銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第二章 第二話 友達百人は前途多難

四月の朝は、窓の外がやけに明るかった。

 

リビングの掃き出し窓から差し込む光は、二月の鉛色とはまるで別物だった。

庭先の小さなハナミズキが、いつのまにか白い花をつけ始めている。

俺はソファの上で余所行きの服を着て、その光をぼんやりと浴びていた。

 

「瀬理奈ー、もうすぐおばあちゃん着くわよ。お顔、もう一回拭いておきましょうね」

 

台所の方から、母さんの少し弾んだ声が飛んできた。

エプロンの裾を翻しながら、母さんはいつもより二割増しでそわそわしている。

朝からずっとこの調子で、リビングのクッションの位置を三回は直していた。

 

「ママ、はりきりすぎ」

「そんなことない、はりきってなんかいないわよ」

「うそ。クッション、三回直した」

「あら……見てたの?」

 

母さんがぐっと言葉に詰まる。

俺はソファの上で、くすくすと笑った。

こういうとき、母さんは本当に分かりやすくて見ていて飽きない。

 

おばあちゃん――父さんの母にあたる人が、大阪から出てくるのは二年ぶりだった。

二年前に「銀の天使」騒動の発端を作った張本人でもある。

ガラケーからスマホに乗り換えたばかりで、その誤操作で俺のピアノ動画を世界中にばらまいてくれた、あの人だ。

 

「明彦くんは、まだこない?」

「愛奈さんが連れて、もう少しで来るって。今日はみんなで、おばあちゃんを駅まで迎えに行ってもらってるから」

 

母さんがそう言いながら、俺の頬を濡れたタオルでちょいちょいと拭く。

別に汚れてなどいないのだが、母さんはこの「孫の身支度」という作業がしたいだけなのだ。

されるがままに、おとなしく頬を差し出しておいた。

 

やがて、玄関の方で車の停まる音がした。

俺の耳は、その音が愛奈の運転する車のものだと、すぐに聞き分けてしまう。

ドアの開く音が二回、そして三回。

 

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、愛奈さん。お義母さん、お疲れでしょう」

「いやぁ、佳代子さん、ほんまにご無沙汰してます」

 

玄関先から、聞き覚えのある関西のイントネーションが流れ込んできた。

やわらかくて、少しかすれた、おばあちゃんの声だ。

俺はソファから降りて、ぺたぺたと玄関の方へ向かった。

 

廊下の先に、小柄なおばあちゃんが立っていた。

 

薄紫色のカーディガンに、きちんと折り目のついたスラックス。

手には大阪の有名な菓子折りの紙袋を提げている。

俺と目が合うと、おばあちゃんはくしゃっと顔をほころばせた。

 

「うわぁ……これが、瀬理奈ちゃんかぁ」

「こんにちは、おばあちゃん」

「二年前より、画面で見るより、ずぅっと別嬪さんになったねぇ」

 

おばあちゃんは紙袋を母さんに預けると、よっこいしょ、と腰をかがめて俺と目線を合わせた。

その拍子に、ほんの少しだけ顔をしかめたのを、俺の目は見逃さなかった。

膝のあたりに、そっと手を添えている。

 

「おばあちゃん、ひざ、いたいの?」

「ん? ああ、ちょっとなぁ。歳とると、あちこちガタがくるもんよ」

 

おばあちゃんはなんでもないことのようにそう言って、また笑った。

その言葉は、本当に、洗濯物の話でもするみたいに軽かった。

俺はなんとなく、その膝のあたりを、もう一度だけ見てしまった。

 

「おばあちゃん、僕のことも、おぼえてる?」

 

おばあちゃんの足元に、明彦がそっと顔を出した。

栗色の髪に、長いまつ毛。

人見知りのこの子が自分から前に出るのは、けっこう珍しいことだった。

 

