銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
第二章 第一話 氷の上
二月の土曜日は、朝から鉛色の空だった。
愛奈の運転する車の後部座席で、俺は窓の外を流れる景色をぼんやり眺めていた。
チャイルドシートのベルトが、四歳児の薄い肩には少しきつい。
助手席の愛奈さんの膝には、明彦のための水筒を入れた小さなバッグがあった。
「佳代子さん、この道で合ってます?」
「ええ、もうすぐよ。永田さんから地図もいただいてるから」
「ふふふ。スケート場なんて、わたし学生のとき以来かも」
「あら、愛奈さん滑れるの?」
「まさか、手すりにしがみついてただけですよ」
母さんと愛奈が、前の席でくすくすと笑い合っている。
ふたりの声はずいぶんと砕けたものになっていた。
瀬理奈として出会った頃の張りつめた空気を思えば、これは小さな奇跡みたいなものだと俺は思う。
そんな俺の隣では、明彦がぎゅっと自分の膝を抱えていた。
「あきひこくん、どうしたの?」
「……せりなおねえちゃん。こおりって、つめたい?」
「うん、つめたいよ。さわったら、ひゃっ、てなるくらい」
「ひゃっ、て……」
「でもね、すべるのはたのしいんだって。ながたさんがいってた」
「ころんだら、いたい?」
明彦の声は、心配でちょっとだけ尻すぼみになっていた。
俺はその丸い頭に、ぽんと手を置いてやる。
心配性なところは誰に似たんだろうな、なんて内心で笑ってしまった。
「だいじょうぶ。せりながいるから」
「ほんと?」
「ほんと。あきひこくんは、みててくれるだけでいいよ」
「……うん。ぼく、ちゃんとみてる」
明彦は小さく頷いて、ようやく膝を抱えるのをやめた。
こういう顔をするとき、この子はほんの少しだけ俺に似ている気がする。
もっとも、それを口に出して言える日は、たぶん永遠に来ないのだけれど。
やがて車は、川沿いの古びた施設の駐車場に滑り込んだ。
「区民スケートクラブ」と書かれた色あせた看板が、入り口の脇に立っている。
建物の中に一歩入った瞬間、ひやりとした空気が頬を撫でていった。
その冷たさには、削られた氷の匂いと、ほんの少しの古い鉄骨の匂いが混じっていた。
「あ、橘さん! お待ちしておりました!」
入り口で待っていた永田さんが、ぱっと顔を上げてこちらへ駆け寄ってきた。
あの日、玄関先で見たのと同じ紺色のダウン姿だった。
ただ今日はその下に、薄手のジャージを着込んでいる。
「わざわざありがとうございます。寒かったでしょう」
「いえ。あの、こちらお友達の親子で、明彦くんと、愛奈さんと申します」
「橘明彦の母です。今日はお邪魔します」
「とんでもない! 見学だけでも大歓迎ですので、どうぞどうぞ」
永田さんは、少し慌てた様子で何度も頭を下げた。
それからしゃがんで、俺と目線を合わせてくれた。
近くで見ると、目尻に細かい笑い皺のある、優しそうな顔をしている。
「瀬理奈ちゃん、来てくれてありがとうね」
「こんにちは、ながたさん」
「ちゃんと名前、覚えててくれたんだ」
「うん。げんかんにきた、ながたさん」
「うわ、嬉しいなぁ。コーチ、それだけで今日いい日だ」
永田さんは、へへ、と照れたように笑った。
そして俺たちを、リンクの見える通路へと案内してくれた。
通路を曲がった先で、いきなり視界がひらけた。
白い。
リンクは思っていたよりずっと広くて、そして、ただ真っ白だった。
天井の高いところに並んだ照明が、その白い面を冷たく照らしている。
そこでは、十人ほどの子供たちが滑っていた。
シャッ、シャッ、と、ブレードが氷を削る音がする。
俺の耳は、その音のひとつひとつを勝手に拾い上げてしまう。
転ぶ子の鈍い音も、上手な子の長く伸びるエッジの音も、全部、別々に聞こえる。
「すごい……」
リンクサイドの手すりには、何人かの保護者が立って我が子を見守っていた。
そのうちのひとり、ふくよかなお母さんが、ふと俺の方を二度見した。
そして隣のお母さんの袖を、つんつんと引っぱっている。
「ねえ、ちょっと……あの子」
「え、どの子……あら」
「銀色の髪の。ね、もしかして」
「うそ。テレビの……銀の天使ちゃん?」
ひそひそ声のつもりなんだろうけど、俺の耳には全部届いてしまう。
銀の天使という単語に、俺はちょっとだけ首をすくめた。
こればっかりは何度言われても慣れそうにない。
