銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
四月の教室は、窓から入る風がまだ少しだけ冷たかった。
気が付けば、入学式からもう二週間が過ぎていた。
新品だった赤いランドセルにも、いつのまにか細かな擦り傷が少しずつ増えている。
小学一年生の毎日というのは、思っていたよりずっと騒がしくて、目まぐるしいものだった。
朝の会が終わると一時間目までは、短い休み時間になる。
俺は自分の机の中から教科書とノートを取り出そうとした。
そこでふと、伸ばした指先が紙の切れ端のようなものに触れたことに気が付いた。
四
机のいちばん手前側。
教科書の上に、画用紙を四角く切ったものがちょこんと一枚乗せられていた。
たどたどしいひらがなで、力を込めて書かれた文字が並んでいる。
「ぎんのてんし ちようしにのるなよ」
ふむ。
六歳児の精一杯の悪口にしては、なかなか辛辣な一枚だった。
ただ惜しむらくは、「ちょうし」が「ちようし」になっていた。
小さい「ょ」が、しっかり大きい「よ」で書かれている。
そのおかげで刺すような悪口のはずが、どこか間の抜けた響きになってしまっていた。
その紙をそっと裏返して見てみる。
裏側には、別の誰かのものらしい、計算ドリルの丸つけが残っていた。
どうやら悪口を書いたこの子は、悪口を書く紙すら人のプリントの裏で間に合わせたらしい。
ふぅ、と一息吐く。
犯人が誰かなんて、考えるまでもなかった。
俺の席の、斜め前。
そこに座っているのが、佑香ちゃんだった。
入学式の日に、木の下から俺をまっすぐ睨んでいた、あの女の子だ。
肩までの黒い髪を、きっちりと二つに結んでいる。
今は背筋をぴんと伸ばした横顔に、俺は見覚えがあった。
それもその筈で、佑香ちゃんとは前に3年近く、同じ屋根の下で暮らしたことがある。
桐生学園。
俺が三歳まで過ごした、あの児童養護施設だ。
佑香ちゃんは食堂で俺の向かいの席に座っていた、同い年の女の子だった。
「おててつないでもらえるかなぁ」
あの子は施設で、よくそうやってはにかんでいた。
そして俺だけが橘の家に引き取られて、あの場所を出ていった。
「つないでもらえるよ、きっと」
別れぎわに、俺はそんな無責任な言葉を、置き土産みたいに残していった。
あれから三年が経って、佑香ちゃんはいま俺の斜め前の席で、俺を睨んでいる。
神様も、なかなか酷なことをしてくれるものだ。
同じ組になったのは、もちろん偶然だろう。
それでも俺には、これがただの偶然だとは、どうしても思えなかった。
ちなみに、悪口の紙はまだ序の口だった。
机の中をもう一度探ってみると、あるはずの筆箱が見当たらない。
なるほど、今朝の作戦は「悪口の紙」と「筆箱隠し」の合わせ技だったらしい。
俺は、ちらりと目をやった。
「あれ?」
佑香ちゃんは自分の席で、なぜか半泣きになっていた。
机の中をがさごそとかき回しては、青ざめた顔で固まっている。
その手の動きと表情だけで、俺にはだいたいの事情が読めてしまった。
——ああ。
佑香ちゃん、自分の筆箱もどこかにやってしまったんだな。
俺の筆箱を隠すのに夢中になって、自分の筆箱をどこかに置き忘れてきたのだ。
俺の耳は、こういうときだけ妙によく働く。
さっき廊下の手洗い場のあたりで、かたん、と硬いものが落ちる音がした。
あれはきっと、俺の筆箱をどこに隠そうか考えてる途中で取り落とした、佑香自身の筆箱だろうな。
つまり、こういうことになる。
俺の筆箱は佑香ちゃんが把握しているどこかに無事に隠され、佑香の筆箱は完全な行方不明になった、と。
「……おいおい」
これでは、どちらが嫌がらせをされたのか分かったものではなかった。
俺がじっと見ていることに気づいて、佑香ちゃんがぱっと机の中に向けていた視線を上にやった。
目が合うと、慌てて机の中から手を抜いて、つんと素知らぬ顔を精一杯作って睨んでくる。
半泣きだったくせに、その睨みだけは年齢不相応に一丁前だった。
思わず小さく笑ってしまいそうになった。
いかんいかんと、俺は慌てて口元に力を入れてその笑みを引っ込める。
