銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
空気が薄い。
いや、実際に薄いわけではないのだろう。
でもリンクの上に立つと毎度、世界から音と質量がほんの少しだけ引き剥がされたような感じがする。
観客席のざわめきも、頭上のスポット照明が放つ低い唸りも、すべてが氷の冷気のなかへ吸い込まれて、輪郭だけを残して薄まっていく。
そんな、「薄まった世界」のなかで、自分の呼吸と心音だけが妙にはっきりと聞こえる。
「橘選手、入りまーす」
係員の女性が短くそう告げて、ガラス戸を開ける。
冷気が、ふわりと頬を撫でた。
二〇二五年十二月、東京は国立代々木競技場第一体育館。
日本代表選考を兼ねた、第94回全日本フィギュアスケート選手権。
会場は、年に一度のこの大会のためだけに磨きあげられたような、白く乾いた光に満ちている。
フリープログラムである二日目、最終グループ最終滑走。
つまり、私の後にはもう、誰も滑る者はいない。
「お願いします」
短く言って、私はリンクのほうへ歩き出した。
白いブレードカバーを外し、靴底のエッジを軽く拭いてから氷に降ろす。
冷たさが、ブレード越しに足の裏まで届くのを感じる。
ふっ、と息を吐くと、口元から白いものがほどけて消えた。
観客席を、ゆるりと見渡す。
満員。
通路にもスタンディングが許される範囲で、係員のスタッフが整理しきれない人の影が立っている。
ここまで来ると、もはや「観客」というよりは、ひとつの巨大な動物だ。
息を吸い、息を吐く、こちらを見つめるための眼の集合。
「瀬理奈! 頑張れー!」
声は、私の耳にだけ届いたわけではないだろう。
けれど、私の耳は確実にその声を選び取った。
二階席、リンクサイドから少し右手寄り。
手すりに身を乗り出すようにしているのは、母さんだ。
その隣で、苦笑しながら母さんの肩を引き戻しているのが、父さん。
父さんはこういう場で取り乱すことを許さないタイプで、母さんはどんな場でも取り乱すのを許すタイプだ。
両親というのは、こうも極端でいいのかと思う反面、二人だからこそ釣り合いがとれている気もする。
その二人の少し後ろ。
黒いダウンを着た、背の高い男の子がいる。
くしゃりとした髪と、私を見つけると気まずそうに視線をそらすあのクセ。
「……明彦」
声には出さず、唇だけで名前を呼んだ。
彼の名は、橘明彦。
苗字が同じなのは偶然ではない――いや、彼にとっては偶然なのだけれど。
うちと彼の家とは、私が幼いころから家族ぐるみのつきあいがあって、私と明彦は要するに「ご近所の幼馴染」ということになっている。
その明彦の隣で、両手を口元にあててこちらをじっと見ているのが、彼の母――愛奈さんだ。
四十代半ばを少し過ぎた、けれどまだ十分に若く見える人。
艶のある黒髪を後ろでまとめて、淡いベージュのコートを羽織っている。
あのコートは去年、私が「似合うと思う」と言って贈ったものだ。
「……」
愛奈さんの視線とぶつかった瞬間、思わず息が詰まりかけた。
大丈夫。
大丈夫だ。
そう言いながら、もう何年もこの瞬間を繰り返している。
私はもう、橘瀬理奈なのだから。
そう躊躇していると名前を呼ばれる。
「Representing Japan, Serina Tachibana」
英語のアナウンスが会場に響き渡る。
国際大会ではないのに英語でのコールが入るのは、海外メディアの中継が入っているせいだ。
今年に入ってから、私を取材したいという海外の記者が、急に増えた。
その理由は、自分でもよくわかっている。
「リーナ、リーナ!」
観客席の前方からは、私を「リーナ」と呼ぶ声が聞こえる。
ファンの人たちだ。
銀色の長いマフラーと、青い手袋を振っている人が多い。
私の髪と瞳の色に寄せた応援グッズなのだという。
最初はちょっと恥ずかしかったが、最近はそれが、まあ、可愛いと思えるようになった。
六分間練習はもう終えている。
「瀬理奈」
リンクサイドの低いボードに肘をついて、コーチがこちらに身を乗り出してきた。
名前は、九条英二。
元世界選手権メダリストで、引退後は欧州で長く指導者をしていた人だ。
縁あって、私が小学三年生のころから、ずっとついてくれている。
「いつもどおりで、いい」
短い言葉だった。
「いつもどおり、ね」
私は苦笑した。
「いつもどおりが、いちばん難しいやつでしょう、九条コーチ」
「だから、お前にしか言わない」
九条コーチは、ふっと表情を緩める。
この人が笑うとき、目尻に走る皺の形を、私はよく知っている。
長くついてくれている人の顔は、覚えるべきところを覚えていれば、案外飽きない。
「四回転アクセル、入れるか入れないかは、お前が決めろ」
「……うん」
「ただし、入れないなら最初のコンビネーションでミスは絶対に許さん。入れるなら、転んでも構わん」
「コーチ、矛盾してる」
「お前にとっては、矛盾じゃない。そういう跳び方しかできないだろう、お前は」
