銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
二〇一二年、十二月。
幼稚園に入って八ヶ月、冬がやってきた。
世田谷の住宅街は、朝になるとどこの家の屋根にもうっすらと霜が下りていた。
四歳児のふくふくとした頬は、外に出るたび、すぐにりんごみたいに赤く染まった。
俺は母さんに編んでもらった真っ白いマフラーを首にぐるぐる巻きにしてもらいながら、ぺたぺたと玄関で長靴を履く朝を、もう何度も繰り返していた。
ピアノは、夏のはじめには、両手の独立した動きの基礎が一通りできあがっていた。
湯浅先生はそのたびに、首をきょとんと傾げていた。
そして秋ごろから、簡単な童謡の楽譜を一度見ただけで弾けるようになっていた。
「瀬理奈ちゃんね、これはちょっと、もうなんといいますか」
湯浅先生の語彙はだんだんと尽きていって、最後の方は、ふふふ、と笑うだけになっていた。
それでも先生はずっと優しく、俺の指のかたちを矯正してくれた。
四歳児の小さな手のひらは、まだ一オクターブをちゃんとは押さえられない。
それでも湯浅先生は楽譜を、少しずつ大人用のものに替えてくれた。
「瀬理奈ちゃん、この『ちょうちょ』は、もうおうちで遊んじゃっていいわよ」
「あそんでいいの?」
「うん。気持ちのいいように、好きに弾いちゃっていいの。それが瀬理奈ちゃんの音だから」
湯浅先生はにっこりとそう言ってくれた。
俺はそれが嬉しくて、家に帰ってからもしばらく「ちょうちょ」のメロディーを口の中で繰り返していた。
そして橘家のリビングには、十月の終わりにアップライトピアノが一台入った。
「瀬理奈、これからはおうちでも練習できるね」
父さんはそう言いながら、ピアノの蓋を一度開けてまた閉じた。
リビングの隅の壁際に艶のある黒い箱がどんと鎮座しているのは、なんとも奇妙な眺めだった。
半年前まで、この家にはテレビと、母さんの鼻歌くらいしか音を出すものはなかったのだから。
「ありがと、ぱぱ」
「うん。ちゃんと毎日、少しずつ弾くんだよ」
「うん」
俺はぺこりと頭を下げた。
内心で、これはもう、いよいよ隠しきれないラインだぞ、と思った。
家に楽器がある四歳児というのは、もはや「ふつう」ではなかった。
でも父さんと母さんは、もうとっくに「ふつう」を捨てていた。
そのことに、最近の俺はようやく気づき始めていた。
十二月の最初の土曜日。
その日の午後、リビングは陽射しでぽかぽかと暖かかった。
南向きの掃き出し窓から、冬の低い光が床まで届いていた。
俺はピアノの前に座って湯浅先生の宿題の楽譜を、ぱたんと譜面台に立てた。
『ジングルベル』だった。
幼稚園で二週間後に、ちょっとした発表会がある。
そこで歌う曲だ。
俺はその伴奏を、自分でやってみたかったのだ。
クリスマス会の歌の伴奏。
ふつうなら先生がピアノを弾いて、園児たちは歌うだけだ。
でも湯浅先生に楽譜を見せて相談したら、
「あら、瀬理奈ちゃんなら、ぜんぶ弾けちゃうわよ」
と笑顔で言われた。
それでなんとなく自分でもできそうな気がしてしまったのだから、まあ仕方ない。
俺はゆっくりと鍵盤に両手を置いた。
右手で主旋律、左手で簡単な和音の伴奏。
最初は楽譜どおりに、ぽつぽつと弾き始めた。
ジングルベル ジングルベル すずがなる。
口の中でメロディーをなぞるように、小さく歌詞を口ずさんでみた。
ピアノの音と自分の声が重なって、リビングの天井のあたりで混ざった。
俺の耳はその重なりかたを、こまかな振動の単位まで勝手に聞き取ってしまう。
ああ、これは、気持ちがいいな。
知らぬ間に口元がほころんでいた。
右手の指が楽譜の音符を半拍だけ先取りして、勝手に転がるように動き始めた。
