初出勤の日。
アッシュ・クロードは、
開店前の《モンマルト》の前で固まっていた。
緊張で胃が痛い。
ブラック企業時代とは違う意味で、
心臓がうるさかった。
「……逃げるか?」
小さく呟く。
だが。
その瞬間。
ガラッ、と扉が開いた。
「何突っ立ってんだ」
低い声。
店主のビクトルさんだった。(あの後名前は教えてもらった)
腕組み。
不機嫌そうな顔。
怖い。
本当に怖い。
「遅刻する気か?」
「い、いえ!!」
反射で背筋が伸びる。
ビクトルさんは鼻を鳴らした。
「だったら入れ」
⸻
厨房。
熱気。
仕込みの匂い。
忙しなく動く音。
アッシュは完全に圧倒されていた。
「ぼさっとすんな!」
「は、はい!」
「皿!!」
「は、はいぃ!!」
「返事だけ元気か!!」
怖い。
でも。
不思議だった。
会社の怒鳴り声とは違う。
そこには、
“客へ美味い物を出したい”
という熱があった。
⸻
アッシュは慣れない手つきで皿を洗う。
滑る。
割りそうになる。
怒鳴られる。
パニック。
「違ぇ!!」
ビクトルさんが後ろから腕を掴む。
「こう持て!」
「あ、す、すみません!」
「謝る前に覚えろ!!」
怒鳴られる。
だが。
何故か嫌じゃなかった。
ちゃんと。
“教えて”くれているから。
⸻
昼営業が終わる頃には、
アッシュは既にボロボロだった。
肩で息をしている。
そんな彼へ、
ポーレットさんが苦笑しながら水を差し出した。
「お疲れ様です」
「……あ、ありがとうございます」
冷たい水が身体へ染みる。
ポーレットさんは少し笑った。
「お父さん、怖かったでしょう?」
「めちゃくちゃ怖いです……」
思わず本音が漏れる。
ポーレットさんは吹き出した。
「ふふっ」
その笑顔を見て、
疲れが少し吹き飛ぶ。
単純だった。
⸻
その時だった。
店の奥から小さな足音が聞こえた。
ぱたぱた、と。
「ママー!」
小さな女の子が顔を出す。
アッシュは思わず姿勢を正した。
(うわ、ユメちゃんだ)
前に店で見かけた事はある。
でも。
こんな近くで会うのは初めてだった。
ポーレットさんがしゃがむ。
「お昼寝終わった?」
「うん!」
だが。
ユメちゃんの視線がアッシュへ向いた瞬間。
ぴたりと動きが止まる。
じーっ。
無言。
完全に警戒している目だった。
アッシュが引きつる。
「え、えっと……」
ユメちゃんは無言でポーレットさんの後ろへ隠れた。
半分だけ顔を出して見ている。
完全に不審者扱いだった。
⸻
「ユメ、ご挨拶は?」
ポーレットさんが優しく言う。
だが。
ユメちゃんは首を横に振る。
「……やだ」
「えっ」
アッシュが軽くダメージを受ける。
ポーレットさんが困ったように笑った。
「ご、ごめんなさい」
「い、いえ!」
アッシュは慌てて手を振る。
「そりゃ怖いですよね!」
「急に知らない男いますし!」
ユメちゃんはまだじっと見ている。
小さいのに目力が強い。
完全に。
“ママへ近づく悪い人じゃないか”
見定めていた。
⸻
アッシュは恐る恐るしゃがみ、
視線を合わせた。
「えっと……アッシュです」
「……」
「今日からここで働く事になって……」
「……」
「よろしくね?」
沈黙。
ユメちゃんはポーレットさんの服をぎゅっと掴む。
そして。
小さな声で聞いた。
「……ママのおともだち?」
アッシュは少し困って、
苦笑した。
「……なれたらいいな」
それ以上の関係に…
その答えに。
ユメちゃんはまだ警戒したままだった。
じっとアッシュを見る。
嘘をついてないか、
見極めようとするみたいに。
その姿を見て。
アッシュは胸が締め付けられた。
この子。
ずっとこうして、
母親を守ろうとしてきたんだ。
⸻
「嫌な事はしないよ」
アッシュは静かに言った。
「ユメちゃんが嫌がる事はしない」
「だから安心して」
ユメちゃんは少しだけ目を丸くする。
その言葉が、
意外だったみたいに。
やがて。
小さくポーレットさんの後ろへ隠れながら、
ぽつりと呟く。
「……ほんと?」
「ほんと」
即答だった。
ユメちゃんはまだ警戒していた。
けれど。
ほんの少しだけ。
その目の険しさが和らいでいた。
厨房奥では。
ビクトルさんは黙ってその光景を見ていた。