「あらまぁ、明彦くんも、だいぶおっきくなって。もうすぐ一年生やもんねぇ」

「うん。瀬理奈お姉ちゃんと、おなじがっこう」

「ええなぁ。仲良しさんと一緒の学校なんて、おばあちゃん羨ましいわぁ」

 

おばあちゃんは、明彦の頭をくしゃくしゃと撫でた。

明彦はくすぐったそうに身をよじりながらも、まんざらでもなさそうにしている。

そのうしろで、愛奈が静かに微笑んでいた。

 

「さ、お義母さん、立ちっぱなしもなんですから。お茶でも」

「ほんまほんま。いやぁ、新幹線も長いことなったわぁ。大阪から東京は、やっぱり遠いねぇ」

 

おばあちゃんは、よっこいしょ、ともう一度言って、リビングへと上がっていった。

 

母さんと愛奈に左右から支えられながら、おばあちゃんはソファにゆっくりと腰を下ろした。

その「遠いねぇ」という一言が、耳の奥に小さく引っかかった。

前世の記憶の中のおばあちゃんは、もっと身軽にひょいひょいと新幹線に乗ってくる人だった気がしたからだ。

 

「瀬理奈ちゃん、こっちおいで。おばあちゃんの隣」

「うん」

 

俺は、おばあちゃんの隣にちょこんと座った。

近くで見ると、おばあちゃんの手の甲には、前より少しだけ、皺と染みが増えていた。

その手が、俺の頭を、とても優しく撫でた。

 

「ええ子やねぇ。ほんま、ええ子や」

 

おばあちゃんの声は、ほろりと湿っていた。

この人は、昔から涙もろい人だった。

俺が隆志だった時も、孫を撫でるだけで、もう目尻に何か光るものを溜めていたものだ。

 

「さあ、お義母さん。せっかくですから、見ていただきたいものがあるんです」

 

愛奈が、テレビの前のローテーブルに、一台のタブレットを置いた。

それから母さんが、いそいそとリモコンを手にする。

どうやら今日は、俺と明彦の「成長記録の上映会」が始まるらしかった。

 

「これ、ぜんぶ佳代子さんが撮りためたものでね。わたしと佳代子さんとで、こっそり整理しておいたんですよ」

「あらやだ、こっそりだなんて。ちゃんとお義母さんに見せたくて、選んだのよ」

 

母さんがリモコンを操作すると、テレビの大画面に、見覚えのある映像が映し出された。

それは、まだ三歳の頃の、入園式の朝の俺だった。

母さんお手製の赤いマフラーを巻いて、白うさぎのぬいぐるみを抱えている。

 

「ちっちゃい。これは幼稚園入ったときのやねぇ?」

「そうそう。三年前の四月。明彦くんと一緒に、清水幼稚園に入ったときのね」

「明彦くん、めっちゃ泣いてるやないの」

「……ぼく、このとき、泣いてないもん」

 

画面の中の明彦は、しっかり半泣きだった。

俺の袖をぎゅっと握って、母親の愛奈の方を何度も振り返っている。

今となりで唇をとがらせている明彦と見比べて、おばあちゃんは声を上げて笑った。

 

「ふふ、かんにんやで、明彦くん。けど、瀬理奈ちゃんの手ぇ、しっかり握っとるねぇ」

「……これは、だって瀬理奈お姉ちゃんが、はぐれちゃうから」

「そうやねぇ。瀬理奈ちゃんを守ってあげてたんやねぇ」

 

おばあちゃんは、ころころと笑いながら、画面に見入っていた。

その横顔は、本当に幸せそうで、俺は少しだけ、胸の奥があたたかくなった。

 

テレビの中の映像は、季節を追って移り変わっていった。

 

スイミングで明彦が初めて顔をつけられた日。

体操教室で俺が跳び箱を跳んで、宮川コーチが目を丸くしている場面。

そして、家にアップライトピアノがやってきた、十月のあの日。

 