左手の伴奏も、それに合わせてちょっとだけ装飾を足した。
ジングルベル ジングルベル すずがなる。
今日は楽しい クリスマス。
本来の楽譜から、半分くらい外れていた。
でもそれは外したのではなく、ピアノの音と自分の声がいちばん気持ちよく重なるところを、勝手に身体が探した結果だった。
俺はそれが楽しくて最後の小節をちょっとだけ伸ばして、ふわりと終わらせた。
ぽーん、と最後の音がリビングの隅に溶けて消える。
そこで俺は、はたと気づいた。
リビングの入口に母さんが立っていた。
両手で何かを、口元のあたりに構えていた。
よく見ると、それは父さんのスマートフォンだった。
「……まま?」
「あっ」
母さんははっとした顔で、スマートフォンを下ろした。
画面の上の小さな赤い丸が、まだ点滅していた。
録画中の合図だ。
「ごめんね、瀬理奈。あんまりかわいくて、撮っちゃった」
母さんはちょっと照れたように笑った。
そしてその場でスマートフォンの画面をぽちぽちと操作すると、録画を止めた。
俺はピアノの前から、ちょっと首を傾げて母さんを見た。
「ぜんぶとった?」
「うん、ぜんぶ撮っちゃった」
「もう、ままぁ」
俺はちょっと頬を膨らませてみせた。
これは半分本気で、半分は四歳児としてのお作法だった。
こういうときはちょっと拗ねてみせる方が、母さんは喜ぶのを知っていた。
「ふふふ、ごめんごめん。お父さんに見せてあげようと思って」
「ぱぱに?」
「うん。お父さんはお仕事中だから、瀬理奈の演奏を生では聴けないでしょう」
「うん」
「だからこうやって撮って、あとで見せてあげるのよ」
母さんはちょっと得意げに、スマートフォンを胸の前で抱えた。
これは父さんから「家にいる時間は瀬理奈の成長を残しておいて」と頼まれた、母さん専用の任務でもあるらしい。
最近の母さんのカメラロールは、俺の動画と写真でいっぱいになっていた。
うん。
まあ、家族の中で見るぶんには、いいか。
俺は内心でちょっとだけ恥ずかしくなりながらも、ピアノから降りた。
そう、家族の中で見るぶんには、ちゃんとよかったんだよな。
その翌週、土曜日の昼下がり。
橘家の玄関のチャイムが、ぴんぽーんと鳴った。
リビングで俺と母さんとお茶を飲んでいた父さんが、ぱっと顔を上げる。
そして玄関に向かって、いそいそと立っていった。
「おかあさん、いらっしゃい」
「あら、秀樹、迎えにこなくてもいいわよ」
玄関先から、ちょっと高めのよく通る女の人の声がした。
俺はその声を、この身体になって、ちゃんとは初めて聞いた。
その声色の中に、父さんとよく似た響きが混ざっているのを、俺の耳は瞬時に拾った。
おばあちゃんだ。
正確には、橘隆志――そう、転生前の――俺のおばあちゃん、ということになる。
父さんの母親で、つまり、いまの俺の祖母でもある。
俺はお茶のコップを両手で抱えたまま、ちょっとだけ息をのんだ。
転生前の俺がまだ十代だった頃に、おばあちゃんは一人で関西の方に引っ越していた。
おじいちゃんはもうずいぶん前に亡くなっていて、それからおばあちゃんは大阪の妹さんの家の近くで暮らしている。
「ただいま」
「母さんお疲れさま。荷物そっちで持つよ」
「あらやだ、いいのよぉ。自分で持てるわよ」
玄関の方で父さんとおばあちゃんの、いつもどおりのやりとりが続いていた。
俺はピアノの前に置いてある自分の小さな椅子の縁を、ぎゅっと握った。
緊張、というのとは違う。
ただ、なんというか――懐かしい。
転生前の俺はおばあちゃんに、定期的に会っていた。
夏休みになったら大阪まで一人で電車に乗って遊びに行ったりもしたし、おじいちゃんのお葬式のときには手を握ってもらった記憶もある。