すると、休憩していた女の子が、ととっと駆け寄ってきた。
俺と同じくらいの背格好でピンク色の手袋をしている。
頬がりんごみたいに赤くて、息がちょっと弾んでいた。
「ねえねえ、テレビのひと?」
「えっと……なんの?」
「ジングルベルの! ピアノの! わたし見たもん!」
「……うん。たぶん、それ、せりな」
「やっぱりー! ママ、すごい! ほんものだよ!!」
女の子は後ろのお母さんを振り返って、ぴょんと跳ねた。
そのお母さんが、苦笑しながらこちらへ会釈をしてくる。
俺はなんと言っていいか分からなくて、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいね、うちの子、興奮しちゃって」
「ううん、だいじょうぶです」
「ほら、ひかり。いきなり話しかけたら、お友達びっくりしちゃうでしょ」
「だって、てんしさんだもん!」
ひかり、と呼ばれた女の子が、きらきらした目で俺を見上げてくる。
天使さんと真正面から言われると、さすがに俺としてはこそばゆいどころの話ではない。
俺は耳のあたりが熱くなるのを感じて、思わず明彦の後ろに半分隠れた。
「……せりな、てんしじゃないよ」
「えー、でも髪の毛、銀色だよ? お目めも、青いよ?」
「これは、うまれつき」
「うまれつきで銀色なの? すごーい!」
何を言っても、ひかりちゃんの中では「すごい」に変換されてしまうらしい。
助けを求めて母さんを見ると、母さんは口元を押さえて笑いをこらえていた。
愛奈にいたっては、もう完全に肩を震わせている。
「……せりなおねえちゃんは、てんしじゃなくて、せりなおねえちゃんだよ」
ずっと黙っていた明彦が、ぼそりとそう言った。
ひかりちゃんが、きょとんとして明彦を見る。
「きみ、だぁれ?」
「あきひこ」
「あきひこくんは、てんしさんのおともだち?」
「……ちがう。ぼくは、せりなおねえちゃんの、おとうとみたいなの」
明彦は俺の袖をぎゅっと握ったまま、ちょっとだけ唇をとがらせていた。
おとうとみたいなの、というのは、たぶん明彦なりの精一杯の主張だった。
俺は思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「ふーん。なかよしなんだ」
「……うん、なかよし」
明彦はぷいっと顔をそらしながらも、しっかりそう答えた。
なお、その耳がほんのり赤くなっているのを、俺の目は見逃さなかった。
「はいはい。みんな、瀬理奈ちゃんを質問攻めにしない」
永田さんが、ぱんぱんと手を叩いて割って入ってくれた。
ひかりちゃんは「はーい」と素直に返事をして、ぴょんと跳ねてリンクへ戻っていく。
保護者のお母さんたちも、笑いながらそれぞれの場所に戻っていった。
「ごめんね、瀬理奈ちゃん。みんな、悪気はないんだ」
「ううん。びっくりしたけど、だいじょうぶ」
「テレビ出たんだもんね。立派な有名人だ」
「……ゆうめいじん、はずかしい」
「あはは、その反応がいちばん天使っぽいなぁ」
「ながたさんまで!」
俺がむくれてみせると、永田さんは声を出して笑った。
母さんと愛奈も、つられて笑っている。
冷たいリンクのそばなのに、その一角だけはなぜだかあたたかかった。
「さて、と。それじゃあ瀬理奈ちゃん。靴、履いてみようか」
「うん!」
永田さんは、貸し靴のカウンターからいちばん小さなサイズの靴を持ってきてくれた。
ベンチに座った俺の足に、その白い靴をていねいに履かせてくれる。
刃もあってずっしりと重く、四歳児の足首にはまるで重りのようだった。
「きつくない? 痛いところ、ない?」
「ない。だいじょうぶ」
「ひもはね、足首のところだけ、ぎゅっと。こうやって」
「ぎゅっ」
「そうそう。上手」
そりゃあね。
「ふーん、あきひこくんはすべらないの?」
リンクの中から、手すり越しにひかりちゃんが聞いてきた。
明彦はぶんぶんと首を横に振った。
「ぼくはいい。ぼくは、せりなおねえちゃんを、みてる」
その言いかたが、なんだかとても明彦らしくて、俺はちょっとだけ嬉しくなった。
「せりなおねえちゃん、きをつけてね」
「ひかりちゃんも、みててね」
「みてるー!」
手すりの向こうから、明彦とひかりちゃんの声が重なって飛んできた。
母さんと愛奈も、すぐそばで俺を見ている。
たくさんの視線が、あたたかく背中に当たっているのを感じた。
