《モンマルト》で働き始めてから、
一年近くが経っていた。
もう。
アッシュ・クロードへ、
「新人」の空気は無かった。
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「アッシュ、三番頼む」
「はい!」
返事と同時に動く。
火加減。
盛り付け。
タイミング。
最初は何一つ出来なかった男が、
今では厨房を回していた。
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「うまっ!」
常連客が笑う。
「最近さらに味良くなったな」
「ビクトル仕込んでるからなぁ」
「いや、このソース多分アッシュだろ?」
「分かる」
そんな会話が聞こえる。
アッシュは照れ臭そうに頭を掻く。
昔なら。
褒められる事が怖かった。
期待されると、
失敗した時が怖かった。
でも今は違う。
もっと美味い物を作りたい。
もっと客へ喜んでほしい。
自然にそう思えるようになっていた。
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厨房奥。
ビクトルさんは黙ってその背中を見ていた。
もう。
火加減を逐一怒鳴る必要は無い。
客の流れも読める。
料理も遅れない。
そして何より。
客を見て料理を作っている。
それが分かった。
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ある日。
ビクトルさんはわざと厨房を外した。
忙しい時間帯。
普通なら混乱する。
だが。
アッシュは落ちなかった。
「先にこっち!」
「ソースお願い!」
「ユメちゃん危ないからそこ通らない!」
ちゃんと店が回っている。
その姿を見ながら、
ビクトルさん煙草へ火をつける。
(……十分だろ)
内心。
もう決めていた。
《モンマルト》は、
いずれこの男へ継がせる。
もちろん。
まだ絶対に言わない。
調子に乗るからだ。
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営業後。
アッシュは一人で厨房に残る。
静かな店。
磨き終えた調理台。
馴染んだ包丁。
最初は怖かった場所が、
今は落ち着く場所になっていた。
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「お疲れ様です」
後ろから声。
ポーレットさんだった。
アッシュは振り返る。
その瞬間。
少しだけ胸が苦しくなる。
好きだった。
もう誤魔化せないくらい。
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ポーレットさんは笑う。
「最近ほんと凄いですね」
「え?」
「お父さん、もう厨房かなり任せてますし」
アッシュは苦笑する。
「怒鳴られてばっかですけど」
「でも認めてない人には任せませんよ?」
その言葉が、
少し嬉しい。
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ポーレットさんは調理台を見る。
「ここ、綺麗ですね」
「好きなんです」
ぽつりと出た本音。
「この店」
「……はい」
「最初は正直、ポーレットさん目当てでした」
「えっ」
「いや今も好きですけど!?」
慌てて訂正する。
ポーレットさんが吹き出した。
「ふふっ」
アッシュは顔が熱くなる。
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「でも」
アッシュは静かに厨房を見る。
「今はそれだけじゃなくて」
「ここで働くの好きなんです」
「客さん笑ってくれるし」
「料理作るの楽しいし」
「ユメちゃんも最近いっぱい話してくれるし」
少し照れながら笑う。
「なんか……ここいると、生きてる感じするんです」
ポーレットさんは黙って聞いていた。
その目が優しい。
だから余計、
苦しくなる。
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好きだ。
言いたい。
ちゃんと伝えたい。
ポーレットさんとユメちゃんとビクトルさんと家族になりたい。
本気でそう思っている。
でも。
足が止まる。
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ブラック企業時代の記憶が、
まだ心へ残っていた。
否定される怖さ。
必要無いと言われる怖さ。
笑われる怖さ。
自分なんかが望んではいけない、
という感覚。
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もし断られたら。
その後、
どうすればいい。
店へ居づらくなるんじゃないか。
ポーレットさんを困らせるんじゃないか。
ユメちゃんに嫌われるんじゃないか。
考えれば考えるほど、
怖くなる。
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でも。
一つだけ確かな事があった。
たとえ。
断られたとしても。
アッシュは、
この店を辞めたくなかった。
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《モンマルト》が好きだった。
ビクトルさんの料理も。
客の笑い声も。
ユメちゃんの「アッシュー!」という声も。
ポーレットさんの笑顔も。
全部。
自分の居場所になっていた。
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アッシュはまだ言えない。
想いを飲み込みながら。
今日も厨房へ立つ。
「アッシュ、火ぃ強ぇ」
「すみません!!」
怒鳴られる。
でも。
その日常が、
たまらなく愛おしかった。