銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第二章 第四話 私の天使だったのに

ゴールデンウィークを目の前にして、四月の終わりの空は最近すっかり春のものになっていた。

校庭の桜はもう散ってしまって、かわりにチューリップなどが赤や黄を競うように咲いている。

入学式から三週間が経過したが、ようやく小学一年生の生態に少しずつ慣れてきていた。

 

佑香ちゃんの「嫌がらせ」は、相変わらず毎日のように続いて、相変わらず毎日のように失敗していた。

ただ、ここ数日で、ひとつだけ困ったことが起き始めていた。

誰が俺に嫌がらせをしているのか、その犯人が、いつのまにかクラスの外にまで知れ渡ってしまっていたのだ。

 

きっかけは、たぶんあの日、ひかりちゃんが悪口の紙を大きな声で読み上げてしまったことだったと思う。

それから子供というのは、噂が回るのが大人の想像よりずっと早い。

佑香ちゃんの不器用な嫌がらせは、本人こそ隠れているつもりでも、実はとっくに方々から見られていたようだった。

 

そのことに俺は、内心でひとつ舌打ちをした。

正直甘く見ていた、と思った。

あの失敗続きのいたずらを、俺はどこか微笑ましいものとして、自分と佑香ちゃんだけの内輪の問題で片付けるつもりでいたのだ。

 

けれど、子供の世界には、子供の世界なりの「正義」がある。

そして自分が正しいことをしていると信じている人間ほど、その行動はあっという間にエスカレートしていく。

前世でさんざん大人を見てきたはずの俺だったが、よりにもよってその一番厄介なところを見落としていた。

 

その日の昼休み、俺の机の中に、一枚の紙が入っていた。

 

今度は悪口ではなかった。

たどたどしいひらがなで、ただ一行、こう書かれている。

 

「ほうかご こうていのはじっこにこい ゆうか」

 

ふむ、と俺はその紙に再度目を通した。

ご丁寧に、差出人の名前まで添えてある。

これではもう果たし状のようだ。

嫌がらせをするにしては、ずいぶんと正々堂々としたやり方だった。

 

「……たぶん」

 

あの子なりに、何か思うところがあるのだろう。

こそこそやるのに、佑香ちゃん本人もそろそろ嫌気が差したのかもしれなかった。

 

放課後、俺はその紙の指示どおり、校庭のいちばん端へと足を向けた。

スケートの迎えが来るまでには、まだ少しだけ時間がある。

明彦には「せんせいに、ちょっとよばれてるの」と嘘をついて、俺はひとりで来ていた。

 

校庭の端は、古びた飼育小屋とフェンスに挟まれた、日のあたらない一角だった。

 

そこに着いて、俺は思わず足を止めた。

予想していたのとはまるで違う光景が、そこにはあったからだ。

 

佑香ちゃんが、いた。

ただし、ひとりではなかった。

背の高い男の子が三人、佑香ちゃんを半円に囲むようにして立っていた。

 

どの子も、俺たちより頭ひとつぶん以上背が高い。

たぶん三年生か四年生か、それくらいだろう。

そのうちのひとりが、佑香ちゃんに向かって、低い声で凄んでいた。

 

「おまえだろ。天使ちゃんに、いやがらせしてるやつ」

「……ちがう」

「うそつけ、みんな言ってるぞ。おまえが手紙とか、入れてるって」

 

佑香ちゃんはフェンスを背にして、唇をきゅっと噛んでいた。

二つに結んだ黒い髪の先が、わずかに震えている。

それでもあの子は、精一杯の虚勢を張って、男の子たちを睨み返していた。

 

「おれたち、天使ちゃんのファンなんだよ」

「あんな可愛い子いじめるとか、ありえないし」

「ちょっとさ、ここで謝る練習しとけよ。な?」

 

囲まれた佑香ちゃんが、ぐっと身を縮めるのが見えた。

半円がじりっと狭まって、男の子たちの影が、小さなあの子の上に覆いかぶさる。

——ああ、これだ。

 

