銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
七月も半ばを過ぎて、教室の空気はもうすっかり夏のものになっていた。
窓辺に並んだ朝顔の鉢は、相変わらず毎朝あたらしい花をいくつも咲かせている。
黒板の隅には「あと三日で夏休み」と大きく書かれていて、それを見るたびにクラス中がそわそわと浮き足立っていた。
給食を食べ終えた昼休み、俺の机のまわりには、いつもの顔ぶれが集まっていた。
明彦と、佑香ちゃんと、ひかり。
この三人と俺とで、このクラスの隅っこは毎日それなりに賑やかだった。
「ねえねえ、みんな、夏休みはどっか行くー?」
口火を切ったのは、やっぱりひかりだった。
椅子を後ろ向きにして俺の机にあごを乗せ、きらきらした目でみんなを見回している。
夏休みの話となれば、この子が黙っていられるわけがなかった。
「わたしね、おじいちゃんちで、花火するの!」
「いいなぁ、花火」
「閃光花火も、するんだよ! いっしょにやろうって、おじいちゃんが!」
ひかりは身振り手振りを交えて、花火の素晴らしさを力説した。
聞いているこっちまで、なんだか夏の匂いが漂ってくるみたいになる。
線香花火の最後の玉がぽとりと落ちる、あの瞬間を俺もちょっとだけ思い出した。
なんだかひかりちゃんは勘違いしている様子だが、こちらの思い違いかもしれないので指摘はしない。
「佑香ちゃんは、どこか行くの?」
「……佑香は、おとうさんと、おかあさんと、海」
「海! いいなぁ!」
佑香ちゃんは少し照れたように、二つ結びの先をいじりながら答えた。
おとうさん、おかあさん、というその言葉を、佑香ちゃんはまだ少しだけ大事そうに口にする。
義理のご両親に引き取られて、その呼び方にもようやく慣れてきた頃なのだろう。
「みんな、楽しそうだね」
「瀬理奈ちゃんは? 瀬理奈ちゃんは、どこ行くの?」
ひかりが、ずいっと身を乗り出してきた。
四つの目が、いっせいに俺へと集まる。
俺は机の上を片付ける手を止めて、ちょっとだけ考えてから答えた。
「えっと、瀬理奈はお盆に、大阪のおばあちゃんちに行くの」
「おおさか! とおい?」
「うん、遠いよ。新幹線で行くんだって」
大阪のおばあちゃん、というのは、もちろん前世の祖母のことだ――今世でも戸籍上は祖母だけど。
春に二年ぶりに東京へ出てきてくれた、あの薄紫のカーディガンの人。
膝が痛いだの大阪は遠いだのと言っていたあの人に、今度はこっちから会いに行く番だった。
「でもその前に、もう一つ行くところがあるの」
「もうひとつ?」
「うん。愛奈さんと二人で、おっきいイベントに行くんだ」
流石に、あえて直接的な表現は避ける。
「イベント? なになに、お祭り?」
「ううん、お祭りじゃなくて……えっとね、本とか絵が、いっぱい売ってるところ」
「本が、いっぱい?」
「うん。日本中から、すっごくたくさんの人が、集まるの」
ひかりと佑香ちゃんが、きょとんとした顔を見合わせた。
本がたくさん売っている場所、と言われても、六歳にはいまいちピンとこないらしい。
あの場所を一言で子供に説明するのは、何度も通っていた俺でも、なかなか難しかった。
正直に打ち明けてしまおう。
本と絵のお祭り――それはコミケのことだった。
年に二度、数十万人が一斉に押し寄せる、世界でもいちばん大きな同人誌の即売会。
前世の俺は、その会場の片隅に机をひとつ借りて、自分の描いた本を売っていた側の人間だった。
前世で何を描いていたのかは秘密である、それは墓場まで持っていくと決めている。
ただひとつ確かなのは、俺はそこで隣のサークルにいた一人の女の子と知り合ったということだ。
それが――愛奈だった。
あれから、もう十年以上が経つ。
社会人になってからは足が遠のいていたし、結婚して、子供が生まれる直前に俺は死んでしまった。
だからあの会場に立つのは、本当に、ずいぶんと久しぶりのことになる。
実を言うと、もう少し前からずっと行きたいと、俺は愛奈にこっそりせがんでいた。
けれど去年の俺はまだ幼稚園児で、あの人混みは早すぎると、あっさり却下されていたのだ。
それが今年、晴れて小学生になったことで、ようやく愛奈の許可が下りたというわけだった。
「いいなぁ! わたしも行きたい!」
「ずるい! 佑香も、行きたい!」
案の定、ひかりと佑香ちゃんが、いっせいに身を乗り出してきた。
