アッシュが《モンマルト》で働き始めてから。
最初の数週間は、
地獄だった。
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「遅ぇ!!」
怒号。
「皿!!」
「はい!!」
「返事じゃねぇ動け!!」
「す、すみません!!」
厨房には毎日のように、
ビクトルさんの怒鳴り声が響いていた。
火傷。
皿割り。
盛り付け失敗。
注文ミス。
飲食未経験のアッシュは、
とにかく不器用だった。
ビクトルさんも容赦しない。
完全に。
「そのうち根を上げて辞めるだろ」
と思っていた。
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実際。
普通なら辞めていた。
仕込みは朝早い。
立ち仕事。
休憩も少ない。
怒鳴られる。
覚える事も山ほどある。
だが。
アッシュは辞めなかった。
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怒鳴られる度、
身体は反射的に強張る。
頭を下げる。
謝る。
ブラック企業時代の癖だった。
「……すみません」
その声は、
自分でも情けなくなるくらい染み付いていた。
会社では。
怒鳴られ。
人格を否定され。
“お前の代わりはいくらでもいる”
と言われ続けた。
だから。
ビクトルさんの怒鳴り声にも、
最初は怯えていた。
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「違ぇ!!」
ビクトルさんが後ろから腕を掴む。
「包丁はこう持て!」
「あ、は、はい!!」
「力入れ過ぎだ馬鹿!!」
「すみません!!」
「謝る前に覚えろ!!」
怒鳴られる。
だが。
少しずつ気づき始める。
会社とは違う、と。
ビクトルは、失敗した人間そのものを否定している訳じゃない。
“客へ半端な物を出す事”
に怒っているのだ。
そこには。
仕事への誇りがあった。
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何より。
ポーレットさんがいた。
「アッシュさん、お疲れ様です」
その笑顔を見るだけで、
少し頑張れた。
単純だった。
本当に。
呆れるくらい単純だった。
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最初の頃。
アッシュの動機はかなり不純だった。
ポーレットさんに近づきたい。
認められたい。
格好つけたい。
そんな下心ばかりだった。
だが。
少しずつ。
本当に少しずつ。
それだけじゃなくなっていく。
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営業中。
疲れた顔のサラリーマンが、
料理を食べて息を吐く。
「……うまかった」
その顔を見る。
なんだか嬉しかった。
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常連客が笑う。
「最近皿洗いの兄ちゃん見なくなったと思ったら厨房立ってんのか」
「まだ見習いですけど……」
「頑張れよ!」
笑われる。
馬鹿にされている訳じゃない。
ちゃんと。
“人として”話しかけられていた。
それだけで。
胸が熱くなった。
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ある日。
ビクトルさんが作った料理を
常連客へ運ぶ。
「お、今日ヴィクトル機嫌いいな」
「え?」
「盛り付け綺麗だから分かるんだよ」
客が笑う。
そんな世界が、
アッシュには新鮮だった。
会社では。
誰も仕事を好きじゃなかった。
誰も人を見ていなかった。
ただ数字だけがあった。
でもここでは違う。
料理を通して、
人と人が繋がっていた。
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ある夜。
閉店後。
アッシュは一人で厨房を掃除していた。
そこへビクトルさんが来る。
「まだ帰ってねぇのか」
「汚れ気になっちゃって」
ビクトルさんは黙って厨房を見る。
以前より綺麗だった。
調理器具も整理されている。
「……」
アッシュは気づいていなかった。
自分が。
少しずつ“店の人間”になっている事に。
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「アッシュさん」
ポーレットさんが笑いながら言う。
「最近、お客さんに名前覚えられてますよ?」
「え?」
「アッシュさんいると店の空気柔らかいって」
思わず固まる。
そんな事。
人生で言われた事がなかった。
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最初は。
ポーレットさん目当てだった。
それは間違いない。
でも。
今は違った。
客が笑うのが嬉しい。
料理を覚えるのが楽しい。
《モンマルト》という場所を、
守りたいと思い始めていた。
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その変化へ、
最初に気づいたのはビクトルだった。
営業中。
アッシュは自然に客の水を替えていた。
疲れている客へ、
少し量を多めによそっていた。
子供連れの客には、
先に料理を出せるよう動いていた。
全部。
誰かに言われた訳じゃない。
自然にやっていた。
ビクトルはフライパンを振りながら
その背中を見ていた。
「……チッ」
小さく鼻を鳴らす。
辞めさせるつもりだった。
すぐ逃げると思っていた。
だが。
気づけば。
もう違った。
この男は。
“ポーレット目当ての客”じゃない。
ちゃんと。
《モンマルト》で働く人間になっていた。