俺は、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
靴の刃で立つというのは、思った以上に不安定だった。
氷の手前のゴムマットの上でさえ、足首がぐらりと揺れる。
それでも俺は、永田さんの差し出した手を借りて、リンクの縁まで歩いていった。
「最初はね、おじさんと手をつないで、そーっと——」
「うん」
「無理しなくていいからね。転んでも、おじさんがちゃんと見てるから」
永田さんは軽い調子でそう言った。
たぶんこの人は、初めての子がどれだけぎこちなく転ぶか、何百回も見てきたんだろう。
だから今日も、同じように転ぶであろう俺を支えるつもりでいる。
まあ、自分も転ぶのだろうとは思うが。
そして、刃の先を、そっと氷の上に下ろす。
——その瞬間だった。
世界から、音と質量が引き剥がされた。
子供たちのざわめきも。
天井の照明が放つ低い唸りも。
母さんと愛奈の話し声も。
そのすべてが、氷の冷気のなかへ吸い込まれて薄まっていく。
その薄まった世界のなかで、自分の呼吸と心音だけが、妙にはっきりと聞こえた。
もう一度だけ、永田さんの手を見ている。
差し出されたその手を、俺は——なぜか、握らなかった。
握らなくても大丈夫だと、身体のどこかが勝手にそう言っていた。
俺は右の足で、軽く氷を蹴った。
すると身体はなんの抵抗もなく、つるりと前へ滑り出した。
転ぶ気配はまるでなかった。
四歳の小さな身体が、氷の上を一本の線になって進んでいく。
「……え」
背中の方で、永田さんがそんな声を漏らした気がした。
でも、そのときの俺には、もうそれを気にする余裕はなかった。
気持ちが、いい。
跳び箱を跳んで、ぴたりと両足で着地が決まったときの、あの感覚。
プールの底まで潜って、肺がまだ深く続いていくと知ったときの、あの感覚。
ピアノの前で、頭の中の音と指先がぴったり重なったときの、あの感覚。
——それらがいま、氷の上で一本に繋がっていた。
俺の身体は、自分が空間のどこにいるのかを、寸分の狂いもなく分かっていた。
息は、いくらでも深く続いた。
そしてブレードが氷を削るシャッという音が、まるで拍子のように俺の動きを支えていた。
ばらばらだったはずの三つの感覚が氷の上ではひとつの「滑る」に溶けていく。
それはなんというか、全能感に近いものがあった。
この身体はたぶんこういうもののために出来ているのだと、初めてそう思えた。
俺は進みながら、つま先の向きを、ほんの少しだけ内側に倒してみた。
すると身体は、ふわりと向きを変えた。
そのままくるりと、半円を描くようにターンしてしまった。
銀色の髪が、視界の端で遅れて流れていくのが見えた。
リンクの上の子供たちが、いつのまにか滑るのをやめていた。
ひかりちゃんも含め何人かは、ぽかんと口を開けて、こちらを見ている。
コーチらしき大人も、リンクの反対側で動きを止めていた。
そして、ここからがいけなかった。
なんとなく楽しくなって、俺はつい——氷を、とん、と蹴ってしまった。
身体が、ふわりと、宙に浮いた。
それはほんの十センチ、せいぜいそれくらいの、小さな小さなジャンプ。
それでも両足の刃は、降りた瞬間、また綺麗に氷を捉えた。
しゃっ。
着地の音は、たったひとつ。
跳び箱の着地と、同じだった。
ああこれは俺にとって跳び箱と同じなんだ——と、俺は氷の上でひとり笑ってしまった。
リンクが、しんと静まり返っていた。
シャッという音が、もうどこからも聞こえない。
みんなが滑るのをやめて、ただ俺を見ている。
さっきまであんなに賑やかだった世界が、嘘みたいに止まっていた。
「……せりなおねえちゃん、とんだ」
手すりの向こうで、明彦がぽつりと言った。
その声で、止まっていた世界が、ようやくまた動き出した。
「……瀬理奈、いま」
「佳代子さん、あの子……今日、初めてよね」
「初めて。今日が、初めて……」
母さんと愛奈が、手すりにしがみつくようにして言葉を交わしている。
母さんの声は、半分くらい震えていた。
俺はちょっとだけ、やりすぎたかな、と思った。
そのとき、永田さんが氷の上を走ってきた。
スケート靴ではなく、滑り止めのついた長靴で、彼はリンクに踏み込んできていた。
俺の前まで来るとしゃがんで、まじまじと俺の顔を見た。
口が半分開いたまま、言葉が出てこないようだった。
「……瀬理奈ちゃん」