これが、俺の見落としていたものの正体だった。

自分たちは正義の側にいて、相手は悪者なのだとこの子たちは心から信じきっている。

だからこそ、その「手加減」というものを彼らは知らない。

 

考えるより先に足を踏み出していた。

 

「——その子をいじめないで」

 

自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。

男の子たちが、いっせいにこちらを振り返る。

そして俺の顔を見た瞬間、三人が三人とも、ぎょっとしたように固まった。

 

「えっ……て、天使ちゃん……?」

「ほ、本物だ……」

「な、なんで、こんなとこに」

 

俺は、男の子たちと佑香ちゃんのあいだに、すっと割って入った。

小さな身体で佑香ちゃんを自分の背中にかばう。

振り返らなくても、背中越しに、あの子が小さく息を呑んだのが分かった。

 

「この子は、わるくないよ」

「で、でも、こいつは、天使ちゃんにいやがらせを……」

「うん、それは知ってる、でも――」

 

できるだけ静かな声で言った。

怒鳴っても、この子たちは引かない。

正しさに酔っている人間を止めるには、正しさよりも静けさのほうが効くと、俺は前世で知っていた。

 

「これは、瀬理奈と、佑香ちゃんの、二人の問題なの」

「ふたりの……?」

「うん。だから、もう、だいじょうぶ。ありがとう」

 

ありがとう、と頭を下げると、男の子たちは、ますますどう反応していいか分からなくなったらしい。

自分たちが守ろうとした当の本人に、こうも穏やかにお礼を言われて、振り上げた拳の下ろし場所を失っていた。

やがて三人は、ばつが悪そうに顔を見合わせて、ぼそぼそと何か言いながら、その場を離れていった。

 

最後のひとりが、去りぎわに俺をちらりと振り返って、ぺこりと頭を下げていったのが、なんだか少しおかしかった。

 

そうして、校庭の端の一角には、俺と佑香ちゃんの二人だけが残された。

 

フェンスにもたれたまま、佑香ちゃんはぽかんとした顔で俺を見ていた。

助かったという安堵よりも、信じられないという色のほうが、その目には濃く浮かんでいた。

にこりと笑いかけると、その顔がみるみるうちに歪んでいった。

 

「……なんでよ」

 

絞り出すような、小さな声だった。

 

「なんで、助けるのよ」

「だって、佑香ちゃんが困ってたから」

「困ってなんか……っ、なんで、なんでよ、瀬理奈ちゃん……!」

 

佑香ちゃんの声が、徐々に大きくなっていった。

握りしめた両手がぷるぷると震えている。

そして、堰を切ったように、佑香ちゃんは叫んだ。

 

「瀬理奈ちゃん、佑香のこと、おいてったのに……!!」

 

 

 

その叫びを聞いた瞬間、頭の中でばらばらだった欠片がかちりとひとつに繋がった。

 

ああ、そうか。

そういうことだったのか。

 

佑香ちゃんが俺に向けていた、あの厳しい視線。

毎日のように繰り返されては、毎日のように失敗していた、あの不器用な嫌がらせ。

あれは全部、俺のことが嫌いだから、ではなかったのだ。

 

逆だった。

まるっきり、逆だったのだ。

 

施設にいた頃、向かいの席で「おててつないでもらえるかなぁ」とはにかんでいた、あの子。

ひとりぼっちが怖くて、誰かと手を繋ぎたくて、でもそれをうまく言えなかった、あの子。

佑香ちゃんは、あの頃からずっと、俺のことが好きだったのか。

 

たぶん、施設にいた誰よりも。

銀色の髪が珍しいからとか、テレビに出たからとか、そんなことではなく。

ただ俺のことを、まっすぐに好きでいてくれていた。

 

だからこそ許せなかったのだろう。

あの日、俺だけが幸せそうな家に引き取られて、あの子をあの場所に置いていったことが。

「つないでもらえるよ、きっと」なんて無責任な言葉だけを残して、ひとりで行ってしまったことが。

 