「これこれ、ピアノ! おばあちゃん、これでえらい騒ぎになってもうたんやから」

「ふふ。お義母さんの“やらかし”がなかったら、瀬理奈のことも、こんなに知られなかったでしょうけど」

「いやぁ、あれはほんま、孫の自慢したいだけやってんで。ボタンの場所、間違えただけやのに」

 

おばあちゃんは、自分の頬をぺちんと叩いて、ばつが悪そうに笑った。

画面では、四歳の俺が「ジングルベル」を弾いている。

あの一本の動画が世界中に広がって、俺は「銀の天使」になってしまったのだった。

 

「で、これが去年。氷の上のやつ」

 

母さんが少し得意げに、別のフォルダを開いた。

画面が切り替わると、白いリンクの上で、銀色の髪を翻して滑る小さな俺が映っていた。

ターンをして、小さくジャンプして、また滑る。

 

「うわっ、なにこれ、瀬理奈ちゃん、踊ってるみたいやないの!」

「これも、誰かがこっそり撮ってネットに上げちゃったみたいでね。また少し、騒がしくなったのよ」

「銀の天使が、今度は氷の上に降りてきた、とかなんとか。ねえ、佳代子さん」

「もう、二回目だから、わたしたちも慣れたものよ。はいはい、またうちの子が、ってね」

 

母さんと愛奈が、顔を見合わせてくすくす笑う。

一度目のときはあんなに慌てふためいていた二人が、今ではすっかり受け流せるようになっていた。

俺はその様子を見ながら、自分のことなのに、なんだか他人事みたいな気分でいた。

 

「瀬理奈ちゃんは、すごいねぇ。何でもできてまうんやねぇ」

「……瀬理奈、すごくないよ。身体が、かってに動くだけ」

「あら、謙遜やわ。立派立派」

 

俺は、内心でそっと首を振った。

これは謙遜でもなんでもなく、ただの事実だった。

この身体は俺の手柄ではない。

 

だがそれを六歳が言うわけにもいかないので、俺は曖昧に笑って誤魔化した。

おばあちゃんは、そんな俺の頭をまた優しく撫でてくれる。

その手は、やっぱり前より、ほんの少しだけ骨ばっている気がした。

 

「ねえねえ、おばあちゃま。僕のもある?」

「あるある。明彦くんのも、ちゃーんとあるわよ」

 

母さんが慌ててフォルダを切り替えると、画面に明彦が映った。

ピアノの前で、たどたどしく、それでも一生懸命に鍵盤を押している。

両手で「ちょうちょう」を弾き終えると、画面の中の明彦がぱぁっと顔を輝かせた。

 

「僕、これ、ひけたんだよ」

「上手やわぁ、明彦くん。指、ちゃんと動いてるもの」

「瀬理奈お姉ちゃんが、おしえてくれたの」

 

明彦はちょっと照れたように、俺の方をちらりと見た。

俺はその視線に、うん、と頷いてやる。

画面の中の明彦も今の明彦も、誰かと比べることなんて一度もしない子だった。

 

俺がどれだけ「すごい子」と言われても、明彦はただ俺のことを純粋に喜んでくれる。

それがどれほど得難いものか、前世で大人の世界を見てきた俺には痛いほど分かっていた。

この子のこういうところは、本当に誰に似たんだろうな。

 

「ふふ、見ててごらんなさいよ、お義母さん。次のがいいんだから」

 

愛奈がいたずらっぽく言って、次の映像を選んだ。

それは俺と明彦が居間で、二人並んでピアノを連弾している場面だった。

ぴったりとは合っていない、でこぼこの「きらきら星」。

 

「あらまぁ、二人で! ええわぁ、ほんまにええわぁ……」

 

おばあちゃんの声がまた湿った。

そして、目尻を指でそっと拭った。

画面の中で俺と明彦が一曲弾き終えて、二人で顔を見合わせて笑っている。

 

「おばあちゃん、ないてるの?」

「泣いてへんよ。ちょっと、目にゴミ入っただけ」

「……ふふ、ママといっしょ」

 