社会人になってからは足が遠のいていたが、それでも年に一度くらい、お盆の時くらいは顔を出していた。
最後に会ったのは、たしか転生する半年前。
お盆休みに父さんたちと一緒に帰省したとき、縁側で一緒にスイカを切ってもらった。
それはもう、五年前のことになる。
自分が引き取られてからの一年弱の間、おばあちゃんはずっと大阪にいて、こちらに出てくるタイミングがなかったらしい。
施設にいた頃の俺の写真は、何度か送ったと父さんから聞いていた。
だから「橘瀬理奈」というこの女の子のことは、おばあちゃんもおおよそは知っているはずだった。
ただ、俺の方は――この五年と少しの間、おばあちゃんに会えていなかった。
そのおばあちゃんが、いま玄関にいる。
俺は、ピアノの椅子から降りて、ぺたぺたとリビングを抜けた。
母さんがエプロンで手を拭きながら、俺の後ろからついてきた。
「お母さん、お久しぶりです」
「まあ千鶴さん、こちらこそ。お邪魔するわねぇ」
母さんがちょっと畏まった声で、頭を下げた。
おばあちゃんも、ぺこりと頭を下げ返した。
それからしゃがんで、俺の方に視線を合わせた。
「あらまぁ……」
おばあちゃんの声が、最初のひと言で止まった。
俺はぺこりと、できるだけ礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして、たちばなせりな、よんさいです」
「……まぁ、まぁ、まぁ、まぁ」
おばあちゃんは、しゃがんだ姿勢のまま、四回、おなじ言葉を繰り返した。
皺のよった指で、口元をふっと押さえた。
そしてその指の隙間から、ほろりと、ひとつぶ涙がこぼれた。
「お母さん」
「ごめんねぇ、秀樹。だってこの子、ねぇ」
「うん」
「写真で見たより、ずっと、ね」
おばあちゃんは、それ以上は言葉にできなかった。
ただしゃがんだ姿勢のまま、俺の頭をふんわりと両手で挟むようにして撫でた。
ひんやりとした手の甲に、年輪のような薄い皺が刻まれていた。
その手の感触を俺はちゃんと覚えていた。
五年前に大阪の縁側でスイカを差し出してくれた、あの手だ。
俺はそれを思い出した瞬間、ぎゅっと喉の奥が詰まった。
ばあちゃん。
おばあちゃん、俺だよ。
そう言いたい衝動を、俺はぐっと飲み込んだ。
四歳児の身体の中、おっさんがひとり唇を噛んでいる。
そんなことは、当然口には出さなかった――出せるわけがなかった。
「おばあちゃん、なんでないてるの?」
代わりに、俺は四歳児の声でそう尋ねた。
おばあちゃんは、ふふっと笑って、また涙を拭いた。
「ううん、嬉しくてね。瀬理奈ちゃんに、ようやく会えてね」
「うれしくて、なくの?」
「うん、おばあちゃんくらいの歳になるとね、嬉しいことでも涙が出るのよ」
そう言いながら、おばあちゃんはよっこらしょと立ち上がった。
父さんが横から、おばあちゃんの背中をそっと支えていた。
リビングに上がってもらって、母さんはお茶を入れに台所へ向かった。
「ねえ、秀樹?」
「うん?」
「お茶を出してもらう前にね、瀬理奈ちゃんのこと、もうちょっと見ていてもいいかしらね」
「あぁ、もちろん」
おばあちゃんはソファに腰を下ろすと、俺をその隣にちょこんと座らせた。
四歳児の身体は、おばあちゃんの隣にすっぽりと収まった。
古い化粧水と、ほんの少しのお線香のにおいがした。
「瀬理奈ちゃんはね、ピアノが上手なんだってねぇ」
「うん、すこしだけ」
「あらまぁ、謙遜まで上手なのねぇ」
おばあちゃんは、また、ふふ、と笑った。
そしてエプロンのポケットから、もそもそとスマートフォンを取り出した。
最近の大阪のおばあちゃんは、妹さんに勧められて、半年前にとうとうガラケーから乗り換えたらしい。
「これがね、いまだに難しくてねぇ」
