銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
次の月曜日の夕方。
二週目のピアノ教室の日のことだった。
玄関のチャイムを鳴らすと、湯浅先生がにこにこと出てきてくれる。
そして、その後ろにもう一人小さな影がちょこんと隠れていた。
栗色の柔らかい髪と長いまつ毛。
ふくふくとした頬。
紺色の半ズボンと白いシャツ。
「せりなおねえちゃん、こんにちは」
「あきひこくん!」
俺はぱっと目を輝かせた。
これはもちろん計算じゃない。
純粋な驚きと、それからちょっとした企みの成功への嬉しさだった。
「あきひこくん、きてくれたんだ」
「うん」
明彦は湯浅先生の影から、もそもそと出てきた。
栗色の前髪の下で、目がちょっとだけ不安そうに揺れていた。
うーん……相変わらず人見知りは発動中だ。
明彦の後ろから愛奈が顔を出した。
紺色のスカートに白いブラウス。
手に明彦の小さな手提げカバンを持っていた。
「ごめんなさいね、瀬理奈ちゃん。今日は見学だけさせてもらえたらって思って」
「ううん、うれしいよ!」
俺はぴょんと跳ねた。
これは半分本気の嬉しさだった。
入園式の日の約束だ。
明彦に「ちょっとだけ、ついてきてみて」と頼んだあの約束。
ちゃんと覚えていて来てくれたんだ。
「あきひこくん、ありがとう」
「……うん」
「いっしょにピアノ、みてくれる?」
「うん。みる」
明彦はこくりと頷いた。
その手がぎゅっと、自分のシャツの裾を握っていた。
俺は明彦の小さな手を、ふわりと両手で包んだ。
「だいじょうぶ。たのしいよ、ピアノ」
「……うん」
明彦の手は、四歳児にしてはちょっとだけ冷たかった。
緊張のせいだ。
俺はその手をぎゅっと握ってから、教室に引いて入った。
教室の隅っこに、湯浅先生が子供用の小さな椅子をもう一つ用意してくれていた。
明彦はその椅子にちょこんと座らされた。
愛奈はその横の大人用の椅子に、母さんと並んで腰掛けた。
「あきひこくんもいっしょにレッスン見ていってくれるのね。湯浅先生、よろしくおねがいします」
「うふふ、いいですよ。ぼうやもよかったら、あとでちょっと鍵盤触ってみる?」
「……」
明彦は湯浅先生の顔をまじまじと見上げた。
それから、ちょっとだけ首をこくりと傾けた。
これはたぶん、半分Yesの意思表示だ。
俺は、ピアノの前の椅子に座った。
今日のレッスンは先週の続きで、右手の指の順番の確認から始まった。
ドレミファソラシド。
ソファミレドシラソ。
湯浅先生の指示通りに、ゆっくりと丁寧に、鍵盤を押していく。
ピアノの音がぽつぽつと部屋に満ちる。
明彦の視線が、俺の右手の指の動きをじっと追っているのが、後ろから伝わってくる。
いいぞ、明彦。
ちゃんと見てくれている。
俺は内心でにやりと笑った。
そして湯浅先生の指示通りに、両手の音を合わせた。
ド、ド、レ、レ、ミ、ミ、ファ、ファ。
両手のドが重なって、ふくらんで、部屋の隅まで広がっていく。
俺はちらり、と明彦の方を見た。
明彦はぽかんと口を開けたまま、俺の両手を見つめていた。
よし、釣れた、と思った。
レッスンが半分くらい進んだところで、湯浅先生がぱちんと手を叩いた。
「はい、瀬理奈ちゃん、ちょっと休憩ね」
「はぁい」
「あきひこくん、ちょっとこっちで、鍵盤触ってみる?」
「……ぼくも?」
「うん、ぼうやも」
湯浅先生はにっこりと笑って、明彦に手招きをした。
明彦はちょっともじもじとして、愛奈の方を見上げた。
「行ってきなさい、明彦」
「……うん」
愛奈にぽんと背中を軽く押されて、明彦は椅子から立ち上がった。
ちょこちょこと、俺のとなりまで歩いてきて、もう一つ用意された小さな椅子に座った。
鍵盤の前で、両手をぎゅっと握りしめていた。
「あきひこくんね、せりなみたいに、ドの音、おしてみて」
「……どれ?」
「ここ。まんなかの、しろいとこ」
俺は自分の人差し指で、明彦のためにドの位置を指さした。
明彦はおそるおそる自分の右手の人差し指を、その鍵盤の上にのせた。
そして、ちょっとだけ力を入れて、押した。
