閉店後の《モンマルト》は静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに。
客の笑い声も。
食器の音も。
もう無い。
残るのは、
洗い終わった皿の匂いと、
微かに漂う料理の香りだけだった。
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「ふぅ……」
アッシュ・クロードは、
椅子へ座り込む。
疲れた。
本当に疲れた。
朝から仕込み。
営業。
片付け。
ビクトルに怒鳴られる。
何度も失敗する。
それでも。
不思議と嫌じゃなかった。
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「お疲れ様です」
優しい声。
振り返る。
ポーレットさんが、
湯気の立つカップを持っていた。
「はい、どうぞ」
「え?」
「ハーブティーです」
アッシュは慌てて立ち上がる。
「い、いや俺なんかが……」
「“俺なんか”禁止です」
ぴしゃりと言われる。
アッシュが固まる。
ポーレットさんは少し困ったように笑った。
「アッシュさん、すぐそう言いますよね」
「……癖で」
ブラック企業時代からだった。
自分を下げるのが当たり前になっていた。
期待されないように。
失望されないように。
最初から価値の無い人間みたいに振る舞う。
その方が楽だった。
⸻
ポーレットさんはアッシュの前へ座る。
「最近、頑張り過ぎじゃないですか?」
「そ、そうですか?」
「そうですよ」
即答だった。
「閉店後も掃除して」
「朝も早く来て」
「今日だって指怪我してるのに」
アッシュは絆創膏がはられている指を見て苦笑する。
「慣れてないだけで……」
「それでもです」
ポーレットさんの声は優しかった。
でも。
少しだけ怒っていた。
心配している怒り。
その感情が、
アッシュには眩しかった。
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「……なんでそんな頑張れるんですか?」
不意に聞かれる。
アッシュは少し黙った。
なんでだろう。
最初は。
本当に下心だった。
ポーレットさんに近づきたかった。
認められたかった。
格好つけたかった。
でも。
今は違う。
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「ここ、好きなんです」
ぽつりと出た本音。
ポーレットさんが目を瞬かせる。
アッシュは少し照れながら続けた。
「客さん笑ってるし」
「料理美味いし」
「ビクトルさん怖いですけど、ちゃんと仕事教えてくれるし」
「ユメちゃんも……最近ちょっと話してくれるようになったし」
言いながら、
自分でも少し驚いていた。
こんな風に。
“好き”を口にしたのはいつ以来だろう。
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「前の会社だと」
アッシュは静かに言う。
「何やっても意味無かったんです」
「誰かが喜ぶとか無くて」
「数字だけで」
「失敗したら怒鳴られて」
「自分が部品みたいで」
ポーレットさんは何も言わず聞いていた。
否定もしない。
無理に励ましもしない。
ただ。
ちゃんと聞いてくれる。
それが嬉しかった。
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「でもここだと」
アッシュは店内を見る。
「客さんが美味しいって言ってくれるじゃないですか」
「それがなんか……嬉しくて」
少し恥ずかしくなる。
こんな青臭い事、
普通なら言わない。
でも。
ポーレットさんの前だと、
不思議と本音が出た。
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ポーレットさんはふっと笑った。
「アッシュさん、向いてますね」
「え?」
「この仕事」
思わず固まる。
そんな事。
人生で一度も言われた事がなかった。
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「最初は危なっかしかったですけど」
「うっ……」
「でも最近、お客さんちゃんと見てます」
「疲れてる人にお水早めに出したり」
「子供連れ気にしたり」
「自然に出来てるんですよ」
アッシュは言葉を失う。
見られていた。
そんな所まで。
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「だから」
ポーレットさんは優しく笑う。
「私、アッシュさんがいてくれて助かってます」
その瞬間。
胸の奥が熱くなった。
危うく泣きそうになる。
こんな風に。
必要だと言われた事なんて、
無かったから。
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アッシュは慌てて顔を逸らす。
「……ずるいです」
「え?」
「そんな事言われたら、もっと頑張っちゃうじゃないですか」
ポーレットさんが吹き出した。
「ふふっ」
その笑顔を見て。
アッシュは思う。
ああ。
この人の笑顔を守りたい。
本気でそう思った。