「すまほ?」
「うん、すまほよ。秀樹がね、瀬理奈ちゃんの動画を送ってくれるんだけどね、これで見ようとするとね、なかなかうまくいかなくてね」
おばあちゃんは、スマートフォンの画面を、指でぽちぽちと、覚束なく押した。
画面が明るくなったり、暗くなったり、関係のないアプリが立ち上がったり、また閉じたりした。
これは……うん、転生前のうちの実家でも、よく見た光景だった。
「ぱぱ、おばあちゃんのおてつだいする?」
「ああ、ちょっと見てあげようか」
父さんがおばあちゃんの隣に座って、スマートフォンを覗き込んだ。
画面の中には、ずらりと父さんから送られたメッセージのリストが並んでいた。
そしてその一番上に、つい一週間前の動画ファイルがちょこんと貼りついていた。
『せりな ジングルベル 弾いてみた』
母さんがそうタイトルをつけた、あの動画だった。
父さんは、それをぽんとタップして、おばあちゃんに見せた。
リビングで小さな画面の中の銀色の頭が、ピアノの鍵盤の上でふわふわと揺れた。
ジングルベル ジングルベル すずがなる。
今日は楽しい クリスマス。
スマートフォンの内蔵スピーカーから、俺自身の声とピアノの音がこぼれて出てきた。
四歳児の自分の歌声を第三者として外側から聴くのは、なんとも気色悪いものがあった。
俺はちょっと頬を膨らませて、目を逸らした。
「あらまぁ」
「うん、可愛いだろう? お母さん」
「可愛いも可愛いも、なんなの、これは、ねぇ」
おばあちゃんは、まじまじと画面を覗き込んだ。
そしてもう一度最初から再生し直した。
ピアノの音と四歳児の歌声が、リビングのソファの上で二度繰り返された。
「これはねぇ。もう、ご近所にもね、ちょっとお話したくなるねぇ」
「ふふふ、お母さん、すっかり親バカならぬ祖母バカだな」
「いいじゃないのねぇ、こんなに可愛い孫ができたんだものねぇ」
おばあちゃんは、画面の中の俺と、隣の本物の俺を、何度も交互に見比べていた。
そして、またふっと、涙ぐんだ。
本物の俺の方が、頬をぷにぷに、と、おばあちゃんの指でつままれた。
「ぱぱ、おばあちゃん、まためがうるんでる」
「おばあちゃん、瀬理奈に会うのが、ずっと楽しみだったらしいから」
「ふぅん」
俺はちょっと目を伏せた。
おばあちゃんの指は、転生前の俺が覚えているとおりにあったかかった。
頬の柔らかいところをつまむ、というより確かめるように、そっと押された。
「愛奈さん達も夕方には来るから、今日の夕飯は豪華になるぞ」
「わぁい」
「あらあら、嬉しいわねぇ」
それから二日が経った。
月曜の夕方、ピアノ教室から帰ってきた俺と母さんが、玄関のドアを開けた。
リビングの方から父さんの声がした。
ふだんはこの時間、父さんはまだ会社にいるはずだった。
「ぱぱ、はやい?」
「ああ、ちょっとね。瀬理奈、おかえり」
父さんはネクタイを少しゆるめて、リビングのソファに座っていた。
テーブルの上にはノートパソコンが、ぱかりと、開いていた。
画面の中にいくつもの小さな窓が並んでいるのが、玄関からでも俺の目にはしっかり見えた。
「おかえりなさい、お父さん。お仕事は?」
「うん、ちょっと早く上がらせてもらった」
父さんはそう言いながら、母さんの方をちらりと見た。
母さんはコートを脱ぎながら、ちょっと首を傾げた。
俺は靴を脱いで、ぺたぺたとリビングに入った。
「お母さん、座って」
「はい」
「瀬理奈もちょっとぱぱのとなり、おいで」
父さんは自分の隣のソファの座面を、ぽんと軽く叩いた。
俺はその上に、ちょこんとよじ登った。
父さんの腕がふわりと俺の肩を抱き寄せた。
「あのな、おばあちゃんにこないだ送った動画、覚えてるか?」
「うん」