好きだった子が、自分を置いて、先に幸せになってしまった。

そのうえ「銀の天使」なんてもてはやされて、たくさんの人に囲まれて笑っている。

六歳の小さな胸には、その全部が抱えきれないくらい大きかったに違いない。

 

嫌がらせなんかじゃなかった。

あれは置いていかれた子供の、精一杯の「こっちを見て」だったのだ。

紙きれ一枚ぶんの、不器用で痛々しい、抗議だったのだ。

 

俺はぐっと奥歯を噛んだ。

 

前世で大人の世界を見てきたなんて、何を偉そうに思っていたんだろう。

この子の気持ちひとつ、こんなに近くにいてちっとも分かっていなかった。

甘く見ていたのは、嫌がらせの危なさだけじゃない。

俺は、佑香ちゃんという子そのものを、ずっと甘く見ていたのだ。

 

「佑香ちゃん」

「っ……」

「ごめんね」

 

俺がそう言うと、佑香ちゃんは、びくりと肩を震わせた。

 

「ずっと、ごめんね。瀬理奈だけ、お家に行っちゃった」

「……」

「『つないでもらえるよ』なんて、勝手なことを言って」

 

言葉にすると、あらためて、ひどい置き土産だったと思った。

繋いでもらえる保証なんて、どこにもなかったのに。

 

「寂しかったよね。怖かったよね」

「……っ、う」

「本当にごめんなさい。佑香ちゃんのことを置いてって、ごめんね」

 

佑香ちゃんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

一度こぼれ出すと、もう止まらなかった。

あの厳しかった睨みも、二つ結びの虚勢も、何もかもが溶けていく。

あとに残ったのは、ただ泣きじゃくる小さな女の子だった。

 

「うぅっ……瀬理奈ちゃん、行っちゃった……っ」

「うん」

「佑香、毎日、まいにち、まってたのに……っ!」

 

その言葉が、胸に刺さった。

遊びに来てくれる、と。

この子は三年ものあいだ、ずっと、俺が来るのを待っていてくれたのだ。

 

「テレビ、見たのっ。瀬理奈ちゃん、笑ってっ」

「うん」

「ピアノも、スケートも、すごいねって、みんな言ってた……っ。なのに、佑香のこと、ぜんぜん……っ!」

 

もう何も言えなかった。

そのかわりに、俺は両腕を伸ばして、その小さな身体を、ぎゅっと抱きしめた。

 

佑香ちゃんの身体は思っていたよりずっと細くて、そしてかたかたと震えていた。

腕の中で佑香ちゃんが一瞬だけ、びくりと身を硬くする。

それから堪えきれなくなったように、俺の肩に顔を埋めて声をあげて泣き出した。

 

「うわぁぁんっ……!」

「うん。いいよ。泣いていいよ、ごめんね佑香ちゃん」

「瀬理奈ちゃぁんっ!」

 

俺は、あの子の背中を、ぽんぽんと、ゆっくり叩いてやった。

 

幼稚園の頃、明彦がプールで泣いたとき、こうやって背中をさすってやったことがあった。

俺はどうやら、こういうことだけは、前世から得意らしかった。

子供を泣き止ませること。

本当は父親として、明彦にしてやりたかった、そのやり方。

 

「本当にごめんね、佑香ちゃん。もう、置いてかないよ」

「……ほ、ほんと……?」

「本当。約束する」

 

俺は、抱きしめていた腕を少しだけ緩めて、あの子と目を合わせた。

そして、小指を一本、すっと差し出してみせる。

今度は絶対に守れる約束として。

 

「ゆびきり、しよ」

「……っ、うん」

 

涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、佑香ちゃんがおずおずと小指を絡めてきた。

小さくて、まだ少し震えている、温かい小指だった。

ゆびきりげんまん、と二人で歌う声が、誰もいない校庭の隅に、ぽつぽつと落ちていった。

 

