銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
七月に入って、教室の窓辺には朝顔の鉢がずらりと並んでいた。
生活科の時間に一年生が育てている朝顔は、ちょうどいまが花盛りだった。
青や紫の花が朝の光を浴びて、ラッパみたいに大きく口を開けている。
俺の鉢の朝顔も、今朝はいっぺんに三つも咲いていた。
そんな七月のある日、俺のクラスは朝からいつにも増してそわそわしていた。
理由は考えるまでもない。
今日はいよいよ、待ちに待ったプール開きの日なのだ。
「ねえねえ、プールのお水、つめたいかなあ」
「ぼく、顔を水につける練習してきたもん」
「わたし、新しい水着、買ってもらったんだー」
朝の会が始まる前から、教室のあちこちはプールの話で持ちきりだった。
男の子たちはバタ足の真似をして、女の子たちは新しい水着の自慢をし合っている。
小学一年生にとって初めての小学校のプールというのは、それだけで一大事件になるらしい。
俺も内心ではこのプールをそこそこ楽しみにしていた。
スイミングの習い事はもう何年も続けているし、水はむしろ好きな場所だ。
氷の上とはまた違う、あの水を掻く感覚も嫌いではなかった。
一時間目の前、担任の先生がぱんぱんと手を叩いた。
「はーい、みんな席についてー。今日はプールだから、これからお着替えしますよ」
「「はーい!」」
「女の子は廊下のつきあたりの更衣室でね。男の子は、この教室で着替えましょう」
先生がそう言うと、教室がわぁっと沸いた。
女の子たちは着替え袋を手に、ぞろぞろと廊下へ出ていこうとする。
男の子たちのほうは、さっそく体操着入れの口を勢いよく開け始めた。
俺も、机の横にかけておいた着替え袋を手に取った。
中には母さんが用意してくれたスクール水着が入っている。
もっともその水着なら、実のところ俺はもう服の下に着込んでいた。
水着の着替えに手間取るといけない。
ならば最初から下に水着を着ていいじゃないか、と。
合理的だ、とその発想に我ながら素晴らしいとさえ思っていた。
ならば、話は早い。
上の服さえ脱いでしまえば、それでもう準備は完了なのだから。
俺は何の気なしに、その場でTシャツの裾に手をかけた。
思えば、俺がまだ子供だった三十年くらい昔は、当たり前の光景だった筈。
低学年のうちは男も女も、教室でいっしょくたに着替えていたような覚えがある。
だから俺の頭の中では、ここでぱっと脱ぐことに何の引っかかりもなかったのだ。
そう、俺はすっかり忘れていたのだ。
いまの俺が銀色の髪をした、れっきとした女の子であることを。
そして、いまがもう昭和ではないということを。
俺は、すぽっと、Tシャツを半分ほどたくし上げた。
——その瞬間だった。
「「——ちょっ、ちょっとぉ、瀬理奈ちゃん!!」」
廊下へ出かけていたはずの女の子たちが、血相を変えて駆け戻ってきた。
その先頭を切っていたのは、なんと、あの佑香ちゃんだった。
二つ結びの髪を揺らして、俺のところへまっすぐ突進してくる。
「な、なにしてるの! ここ、男の子だっているでしょ!」
「へ?」
「めくっちゃだめ! だめだめだめ!」
佑香ちゃんはたくし上げた俺のTシャツを、慌ててぐいっと引っぱり下ろした。
その顔は、なぜか自分のことのように真っ赤になっている。
俺は何が起きたのかも分からないまま、きょとんと立ち尽くすしかなかった。
「瀬理奈ちゃん、だめだよー! お着替えは、あっちあっち!」
「あっち?」
「女の子はね、あっちのお部屋でするのー! ほら、いっしょにいこ!」
ひかりが、俺の反対側の腕をぐいぐいと引っぱってくる。
気づいたときには、俺は何人もの女の子たちにぐるりと囲まれていた。
まるで大事なものを隠すみたいに、小さな背中がいくつも俺の周りに集まってくる。
「みんなー、瀬理奈ちゃんかくして!」
「こらー! 男子、見ちゃだめーっ!」
「はやくはやく、つれてこー!」
女の子たちは口々にそう言いながら、俺をわっせわっせと運んでいく。
小さな身体がいくつも壁になって、俺の姿を男の子たちの視線から遮っていた。