ここで下手に笑ったりしたら、佑香ちゃんの感情に火に油を注ぐことになるのは目に見えていた。
「瀬理奈ちゃん、おっはよー!」
そこへ、ひかりが元気よく駆け寄ってきた。
ピンクのランドセルはもう背負っていないが、その明るさは相変わらずで眩しい。
俺の机に手をついて、ひょいと顔を覗き込んでくる。
「あれ? なにこれ。お手紙?」
「あ……」
「ぎんの、てんし……ちようしに、のるなよ……?」
ひかりが、教科書の上の紙を声に出して読み上げてしまった。
いけないと、止める間もなかった。
その大きな声に、近くにいた何人かの子が、ちらりとこちらを振り向く。
「これ、悪口じゃない! 瀬理奈ちゃんの、わるくち書いてある!」
「ひかりちゃん、しー。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ! だれ、こんなの書いたの!」
ひかりは、本気で頬をふくらませて怒っていた。
こういうとき、この子は他人のことを自分のことみたいに怒れる子だった。
俺はその気持ちが嬉しくて、でも今は少しだけ困った。
「……どうしたの?」
ひかりの声を聞きつけて、明彦もそばにやってきた。
栗色の髪をちょっと揺らして、不思議そうに俺とひかりを見比べる。
ひかりが、紙をびっと指さして説明した。
「明彦くん、見て! 瀬理奈ちゃんに、悪口!」
「……ほんとだ、悪口」
「うん。ちようしに、のるなって!」
明彦は、その紙をじっと見つめていた。
それから、普段は見せないような、きゅっと引き結んだ口元になった。
人見知りで気の優しいこの子が、こんな顔をするのは珍しい。
「……だれが、書いたの」
「明彦くん」
「瀬理奈お姉ちゃんに、こんなこと書いたの、だれ」
明彦の声は、低くはないけれど、いつもより少しだけ硬かった。
その目が、教室の中をゆっくりと見回そうとする。
俺は慌てて、その袖をきゅっと引いた。
「明彦くん、いいの。本当に大丈夫だから」
「でも」
「ね。瀬理奈、おこってないから」
明彦は、俺の顔をじっと見た。
俺がにっこり笑ってみせると、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
それでもまだ、その目には収まりきらない何かが残っていた。
「ねえ、瀬理奈ちゃん。先生に、言う?」
「ううん。まだ、言わなくていいよ」
「じゃあ、わたしが、注意してくる! こんなのだめだよって!」
ひかりが、腕まくりをするみたいな仕草で、ぐっと拳を握った。
今にも犯人を探しに教室を駆け回りそうな勢いだった。
俺は、その手を両手でやんわりと包んで止めた。
「ひかりちゃん、ありがとう。でもね」
「でも?」
「これは、瀬理奈が、自分でなんとかするから」
二人は、きょとんとした顔で俺を見た。
俺は、斜め前の席をちらりと見やった。
佑香ちゃんはまだ、自分の筆箱を探して、半泣きで机の中を漁っている。
俺が誰かに言いつければ、あの子はきっと、それだけで簡単に潰れてしまうだろう。
先生に言うのは、簡単だ。
ひかりや明彦に任せて、佑香ちゃんを取り囲んで叱ってもらうのも、簡単だ。
けれど、それでは何も解決しないことはなんとなく分かっていた。
あの子が俺を睨む理由を、たぶん半分くらいは知っている。
三年前に俺だけが幸せな家に引き取られて、あの子をあの場所に置いていった。
「つないでもらえるよ」なんて、無責任な言葉だけを残して。
だから、これは俺の問題でもあった。
大人や同級生をたくさん挟んで囲い込むのではなく、まずは佑香ちゃんと二人で、ちゃんと話す。
それがいちばん遠回りで、でもいちばん正しい順番のような気がした。
「瀬理奈ちゃん、ほんとにいいの?」
「うん。ひかりちゃんと、明彦くんがいてくれるだけで、瀬理奈は、もう平気だよ」
「むー。わかった。でも、困ったなら、すぐ言ってね」
ひかりは、まだ納得しきれない顔のままではあったが、それでも頷いてくれた。
明彦は何も言わずに、俺の机の上の悪口の紙を、すっと自分のポケットにしまった。
たぶん、俺の目に入らないところに片付けてくれたつもりなのだろう。
その小さな気づかいが、俺の胸の奥を、ほんのりとあたためた。