「うん?」
「いま、誰かにスケート、教わったこと、ある?」
「ううん。きょうが、はじめて」
「……はじめて」
永田さんは、その言葉を、自分でもう一度繰り返した。
そして、ふはは、と、息だけの笑いを漏らした。
そのときだった。
永田さんの顔の上を、ほんの一瞬だけ、何かがよぎった。
驚きでも喜びでもない、ごく薄い、影のようなもの。
俺の目は、その半秒にも満たない揺らぎを、勝手に拾い上げてしまった。
それが何なのか、俺には分からなかった。
分からないまま、それはすぐに消えてしまった。
永田さんがひとつ首を振って、今度こそくしゃりと顔をほころばせたからだ。
「いやぁ、参ったな。とんでもない子だ」
「ながたさん、せりな、もっとすべっていい?」
「いいよ。いいに決まってる。好きなだけ滑りなさい」
永田さんは、ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜた。
それから立ち上がって、手すりの母さんたちに向き直った。
「お母さん……あの、私、ちょっと語彙が足りないんですけど」
「は、はい」
「とんでもない原石です。本当に、とんでもない」
永田さんは、興奮を持て余すように、何度もそう繰り返した。
それから、ふと何か思いついたように、もう一度こちらを見た。
「ただ、ひとつだけ、強いて言うなら——」
そこまで言いかけて、永田さんは、ふっと口をつぐんだ。
何かを言おうとして、自分で飲み込んでしまったような間だった。
俺は、その途切れた言葉の先を、ちょっとだけ気にした。
「……いや。やめときます」
「ながたさん?」
「四歳の子に、何を求めようっていうんですかね、私は」
永田さんは、自分のこめかみを指でとんとんと叩いて、苦笑した。
それはどこか、自分自身に呆れているような笑い方だった。
俺には、その言葉の意味が、半分くらいしか分からなかった。
「とにかく、です。瀬理奈ちゃんは、とんでもない原石だ」
「げんせき?」
「うん。まだ磨かれてない、すごい宝物の石ってこと」
永田さんに手を引かれて、俺はもう一度氷の上に戻った。
今度は誰の手も借りなかった。
とん、と蹴って、滑って、ターンして、また滑る。
そのたびに世界から音が薄くなって、自分の呼吸と心音だけが、はっきりと聞こえた。
不思議なことに、全くこわくなかった。
こわくないどころか、俺は二度目の人生で初めてと言ってもいいくらいに、楽しかった。
手すりの向こうで、明彦がぴょんぴょんと跳ねていた。
「せりなおねえちゃん、すごい! すごいよ!」
「あきひこくん、みてて!」
「みてる! ずっとみてるよ!」
「すごーい! てんしさん、すごーい!!」
明彦の声は、薄まった世界のなかでも、まっすぐに俺の耳へ届いた。
今日会ったばかりのひかりちゃんも、長年の友達みたいに喜んで声を上げていた。
俺はその声たちに向かって、もう一度、とん、と氷を蹴った。
銀色の髪が、白いリンクの上で、ふわりと流れていくのが分かった。
ピアノも、跳び箱も、潜水も、ぜんぶ楽しかった。
でもそれは半分、明彦のためだったり、両親が用意してくれたものだったりした。
——氷だけは、ちがう。
これはたぶん俺が、俺自身のために、欲しいと思ったものだ。
二度目の人生で初めて、そう思えたものだった。
帰りの車のなかで、母さんはずっと鼻をすすっていた。
「ママ、ないてるの?」
「……ないてないわよ。ちょっと、目にゴミが入っただけ」
「ふふ、ままうそつき」
運転席の愛奈が、くすりと笑った。
バックミラー越しに、その視線がほんの一瞬だけ俺と合った。
愛奈は何も言わずに、ただやわらかく目を細めた。
その目が何を見ているのか、俺はたぶん知っている。
でもそれは、今は口にしないでおく。
隣では明彦が見えないスケート靴で、足をしゃっしゃっと動かして遊んでいた。
「せりなおねえちゃん、またいこうね、こおり」
「うん。またいこう」
俺は、窓の外の鉛色の空を見上げた。
来たときは重たく見えたその空が、帰り道ではなぜだか、少しだけ明るく見えた。
二〇一三年、二月。
銀の天使と呼ばれた女の子が、初めて自分のために「欲しい」と思ったものに、氷の上で出会った日だった。
5/23追記:13話まで通しで読み直したところ、腑に落ちない点がいくつかありましたので修正しております
投稿時に見落としがあり失礼いたしました。