俺がそう言うと、母さんが「あら、ばれてた」とおどけてみせた。

リビングがやわらかい笑い声に包まれる。

四月の光がその光景をぽかぽかと照らしていた。

 

ひとしきり笑ったあと、おばあちゃんはふと画面に映る俺の顔をじっと見つめた。

 

その視線がいつもと少しだけ違うことに、俺の目はすぐに気づいた。

おばあちゃんは何かを思い出そうとするように、わずかに眉を寄せていた。

画面の中の笑った俺の横顔をまじまじと見ている。

 

「……なぁ、瀬理奈ちゃん」

「なぁに?」

「あんた、ときどき、なんやろねぇ……?」

 

おばあちゃんは、言葉を探すように、少しの間、口をつぐんだ。

俺はその続きを、なんでもない顔で待った。

胸の奥がほんの少しだけざわついていた。

 

「ときどき、隆志に……そっくりな顔、しはるわぁ」

 

隆志。

俺の――前世の名前。

おばあちゃんの口から、その名前が、ふいにこぼれ落ちた。

 

俺は息を呑むのを、必死で表に出さないようにした。

ここでは、「だぁれ? その人?」と無邪気に聞き返すのが、たぶん正解だった。

けれどもその一拍の間に、おばあちゃんは自分で首を振っていた。

 

「……いやいや、そんなわけ、あらへんわねぇ」

「たかし?」

「うちの、昔の身内の名前よ。ふふ、ごめんなぁ。おばあちゃん、歳とると変なこと言うてまうわ」

 

おばあちゃんは、ふふっ、と寂しそうに笑って、それきりその話を畳んでしまった。

俺は、内心で詰めていた息を、そっと逃した。

背中に薄く汗が滲んでいた。

 

母さんと愛奈がほんの一瞬だけ目を見交わしたのを、俺は見た。

二人は何も言わなかった。

ただ、いつもより少しだけ早く、次の映像を画面に映し出した。

 

「ほら、お義母さん。これ、運動会のときの——」

「ほんまや。明彦くん、転んでも泣かんと走っとるやないの」

 

話題が逸れて、リビングの空気が、また元のやわらかさに戻っていく。

おばあちゃんは、もうすっかりさっきのことなど忘れたように画面に見入っていた。

気づかせずに済んだ、と俺は思った。

 

成長記録の上映会は、たっぷり一時間も続いた。

 

最後の映像が終わるとおばあちゃんは、ふぅ、と満足そうに息をついた。

そして、自分の膝の上で、両手をそっと組んだ。

 

「いやぁ、ええもん見せてもろたわ。おおきに、佳代子さん、愛奈さん」

「いえ、こちらこそ。遠いところを、わざわざ」

「ええんよ。孫の晴れ姿、見んと死ねるかいな」

 

おばあちゃんは、からから、と軽く笑った。

死ねるかいな、という言葉は、本当に冗談みたいに軽くて、湿り気がなかった。

けれども、だからこそ俺の耳には、なぜだか少しだけ長く残った。

 

「瀬理奈ちゃん。明彦くん」

「うん?」

「おばあちゃんなぁ、難しいことは、ようわからへんのよ」

 

おばあちゃんは、俺と明彦の頭を、左右の手でそれぞれ撫でた。

その手のひらはあたたかかった。

皺が増えて骨ばっていてもちゃんとあたたかかった。

 

「ピアノやらスケートやら、すごいすごい言うてはるけどなぁ。おばあちゃんには、上手か下手か、ようわからへん」

「……うん」

「けどな。瀬理奈ちゃんも明彦くんも、画面のなかでずぅっと楽しそうにしとった。おばあちゃんはな、それが、いっとう一番やと思うんよ」

 

楽しそうにしとるのが、一番。

 

その言葉は、すとんと、俺の胸の真ん中に落ちてきた。

うまいとかすごいとか、そういうのは全部おまけでしかない。

ただ、楽しそうにしている。

それが、一番。

 