「うそついたら、はりせんぼん、のーます」

「のーます」

「ゆーびきった」

 

指を離すと佑香ちゃんは、ぐすぐすと涙のあとを拭いながら、はじめてほんの少しだけ笑った。

泣き腫らした目で、不器用だったけど、それでも確かに笑ったのだ。

その顔を見てようやく、入学式からずっと喉に刺さっていた小骨が取れた気がした。

 

「あのね、佑香ちゃん」

「なぁに……?」

「これから、スケートに行くんだけど。いっしょに、見に来ない?」

 

佑香ちゃんが、きょとんとした顔で、目をぱちくりさせた。

 

 

 

スケートに佑香ちゃんを連れていきたい、と俺が頼むと、母さんは少しだけ驚いた顔をして、それからやわらかく笑った。

 

「お友達? もちろんいいわよ」

「うん、教室の子。ゆうかちゃん」

「あら、可愛い名前ね。おうちの人に、ちゃんと連絡できるかしら」

 

佑香ちゃんは、自分の付き添いの大人の人——あとで聞いたところ、その人は佑香ちゃんを引き取った義理のお母さんだった——に、母さんが丁寧に電話をかけてくれて、一緒に来られることになった。

電話越しでも分かるくらい、その義理のお母さんは佑香ちゃんに友達ができたことを、心から喜んでいるようだった。

佑香ちゃんもまた、家に引き取られたのだと、俺はそこで初めて知った。

 

置いていかれた子供同士だったけれども、二人とも、ちゃんと迎えに来てもらえた。

そのことが、なんだか、無性に嬉しかった。

 

「区民スケートクラブ」の色あせた看板を見て、佑香ちゃんは目を丸くしていた。

建物に一歩入ると、削られた氷の匂いが頬を撫でる。

佑香ちゃんは、その冷たさに、ひゃっ、と小さく肩をすくめた。

 

「うう、寒い……」

「でしょ。でも、滑ると楽しいよ」

「瀬理奈ちゃん、ここで、テレビのやつ、滑ったの?」

「うん。ここで、はじめてすべったんだ」

 

明彦は、いつもの手すりの内側のベンチで、不思議そうに俺と佑香ちゃんを見比べていた。

それもそうだ。

今朝まで俺に嫌がらせをしていたはずの子が、隣でちょこんと座っているのだから無理もない。

それでも明彦は何も言わずに、ただ「……こんにちは」と、ぺこりと小さく頭を下げた。

 

「あ……こ、こんにちは」

「僕は瀬理奈お姉ちゃんの、弟みたいなの」

「? 弟みたいなの……?」

 

明彦のいつもの自己紹介に、佑香ちゃんが目をぱちくりさせていた。

思わず吹き出しそうになって慌てて口元に力を入れた。

ともあれ、これで観客がひとり増えたわけだ。

 

俺は更衣スペースで自分の靴に履き替えて、リンクサイドへと出た。

 

ひかりが、もう氷の上から大きく手を振っている。

俺はその手に振り返してから、手すりの向こうの佑香ちゃんに、声をかけた。

 

「佑香ちゃん、見ていてね」

「……うん」

「これが今、瀬理奈が一番好きなことだよ」

 

刃の先を、そっと氷の上に下ろす。

 

いつものように、世界から音と質量が、すうっと薄れていく。

 

子供たちのざわめきも、照明の低い唸りも、母さんの話し声も。

全部が冷たい空気のなかへ吸い込まれて、自分の呼吸と心音だけが、はっきりと残った。

何十回くり返しても、この感覚だけは、いっこうに慣れなかった。

 

軽く右足で氷を蹴ると、身体は一本の線になって、すうっと前へ滑り出した。

ターンをして、片足を上げて、また滑る。

ブレードが氷を削るシャッという音が、拍子のように俺の動きを支えていた。

 

「うわぁ……っ」

 