「おばあちゃん、あれを間違って公開したらしくて、ちょっと広がってる」
父さんはノートパソコンの画面を、こちらに見えるように回した。
画面の中には、見慣れない英語のSNSのページが開いていた。
中央には、あの『せりな ジングルベル 弾いてみた』の動画のサムネイルが貼られていた。
その下にずらりと、数字が並んでいた。
再生回数だ。
それが――
「……二百万、回?」
「うん」
「ふた、ひゃく、まん、かい」
母さんが、ひとつずつ、ちぎるように繰り返した。
二百万という数字の大きさは、なんとなくわかった。
「お父さん」
「うん」
「これ、どういうこと?」
「うーん。簡単に言うと瀬理奈の動画を、いろんな人がシェアしてくれてる」
「シェア?」
「うん。お友達に見てごらん見てごらん、って教え合ってる」
父さんは母さんに、できるだけ平易にそう説明した。
俺は画面の中の自分の銀色の頭が、ピアノの上で揺れているのをもう一度見た。
そしてその下の、コメント欄をちらりと覗いた。
英語、日本語、たぶんフランス語、それから読めない文字。
いくつもの言葉が、ずらりと画面の下に流れていた。
俺の目は勝手に、そのうちのいくつかを拾ってしまった。
『Who is this silver-haired angel???』
『信じられない、この子、四歳だって。』
『銀の天使。』
『The Silver Angel』
『この子の演奏、なんで五歳前なの。』
俺は、ぱちぱち、と瞬きをした。
そしてちょっとだけ、ソファの上で固まった。
銀の天使、というワードが何度も何度も流れていた。
「お父さん、これ、ぎん、の、てんし、って」
「うん。瀬理奈の、ニックネームになっちゃってるみたいだ」
「……」
「銀色の髪と、青い目と、四歳児で、ピアノが流麗に弾けて、歌も歌える」
「うわぁ」
「ぴったりなんだろうな、その呼び方が」
父さんは、ふっと苦笑した。
俺はそれを聞いて、ちょっと頭を抱えたい気分になった。
銀の天使、ってお前。
おっさんがそんな名前で呼ばれていいわけがないだろ。
外面はともかく中身はおっさんだぞ、四歳児の女の子じゃないんだぞ。
転生前は組み込み基板の仕様書を握り締めて夜中の十一時に会社を出ていた、いち会社員なんだぞ。
しかし、現実はもう止まらなかった。
「これね、お父さんもちょっと困ってるんだけど」
「うん」
「会社にも、これ、回ってきていてね」
「かいしゃに?」
「うん。今日の昼休みに、人事部の女の子からメールが来てね」
父さんは画面を別のタブに切り替えた。
そこには、父さんへのメールの画面が、開かれていた。
件名のところには、こう書いてあった。
『橘部長、これってお嬢さんですよね?!』
「……」
「うん」
「父さんもね、これ見てびっくりしたんだけど」
「うん」
「社内のチャットツールでも、ちょっと話題になってるみたいだ」
父さんは、できるだけ淡々とそう続けた。
でもその声色の奥には、ちょっとだけ困った響きが混ざっていた。
俺はそれを聞き取った。
そして、まずいぞと思った。
これはたぶん、もう家族の中だけの話じゃなくなっている。
そのまずさがはっきりと形になったのは、その日の夜の九時を過ぎた頃だった。
リビングの電話が鳴った。
父さんがソファから立ち上がって受話器を取った。
俺はもう、子供部屋に上がる支度をしているところだった。
「もしもし、橘です」
父さんの声が、いつもよりもほんの少しだけ固かった。
階段の途中で足を止めた。
俺の聴覚は、リビングの会話をはっきりと拾った。
「はい、はい。ええ、確かにうちの娘です」
「……はい」
「いや。それはちょっと、こちらとしましては」
「あぁ、専務から、ですか……」
父さんの声にぐっと緊張感が増した。