「……まあ、そうかもしれないけど」
私は、ふっと笑った。
笑いながら、リンクの中央へと進んでいく。
観客の視線が、まとわりつくように追ってくるのを感じる。
別に、嫌な感覚ではない。
むしろ、心地よい――と言ってしまえば、傲慢かもしれないけれど。
日本代表「最終選考会」と銘打ってはいるが、ここに残った時点で、出場各選手はみな、その季節の日本フィギュアスケート女子を代表する顔ぶれと言っていい。
最終グループ六人。
その全員の名前と滑りを、私はもう何度も、目と耳と肌で覚えている。
まず、一番滑走――川崎ゆめ。
二十六歳のベテランで、もう三度目のオリンピック挑戦になる。
ジャンプの大技は控えめだけれど、滑走中の上半身の使いかたが本当にきれいで、ステップひとつとっても物語が見える人だ。
「リーナちゃんは、私の引退試合に出てくれるんだもんね」
控室でそう冗談めかして言われたとき、私は何と返していいかわからなかった。
今シーズンが最後だと、彼女は公にしている。
ジャンプの構成は控えめでも、彼女のスケーティングそのものが「最後の挨拶」みたいで、見ているこちらが胸を締めつけられる。
二番滑走、桜木ひな。
まだ十四歳。
ジュニアからシニアに上がってきたばかりで、トリプルアクセルをすでに二度試合で成功させている。
「リーナさんって、リンクの上だと別人になりますよね」
六分間練習のあと、彼女はそう言った。
「別人?」
「うん。ふだんはぽやーっとしてるのに、滑り出すと急に、なんていうか、こわい」
「こわいって……」
私は思わず眉を寄せた。
「悪い意味じゃなくて、こう、目が、こう」
ひなちゃんは、自分の目元を指で広げてみせた。
「肉食獣?」
「肉食獣! そうそれ、肉食獣みたいになる」
「……ひなちゃん、私、十七歳の女の子なんだけど」
「リーナさんが、ですか?」
ひなちゃんは、本気で疑問を投げかけてきた。
それが妙におかしくて、私は声を出して笑ってしまった。
三番滑走、森澤花音。
二十歳。
大学進学を機に、海外に拠点を移して練習している、ジャンプ特化型の選手。
日本人女子ではじめて、公式戦でクワドルッツを認定された。
ただ、ジャンプ以外の表現面は荒削りで、ガラスのようなところがある。
四番滑走、星野芽衣。
二十二歳。
ジャンプの難度は他に比べて高くないけれど、音楽の解釈と表現にかけては、おそらく日本人女子のなかで一、二を争う人だと、私は思っている。
五番滑走、宍戸あかり。
十八歳。
昨シーズン、私とコンマ数点を争って涙を呑んだ選手で、今期はジャンプ構成をさらに上げてきた。
明確に、私を意識している。
そして、六番滑走――私。
橘瀬理奈、十六歳。
ジャンプ構成は、四回転アクセル一本、四回転トウループ二本、三回転アクセルからの三回転トウループ連続――そのほか。
……我ながら、頭がおかしいなと思う。
でも、跳べてしまうのだから、仕方がない。
跳べてしまうのが、私だ。
会場アナウンスが、今までと毛色の違うトーンで響き渡った。
「次の選手、紹介します。
今シーズン、17歳のシニアデビューイヤーながら、グランプリ優勝。
そして女子選手として世界で唯一人、公式戦で四回転アクセルを成功させた選手です」
会場の空気が、ぐっとひとつにまとまるのがわかった。
息を呑む人の音まで、私には聞こえる。
いやでも、聞こえてしまう。
私の感覚は、ふつうの人間の限界よりも、ほんの少しだけ「向こう側」にあるらしいのだ。
「橘瀬理奈――Serina Tachibana」
拍手が湧き起こる。
歓声と口笛と、何かを叫ぶ声。
銀色のマフラーが、観客席のあちこちで揺れている。
その光景を、私はゆっくりと見渡した。
両親、明彦、愛奈さん――家族と幼馴染の親子。
それから、コーチ、関係者、たくさんのファン、メディアの人たち。
みんな、私を「橘瀬理奈」として見てくれている。
十六歳、女子、銀髪、碧眼、フィギュアスケーター。
四回転アクセルを跳ぶ、世界で唯一の女の子。
ふと、リンクの白を見つめる。
磨き上げられた氷の表面に、自分の影がぼんやりと映っている。
白いコスチューム。
長い銀色の髪を、後ろで編み込みにして結い上げてある。
膝の細さも、腕の細さも、首筋の線も――すべて、紛うことなく、十六歳の女の子のものだ。
私は、もう一度、息を吐いた。
「……なんで、こうなったんだろうなぁ」
声には、ほとんど出していない。
唇の内側だけで、自分のためにつぶやいた。
観客は気づかない。
コーチも気づかない。
誰も気づくはずがない。
だって――
十六年前、私は三十歳の男だった。
会社員で、もうすぐ初めての子供が生まれるはずだった、そんな平凡な男だった。
名前を、思い出す。
その男の名前を、思い出す。
リンクの真ん中で、私はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
深く、深く、息を吸う。
吐く。
吸う。
――そういえば、あの日も、こんな冬の日だった。