雨が続いていた。
《モンマルト》の空気は、
日に日に静かになっていく。
客は来る。
料理も出る。
でも。
誰も大きな声を出さない。
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ビクトルは、
まるで十年老けたみたいだった。
背中が丸くなっている。
煙草ばかり増えた。
以前みたいに怒鳴らない。
時々。
厨房で手を止める。
そして。
無意識みたいに入口を見る。
そこへ、
誰かが帰ってくるのを待つように。
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ポーレットも限界だった。
眠れていない。
食べてもいない。
笑顔だけを、
無理矢理貼り付けている。
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ユメも分かっていた。
お母さんが、
壊れそうな事。
だから。
夜になると、
そっと抱きついて寝ていた。
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そんなある日。
閉店後。
雨の中。
ポーレットは一人で買い出しへ出ていた。
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帰り道。
街灯の下。
「……ポーレット?」
声を掛けられる。
振り向く。
そこにいたのは。
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マクシム・ルーガンだった。
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昔と変わらない、
整った笑顔。
上等なコート。
柔らかな声。
人当たり良い顔
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「久しぶりだな」
ポーレットは少し固まる。
「……マクシム」
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マクシムは困ったように笑った。
「偶然見かけてさ」
嘘だった。
実際は。
雑誌で《モンマルト》を見つけてから、
何日も周囲を見ていた。
ポーレットの様子も。
アッシュの不在も。
店の暗さも。
全部。
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だから。
“今なら入り込める”。
そう思った。
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「顔色悪いぞ」
マクシムは自然に荷物を持つ。
「送るよ」
ポーレットは断れなかった。
疲れ切っていた。
誰かに優しくされる事自体が、
久しぶりだった。
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帰り道。
マクシムは穏やかに話す。
仕事の話。
昔話。
失敗した恋愛。
“大人になった”。
そんな話。
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「……辛い事、あったんだろ」
優しい声だった。
ポーレットの肩が震える。
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「無理するなよ」
「誰かに寄りかかっていいんだ」
その言葉が。
今のポーレットには、
毒みたいに優しかった。
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それから。
マクシムは時々店へ来るようになる。
今のビクトルにはマクシムも追い出す気力は残っていなかった
だがマクシムは紳士的だった。
ビクトルにも丁寧。
ユメにも優しい。
客から見れば、
気遣いのできる大人の男。
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でも。
その視線だけは違った。
弱っているポーレットを、
じっと見ていた。
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ある夜。
閉店後。
雨音だけが響く帰り道。
マクシムは、
ポーレットを連れて店の外に出ていた
念のためビクトルには聞こえないように
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「……俺なら、
お前を一人にしない」
静かな声。
ポーレットは俯いている。
目は虚ろだった。
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「もう……疲れたんです」
掠れた声。
「待っても……」
「帰ってこなくて……」
涙が零れる。
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マクシムは、
そっと肩へ触れる。
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「だからもう、
忘れろ」
低い声。
「死んだ男の事なんて」
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ポーレットは抵抗しなかった。
拒絶もしない。
ただ。
壊れたみたいに立ち尽くしていた。
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マクシムは、
それを受け入れられたと思った。
口元が僅かに歪む。
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「最初からそうしてりゃ良かったんだ」
「どうせあんな男――」
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だがその時。
後ろから小さな声。
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「だめ」
振り向く。
そこには、
ユメがいた。
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顔は涙でびしょ濡れだった。
息を切らしながら、
必死にポーレットへしがみつく。
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「だめ……」
震える声。
⸻
「パパ、
かなしくなる」
その言葉。
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ポーレットの目が揺れる。
⸻
ユメは泣きながら続ける。
「アッシュ、
ママの事だいすきだったもん」
「ユメ、
しってるもん」
「ママも…アッシュの事大好きだったもん」
「だから……」
「そんなかおしないで……」
⸻
思い出す。
震えながらしたプロポーズ。
不器用な笑顔。
“断られても店にはいたい”。
そう言っていた男。
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アッシュは。
最後まで。
自分達を愛していた。
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なのに私は今、
何をしようとしていた?
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ポーレットの肩が震える。
そして。
ゆっくり。
マクシムの手を払った。
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「……帰ってください」
涙声だった。
でも。
はっきりしていた。
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マクシムの表情が止まる。
⸻
「……は?」
低い声。
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ポーレットはユメを抱き締める。
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「あなたじゃ駄目です」
「アッシュさんの代わりにはなれません」
⸻
数秒の沈黙。
そして。
マクシムの顔から、
綺麗な笑みが消えた。
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「……はは」
乾いた笑い。
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「まだ死んだ男に縋ってんのか」
声が変わる。
冷たくなる。
⸻
「馬鹿だな」
「結局そいつ、
お前置いて死んだだけだろ」
「守るだの愛だの、
結果がこれか?」
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ユメが怯えて、
ポーレットへしがみつく。
⸻
マクシムは吐き捨てる。
「生きてる男選べよ」
「死人に何が出来る」
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その時。
背後から静かな声。
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「――随分好き勝手言うな」
振り向く。
そこにいたのは。
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ディンゴ・ブラッドだった。
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取材帰りなのか、
コート姿のまま。
偶然通りかかった。
だが。
空気だけで全部察した。
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ディンゴは煙草へ火を点ける。
そして。
マクシムを見る。
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「お前、
まだそんな事やってんのか」
マクシムが顔をしかめる。
「何のことだよ…!?と言うか誰だかてめぇ!?」
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ディンゴは端末を軽く掲げた。
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「未成年買収」
「捏造記事」
「不倫」
「経費横領」
「取材対象への脅迫」
煙草の煙を吐く。
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「割と出るな、お前」
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マクシムの顔色が変わる。
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「な、なんで……」
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ディンゴは静かに笑う。
「記者だからだよ」
「お前みたいなの、
業界じゃ有名だ」
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穏やかな顔。
でも。
目だけは冷たい。
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「遺族食い物にする真似までした」
「もう庇えねぇな」
⸻
ディンゴは最後に言う。
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「明日の朝には、
お前の名前が業界回る」
「もう真っ当な店は、
お前を入れねぇよ」
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マクシムは言葉を失う。
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ディンゴは煙草を吐いた。
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「二度とあの店に近づくな」
静かな声。
だが。
完全な拒絶だった。
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雨の中。
マクシムは何も言えず立ち尽くしていた。
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ポーレットは、
ユメを抱き締めたまま泣いている。
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ディンゴは小さく息を吐く。
そして。
ぽつりと呟いた。
⸻
「……アッシュ君のおかげで俺は生き残ったよ
君の家族ちゃんと守れたか…?」