《モンマルト》へ通うようになってから。
アッシュ・クロードの中で、
少しずつ何かが変わり始めていた。
仕事帰りに立ち寄る暖かな店。
ポーレットの笑顔。
客達の笑い声。
店主の怒鳴り声。
その全部が。
灰色だった人生へ、
少しずつ色を戻していた。
だからこそ。
会社へ戻る度に、
現実との差が苦しくなっていく。
⸻
蛍光灯。
終わらないタイピング音。
張り詰めた空気。
誰も笑わない職場。
アッシュは資料を抱え、
会議室へ入った瞬間だった。
「遅ぇんだよ社員番号E-2017!!」
怒声。
肩が跳ねる。
上司が資料を机へ叩きつけた。
「この修正量見たか!?」
「す、すみません……」
「謝って済むなら苦労しねぇんだよ!!」
資料が顔へ投げつけられる。
紙が散った。
周囲の社員達は俯いたまま。
誰も助けない。
助けられない。
皆、自分が標的になるのを恐れていた。
⸻
「最近集中力落ちてるよなぁ?」
上司が机へ腰掛けながら笑う。
「なんだ?女か?」
周囲が引きつったように笑う。
アッシュは黙る。
「仕事舐めてんじゃねぇぞ」
低い声。
「お前の代わりなんていくらでもいる」
何度も聞いた言葉。
でも。
最近は少しだけ思うようになっていた。
(……じゃあ何で俺ここにいるんだ)
代わりがいるなら。
なんでこんなに壊れながら、
ここへしがみついてるんだ。
⸻
深夜。
誰もいなくなったオフィス。
アッシュは一人、
修正作業を続けていた。
導力端末が震える。
『追加修正』
『朝までに』
『寝るなよ』
その瞬間だった。
頭の中で、
何かが切れた。
⸻
翌朝。
アッシュは辞表を持って出社した。
「……は?」
上司が固まる。
「辞めます」
沈黙。
数秒後。
怒声が爆発した。
「ふざけんなぁぁぁぁ!!」
机が蹴り飛ばされる。
「今案件どんだけ抱えてると思ってんだ!?」
「責任感ねぇのか!?」
「社会舐めてんのか!?」
怒鳴り声。
唾。
威圧。
だが。
不思議と前ほど怖くなかった。
⸻
「お前みたいな無能が他で通用すると思ってんの!?」
「結局戻ってくんだよ!」
「お前は一生底辺だ!!」
アッシュは静かに言った。
「……そうかもしれません」
上司が鼻で笑う。
「だったら――」
「でも」
顔を上げる。
「ここにいたら、俺、多分壊れるんで」
空気が止まった。
⸻
会社を出る。
朝日が眩しい。
怖かった。
次なんて無い。
貯金も少ない。
未来も見えない。
それでも。
足は自然と、
《モンマルト》へ向かっていた。
⸻
開店準備中だった。
ポーレットが店先を掃除している。
「あら?いらっしゃい?」
優しい声。
それだけで、
泣きそうになった。
「……仕事、辞めました」
何言ってんだろ俺
ポーレットが目を丸くする。そりゃそうだ
「えっ……」
アッシュは苦笑した。
「勢いというか」
「多分俺、社会不適合者なんですよね」
冗談っぽく笑おうとして、
失敗する。
声が震えていた。
⸻
「……少し、中入ります?」
ポーレットが心配そうに言う。
アッシュは慌てて首を振った。
「い、いや!開店前なのに迷惑ですし!」
「でも顔色悪いですよ?」
本気で心配している顔だった。
その時。
奥から低い声が飛ぶ。
「ポーレット」
振り返る。
店主のおじさんだった。厨房で料理を作ってる。
腕を組み、
不機嫌そうにこちらを見ている。
「開店準備止めるな」
「で、でも――」
「客じゃねぇなら外だ」
空気が冷える。
アッシュは慌てて頭を下げた。
「す、すみません!帰ります!」
そう言って踵を返そうとした瞬間。
「待て」
低い声。
アッシュが止まる。
店主はじっとアッシュを見ていた。
その目は職人の目だった。
人を見る目。
表面じゃなく、
中身を測る目。
「辞めたって言ったな」
「……はい」
「次決まってんのか」
「いえ……」
「貯金は」
「そんなに……」
店主は露骨に眉をしかめた。
「馬鹿かお前」
正論過ぎて何も言えない。
⸻
沈黙。
やがて店主が鼻を鳴らす。
「……で」
「はい?」
「何しに来た」
アッシュは言葉に詰まる。
自分でも分からなかった。
ただ。
ここへ来たかった。
ここだけが、
ちゃんと息ができる場所だったから。
だが。
そんな事言えるわけもない。
「……その」
しどろもどろになる。
店主はため息を吐いた。
「はっきりしねぇ奴だな」
そして。
厨房の方を顎でしゃくる。
「皿洗いなら足りてねぇ」
アッシュが目を瞬かせる。
「え……」
「勘違いすんな」
店主はぶっきらぼうに続ける。
「使えねぇなら即追い出す」
「舐めた仕事したら怒鳴る」
「飲食は甘くねぇ」
低い声。
だが。
そこには会社みたいな理不尽さは無かった。
“仕事”への誇りがあった。
⸻
アッシュは思わず聞いていた。
「……なんで」
「なんで、俺なんかを」
店主は少し黙る。
そして。
「死にそうな目してる奴ぁ放っとけねぇ」
ぶっきらぼうにそう言った。
「……!」
「それに」
店主はポーレットを見る。
そして。
「最近お前、ここ来ると少しマシな顔するからな」
アッシュの呼吸が止まる。
見られていた。
そんな事。
誰にも気づかれてないと思っていた。
⸻
店主は踵を返す。
「来るなら明日からだ」
「朝は早ぇぞ」
「返事は」
アッシュは震える声で答えた。
「……お願いします」
店主は振り返らない。
ただ。
小さく鼻を鳴らした。
それが。
アッシュには、
初めて与えられた“居場所”みたいに思えた。