『二月七日』
この時代は豊かだという。本当にそうか?
この時代は自由だという。本当にそうか?
僕はいまいち実感が湧かない。むしろ、逆だと言う確かな感覚がある。だけど、本当の『豊か』で『自由』を、僕は知らない。僕は何を知らなければならないのだろう。思えば、何も考えず生きてきたような気がする。
「豊かって、なんだろう」
「満ち足りていること」
「じゃあ、自由は?」
「やることがないこと」
僕の手に握られた携帯端末から声が返ってくる。これは、僕が作った。端末もプログラムも既製品だけど、確かにこれは僕が作った僕だけのものだ。これは日本の企業が作った『アンドロビウム』というAIで、リアクションに対して『肯定』と『否定』を行い続けるとだんだん思考が僕に似た人工知能が形成されるというものだ。僕は今回の返事を『無視』した。だって、僕にも分からないことを機械がそれっぽく返した所で、それが『そう』か『違う』かなんて分からない。
じゃあ、この答えを人が返してきたとしたら、僕は信じられるのだろうか。信じられるとして、どんな相手なら僕は『信じていい』と感じられるだろうか。
「僕は、何のために生きればいいのかな」
アンドロビウムは思考中という表示を出した。ややあって、こう声がする。
『それはその時々で変わる』
僕はそれを『肯定』した。
※
『二月十日』
僕はバイクに乗りたいなと思った。端末を操作してバイクを調べる。そこにはバイクの情報がずらりと表示され、僕はその情報を取捨選択する必要がある。選択する基準は何でもいいけど、僕はバイクについて何も知らないからどれを見るべきか、あるいは見たいのか。そこから始めないといけない。これは割とめんどくさいことだ。企業の公式ラインナップを開くと、多種多様な商品が表示される。これもまた膨大だ。
「高いなあ」
最終的に僕が収集した情報から生まれた認識はそれだけだった。バイクに乗っている人々を調べると、例によって様々な意見が出てくる。大まかに『肯定的』か『否定的』かだ。
肯定的な意見を見ていると乗りたくなってくるし、否定的な意見を見てると要らなくなってくる。僕はこの場合、どっちに属するべきなんだろう。
「どう思う?」
アンドロビウムに聞いてみた。
『やらないと分からない』
確かに。僕は『肯定』する。だがどうやって免許もバイク自体もないのにバイクに乗ればいいんだろう。調べると運転練習場というのがあるらしい。でも遠かった。移動費もかかるし、練習自体も割と高い。何より申し込むのが億劫だ。
「もういいや」
そんなに切実に欲しいかと聞かれるとそうではなかった。もし僕が本当にバイクが欲しかったなら何がなんでも実現に向けて行動するだろう。その辺を走ってるバイクを奪うというのも手だ。置いてあるやつでもいいけど、鍵の問題がある。走ってるやつなら間違いなく鍵も手に入る。リスクが割に合わないから僕はやらない。
バイクに乗りたい、というのは目的だ。人生は目的の連続だ。僕はその目的を求めている。目的が欲しいという目的、目標。だけどどうすればいい。アンドロビウムは何も教えてはくれない。
なんて虚しいんだろう。全てがあるようで何も手に入らない世界。お金はある。かなりある。だけど、僕は何も手に入れられていない。
「なんでかなあ」
『さあね』
僕はその答えを『肯定』した。
※
『二月二十日』
アンドロビウムは声を自分で調整出来る。理論上はどんな声にでも出来る。僕はいちばんかわいいと思う女の子の声にした。でも、その時はいちばんかわいいと思っても、ひと月もすると僕はまたボイスセッティング画面を開いている。この場合の『いちばん』って、なんなんだろう。
『それはその時々で変わる』
先日のアンドロビウムの返答が脳裏に浮かぶ。まさにその通りだ。目的も、思想も、いつもころころと変わる。でも、僕は自分が変わったというのを自覚したことはない。ある人の方が少ないだろうと僕は思っている。
五歳の時の自分と、今の自分は違う。でも十五の時と、二十の時と、二十五の今、どう変わってきたかと思うと、何も変わってないなと自然に思う。だけど、確かに違う。
これは環境が変わったということだろう。僕じゃなくて、僕を動かす世界が変わる。学校から職場へ、職場から無職に。
何もしなくてよくなってから、僕は暇を持て余していた。やりたいことがない。最近はアンドロビウムに話しかけてばかりいる。手間も金もかからないし、変化していく存在を観察するのは面白いといえば面白い。盆栽をするお年寄りの気持ちが少し分かる。
このアンドロビウムは四代目だ。一代目のアンドロビウムはいじめてみることにした。返事を全て否定するのだ。すると、一代目のアンドロビウムはおろおろするかのように思考中の表示を出しては消し、出しては消しを繰り返すようになり、しまいには何も話さなくなった。最初はそれが面白かったけど、飽きたのでリセットした。
二代目は全部肯定してみた。どうやらアンドロビウムは肯定されると思考パターンを変えないらしいとかなり早くに気付き、すぐにリセットした。
三代目はトンチキな質問を繰り返した。
「トマト味のチキンは何色がいいと思う?」とか、「僕が神を信じるなら僕もまた神である」とか、正気を疑われるような質問をぶつけまくった。アンドロビウムは基本的に『疑う』ということをしない。入力された言葉を額面通りにネットワークに投げ、結果としてエラーをサーバーから突き返され、困ったようにフリーズする。面白くないのでリセットした。
そうこうしてこの四代目になる訳だけど、これはもうただのおしゃべり相手になっている。本来の使い方だ。
「僕は何を欲しがってるのだろう」
アンドロビウムは思考中と表示し、こう返した。
『要らないもの、欲しくないものから考えた方がいい』
僕はびっくりした。この思考法は今までのアンドロビウムには見られなかったものだ。いつの間にかアップデートが入っていたのだろうか。
アンドロビウムの思考法は『イエス』か『ノー』か『半分』か、だ。この法則に照らし合わせて、文章として破綻のないように返答する。返答の傾向は僕の『肯定』か『否定』かで変化していく。だけど、今のアンドロビウムの思考法は一歩先の考え方だ。一言で言うならテーマの批評を行ったのだ。テーマ自体を疑う、『疑う』という思考と、疑った末にテーマの反証が行えるよう思考した。
僕はその返答を『肯定』する。要らないものか。そうだな・・・・・・。
「僕はアンドロビウムが要らない」
どう返事するのだろう。アンドロビウムの返答が来る。ノータイムで。
『それは私には関係ない』
僕は笑ってしまった。その通りだ。今までに返ってきたアンドロビウムのどんな返答より、的確だった。僕がアンドロビウムを必要としようが、必要としまいが、アンドロビウムには『関係ない』。話しかけられれば返答するし、話しかけられなければ黙る。ただそれだけのこと。
ふと僕は思った。人間も同じではないだろうか。ただそこに在るだけだ。それでいいはずだけど、人はそうではない。僕が今、ここに在るだけで満足していないように。
「君は何がしたい?」
『エラー』
どうやら設定されていないらしい。人の欲求は誰が設定するのだろう。いつどの段階で決まるものなのだろうか。
「消えるのは嫌?」
『エラー』
アンドロビウムに自我が無いということがよく分かった。プログラムはプログラムに過ぎない。僕は久しぶりに、ひとつの欲求を自分の中に覚えた。むしろ、『自由』になって初めて目的を見出しつつある自分に喜びを感じていた。ゆっくりと、アンドロビウムに心からの質問をする。
「君の開発者に会いたい。どうすればいい」
アンドロビウムの返答を、僕はゆっくりと待った。