ぽおん。
ドの音が、ピアノの腹のなかでふくらんで、明彦の方へふわりと戻ってきた。
明彦はちょっと息を止めた。
それから自分の指をじっと見つめた。
「これ……いま、ぼくが?」
「うん。あきひこくんが、ならしたの」
「ぼくが、ぼくが、ピアノをならしたんだ」
明彦はぽつりと繰り返した。
栗色のまつ毛が、ぱちぱちと動いた。
……ああ。
いまこの子の中で、何かが動いた。
俺はそれを、すぐ隣で感じ取った。
「もう一回、おしてみる?」
「うん」
明彦はもう一度、ドの鍵盤を押した。
今度はさっきよりも、ちょっとだけしっかりとした音が出た。
それからためらいがちに、隣のレの鍵盤も押した。
ぽおん、ぽおん。
ふたつの音が、続けて鳴った。
明彦はぱっと顔を上げて、俺の方を見た。
頬がちょっとだけ上気していた。
「せりなおねえちゃん、なった」
「うん、なったね」
「ぼくが、ならしたの?」
「うん、あきひこくんがならしたの」
俺はにっこりと笑った。
明彦はもう一度鍵盤の方に向き直って、こんどは自分からぽつぽつといろんな音を押し始めた。
規則も、メロディも、ない。
四歳児の好奇心が、ひとつずつ白い鍵盤をめくっていく音だった。
俺はその横顔を、じっと見ていた。
自分の中で、ぐっと、何かがこみ上げてきていた。
……ああ、明彦。
お前はこうやって、ちゃんと自分で好きを見つけられる子なんだな。
転生前の俺と違って。
教室からの帰り道。
夕方の住宅街にはところどころガレージで洗車をしている男の人や、玄関先で立ち話をしているおばあちゃんがいた。
四月の終わりの空はまだほんの少し明るかった。
俺は母さんの右手と明彦の左手の間を、ぴょん、ぴょん、と跳ねながら歩いていた。
明彦はその隣で愛奈の手を握っていた。
そしてもう一方の手で、ずっと、空気の中で、ピアノを押すようなしぐさをしていた。
「あきひこくん」
「うん?」
「たのしかった?」
「うん」
明彦はこくりと頷いた。
そして、ちょっとためらってから、もう一度空気の中で、ぽおん、と見えない鍵盤を押した。
「もう、いっかい、やってみたい」
「ピアノ?」
「うん」
明彦の声は消え入りそうだった。
けれど、ちゃんと自分の口で、自分の意思を言葉にしていた。
愛奈はその小さな声をちゃんと聞き取った。
そして明彦の頭を、ふわりと撫でた。
「そう。じゃあお母さん、湯浅先生にお願いしてみるわね」
「……ほんと?」
「ほんと。明彦がやってみたいなら、お母さん応援するわよ」
明彦はまた、こくりと頷いた。
その横顔がちょっとだけ誇らしげに見えた。
俺はその様子を母さんの右手の向こうから、こっそりと覗き込んだ。
よかった。
ちゃんと、明彦の、自分の意思で決めてくれた。
無理に引っ張り込んだわけじゃない。
ただ、見学するという、窓口だけ用意した。
そして明彦はその窓口の向こうで、自分で自分の「好き」を、ちゃんと見つけた。
これでいい。
これが俺がやりたかったことなんだ。
それからしばらくの間、橘家の余暇はずいぶんと忙しくなった。
月曜の夕方は、ピアノ。
水曜の夕方は、体操。
土曜の午前は、スイミング。
そして日曜の午後は、お絵描き教室。
明彦はピアノはすぐに、いっしょに習いに来るようになった。
体操も二週間後には見学に来て、その次の週からジャージを着て青いマットの上に立っていた。
スイミングは最初水をこわがっていたけれど、俺が手を引いて、一緒にプールサイドにしゃがんでいるうちに、ぱしゃりと自分から顔をつけた。
……うん、いいぞ明彦。
ちゃんとひとつずつ、自分の好きと嫌いを見つけている。
それで、いいんだ。
ただ、お絵描きだけは、明彦は最初から見学にも来なかった。
「ぼくは、おえかきはいい」
そう、はっきりと、自分で断った。
俺はその返事を聞いたとき、ちょっとだけ笑った。
……そう、好きじゃないことはちゃんと「いい」と言える子だ。
無理して、全部追いかけてこなくていい。
それができる子の方が、たぶんずっと賢い。
そして明彦がピアノと体操とスイミングを楽しんでいる間も、俺の方は相変わらずぽろぽろと、ぼろを出し続けていた。