俺はもう、されるがままに、ずるずると廊下のほうへ引きずられるしかなかった。
ああ、そうだった。
いまのご時世、こういうのは、だめなんだったな。
所々で顔を出す三十年前の感覚のままでいた自分を、俺は心の中でこっそり叱りつけた。
教室を出ていく間際、ちらりと振り返ってみた。
すると明彦が、目をまんまるにしたまま、その場で完全に固まっていた。
ほかの男の子たちも、何人かはぽかんと口を開けて、こちらを見送っている。
うん、まあ、そうなるよな。
俺は引きずられながら、そっと遠い目になった。
何と言うか、すまん。
更衣室は、女の子たちの熱気でむわっとしていた。
引き戸が閉まると、男の子たちの視線からはようやく解放された。
俺は、ふう、と小さく息をついて、着替え袋を床に下ろす。
連行されるみたいに運ばれてきたが、まあ結果としては正しい場所に落ち着いたわけだ。
ここでなら、さすがに脱いでも問題はないだろう。
俺はTシャツを頭から抜いて、すとんと脱いだ。
下にはもう、紺色のスクール水着をきっちり着込んである。
——はずだったのだが。
「わぁ……瀬理奈ちゃん、肌しろーい!」
「ほんとだー! 雪みたい!」
「腕もほそーい!」
水着になった俺のまわりに、女の子たちがわっと集まってきた。
何人もの小さな顔が、きらきらした目でぐいぐいと俺を覗き込んでくる。
正直なところ、俺としてはこの状況のほうが、よっぽど居心地が悪かった。
「ねえねえ、触ってもいい?」
「だめだよ、瀬理奈ちゃん困ってるもん」
「でもでも、お姫さまみたいなんだもん!」
そのうちの一人が、俺の肩のあたりを、つんつんとつついてくる。
別の子は銀色の髪を一房そっと手に取って、うっとりと眺めている。
動物園のめずらしい動物にでもなった気分とは、まさにこのことだった。
「あっ、見て見てー。瀬理奈ちゃん、おっぱい、ちょっとふくらんでるー!」
「ほんとだー!」
「えー、いいなあ!」
……いや、膨らんでなどいない。
六歳の身体は、どこからどう見ても、まっ平らだった。
そのはずだ、たぶん。
子供というのは、ときどき、ありもしないものを見つけて大騒ぎする。
俺は前世で三十年生きてきたが、こんな種類の羞恥は、人生で初めて味わった。
できることなら、いますぐ氷の下にでも潜って隠れてしまいたい気分だった。
そんな騒ぎを、少し離れたところからじっと見ている子がいた。
佑香ちゃんだった。
口を真一文字に結んだまま、その頬が、だんだんとふくれていく。
やがて佑香ちゃんは、つかつかと俺たちのあいだに割って入ってきた。
そして俺にくっついていた女の子たちを、両手でぐいぐいと押しのける。
その顔には、はっきりと「面白くない」と書いてあった。
「もう、みんな、瀬理奈ちゃんにくっつきすぎ!」
「えー、いいじゃーん」
「よくない! 瀬理奈ちゃんが、困ってるでしょ!」
佑香ちゃんはぷいっと顔をそむけながら、なぜか俺の腕をぎゅっと抱え込んだ。
こまっている俺を助ける、という大義名分のようだった。
その腕の力は、助けるというより、誰にも渡さないという感じに近かった。
「瀬理奈ちゃんは……その、佑香の、おともだちなんだから」
「ふふ。ありがとう、佑香ちゃん」
「べ、べつに、お礼なんて、いらないし」
お礼を言うと、佑香ちゃんはますますそっぽを向いてしまった。
けれども俺の腕を抱える手だけは、いっこうに緩めようとしない。
この独占欲の強さは、たぶん長いこと置いて行かれたことの裏返しなんだろう。
施設にいた頃、この子はずっと、誰かと手を繋ぎたがっていた。
だからいまは、ようやく繋げた手を、もう二度と離したくないのだ。
そう思うと、少しわがままな抱きつき方もなんだか憎めなかった。
元は自分の蒔いた種になるし。
「……瀬理奈ちゃん。プールでも、佑香のとなり、ね」
「うん。いいよ」
「ぜったいだからね。ぜーったい」
一方その頃、女の子たちが出ていった教室では。
着替えを始めた男の子たちが、なぜだか一か所に固まっていた。
その輪の真ん中にいるのは、栗色の髪をした明彦だった。