俺は、テレビ収録のときのことを、ふと思い出した。

あのとき俺は、司会の芸人に「どうしてピアノを弾くの」と聞かれて、こう答えたのだったな。

「ぱぱとままが、たのしくっていってくれるから」と。

 

あのときの言葉と今のおばあちゃんの言葉が、頭の中ですっと一本の線で繋がった。

俺がやっていることは、結局全部そこに行き着くのかもしれない。

楽しそうにしていること。

それを、誰かが楽しいねと言ってくれること。

 

「うん。瀬理奈、たのしいよ」

「僕も。僕も、たのしい」

「そうかそうか。ええなぁ、ええなぁ」

 

おばあちゃんは目を細めて、何度も頷いた。

その顔は、本当に、心から満たされているように見えた。

 

「ほな、おばあちゃん、ちょっとだけ横にならせてもらおかな」

「あら。お疲れですか、お義母さん」

「新幹線が長かったからかなぁ。最近ちょっと、疲れやすうてねぇ」

 

おばあちゃんは、なんてことのない調子で、そう言った。

膝が痛い、大阪は遠い、最近疲れやすい。

今日のおばあちゃんはその三つを、まるで天気の話みたいに軽々と口にしていた。

 

俺は、その軽さを、なんとなく覚えておこうと思った。

理由は、自分でもよく分からなかった。

ただ、覚えておきたい、と思ったのだ。

 

母さんと愛奈に支えられて、おばあちゃんは奥の和室へと向かった。

明彦が「おばあちゃま、おやすみ」と小さく手を振る。

四月の光が、その後ろ姿を、やわらかく包んでいた。

 

 

 

桜の花びらが、ひとひら、ランドセルの肩ベルトに舞い落ちた。

 

四月のよく晴れた朝、俺は校門の前に立っていた。

背中には新品の赤いランドセル。

となりには黒いランドセルを背負った明彦が、ちょっと緊張した顔で立っている。

 

「うわぁ、すごい人」

「……瀬理奈お姉ちゃん、はぐれないでね」

「だいじょうぶ。瀬理奈、明彦くんのてぇ、ちゃんとにぎってるから」

 

校門には「入学式」と書かれた立て看板が立っていて、その横で何組もの親子が写真を撮っていた。

うちも例外ではなく、父さんは昨夜から一眼レフを充電して気合いを入れている。

母さんと愛奈はそれぞれの子の身だしなみを直すのに余念がなく、おばあちゃんは少し離れたところで、嬉しそうにその様子を眺めていた。

 

「瀬理奈ちゃーんっ! 明彦くーんっ!」

 

人混みの向こうから、聞き覚えのある高い声が飛んできた。

ぴょんぴょんと跳ねながら駆けてくるのは、ピンクのランドセルを背負った女の子。

頬がりんごみたいに赤い、あのひかりちゃんだった。

 

「ひかりちゃん! 同じ学校だったの?!」

「そうだよー。 ママがね、同じ学校だよって! うれしいー! すごいー!」

「うん、瀬理奈もうれしい!」

 

ひかりちゃんはスケートリンクで初めて会った日と、まるで変わっていなかった。

俺の手をぶんぶん振って、満面の笑みを浮かべている。

明彦はその勢いにちょっと気圧されながらも、こんにちは、と小さく頭を下げた。

 

「ねえねえ、知ってる? 一年生になったらね、ともだち、ひゃくにんできるんだよ!」

「ひゃくにん?」

「歌であるんだよ! ともだちひゃくにん、できるかなー、って!」

 

ひかりちゃんが、上機嫌でその一節を口ずさんだ。

一年生になったら、友達百人できるかな。

たしかに、そんな歌があったな、と俺は前世の記憶を引っぱり出した。

 

「百人は、おおいよ」

「えー、できるよー! だってこんなにいっぱい、子供いるもん!」

「……僕は、瀬理奈お姉ちゃんと、ひかりちゃんがいれば、いい」

 