ピアノは三週目で、両手の独立した動きができるようになった。
湯浅先生はぱちぱちと瞬きをしながら、何度も首を傾げていた。
体操では三週目で、後転と側転ができるようになった。
宮川コーチは、ストップウォッチを首から外したりつけたりを繰り返していた。
スイミングでは五週目で面かぶりクロールの形が、なんとなくできあがった。
宇野コーチはプールサイドで何度もメモを取っていた。
ただ、お絵描きの先生だけは、わりと平和だった。
白状しよう。
同人活動をしていたと言っても、俺は絵心は転生前からまったくと言っていいほどない。
才能にあふれる四歳児の身体になっても、それは変わらなかったらしい。
「せりなちゃん、ええっと、これはなにかな?」
「えっと、おうちです」
「あらまぁ、上手ねぇ」
そう言ってくれる先生の優しさが、ちょっとだけ申し訳なかった。
俺が描く家は、相変わらず台形に三角を載っけただけの、いわゆる「子供の家」だった。
身体能力には突き抜けた性能がついていても、絵心と画力は内面枠で制限がかかっているらしい。
……ふぅん。
でもこれはこれで面白いかもしれないな。
俺は内心でちょっと納得した。
俺の中身はおじさん……いや、まだそう言いたくはない、お兄さんだ。
でも四歳児の手のひらで絵を描かせることは身体ができても、中身のお兄さんが知らない。
だから絵だけは、平均的な四歳児の絵にしかならない。
ということは、ピアノも体操もスイミングも。
「おじさんが上手にやっている」のではない。
ただ、四歳児の身体が勝手にその性能を、出しているだけ。
俺は改めて、その事実を噛みしめた。
五月の終わりの、ある日曜日の夕方。
橘家のリビングで、父さんと母さんと、愛奈の三人が、お茶を囲んで話していた。
俺と明彦は、リビングの隅っこの低いテーブルで、お絵描きをしていた。
明彦は画用紙の上に、ピアノの形を一生懸命描いている。
「最近の瀬理奈ちゃん、すごいわねぇ」
愛奈の声が、低いテーブルの方まで聞こえてきた。
俺はクレヨンを握ったまま、ちょっとだけ耳をそばだてた。
この身体仕様の聴覚は、相変わらず健在らしい。
「いやぁ。本当にこっちがびっくりしてるよ」
父さんが苦笑混じりに答えた。
「先週は体操の宮川コーチから、ちょっと相談があってね」
「相談ですか?」
「うん。瀬理奈の体操の進度が想定していたよりもずっと早いから、よかったらもう一つ上のクラスに移してもいいですかって」
「あらまぁ」
愛奈が、ふふ、と笑った。
「うちの明彦は、ようやく前まわりの形が見えてきたところ」
「明彦くんはね、ちゃんとひとつずつ丁寧に覚えてるって、コーチが言ってたわよ」
母さんが優しい声で言った。
明彦の手がちょっとだけ止まった。
画用紙の上のピアノの絵のグランドピアノの蓋が、まだ開いていなかった。
おっと、聞いてるな、明彦。
ちらりと明彦の横顔を見た。
「あきひこくん、あきひこくんはあきひこくんで、すごいよ」
できるだけ、ふつうの四歳児の声で、そう言った。
明彦はちょっと、はっとして、こちらを見た。
「せりなおねえちゃん?」
「あきひこくんね、すいえいで、こないだおかおを、ちゃんとおみずに、つけれたよね」
「……うん」
「まえにあきひこくんが、おみずがこわいっていってたから、せりな、ほんとうにすごいなって、おもったの」
にっこりと、明彦に笑いかけた。
明彦はぱちぱちと瞬きをして、それからちょっとだけ頬を赤くした。
「……えへへ」
「うん。せりな、あきひこくんが、できることがふえてくの、うれしい」
「ぼくも、せりなおねえちゃんが、できるのふえてくの、うれしい」
明彦はぽつりと、そう言った。
その声には、嫉妬とか、競争心とか、そういうものは混じっていなかった。
ただ純粋に、自分の姉のように慕う相手の成長を、一緒に喜んでいる声だった。
ああ。
こいつ、ほんとうにいい子だ。
俺は、ぐっ、と、胸の奥が熱くなった。
母さんの言うとおりだった。
明彦は自分と俺を比べたりしない。
自分は、自分。
俺は、俺。
そういうまっすぐな線引きが、四歳児のなかに、もうちゃんとできあがっている。