ちなみに、その日の筆箱騒動には、ちゃんとオチがついた。
一時間目が始まる直前、廊下の手洗い場で佑香ちゃんの筆箱が見つかったのだ。
拾って届けてあげたのは、音を聞いたのを確認したので当然だが、よりにもよって本来筆箱を隠された側の俺だった。
「これ、佑香ちゃんのでしょ。廊下におちてたよ」
「……っ!」
「はい。どうぞ」
佑香は、ぐっと言葉に詰まって、ものすごい顔で俺を睨んだ。
それから、ひったくるように筆箱を受け取って、ぷいっと顔をそむける。
お礼の言葉は、もちろん、最後までなかった。
俺の筆箱はそのあと佑香の机の中からひょっこり出てきた。
どうやら隠し場所を、自分の筆箱と取り違えたらしい。
やること為すことがことごとく裏目に出るその佑香ちゃんの様子に、もう怒る気にもなれなかった。
佑香ちゃんの「嫌がらせ」は、その日を境に毎日のように続いた。
そして毎日のように、ことごとく失敗した。
俺の上履きも隠そうとして、なぜか自分の上履きを下駄箱の奥に押し込んで見失ったり。
廊下で俺の足を引っかけようとして、自分のスカートの裾を踏んでしまって倒れこんだり。
そうか、佑香ちゃん。
君はいわゆるドジっ子だったんだな、以前からその兆候はあったけどがんばれ。
俺が言うことではないかもしれないけど。
ある日午前中の授業を終えて給食を食べる頃、牛乳にむせてクラスメイトに心配されている佑香ちゃんの姿が見える。
……この子、また何かしようとしたな。
そんな近をしているうちに、午後の授業も終わる。
小学一年生の長い一日が店じまいを始める頃、学校のあとに、俺にはもうひとつ大切な予定が待っていた。
もちろんスケートだ。
放課後の空は、朝の冷たさが嘘みたいに晴れわたっていた。
校門の前まで母さんが車で迎えに来てくれて、俺と明彦はそのまま川沿いのリンクへ向かった。
後部座席で、明彦はもうすっかり慣れた様子で水筒のお茶を飲んでいる。
二年前、初めてここへ来る車の中で「こおりって、つめたい?」と怯えていた子と同じとは思えなかった。
「区民スケートクラブ」の色あせた看板は、二年前と何ひとつ変わっていない。
建物に一歩入ると、削られた氷の匂いと古い鉄骨の匂いが頬を撫でる。
俺にとってこの匂いは、もう「楽しい」とほとんど同じ意味になっていた。
「瀬理奈ちゃん、明彦くん。こんにちは!」
通路の奥から、紺色のダウンを着た永田さんが手を振ってきた。
目尻の笑い皺は相変わらずで、その下にうっすら無精ひげが伸びている。
この二年で、永田さんはもうすっかり、見知った「永田さん」になっていた。
「永田さん、こんにちは!」
「こんにちは。今日は学校のあとだから、ちょっと眠くない?」
「ぜんぜん。瀬理奈はげんきだよ」
「はは、頼もしいなぁ。じゃ、さっそく着替えておいで」
更衣スペースで、俺は自分のスケート靴に足を入れた。
二年前、重りみたいに感じた貸し靴とは違って、足に合わせて誂えてもらった俺だけの靴だ。
紐を足首のところでぎゅっと締めると、それだけで身体のスイッチが、かちりと入る気がした。
リンクサイドに出ると、ひかりがもう氷の上にいた。
ピンクの手袋は、出会った日と同じものだった。
少しだけ大きくなった手に、もうずいぶん馴染んでいる。
俺に気づくと、ひかりは大きく手を振りながら、こちらへ滑ってきた。
「せりなちゃーん、おっそーい!」
「ごめんね。学校、いっしょだったのに、瀬理奈のほうがおそかった」
「いいよー。はやくはやく、瀬理奈ちゃんもいっしょにすべろ!」
ひかりは、この二年でずいぶん上手になっていた。
転ばずに片足で立てるし、ゆっくりとなら、後ろ向きにも進める。
本人いわく「てんしさんのとなりで滑るのが、いっとう楽しい」のだそうだ。
俺はリンクの縁に立って、明彦の方を振り返った。
明彦は手すりの内側のベンチに座って、いつものように水筒を膝に抱えている。
氷に降りるつもりは、この子には今日もないらしかった。
「明彦くん、みててね」
「うん。ぼく、ここでみてる」
「転んでも、笑わないでね」
「瀬理奈お姉ちゃんは、ころばないよ。ぼく、しってるもん」