明彦が、ぼそりとそう言った。

ひかりちゃんが「えー、もったいない!」と口をとがらせる。

俺は思わず、ぷっと吹き出してしまった。

 

友達百人。

正直なところ、中身が三十歳の俺からすると、なかなかハードルの高い目標だった。

前世だって、本当に気を許せる友人なんて、両手で数えられるくらいしかいなかった。

それでも、まあ、子供のうちはこういう無邪気な目標を掲げておくのも悪くない。

 

「瀬理奈ちゃんも! ともだち、いっぱいできるといいね!」

「うん。がんばる」

 

そう答えながら俺は、桜の下に集まる新入生たちを、ぐるりと見回した。

みんな新品のランドセルを背負って、そわそわと落ち着かない様子でいる。

これから六年間を一緒に過ごす、同級生たち。

 

——そのときだった。

 

たくさんの視線の中に、ひとつだけ、明らかに質の違う視線が混じっているのに、俺は気づいた。

 

それは、好奇でも、感心でもなかった。

銀の髪を見て「綺麗」と思う視線とも、テレビで見た子だと気づいて騒ぐ視線とも、違う。

もっとまっすぐで、もっと冷たい。

 

俺はその視線の出どころを、目で辿った。

 

校門から少し離れた木の下に、ひとりの女の子が立っていた。

肩までの黒い髪を、きっちりと二つに結んでいる。

背筋をぴんと伸ばして、こちらを――俺を、じっと見据えていた。

 

その目には、はっきりと厳しい色があった。

六歳の子供が浮かべるにはあまりに鋭い、刺すような視線。

俺と目が合っても、その子はふいと逸らしたりはしなかった。

 

——どこかで、見たことがある。

 

その顔を見た瞬間、俺の頭の中で、何かが、かちりと噛み合った。

丸かった頬は、少しほっそりとしていた。

背も伸びていた。

それでもその目元の感じには、確かに覚えがあった。

 

施設の食堂で笑っていた、あの子。

「おててつないでもらえるかなぁ」とはにかんでいた、あの子。

桐生学園で俺の向かいの席に座っていた、同い年の女の子。

 

「……ゆうか、ちゃん」

 

俺の口から、思わず、その名前がこぼれた。

 

そうだ。

あの日、俺だけが橘家に引き取られて、施設を出ていった。

「つないでもらえるよ、きっと」と、無責任に言い残して。

 

たくさんのことが分からないまま、ひとつだけはっきりしていることがあった。

あの厳しい視線は、まぎれもなく、俺に向けられている。

偶然なんかじゃない。

あの子は、俺が誰なのかちゃんと分かったうえで、こちらを睨んでいた。

 

「瀬理奈お姉ちゃん? どうしたの?」

 

俺の手が止まったのに気づいて、明彦が不思議そうに見上げてくる。

ひかりちゃんも、きょとんとして、俺の視線の先を追おうとしていた。

俺は、慌てて二人に笑いかけた。

 

「……ううん。なんでもない」

 

もう一度木の下を見たときには、ゆうかちゃんはすっと顔を背けていた。

そのまま自分の付き添いらしい大人のほうへ、歩いていってしまう。

小さな背中が人混みのなかに紛れて見えなくなった。

 

桜が、また、はらりと舞った。

 

ひかりちゃんは「はやくいこー!」と俺の手を引っぱり、明彦は反対の手をぎゅっと握っている。

母さんも父さんも、おばあちゃんも、入学式の会場のほうで俺を待ってくれている。

あたたかい人たちに囲まれて、俺は、新しい六年間の入り口に立っていた。

 

それでも、さっきの視線がまだ背中のあたりに、ちりっと残っていた。

 

友達百人、できるかな。

 

ひかりちゃんが歌っていた、あの無邪気な一節を、俺は胸の中でもう一度だけ繰り返す。

そして、結論を出した。

 

——どうやら、友達百人は前途多難です。

 

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