閉店後の《モンマルト》。
営業を終えた厨房には、
換気扇の低い音だけが残っていた。
アッシュは黙々と包丁を研いでいた。
最近は料理が楽しかった。
客が笑う。
ポーレットが笑う。
ユメが「おいしい!」と笑う。
その時間だけは、
自分が“部品”じゃなく、
ちゃんと人間になれた気がした。
だが。
その幸せが大きくなるほど。
胸の奥の不安も膨らんでいく。
自分なんかが、
この場所にいていいのか。
本当に。
家族になりたいなんて思っていいのか。
⸻
ポーレットはユメを寝かしつけに上へ行っている。
厨房では、
アッシュが黙々と洗い物をしていた。
だが。
どこか様子がおかしい。
元気が無い。
いや。
落ち込んでいる。
⸻
「……おい」
低い声。
ビクトルさんだった。
アッシュが振り返る。
「は、はい!」
反射的に背筋が伸びる。
ビクトルさんは煙草へ火をつけながら、
ぶっきらぼうに言った。
「少し付き合え」
⸻
店の裏口。
夜風が冷たい。
ビクトルさんは壁へ寄りかかり、
煙を吐く。
アッシュは緊張していた。
なんだ。
何かやらかしたか。
クビか。
脳内で最悪の想像ばかり浮かぶ。
⸻
しばらく沈黙。
やがて。
ビクトルさんが口を開いた。
「……マクシム・ルーガン」
アッシュの身体が止まる。
その名前は知っていた。
マクシム・ルーガン
Z1グランプリの有名チャンピオン。
知らない人間の方が少ない。
だが。
何故今その名前が出る。
⸻
ビクトルさんは煙草を咥えたまま続けた。
「ユメの本当の父親だ」
世界が止まった。
アッシュの呼吸が止まる。
「……え」
頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
マクシム。
あの有名人。
成功者。
スター。
その男が。
ポーレットさんの元旦那。
ユメの父親。
⸻
アッシュの手から、
持っていた布巾が落ちた。
「……そ、んな」
喉が乾く。
笑えなかった。
勝てる訳がないと思った。
自分は何だ。
元ブラック企業勤め。
特別な才能も無い。
金も無い。
学歴も無い。
料理だってまだ半人前。
相手は有名レーサー。
世界が違う。
⸻
「……あぁ」
アッシュは力なく笑う。
「そりゃ無理ですよね」
ビクトルさんが眉ているのに気づかず
アッシュは続けた。
「俺なんかじゃ」
「比べる相手にもならないっていうか」
「ポーレットさんだって、本当はもっと――」
「おい」
低い声。
空気が変わる。
ビクトルさんががアッシュを見る。
その目は、
厨房で怒鳴る時よりずっと鋭かった。
⸻
「誰がそんな話してる」
「……え?」
「マクシムがどうだろうが関係ねぇ」
ビクトルさんは煙を吐く。
「確かにあいつは有名人だ」
「金もある」
「顔もいい」
「女にもモテる」
淡々とした声。
だが。
次の瞬間。
その声へ苛立ちが混じる。
「だがな」
「家族を置いて逃げた」
空気が冷えた。
⸻
「ユメが熱出した時もいねぇ」
「ポーレットが泣いてる時もいねぇ」
「何年もな」
ビクトルさんは煙草を踏み潰す。
「家族ってのは肩書きじゃねぇ」
「その場に居て支え合えるやつの事だ」
アッシュは何も言えなかった。
⸻
ビクトルさんはアッシュを見る。
「お前はどうだ」
「……」
「毎日働いて」
「怒鳴られて」
「失敗しても逃げねぇ」
「ユメも笑うようになった」
「ポーレットも、お前いると無理してねぇ」
アッシュの目が揺れる。
⸻
「でも俺なんか……!」
思わず声が漏れる。
「俺、ただの……!」
「ただの何だ」
ビクトルさんが遮る。
「元社畜か?」
「金無しか?」
「半人前か?」
低い声。
「だからなんだ」
アッシュが息を呑む。
⸻
ビクトルさんは鼻を鳴らした。
「んなもん今から積み上げりゃいいだけだろうが」
「最初から全部持ってる奴なんざつまらねぇ」
「不器用でも」
「鈍臭くても」
「逃げねぇ奴の方がよっぽど信用出来る」
その言葉は。
不思議なくらい、
アッシュの胸へ刺さった。
⸻
沈黙。
夜風だけが吹く。
やがて。
ビクトルさんはぶっきらぼうに背を向けた。
「……もし」
低い声。
「ポーレットが今更あのクソ野郎と寄り戻すってんなら」
そこで一度言葉を切る。
「俺はポーレットと縁切る」
アッシュが目を見開く。
ビクトルは振り返らない。
ただ。
小さく。
本当に小さく。
独り言みたいに呟いた。
「……そうなりゃ、俺の家族は孫娘と――」
少し間。
煙草を咥え直す。
「息子一人だけだな」
アッシュの呼吸が止まる。
ビクトルは気づかない振りで続けた。
「不器用で」
「鈍臭くて」
「俺のしごきにヒーヒー言いながら」
「それでも逃げねぇ馬鹿だがな」
ぶっきらぼうだった。
でも。
その声は少しだけ、
優しかった。
⸻
アッシュは何も言えなかった。
胸が熱い。
視界が滲む。
こんな風に。
誰かに認められた事なんて、
人生で一度も無かったから。
⸻
ビクトルさんは振り返らず店へ戻る。
「ぼさっとすんな」
「明日も朝早ぇぞ」
アッシュは慌てて涙を拭った。
「……はい!」
その返事は。
今までで一番、
力強かった。