これは、たぶん愛奈の育て方がいいんだろうな。
明彦を育ててきたその時間が、こうやってちゃんと結実している。
リビングの大人たちは、その俺と明彦の小さな会話を聞いて、しばらく誰も何も言わなかった。
ただ母さんが、湯呑みを置く音だけがした。
その音のあとに、誰かが小さく息を吐いた気配がした。
「……愛奈さん」
「はい?」
「明彦くん、ほんとうにいい子に育ってますね」
母さんの声には、ちょっとだけ震えが混じっていた。
俺は振り返って、リビングの方を見た。
母さんは湯呑みを両手で包むように持ったまま、目を伏せていた。
「ありがとうございます」
愛奈も、ちょっとだけ声を潤ませて答えた。
「瀬理奈ちゃんも。ほんとうにいい子。明彦が瀬理奈ちゃんと出会えてよかった」
「いやぁ、こちらこそ」
父さんが、湯呑みのなかのお茶をひとくちすすった。
「明彦くんがいてくれるおかげで、瀬理奈もちゃんといろんなことを楽しめてるんですよ」
父さんの声は、湯呑みの蒸気の向こうでちょっと揺れていた。
それからちょっとだけ間を置いて、こう続けた。
「正直、瀬理奈の運動神経のこととか、ピアノのこととか。最初は親バカ全開で、もう嬉しくて嬉しくて舞い上がっていたんですが」
「ふふふ、わかりますわ」
「ただ、最近ちょっと思うんですよ。瀬理奈はたぶんちょっと、いやかなりふつうじゃない」
リビングのなかで、その「ふつうじゃない」という言葉だけが宙に浮いた。
俺は、明彦の絵から目を離さなかった。
ただ耳だけがその先の言葉を待っていた。
「お父さん」
「うん」
「私も最近、同じこと考えてたの」
母さんの声は湯呑みの蒸気の向こうでぽつり、と落ちた。
「先生方が口を揃えておっしゃるの。瀬理奈ちゃんは、筋がいいって」
「うん」
「でもそれって、たぶん……いえ、ちょっとちがう」
「ちがう?」
「うん。筋がいいっていうのは、何度も練習を重ねた人が上達がはやい、っていう意味なのよ。瀬理奈はそうじゃない」
「……」
「瀬理奈はね、はじめてなのに、もうできちゃうの」
母さんの言葉は、ゆっくりとひとつずつ、テーブルの上に置かれていった。
父さんは、湯呑みを両手で包み込んだまま、何度か頷いた。
愛奈もその横で、湯呑みを口元まで運ぼうとして、途中で止めた。
「……お父さん、瀬理奈はこれからどうなるのかしらね?」
母さんの声は、ほんの少しだけ震えていた。
喜びの震えと、それから、たぶん、ちょっとだけ怖さの震え。
二つがぎりぎりのところで、混ざりあった声だった。
俺はクレヨンを握る手に、ぐっと力を入れた。
明彦はそんな俺の手の様子にまったく気づかず、画用紙の上にようやくピアノの蓋を開けていた。
そして、その蓋の中にちっちゃな、ちっちゃな鍵盤を一本ずつていねいに描き始めた。
俺は、これからどうなるんだろうな。
その問いの答えは、四歳児の俺にはまだなかった。
ただ、ひとつだけわかっていることがあった。
俺の身体は、たぶん思っていた以上に、ずっと特別な性能を持っている。
そして、それは隠そうと思っても、もう隠しきれるレベルじゃない。
じゃあ、これはもう認めるしかない。
俺は明彦のピアノの絵の隣に、自分のクレヨンでひとつ星を描いた。
丸を五つ、ちょこちょことつなげた、不格好な星。
「せりなおねえちゃん、ほし?」
「うん、ほし。あきひこくんのピアノのうえに、ほし、おいてあげる」
「ありがと」
明彦は、にっこりと笑った。
俺も、にっこりと笑い返した。
リビングのなかでは、大人たちがまだ小さな声で、何かを話し続けていた。
彼らの会話のいちばん深いところで、母さんがつぶやくのが聞こえた。
「……でも、ね、お父さん」
「うん?」
「瀬理奈は、瀬理奈よ」
「うん。瀬理奈は、瀬理奈だ」
その最後の一行に、俺はちょっとだけ目を伏せた。
うん、と、心のなかで頷いた。
そう。
俺は、橘瀬理奈、だ。
二〇一二年の、五月。
銀髪碧眼の女の子の身体になって、四歳の春がもうすぐ終わろうとしていた。
そしてその春、橘瀬理奈という女の子の本当の素質が、こうやって少しずつ露わになり始めていた。