本がいっぱい、たくさんの人、というだけで、二人の好奇心にはもう火がついてしまったらしい。
俺は、内心でそっと頭を抱えた。
困ったな、と思う。
あの会場は、たしかに本がいっぱい売っている。
ただその本の中には、純粋な六歳の女の子に見せるには刺激が強すぎる――と言うか捕まるようなものも、山のように混じっているのだ。
「うーんとね……ごめんね。今回は、愛奈さんと二人だけの、お約束なの」
「えー!」
「すっごく人が多いんだ。だからみんなで行くと、愛奈さんにご迷惑かかっちゃうから」
我ながら、わりと無難な言い訳だった。
本当の理由を正直に言うわけにもいかないので、ここはやんわり押し通すしかない。
人混みと距離を持ち出せば、付き添いの大人に悪い、という話に自然と落ち着く。
「むー……じゃあ、おみやげは?」
「うん。お土産、ちゃんと買ってくる」
「ぜったいだよ! ひかり、待ってるからね!」
ひかりは、お土産の一言であっさり機嫌を直してくれた。
現金なものだが、こういう素直さがこの子のいいところでもある。
佑香ちゃんはまだ少し唇をとがらせていたが、それでも小さく頷いてくれた。
「あきひこくんは、行かなくていいの?」
「……ぼくは、いい」
明彦は栗色の髪を揺らして、ぶんぶんと首を横に振った。
人混みが得意ではないこの子は、もともとそういう場所に興味がないらしい。
氷の上やお絵かきに「ぼくはいい」と線を引くときと、まったく同じ顔をしていた。
「ぼくは、瀬理奈お姉ちゃんのおうちで、まってる」
「うん。じゃあ、ママとお留守番だね」
「うん。お土産、まってる」
イベントの当日、明彦は橘の家でお留守番をすることになっていた。
俺の母さん――明彦にとってはおばあちゃんにあたる人と、二人でのんびり過ごすらしい。
無理に背伸びをせず、自分の居場所をちゃんと知っているのが、いかにも明彦らしかった。
「ふふ。みんなのお土産、いっぱい探してくるね」
俺がそう言うと、三人はそれぞれの顔で笑った。
窓辺の朝顔が、昼の風にゆらゆらと揺れている。
夏休みはもう、すぐそこまで来ていた。
八月の半ば――お盆前、コミケ当日の朝はまだ空が薄暗いうちから始まった。
俺は母さんに手を引かれて、眠い目をこすりながら玄関に出た。
時計の針は、朝の五時を回ったばかり。
普段ならまだ夢の中にいる時間に、俺はもうばっちりと身支度を済ませていた。
玄関の前には、もう愛奈の車が停まっていた。
運転席の窓から顔を出した愛奈は、めずらしく動きやすそうなパンツ姿をしている。
後部座席では、明彦がまだ半分眠ったまま、こっくりこっくりと舟をこいでいた。
「おはよう、瀬理奈ちゃん。早いのに、ごめんね」
「ううん。瀬理奈、ちゃんと起きれたよ」
「偉いわねぇ。明彦なんて、ほら、この調子」
「……お姉ちゃん、いってらっしゃい」
「明彦くん、いってきます。いい子で、お留守番しててね」
「……うん。お土産……」
「ふふ。ちゃんと買ってくるよ」
明彦は寝ぼけまなこのままでそれだけ言うと、また座席にこてんと倒れ込んだ。
お留守番の相棒である俺の母さんが、その小さな身体をひょいと抱き上げる。
今日一日、この子はここで、ぬくぬくと過ごすことになっていた。
「じゃ、愛奈さん。瀬理奈を、よろしくお願いしますね」
「はい。責任を持ってお預かりします、そちらも明彦をお願いします」
「瀬理奈にはあんまり無理させないでね。すごい人混みでしょうから」
「大丈夫ですよ。私も瀬理奈ちゃんも、こう見えて慣れたものですから」
母さんに見送られて、俺たちの乗った車は静かな住宅街を走り出した。
窓の外はまださすがに薄青くて、街灯の明かりがぽつぽつと後ろへ流れていく。
俺は後部座席のチャイルドシートから、運転席の横顔をそっと眺めた。
実のところ、二人きりのときだけは俺は前世の口調に戻ることを、愛奈に許されてはいる。
あんまりしていると癖になるのだけれど、こういう時間も欲しかったのも事実なのだ。
「……久しぶりだな。こうやって二人で出かけるの」
「ふふ。その男の人の喋り方、外見が外見だから何度聞いても慣れないわ、銀の天使さま」
「悪かったな。中身はおっさんなんだよ」
愛奈が、ハンドルを握ったまま、くすくすと笑った。
バックミラー越しに見えるその横顔は、前世で初めて会った時から何度も見た、あの頃のままだった。