明彦のその言葉は、励ましでもおだてでもなく、ただの確信だった。
こいつは、俺が滑るのを見るのが本当に好きなのだ。
最初の観客という、その指定席を、明彦は二年間ずっと譲らずにいる。
俺は刃の先を、そっと氷の上に下ろした。
——その瞬間、いつものように世界から音と質量が、すうっと薄れていく。
子供たちのざわめきも、照明の低い唸りも、母さんの話し声も。
全部が冷たい空気のなかへ吸い込まれて、自分の呼吸と心音だけが、はっきりと残る。
この感覚にはもう何十回も出会っているのに、いまだに少しも飽きなかった。
軽く右足で氷を蹴ると、身体は一本の線になって前へ滑り出した。
ターンをして、片足を上げて、また滑る。
ブレードが氷を削るシャッという音が、まるで拍子のように俺の動きを支えていた。
「うわー、瀬理奈なちゃん、きょうもはやーい!」
「ひかりちゃんも、おいでよ!」
「いくー!」
ひかりがきゃあきゃあ言いながら、俺のあとを追ってくる。
俺はわざと速度を落として、ひかりとちょうど並べるくらいで滑ってやった。
ふたりで描く二本のラインが、白い氷の上で、しばらく仲良く並んで伸びていく。
ひとしきり滑ったところで、永田さんがリンクの縁から手を叩いた。
「はーい、瀬理奈ちゃん、ちょっとこっちおいで」
「なぁに?」
「今日はな、新しいこと、ひとつやってみようと思って」
俺がそばに滑り寄ると、永田さんはリンクサイドに置いた古い機械を、とんとんと叩いた。
それは、年季の入った銀色のCDプレイヤーだった。
スピーカーの網のところに、うっすら埃が積もっている。
「曲を、流しながら滑ってみないか」
「きょく?」
「そう、音楽だよ。瀬理奈ちゃん、ピアノやってるでしょ。耳がいいって、お母さんから聞いてるよ」
永田さんはにっと笑って、プレイヤーのそばにしゃがみ込んだ。
その言葉に少しだけ、内心で身構えた。
氷の上で曲を流すというのは、今日が初めてのことだったからだ。
「難しいことは、考えなくていいよ」
「うん」
「ただ、好きに滑ってみて。曲が合いそうなら合わせて。合わなくても、ぜんぜんいい」
永田さんの口ぶりは、どこまでも軽かった。
たぶん本人も、今日はただの「お試し」くらいのつもりだったのだと思う。
このあと自分がどんな顔をすることになるかなんて、このときの永田さんはまだ知らない。
「じゃ、いくぞー。最初は、ゆっくりした曲な」
永田さんが、ごつい指で再生ボタンを押した。
かちり、という小さな音のあと、古いスピーカーがぶつ、と息を吹き返す。
そして、リンクの空気のなかへ、ひとつめの音がぽつんと落ちた。
俺の耳は、その最初の一音を、勝手に拾い上げた。
その曲には、聞き覚えがあった。
ゆったりとした三拍子のピアノ曲。
湯浅先生のところで、前に譜読みをしたばかりの一曲だった。
指で何度もなぞった旋律だから、俺の頭はもう、次にどの音が来るかを全部知っていた。
最初の一音が落ちた瞬間、その音の高さが、ぴたりと俺の中の音階に重なった。
ドの少し上で、二拍ぶんだけ伸びる音。
ピアノの前で何度も鳴らしたあの音が、いま氷の上で、俺の背中をそっと押した。
軽く氷を蹴った。
最初は、ただ拍に合わせていただけだった。
一、二、三。一、二、三。
三拍子の頭で蹴って、残りの二拍で身体を流す。それだけのことだった。
けれど、旋律が二小節めに入ったあたりで、自分の中で何かが少しだけ変わった。
もう拍を「数えて」はいなかった。
次に来る音を、頭が先回りして待っていた。
旋律がふっと高いところへ昇るのに合わせて、自分の腕が、勝手にすうっと持ち上がっていく。
音が降りる。
すると俺の身体も、まるで誘われたみたいに、低くしなる。
音が伸びる。
すると俺のエッジも、その音と同じだけ長く、白い氷を撫でていく。
——気持ちが、いい。
跳び箱の着地でも、潜水でもない。
ピアノの前で頭の中の音と指先がぴたりと重なる、あの感覚に似ている。
それはいま、身体で受け、足の裏から氷へ、そっくりそのまま流れ込んでいた。
だんだん、自分で意識して動いている気がしなくなってきた。
音のほうが先にあって、俺の身体はただそれを追いかけている。