体操着入れから水着を出したまま、明彦は所在なげにそこへ座っている。
「なあなあ、明彦?」
「……なに?」
「おまえ、天使ちゃんと、なかいいんだろ?」
そう聞いてきたのは、同じクラスの陸という男の子だった。
クラスでいちばん背が高くて声も大きい、人気者の男の子だ。
ほかの男の子たちも興味しんしんで、明彦の顔を覗き込んでくる。
「なかよくは……ある、けど」
「やっぱり! なあ、ほんとにテレビ出たの? 天使ちゃん」
「うん。出たよ」
明彦が短くそう答えると、男の子たちが「おおー」とどよめいた。
テレビに出た子と知り合いの、そのまた友達。
それだけのことで、男の子たちの目はきらきらと輝いていた。
「すげー! ピアノも、スケートも、ほんとうなんだろ?」
「うん。ほんもの」
「いいなあ。おれも、天使ちゃんと話してみたいなあ!」
別の男の子が、うらやましそうにそう言った。
すると、それまで黙っていた小柄な男の子がおずおずと口を開いた。
その子は給食の時間にいつも一人で本を読んでいる、おとなしい子だった。
「ぼくね……このまえ廊下で、ぶつかっちゃったんだ。天使ちゃんに」
「えっ、いいなあ!」
「そしたら、『だいじょうぶ?』って、わらってくれて……」
その子は、思い出すだけで照れたように、もじもじと身をよじった。
ほかの男の子たちが「ずるい!」「いいなあ!」と口々に騒ぎ立てる。
どうやらこのクラスの男子は、そろいもそろって、銀の天使に弱いらしかった。
明彦は、その様子を、少し複雑な気もちで眺めていた。
せりなおねえちゃんがすごいのは、もちろん、ちゃんと知っている。
みんなが憧れるのも、当たり前のことだと思う。
誇らしい気もちが半分、もう半分はなんだかもやもやした気もちだった。
みんなが「天使ちゃん」「天使ちゃん」と呼ぶたびに。
明彦の胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりとする。
その正体が何なのか、六歳の明彦には、まだうまく言葉にできなかった。
「なあ、明彦。こんど、天使ちゃんに、あそぼうって言ってよ」
「……やだ」
「えー、なんでだよー」
明彦がぼそっと、けれどはっきりとそう言った。
陸が、不満そうに口をとがらせる。
明彦は水着をぎゅっと握ったまま、視線を床に落としていた。
言葉にはできないけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
せりなおねえちゃんは、みんなの天使なんかじゃないんだ。
心のいちばん奥で明彦は、いつものようにそっとこう呼んでいた。
——ぼくの、ぼくだけの、てんしさま。
プール開きの空は、雲ひとつなく晴れわたっていた。
学校のプールは、校舎の屋上にあった。
青く塗られた水面が七月の日差しを受けて、きらきらと細かく光っている。
水の匂いと消毒薬のつんとした匂いが、生ぬるい風に混じっていた。
準備運動を終えた一年二組の子供たちが、順番にプールへ入っていく。
まだ深いところは禁止で、腰くらいまでの浅いゾーンだけ。
それでも初めてのプールに、みんなきゃあきゃあと大はしゃぎだった。
「つめたーい!」
「きもちいー!」
「ねえ見て、ばしゃばしゃできるよ!」
俺も、そろそろと水の中に足を入れた。
ひんやりとした水が足首を包んで、それから腰まで上がってくる。
スイミングで慣れた水とは温度が違うが、この浅さなら、転ぶ心配もない。
水の中というのは、不思議と心が軽くなる場所だ。
氷の上ほどではないけれど、ここにも俺の好きな感覚がたしかにあった。
そんなことを考えていると、横から勢いよく水しぶきが飛んできた。
「せりなちゃーん、いっしょにあそぼ!」
ひかりだった。
両手でばしゃばしゃと水を掻いて、満面の笑みで突進してくる。
ピンクの水着の肩ひもが片方ずれているのにも、本人は気づいていない。
「ひかりちゃん、げんきだね」
「うん! ねえねえ、せりなちゃん、お顔つけれる?」
「うん、つけれるよ」
「ほんと? じゃあ、いっしょにやろ! せーの、で!」
