を案じてくれた彼女なりの、不器用な思いやりによる行動だった。

街を救った功労者へのちょっとした報酬だと思えば、これくらいは目をつむっても罰は当たらないだろう。

 

 

「へー……合ヶ音渡、か。なるほど、親戚やいとこって名目にすれば、色々と都合が良いからな。気が利くじゃないか──」

 

 

あれ?

 

 

 

 

 

 

合ヶ音葵という少女にとって。

 

学校での自分の姿はただの仮面に過ぎなかった。

 

キザで完璧な、みんなの憧れの王子様。

周囲の生徒たちは彼女に向かって黄色い声を上げ、熱烈な視線を送る。

 

しかし、それは彼女自身の素顔を見ているのではなかった。

 

誰もが彼女の中に、自分たちが理想とする都合の良い王子様像を勝手に貼り付け、崇めているだけだ。

誰も、本当の合ヶ音葵という孤独な少女には近づいてこようとしない。

 

それが無性に寂しかった。

 

どれだけ寂しいと思っても、一度被ってしまった仮面は簡単には脱ぐことが出来なかった。

他者から押し付けられた仮面であっても、長い時間を過ごし、本当の自分を忘れかけてしまえば、それこそが新しい素顔になってしまう。

 

彼女は、舞台の上の孤独な王子様でしかなかったのだ。

 

 

その孤独な舞台の上に、もう一人の王子様が唐突に落ちてきた。

 

 

それはスマートさなど微塵もない、無骨で筋肉ムキムキの大男。

 

それでも、彼は一生懸命に自分の背中を支えてくれた。

デジタル戦の荒波の中で、いつも励ましてくれた。

自分がダメな生活をしていれば、我が事のように本気で叱ってくれた。

 

彼が作ってくれるご飯はどれも驚くほど美味しかったし、少し乱暴だけど、お風呂上がりに大きな手で優しく髪を拭いてくれる時間が彼女は何よりも大好きだった。

 

いつしか、彼の存在は彼女の世界のすべてを占めるようになっていた。

 

彼が仕事で出かけている間、盗んだシャツをこっそりベッドの中に持ち込み、その匂いに包まれながら横になると、胸の奥が狂おしいほどに興奮した。

 

最終的には抱き枕に彼のシャツを着せ、自分の体の上に覆いかぶせるようにして眠るのが日課になった。

すさまじいものだった。

 

ある日。

雨に濡れて帰ってきた際、彼の気を引きたくてわざと彼の手の届く目の前で下着姿になってみせた。

彼は顔を真っ赤にして、ものすごい剣幕で怒り、彼女にゲンコツを落とした。

 

しかし、彼女は反省せず別のものを捉えていた。

これほど至近距離で、自分が無防備な姿を晒しているというのに──彼のズボンの股間は、ピクリとも膨らんでいなかったのだ。

それに葵はしょんぼりした。

それを反省した様子だと廻木は思っていたが、事実は異なる。

 

 

(どうして? 私はこんなに彼を求めているのに、彼は私をそういう目で見てくれないの?)

 

 

それは単純に彼女が彼のストライクゾーンの遥か外側にいる子供だからに他ならない。

 

というか中学生は一般性癖ではない。

デッドボールである。

 

しかし、雌としての本能に火がついた彼女の思考は全く別の、より過激な方向へとシフトしていった。

 

 

 

 

彼がこの空っぽだった家を満たしていく。

 

事故によって大切な家族を失い、暗闇に閉ざされていた家が、廻木渡という男の存在によって完全に埋め尽くされていく。

 

 

彼はいつも、すごく男らしくて、どこかそそる良い匂いがする。

 

 

散歩中の犬とすれ違うと、普段の強面からは想像もつかないような優しい顔で「触らせてもらっていいですか」と飼い主に頭を下げて撫でさせてもらっている。

 

 

コーヒーを飲む時は、いつも自分の好みに合わせて、家では甘いカフェオレを一緒に飲んでくれている。

でも1人で喫茶店に行く時はブラックを頼んでいる。

 

 

大人の女を引っ掛けようと街でナンパを試みるものの、その極道めいた風貌のせいでいつも怯えられ、百発百中で失敗している。

 

 

 

彼のパソコンのログインパスワードはjwdmtpmuj'jydfdvn。

 

 

 

彼が隠しているアダルト系の画像は、ハードディスクの奥深く、カモフラージュされた『仕事用データ』というフォルダの下から数えて三番目の隠しフォルダにある。

 

 

 

ちなみに、彼が最近熱心にお気に入りに登録している画像は巨乳でメガネをかけた女上司のシチュエーシ──────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「デリートォッ!!!」

 

 

自身のプライバシー、いや、隠していた性癖やパソコンのパスワードに至るまで、文字通り爪の先まで完全に把握され、管理されていたという恐るべき現実に直面した瞬間、脳内の全回路が恐怖で破裂した。

 

SAN値直葬。

彼は考えるよりも先に身体を動かしていた。

 

滞在していたマンションの三階の窓ガラスを豪快に突き破り、そのまま夜の街へと全力で逃走を図った。

ガラスの破片を飛び散らせながら着地し、狂ったようにアスファルトを蹴って走る。

 

だが、走る廻木の周囲で、奇妙な現象が起きていた。

 

何かがおかしい。

 

街頭に設置された防犯カメラ。

交差点の監視カメラ。

店舗の入り口のセキュリティレンズ。

 

それら全ての精密機器のレンズが不気味な同期音を立てながら、走る廻木の動きに合わせて動く。

まるで生き物のように一斉に首を振り、彼を正確にロックオンして追跡してきている。

 

それだけではない。

ネットワークを通じて、街中のスピーカーやデジタルサイネージから、ノイズ混じりの彼女の声がどこまでも優しく響いてくる。

 

 

『どこへ行くんだい、私の王子様?』

 

 

手渡された住民IDのプレート。

そこに書かれていた合ヶ音渡の文字。

親戚でもいとこでもなかった。

 

 

続柄の欄にハッキリと刻まれていた文字は──夫であった。

 

 

「神よ、女神よ! 俺が一体なんかしたかッ!!!」

 

 

廻木は涙目で夜の街を爆走しながら、虚空に向かって叫んだ。

 

彼女の頭の中で、何かが決定的にバグを起こしてしまっている。

これは本来起こるはずのない、起きてはならない最悪の没ルートのはずだ。

こんな、こんな、絶対におかしい。

 

 

 

「俺のヒロインはどこだァアアアッッッ!!!」

 

 

 

可愛い女の子がいっぱいいる世界だというのなら、せめて、もっと健全な。

 

男はが逃げ場のない電脳の檻に嵌め込まれていたことにようやく気付く。

男は絶望の悲鳴を夜空に轟かせ、猛然と走り続けるのだった。

 

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