イーディスの夜景は、
相変わらず眩しかった。
導力ネオン。
笑い声。
仕事帰りの人波。
飲み屋街の喧騒。
けれど。
アッシュ・クロードには、
その光景がどこか遠く感じていた。
会社を出たのは、
日付が変わる数時間前。
それでも十分遅い。
本来なら、
まだ仕事は残っていた。
机には未処理の資料。
修正途中のデータ。
上司からのメッセージ。
『明日の朝までに』
『社員番号E-2017、確認不足』
『終わるまで帰るな』
だが。
今日は無理だった。
身体が動かなかった。
限界だった。
「……疲れた」
ぽつりと漏れる。
スーツは皺だらけ。
肩は重い。
胃が痛い。
頭もぼんやりする。
会社では名前で呼ばれない。
社員番号。
代わりの効く部品。
ミスをすれば怒鳴られ。
成果を出しても当然。
そんな毎日だった。
ガラスへ映る自分の顔は、
酷く死んでいた。
「……何やってんだろ、俺」
誰にも聞こえない声が、
夜風へ溶けた。
⸻
その時だった。
ふと。
路地裏の先に、
暖かな灯りが見えた。
小さな飲食店。
レンガ造りの外壁。
窓から漏れるオレンジ色の明かり。
《モンマルト》。
知らない店だった。
普段なら素通りする。
だが。
その日は何故か、
足が止まった。
温かそうだった。
ただそれだけだった。
⸻
カラン――。
扉を開けた瞬間。
温かな空気が身体を包み込む。
スープの香り。
焼き立てのパン。
肉の焼ける音。
客達の笑い声。
さっきまでいた冷たい世界とは、
まるで別だった。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いた瞬間。
アッシュの時間が止まる。
カウンター奥。
エプロン姿の女性。
柔らかな栗色の髪。
優しい笑顔。
ちゃんと。
人の目を見て笑う人だった。
「お一人ですか?」
「あ……は、はい」
情けないくらい声が裏返る。
その女性は小さく笑った。
「こちらどうぞ」
案内される。
アッシュは妙に緊張していた。
なんだこれ。
意味が分からない。
ただ店に入っただけなのに。
心臓がうるさい。
⸻
席へ座る。
水が置かれる。
「おすすめ、日替わりシチューなんですけどどうします?」
「あ、じゃあそれで……」
「はい♪」
笑顔。
近い。
良い匂いがする。
アッシュは軽く混乱していた。
(……綺麗な人だな)
思わず見惚れる。
こんなの。
反則だろ。
⸻
しばらくして料理が運ばれてくる。
湯気。
温かな香り。
「熱いので気を付けてくださいね」
優しい声。
アッシュは小さく頷き、
スープを口へ運んだ。
その瞬間。
目を見開く。
美味い。
身体の奥まで温かくなる。
張り詰めていた何かが、
少しだけほどけていく。
「……うまい」
思わず漏れた声。
女性は嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとうございます♪」
その笑顔を見た瞬間。
胸がぎゅっと締め付けられる。
なんだこれ。
本当に。
なんなんだ。
⸻
帰り道。
夜風が冷たい。
だが。
少しだけ身体が軽かった。
アッシュは気づいていなかった。
人生が変わり始めている事に。
⸻
数日後。
アッシュはまた《モンマルト》へ来ていた。
理由?
自分でも分かっていた。
完全にあの女性目当てだった。
我ながら分かりやす過ぎる。
カウンター席では、
黒髪の男がコーヒー片手に、
そんなアッシュを見て吹き出していた。
「……また来たのかアンタ」
「わ、悪いですか」
「別に?」
ニヤニヤしている。
絶対バレてる。
アッシュは居た堪れなくなった。
⸻
その時だった。
店の奥から、
小さな足音が聞こえた。
「ママー!」
小さな女の子が、
ぱたぱたと駆けてくる。
女性が慌ててしゃがんだ。
「ユメ、走ったら危ないでしょ?」
「えへへー!」
自然に抱き上げる。
その光景を見た瞬間。
アッシュの思考が止まった。
(……あ)
娘。
つまり。
既婚者。
人生終了。
恋、秒速死。
アッシュは静かに天を仰いだ。
終わった。
短い人生だった。
⸻
だが。
近くの常連客達の会話が耳へ入る。
「ポーレットちゃんも苦労してるよなぁ」
あの女性の名前はポーレットって言うんだ
「女手一つでユメちゃん育ててるし」
「元旦那、全然帰ってこねぇらしいぜ」。
アッシュの動きが止まる。
「……え?」
「シングルマザーって大変だよな」
その瞬間。
灰色だった世界へ。
ほんの少しだけ、
色が戻った気がした。
黒髪の男がコーヒーを飲みながら、
呆れたように笑う。
「……やっぱ分かりやす過ぎだろ、アンタ」