「うん。せーの」
二人で顔を見合わせて、せーの、と声を合わせる。
そして同時に、ぱしゃっと水の中へ顔をつけた。
青くて静かな水の世界が、目の前にゆらゆらと広がる。
ひかりは三秒ほどで、ぷはっと勢いよく顔を上げた。
俺はそのまま、もう少しだけ水の中にいてみた。
肺の中の息は、相変わらず、いくらでも深く続いていく。
ゆっくり顔を上げると、ひかりが目をまんまるにしていた。
「せりなちゃん、ながーい! すごーい!」
「ふふ。スイミングで習ってるから」
「いいなあ! ねえ、もういっかい! もういっかいやろ!」
ひかりは、すっかり水遊びに夢中になっていた。
俺の手をぐいぐい引っぱっては、あっちこっちへ連れ回す。
気づけば俺は、また今日も、ひかりにすっかり攫われてしまっていた。
そんな俺たちの様子を、プールの縁から見ている二人がいた。
ひとりは、佑香ちゃん。
プールの壁に手をかけたまま、唇をとがらせている。
本当は自分が隣にいるはずだったのに、とその顔には書いてあった。
もうひとりは、明彦。
こちらも壁ぎわで、水につかったまま、じっと俺を見つめている。
栗色の前髪が濡れて、おでこにぺたりと貼りついていた。
佑香ちゃんが、ぽつりとつぶやいた。
「……いいなあ。せりなちゃんは、佑香の天使なのに」
その小さなつぶやきを、明彦の耳がしっかり拾っていた。
明彦は、ぴくりと眉を動かして、佑香ちゃんのほうを見る。
そして、負けじとばかりに、ぼそりと言い返した。
「……ちがうもん。せりなおねえちゃんは、ぼくの天使さまだもん」
「えっ」
二人の視線が、ばちっと音を立ててぶつかった。
「……いま、なんて言った?」
「ぼくの、てんしさまだって、言ったの」
「ちがうもん! せりなちゃんは、佑香のなんだから!」
水の中で、二人がぐぐっと睨み合いを始める。
かたや施設からの付き合いを主張する佑香ちゃん。
かたや物心ついたときからそばにいたと言い張る明彦。
「佑香のほうが、せりなちゃんと、ながーくいっしょなの!」
「ぼくのほうが、せりなおねえちゃんと、たくさんいっしょだもん!」
「佑香だもん!」
「ぼくだもん!」
ひかりに引っぱられながら振り返ると、その光景が目に入った。
プールの隅で、明彦と佑香ちゃんが、額をつき合わせて火花を散らしている。
普段は人見知りで無口な明彦が、こんなにムキになるのは本当に珍しい。
そして佑香ちゃんはと言えば、もはやいつものことだった。
俺は、思わず、深いため息をついた。
そもそも、この二人は今日が初対面でもなんでもない。
スケートリンクでも教室でも、もう何度も顔を合わせている。
それなのに顔を合わせるたび、なぜか毎回こうして角を突き合わせるのだ。
考えてみれば、おかしな話だった。
二人とも、根っこのところは、よく似ているのに。
ひとりぼっちの寂しさを知っていて、だからこそ繋いだ手を離したがらない。
本当なら、いちばん分かり合えそうな二人だった。
それがどういうわけか、俺を真ん中に置いて毎度こうして睨み合っている。
——なんでこの二人は、こんなに敵対してるんだ。
俺には、さっぱり分からなかった。
「ふたりとも、けんかしないのー」
「「だって!」」
声をそろえてこっちを向いた二人が、まったく同じ顔で頬をふくらませた。
そのハモり方の見事さに、俺はもう笑うしかなかった。
ほら、やっぱり、似た者同士じゃないか。
「あははっ、ふたりとも、おそろいー!」
横で、ひかりが無邪気に手を叩いて笑った。
その瞬間、明彦と佑香ちゃんが、はっと我に返ったように口を閉じる。
そしてこんどは二人そろって、ひかりのほうをじとっと睨んだ。
どうやら、共通の敵を見つけたらしい。
さっきまで睨み合っていたくせに、現金なものだった。
俺は青い水面を見上げて、もう一度だけ、肩をすくめた。
七月の屋上に、夏の光が、いっぱいに降りそそいでいた。
天使なんて柄じゃない、と俺は今日も思う。
それでも、こんなふうに何人もが「自分の」と取り合ってくれる毎日は。
銀の天使にはもったいないくらい賑やかで、悪くなかった。