俺は階段の手すりに両手をかけて、ちょっと目を伏せた。
専務。
つまり、父さんの会社の、いちばん上のひとつ手前の偉い人だ。
「いえ、いえ。専務にそう言っていただけるのは、ありがたいんですけれども」
「はい。あぁ、はい」
「……はい、家内とも、相談、いたします」
「ええ、ええ。明日の朝、必ずお返事を、いたしますので」
父さんは最後にぺこりと、電話の向こうに頭を下げた。
電話の向こうにはその姿は見えていないはずだった。
それでも父さんの背中は、自然にそう動いた。
電話を切ったあと父さんは、しばらくリビングのソファに無言で座っていた。
そして、母さんを呼んだ。
俺は少し息を吐いて、階段の途中からぺたぺたとリビングに降りていった。
「ぱぱ、なに?」
「あ、瀬理奈、まだ起きてたのかい?」
「うん」
俺はソファの父さんの隣に、ちょこんと座った。
母さんも台所の方から、エプロンで手を拭きながらやってきた。
父さんはちょっと息を吐いてから、こう切り出した。
「あのね、瀬理奈、佳代子」
「うん?」
「テレビ局から瀬理奈に出演してほしい、ってお話が来た」
「あら、まぁ」
「……てれび」
四歳児の声で、ぽつり、と繰り返した。
マジか。
テレビ。
よりにもよって、テレビと来たか。
「電話してきたのはね、テレビ局のディレクターさんで」
「うん」
「その人がうちの会社の専務の、ご親戚らしいんだ」
「あらまぁ」
「うちの会社、来年その局の番組に、CMをけっこう出す予定でね」
父さんは、なるべく感情をこめずに、状況だけを説明した。
それを聞きながら、なるほどな、と思った。
これは断りにくい筋から、声がかかってきた、ということだ。
「お父さん」
「うん」
「断れない、お話、なの?」
「うん。専務から直接頼まれちゃった、というのがいちばん大きいかな」
父さんは、ふっと笑った。
それはちょっと力の抜けた、苦笑だった。
その笑いかたが、なんだか転生前の俺自身に、ちょっとだけ似ている、と俺は思った。
仕事の筋から頼まれた話を、断れない。
これは社会人をやってきた者なら、誰でもわかる種類の断れなさだった。
「ぱぱ。せりな、でていいよ」
「瀬理奈?」
「うん。せりな、ぱぱのおしごと、こまらせたくない」
できるだけ四歳児らしく、にっこりと笑ってみせた。
父さんと母さんは、ふたりとも、ちょっと、目を、見開いた。
そして、お互いを、見合わせた。
「瀬理奈、無理してない?」
「うん。むりしてない。せりな、テレビ、ちょっとたのしそう」
俺は、もう一度笑った。
本当は、たのしそうなんかじゃなかった。
むしろめんどくさいの極みだった。
しかしここで断ってしまって、父さんが社内で立場を悪くするのはもっと嫌だ。
俺のわがままなんかで父さんがちょっと困った顔をするのを見るのは、ずっと嫌だった。
それは転生してもう変わらない、俺のけっこう根っこにある感情だった。
「……瀬理奈は、優しいなぁ」
「あなた」
「うん」
「お受けしましょう。ね」
母さんがはっきりと言った。
父さんは、息を吐いて頷いた。
そして俺の頭を、ぽん、と撫でた。
「ありがとう、瀬理奈」
「うん」
「無理だなと思ったら、いつでもぱぱに言うんだよ」
「うん、わかった」
俺はこくりと頷いた。
それから、父さんにもう一度ぎゅっと抱きついた。
父さんの胸の中は、いつもどおりにあったかかった。
「ぱぱ」
「うん?」
「これね、せりなのせいじゃ、ないからね」
「うん。わかってる」
「おばあちゃんのせいでも、ないからね」
「ああ。うん、そうだな。おばあちゃんに大丈夫だって、お手紙書かないとな」
父さんは笑った。
俺の銀色の頭の上で、もう一度その手のひらが、ふわり、と動いた。
クリスマスまであと一週間だった。