手すりの向こうで、佑香ちゃんが声にならない声を漏らすのが聞こえた。

薄まった世界のなかでも、その小さなため息を、俺の耳はちゃんと拾い上げる。

俺は速度をあげて、リンクをぐるりと、大きくひと回りした。

 

「瀬理奈ちゃん、すごい……っ!」

 

ふいに、佑香ちゃんが手すりから身を乗り出して、大きな声で叫んだ。

 

「すごいよ、瀬理奈ちゃん……っ!!」

 

それは、今日初めて聞く、あの子のまっすぐな声援だった。

 

睨むのでも虚勢を張るのでもない。

心の底から、俺のことを「すごい」と思ってくれている、その声。

施設の食堂で、本当はずっと言いたかったのかもしれない、その声。

 

その声を聞いた瞬間、俺の身体の奥で、何かが、とん、と弾けた。

 

応えたい、と思った。

理屈ではなく、身体のほうが、勝手にそう言っていた。

この子の、三年ぶんの「すごい」に、ちゃんと応えたい、と。

 

滑りながら、前を向く。

 

これまで跳んできたのは、後ろ向きに踏み切る小さめのジャンプばかりだった。

でもこのとき、俺の身体は、前を向いて跳びたがっていた。

前を向いて、空に向かって、まっすぐに。

 

そう。

 

その名前は、もう永田さんに教えてもらっている。

難しいよとも言われていた。

でも、出来ないなんて、ちっとも思わなかった。

 

足のエッジに、ぐっと体重を乗せる。

そのまま、前へ、上へ。

氷を、思いきり、蹴り上げた。

 

ふわり、と身体が宙に浮いた。

 

それは、これまでとは比べ物にならないくらい、高いジャンプだった。

浮いているあいだに、銀色の髪が、視界の端でくるりと一回転する。

世界がまるごと、一度、回った。

 

しゃっ。

 

着地の音は、たったひとつ。

後ろ向きに伸ばした右足のエッジが、寸分の狂いもなく、白い氷を捉えていた。

跳び箱の着地と、同じだった。

 

リンクが、しんと静まり返る。

 

そして次の瞬間、佑香ちゃんの声が、その静寂を突き破った。

 

「すごーーいっ!! 瀬理奈ちゃん、すごーいっ!!」

 

手すりの向こうで、佑香ちゃんが、ぴょんぴょんと跳ねていた。

さっきまで校庭で泣いていたのが嘘みたいに、顔じゅうで笑って両手を振り回している。

その隣で永田さんが、また腕に手を当てて、ぞわりと鳥肌を確かめていた。

 

「……アクセルだ。いま、瀬理奈ちゃん、アクセルを跳んだぞ」

「アクセル?」

「ああ。前を向いて踏み切る、いちばん難しいジャンプだよ。難しいよって言っていたのに……」

 

永田さんが、明彦の疑問に答えながらぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて、嬉しそうに天を仰いだ。

その様子を見ながら、俺は手すりのほうへ滑り寄っていった。

 

佑香ちゃんは、頬を赤くして、きらきらした目で俺を見上げていた。

それから、ぽつりと、こう呟いた。

 

「……やっぱり、瀬理奈ちゃんは、佑香『だけ』の、天使なんだ」

 

その「だけ」に、妙に力がこもっていた。

ところが、それを聞きとがめた者がすぐ隣にいた。

 

ベンチに座っていた明彦が、ぴくりと眉を動かして立ち上がったのだ。

 

「……ちがうよ」

「えっ」

「せりなおねえちゃんは、ぼくの……ぼくだけの、てんしさまだもん」

 

普段は人見知りで滅多に自己主張しない明彦が、本当にめずらしく、きっぱりとそう言いきった。

栗色の髪の下で、その耳が、ほんのり赤くなっている。

たぶん本人も、つい口が滑ってしまったのだろう、しまったという表情があふれている。

 

