春が近づいていた。
長かった雨も減り。
《モンマルト》へ差し込む陽の光も、
少しだけ暖かくなっていた。
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それでも。
アッシュがいない事実だけは変わらない。
扉は開く。
客は来る。
料理も出る。
でも。
“おかえりなさい”と言う相手は、
もう帰ってこない。
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最初の頃。
《モンマルト》は壊れかけていた。
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ビクトルは、
料理中に手を止めるようになった。
包丁を持ったまま、
ぼうっと入口を見る。
そこに。
いつものように、
「遅れました!」と飛び込んでくる男を探してしまう。
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怒鳴ろうとして。
もう相手がいない事を思い出す。
それが。
ビクトルには一番堪えた。
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ポーレットも笑えなかった。
接客中。
無意識に二人分の皿を出しかける。
夜。
二階を見上げる。
灯りの消えた部屋。
そこへ向かう足音は、
もう二度と聞こえない。
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ユメも。
毎朝。
「アッシュ、まだねてる?」
そう聞いてしまっていた。
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その度に。
店の空気が止まる。
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でも。
少しずつ。
本当に少しずつ。
時間は動き始める。
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きっかけは。
ある日の昼営業だった。
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厨房。
ビクトルが一人で料理を作っている。
混み始めた店内。
以前なら、
アッシュが自然に動いていた場所。
そこが空いている。
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「チッ……」
舌打ち。
フライパンを振るう。
でも。
回らない。
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その時。
ポーレットが自然に皿を運ぶ。
ユメが水を配る。
以前。
アッシュがやっていたみたいに。
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ビクトルは気づく。
皆、
無意識にあいつの動きをなぞっていた。
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客が笑う。
「今日も美味いな」
「やっぱりこの店落ち着くよ」
そんな声。
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ビクトルは、
ふと厨房を見回す。
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あいつが磨いた鍋。
整理された調味料。
癖のあるメモ書き。
不器用な字。
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『仕込み確認しました』
『ユメちゃん用プリンあり』
『ポーレットさんへ
無理しないでくださいね!』
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ビクトルは煙草へ火を点ける。
だが。
途中で笑った。
掠れた笑い。
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「……最後まで、
店の人間だったな」
小さな呟き。
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その夜。
営業後。
ポーレットは、
アッシュの部屋を整理していた。
片付けるつもりだった。
前を向くために。
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でも。
引き出しの奥から出てきたのは。
大量の料理メモ。
練習ノート。
失敗したレシピ。
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その中に。
一枚だけ。
震えた字の紙。
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『もっとちゃんと、
ポーレットさんに似合う男になりたい』
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ポーレットの目から涙が落ちる。
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でも。
今回は違った。
苦しいだけじゃない。
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「……馬鹿」
泣きながら笑う。
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アッシュは。
最後まで変わろうとしていた。
自分の為じゃなく。
誰かの為に。
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その想いまで、
消してはいけない。
そう思えた。
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ユメも少しずつ変わった。
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ある日。
店へ来た常連客が、
寂しそうに言う。
「最近プリン無いのか?」
以前。
アッシュがユメのために練習がてら作っていたのが好評で
いつのまにか店のメニューになっていたものだ
知らなかったとはいえプリンの事を聞いてしまった
店が静まり返る
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ユメは少し俯く。
でも。
小さく言った。
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「……つくる」
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ポーレットが驚く。
「ユメ?」
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「アッシュ、
つくってたもん」
「ユメもやる」
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その日。
ユメは初めて厨房へ入った。
ビクトルは何も言わなかった。
ただ。
黙って隣へ立つ。
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卵を割る。
失敗する。
泣く。
またやる。
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何度も失敗して。
やっと一つ、
形になった。
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客へ出す。
常連が笑う。
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「……ちょっと焦げてるな」
ユメが青ざめる。
だが。
続く言葉は違った。
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「でも、美味い」
「懐かしい味だ」
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ユメが泣きそうな顔で笑う。
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その瞬間。
《モンマルト》へ、
久しぶりに明るい笑い声が戻った。
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ビクトルは厨房からそれを見る。
そして。
誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
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「見てるか、馬鹿息子」
煙草の煙が揺れる。
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「お前の店、
まだ生きてるぞ」
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ポーレットは、
窓際の席を見る。
アッシュがいつも座っていた席。
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もう誰もいない。
でも。
不思議と。
もうそこは、
“空っぽ”には見えなかった。
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アッシュは死んだ。
戻ってこない。
それは変わらない。
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でも。
残したものは確かにあった。
料理。
笑顔。
繋がり。
誰かを想う気持ち。
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それは。
《モンマルト》の中で、
ちゃんと生き続けていた。