『君が遺した食卓』   作:狂った自販機

5 / 22
アッシュお仕事頑張ります

アッシュが《モンマルト》で働き始めてから。

 

最初の数週間は、

地獄だった。

 

 

「遅ぇ!!」

 

怒号。

 

「皿!!」

 

「はい!!」

 

「返事じゃねぇ動け!!」

 

「す、すみません!!」

 

厨房には毎日のように、

ビクトルさんの怒鳴り声が響いていた。

 

火傷。

 

皿割り。

 

盛り付け失敗。

 

注文ミス。

 

飲食未経験のアッシュは、

とにかく不器用だった。

 

ビクトルさんも容赦しない。

 

完全に。

 

「そのうち根を上げて辞めるだろ」

と思っていた。

 

 

実際。

 

普通なら辞めていた。

 

仕込みは朝早い。

 

立ち仕事。

 

休憩も少ない。

 

怒鳴られる。

 

覚える事も山ほどある。

 

だが。

 

アッシュは辞めなかった。

 

 

怒鳴られる度、

身体は反射的に強張る。

 

頭を下げる。

 

謝る。

 

ブラック企業時代の癖だった。

 

「……すみません」

 

その声は、

自分でも情けなくなるくらい染み付いていた。

 

会社では。

 

怒鳴られ。

 

人格を否定され。

 

“お前の代わりはいくらでもいる”

 

と言われ続けた。

 

だから。

 

ビクトルさんの怒鳴り声にも、

最初は怯えていた。

 

 

「違ぇ!!」

 

ビクトルさんが後ろから腕を掴む。

 

「包丁はこう持て!」

 

「あ、は、はい!!」

 

「力入れ過ぎだ馬鹿!!」

 

「すみません!!」

 

「謝る前に覚えろ!!」

 

怒鳴られる。

 

だが。

 

少しずつ気づき始める。

 

会社とは違う、と。

 

ビクトルは、失敗した人間そのものを否定している訳じゃない。

 

“客へ半端な物を出す事”

に怒っているのだ。

 

そこには。

 

仕事への誇りがあった。

 

 

何より。

 

ポーレットさんがいた。

 

「アッシュさん、お疲れ様です」

 

その笑顔を見るだけで、

少し頑張れた。

 

単純だった。

 

本当に。

 

呆れるくらい単純だった。

 

 

最初の頃。

 

アッシュの動機はかなり不純だった。

 

ポーレットさんに近づきたい。

 

認められたい。

 

格好つけたい。

 

そんな下心ばかりだった。

 

だが。

 

少しずつ。

 

本当に少しずつ。

 

それだけじゃなくなっていく。

 

 

営業中。

 

疲れた顔のサラリーマンが、

料理を食べて息を吐く。

 

「……うまかった」

 

その顔を見る。

 

なんだか嬉しかった。

 

 

常連客が笑う。

 

「最近皿洗いの兄ちゃん見なくなったと思ったら厨房立ってんのか」

 

「まだ見習いですけど……」

 

「頑張れよ!」

 

笑われる。

 

馬鹿にされている訳じゃない。

 

ちゃんと。

 

“人として”話しかけられていた。

 

それだけで。

 

胸が熱くなった。

 

 

ある日。

 

ビクトルさんが作った料理を

常連客へ運ぶ。

 

「お、今日ヴィクトル機嫌いいな」

 

「え?」

 

「盛り付け綺麗だから分かるんだよ」

 

客が笑う。

 

そんな世界が、

アッシュには新鮮だった。

 

会社では。

 

誰も仕事を好きじゃなかった。

 

誰も人を見ていなかった。

 

ただ数字だけがあった。

 

でもここでは違う。

 

料理を通して、

人と人が繋がっていた。

 

 

ある夜。

 

閉店後。

 

アッシュは一人で厨房を掃除していた。

 

そこへビクトルさんが来る。

 

「まだ帰ってねぇのか」

 

「汚れ気になっちゃって」

 

ビクトルさんは黙って厨房を見る。

 

以前より綺麗だった。

 

調理器具も整理されている。

 

「……」

 

アッシュは気づいていなかった。

 

自分が。

 

少しずつ“店の人間”になっている事に。

 

 

「アッシュさん」

 

ポーレットさんが笑いながら言う。

 

「最近、お客さんに名前覚えられてますよ?」

 

「え?」

 

「アッシュさんいると店の空気柔らかいって」

 

思わず固まる。

 

そんな事。

 

人生で言われた事がなかった。

 

 

最初は。

 

ポーレットさん目当てだった。

 

それは間違いない。

 

でも。

 

今は違った。

 

客が笑うのが嬉しい。

 

料理を覚えるのが楽しい。

 

《モンマルト》という場所を、

守りたいと思い始めていた。

 

 

その変化へ、

最初に気づいたのはビクトルだった。

 

営業中。

 

アッシュは自然に客の水を替えていた。

 

疲れている客へ、

少し量を多めによそっていた。

 

子供連れの客には、

先に料理を出せるよう動いていた。

 

全部。

 

誰かに言われた訳じゃない。

 

自然にやっていた。

 

ビクトルはフライパンを振りながら

その背中を見ていた。

 

「……チッ」

 

小さく鼻を鳴らす。

 

辞めさせるつもりだった。

 

すぐ逃げると思っていた。

 

だが。

 

気づけば。

 

もう違った。

 

この男は。

 

“ポーレット目当ての客”じゃない。

 

ちゃんと。

 

《モンマルト》で働く人間になっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。