「僕だけ、って……瀬理奈ちゃんは、佑香のなんだから!」

「違うもん。僕が先だもん」

「佑香のほうが、先だもん! 施設の時から、ずっといっしょだったんだもん!」

 

二人が、俺を真ん中に置いて、火花を散らし始めた。

施設からの付き合いを主張する佑香ちゃんと、物心ついたときから一緒だと言い張る明彦。

小さな子供二人の、世にも可愛らしい縄張り争いだった。

 

「あの、ふたりとも……ね?」

「「瀬理奈ちゃん(お姉ちゃん)は、こっちのっ!」」

 

口を挟む隙もない。

どちらも一歩も譲らず、俺の腕を片方ずつ取り合っている。

なかなか前途多難だな、と内心で苦笑するしかない。

 

ところがその勝負には、まったく予想外の伏兵がいた。

 

シャーッ、と勢いよく氷を切る音がして、ひかりが猛スピードで滑ってきたのだ。

そしてリンクの縁から、ひょいと身を乗り出すなり、両腕を俺の首にぎゅっと回した。

 

「てんしさんは、ひかりのともだちー!」

「「あっ」」

 

呆気にとられる佑香ちゃんと明彦をよそに、ひかりは満面の笑みで俺に抱きついている。

争っている二人の、さらにその先を、横からあっさり攫っていったのだ。

俺は、思わず声をあげて笑ってしまった。

 

天使なんて柄じゃない。

でも、こうやって誰かが俺を「自分の」と取り合ってくれるのは、悪い気はしなかった。

二度目の人生は、どうやら、思った以上に賑やかにできているらしい。

 

 

 

そんなことがあって、ゴールデンウィークのよく晴れた日。

 

俺は、両親と一緒に、車に乗っていた。

後ろの席には明彦と愛奈、そして別の車には佑香ちゃんとその義理のご両親。

二台に分かれて、俺たちはある場所へと向かっていた。

 

「桐生学園」。

 

俺が三歳まで過ごした、あの児童養護施設だった。

佑香ちゃんと二人で「いっしょに行こう」と約束して、両親に頼んだのだ。

置いてきた場所に、今度はちゃんと帰る家を持った二人で、もう一度行ってみたかった。

 

施設の門をくぐると、井之上園長が玄関先で待っていてくれた。

 

「おやおや。瀬理奈ちゃんに、佑香ちゃん。ずいぶん大きくなったねぇ」

「園長先生、お久しぶりです」

「こんにちは」

 

園長先生は、白くなった髪をかきあげながら、目を細めて俺たちを見た。

二人とも、それぞれの両親に手を引かれて立っている。

その光景を見て、園長先生は、ほう、と深く息をついた。

 

「よかった。本当に、よかった」

 

園庭では、今の子供たちが、きゃあきゃあと駆け回っていた。

あの頃の俺や佑香ちゃんと、何ひとつ変わらない、小さな子供たち。

そのうちの一人がぱたぱたと駆けてきて、俺の銀色の髪を、不思議そうに見上げた。

 

「おねえちゃん、かみのけ、きらきらしてる」

「うん。生まれつきなの」

「てんしさんみたい!」

 

その子が無邪気にそう言うのを聞いて、佑香ちゃんがぷっと吹き出した。

それから俺の手をぎゅっと握って、その子に向かってちょっとだけ得意げに言った。

 

「でしょー? でもね、この天使さんは、佑香のおともだちなんだから」

 

握られた手は、もう震えてなんかいなかった。

あたたかくて、しっかりとした、友達の手だった。

俺もその手を握り返して、五月の空を見上げた。

 

置いてきたつもりの場所は、ちゃんと温かいままでそこにあった。

そして俺は今、ひとりではなく、たくさんの手に繋がれてここに戻ってきていた。

 

私の天使だったのに、と、あの子は俺を呼んだ。

でも、

迎えに来てもらえなかった佑香ちゃんの寂しさを、こうして二人で笑い飛ばせるようになったほうが、よっぽど奇跡みたいな出来事だった。

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