いや違うな、もう追いかけてすらいない。
旋律と言う、楽譜と言う見えないレールの上で、身体がピアノのように跳ねている——そんな感じだった。
その感じが楽しくて、気持ちよくて
俺はその――ほんの数秒だけ、「滑ろう」と意識するのをやめていた。
考えるのを、身体を制御するのをやめて、音にすべてを委ねたその数秒間。
俺の滑りはたぶん、それまでの俺の滑りとは、まるで別のものになっていた。
銀色の髪が旋律の終わりにふわりと流れて、最後の一音と一緒に、すうっと止まった。
リンクが、しんと静まり返っていた。
二年前と、同じだった。
シャッという音が、どこからも聞こえない。
ひかりちゃんも、ほかの子も、滑るのをやめて、ぽかんとこちらを見ていた。
「……瀬理奈お姉ちゃん」
手すりの向こうで、明彦が小さくつぶやいた。
その声は、感心とも驚きとも違う、もっとやわらかいものだった。
まるで、とても綺麗なものをそっと両手で包むみたいな、そんな声だった。
「いまの……すごく、きれいだった」
その一言で、止まっていた世界が、ようやくまた動き出す。
ひかりが「すごーい!」と歓声を上げて、ぱちぱちと拍手を始めた。
その拍手につられて、ほかの子たちも、ぱらぱらと手を叩く。
自分はと言えば、正直なところ、自分が何をしたのか、よく分かっていなかった。
たしかに、気持ちはよかった。
音に合わせて滑ったら、いつもより身体が軽い気がした。
でもそれだけで、自分でも「いつもと違うことをした」という自覚は、まるでなかったのだ。
リンクの縁に目をやると、永田さんが、おかしな格好で固まっていた。
CDプレイヤーのそばにしゃがんだまま、片手を自分の腕に当てている。
口が半分開いて、言葉が出てこないようだった。
その腕に当てた手が、ぞわりと、何かを確かめるみたいに、ゆっくり上下した。
「永田さん?」
俺が声をかけると、永田さんはびくりと肩を揺らした。
それから、何度も瞬きをして、ようやく立ち上がる。
こちらへ歩いてくるその足取りが、ほんの少しだけ、ふらついていた。
「瀬理奈ちゃん。いま、自分でも、分かってないよね」
「なにが?」
「いまの最後のほう。曲が、サビに入ったところ」
永田さんは、いきなり自分の腕をまくって、俺に見せてきた。
日に焼けた腕の毛が、ぜんぶ、ぴんと逆立っている。
鳥肌だ、と俺が気づくのと、永田さんが口を開くのは、ほとんど同時だった。
「鳥肌、立っちまった。コーチである僕が、六歳の子の滑りで、だぞ」
「とりはだ……?」
「ああ。あんなの、教えてできるもんじゃない。あれはな、瀬理奈ちゃんが、音を“聴いて”たんだ」
永田さんは、興奮を持て余すように、ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜた。
それから、リンクサイドの母さんの方を振り返って、声を上げた。
「お母さん! ちょっと、聞いてください!」
「は、はい」
「この子の本当の武器、私、今日やっと分かった気がします」
母さんが手すりにつかまったまま、目を丸くしている。
永田さんは、まるで宝物を見つけた子供みたいな顔で、言葉を続けた。
「ジャンプも、スピンも、成長速度もそりゃあとんでもないです。でも、それより先に、耳です」
「みみ……」
「音感です。この子は、音楽を“身体で聴ける”。それが、いちばんの武器かもしれない」
永田さんは「武器」という言葉を、何度も嬉しそうに繰り返した。
二年前、初めて滑った日に、あの人がほんの一瞬だけ飲み込んだ言葉。
あの途切れた言葉の続きが、今日、ぜんぶ別のかたちになって、こぼれ出てきたみたいだった。
「永田さん、瀬理奈はなんか凄いこと、した?」
「したよ。とびきりのを、な」
「でも、瀬理奈、したいようい、普通に滑ってただけだよ?」
「うん。それでいいんだ。それが、一番すごいんだよ」
永田さんはしゃがんで俺と目線を合わせ、それからくしゃりと笑った。
その言葉の意味が、やっぱり半分くらいしか分からなかった。
ただ、この人がとても喜んでいることだけは、はっきりと伝わってきた。
「もう一回やろうかな!」
「おう。何回でもやってね。コーチ、何回でも鳥肌立ててあげるから」
「とりはだ立てるの、たのしいの?」
「はは、最高だよ。今日は、いい日だ」
永田さんは、CDプレイヤーのところへ、いそいそと戻っていった。
俺はもう一度、リンクの真ん中へ滑り出す。
明彦とひかりが、手すりの向こうで、ぴょんぴょん跳ねながら俺を見ていた。
二度目に同じ曲を流したとき、不思議なことが起きた。
最初に滑ったときの、あの「身体が楽譜の上で跳ねる」感じが、来なかったのだ。
ちゃんと拍を数えて、ちゃんと上手に滑った。
でも最初のときみたいに、世界がまるごと音楽に変わる、あの数秒は、二度と訪れなかった。
ふうん、と俺は内心で首をかしげた。
頭で考えれば考えるほど、あの感覚は遠ざかっていく。
どうやらあれは、俺が「滑ろう」と意識していないときにだけ、こっそり顔を出すものらしい。
つかまえようとすると、するりと逃げる。まるで、足元の影みたいなやつだった。
帰りの車の窓から、夕焼けが見えた。
朝は冷たかった五月の空が、いまはオレンジ色にとろけている。
助手席の明彦は、見えないスケート靴で、足をしゃっしゃっと動かして遊んでいた。
二年前と、まったく同じ仕草だった。
「瀬理奈お姉ちゃん。今日の、すごくきれいだったよ」
「ほんと?」
「うん。なんか、音楽が、瀬理奈お姉ちゃんになったみたいだった」
音楽が俺になった、六歳の明彦がそんなことを言う。
俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。
その夜、夕飯のあとで、俺はリビングのピアノの前に座った。
橘の家にやってきて、もう二年半になるアップライトピアノ。
昼間に氷の上で滑った、あの三拍子の曲を、そっと弾き始めた。
鍵盤の上で指は、来る音を全部知っていた。
ドの少し上、二拍ぶん伸びる、最初のあの音。
昼間、氷の上で俺の背中を押してくれたのと、同じ音だった。
弾きながら、俺はようやく、ひとつのことに思い当たった。
——ああ、そうか。
氷の上であの数秒が生まれたのは、たぶん、このピアノのおかげだ。
来る音を先回りして待てるのも、旋律のかたちが身体に染みているのも、全部ここで覚えたものだった。
ピアノで耳を育てていなかったら、あの「気持ちいい」は、きっと生まれなかった。
スケートとピアノは、別々のものだと思っていた。
氷の上で滑るのと、鍵盤の前に座るのとは、まるで違う遊びだと。
でも、本当は地面の下で、根っこのところで、しっかり繋がっていたのだ。
ということは、だ。
もしいつか、ピアノをやめてしまったら。
氷の上のあの数秒も、きっと一緒に、痩せ細っていくのだろう。
それは、なんだか嫌だな、と俺は思った。
理由はうまく言えないけれど、あの数秒は、手放したくない。
だったら俺は、たぶんずっと、この鍵盤の前に帰ってくることになる。
氷の上で気持ちよく滑るために、ここで、耳を育て続けるために。
「瀬理奈、上手ねぇ。それ、なんて曲?」
台所から、母さんが食器を拭きながら顔を出した。
父さんも、新聞を下ろして、こちらに耳を傾けている。
俺は手を止めずに、ちょっとだけ振り返って答えた。
「今日、氷の上で流れていた曲」
「あら。氷の上で?」
「うん。これを弾いてるとね、昼の氷の上のことを思い出すの」
母さんは「そう」と、やわらかく笑った。
父さんは何も言わず、ただ目を細めて、俺の弾く音に聞き入っていた。
ピアノの音が、夜の静かなリビングに、ぽつぽつと落ちていく。
俺は、明日のことを少しだけ考えた。
学校に行けば、また斜め前の席から佑香ちゃんが俺を睨んでいるだろう。
たぶん明日も何かをしでかして、そして見事に失敗するに違いない。
あの子と二人で、ちゃんと話さなければならない日が近いうちに来る。
それは、たぶん簡単なことではない。
けれど今夜はピアノの音のおかげで、不思議とおだやかだった。
氷の上にも、鍵盤の上にも、ちゃんと帰る場所がある。
それだけで、もう十分だった。
最後の一音を、そっと鳴らして、俺は鍵盤からふわりと指を離した。
銀の天使と呼ばれた女の子が、氷の上に流れる楽譜と、初めて出会った日だった。