「コミケなんて、何年ぶりかしらね」
「俺がサークル参加してた頃、最後に出たのが……たしか、お前と結婚した年だ」
「そうだったわね。そういえば昔私の隣のサークルに、ずっと机に突っ伏してる変な人がいてね」
「うるさいやい。あれは締め切り明けで、数日寝てなかっただけなんだよ」
十数年前、俺たちはまだ二十歳くらいだった。
夏と冬の年二回、隣の机でそれぞれの本を並べて売っていた。
あの頃の俺は、まさか隣の机の子が将来の妻になるなんて、思ってもみなかった。
「あなた、最初に話しかけてきたとき、何て言ったか覚えてる?」
「……覚えてない」
「ふふ。顔まっ赤にして、同じ子が好きだって、しどろもどろで」
「やめてくれ、それ以上は言うな。墓まで持っていくって決めてるんだ」
俺が慌てて止めると、愛奈はおかしそうに肩を揺らした。
重ねて言うが、何のジャンルだったのかは、もちろん明かすつもりはない。
ただあの日、隣の机の女の子が振り向いてくれたことが、俺の人生をまるごと変えたのは確かだった。
そういえば、と俺はふと思う。
今日これから向かうのは、俺と愛奈が出会った、まさにその場所だ。
死んだはずの俺が、銀髪の女の子の姿になって、もう一度そこへ連れていってもらおうとしている。
「なあ、愛奈」
「なに?」
「俺をここに連れてって、よかったのか?……つらく、ないか」
「ばか。つらかったら、最初からいいなんて言ってないわよ」
愛奈は前を向いたまま、さらりとそう言ってのけた。
その声には、湿っぽさのかけらもなかった。
「むしろお礼を言いたいくらいよ。あの場所にもう一度行く口実ができたんだから」
「口実、って」
「だって、三十超えたいい歳した大人が一人でコミケに来るの、ちょっと勇気いるじゃない」
俺は、思わず吹き出してしまった。
そういう言い方をしてくれると、こっちもずいぶんやりやすくて助かる。
でも、ありがとうとは、なんだか照れくさくて、結局言えずじまいだった。
やがて車は、最寄りの駅前の駐車場へと滑り込んだ。
ここからは電車を乗り継いで、あの会場まで向かうことになる。
車のドアを開けると、夏の朝の生ぬるい風が、ふわりと頬を撫でた。
電車に乗り込むと、車内の空気が、駅を過ぎるごとに少しずつ変わっていった。
朝の早い時間だというのに、座席もつり革も、同じ匂いのする人たちで埋まっていく。
大きなキャリーバッグ、ぱんぱんに膨らんだリュック、段ボールを載せたキャスター、丸めたポスターを入れた筒。
十数年経っても、この朝の独特の高揚感は、何ひとつ変わっていなかった。
「瀬理奈ちゃん、ここからは、ちゃんと『瀬理奈ちゃん』ね」
「うん。わかってる」
「人がすごいから、絶対に手を離しちゃだめよ」
俺は、差し出された愛奈の手を、ぎゅっと握り返した。
こうしていると、まるで本物の親子みたいだな、と内心で少しだけ思う。
中身がこの人の死んだ夫だなんて、誰も思いやしないだろう。
ところで、さっきから俺は、ちらちらと視線を集めていた。
電車に揺られる人たちが、俺の銀色の髪を見て、ふっと目を留めるのだ。
そして、なるほど、という顔で、ちょっとだけ口元をゆるめる。
「ねえ……あの子、もしかして」
「銀の天使ちゃんかな。そういえば今日はコミケか、会場でコスプレやるのかなあ」
「かわいいねぇ。気合い入ってる、地毛みたい」
ひそひそ声は、相変わらず俺の耳には全部届いてしまう。
どうやらこの人たちは、俺のことを「銀の天使のコスプレをした女の子」だと思っているらしい。
地毛みたい、ではなく、これは正真正銘の地毛なのだが。
俺は、思わず愛奈の顔を見上げた。
愛奈もそれに気づいていたらしく、こらえきれずに肩を震わせている。
本物が本物のコスプレと間違われるという、なんとも珍妙な事態だった。
電車を降りてホームに立つと、そこはもう人の波だった。
改札を抜けるための列が、長い長い帯になって続いている。
その全部が、同じ建物を目指して、ゆっくりと進んでいた。
人波の向こうに、見覚えのある巨大な逆三角形の建物が、朝日を受けて光っている。
東京ビッグサイト。
俺が前世で何度も通った、あの会場だった。
形も、立ち並ぶ人の数も、あの頃と何ひとつ変わっていなかった。
「瀬理奈ちゃん、こっちよ。私たちは、こっちの入り口」
「一般の方じゃないの?」
「うん。今日はサークルさんのお手伝いで来てるから。早く入れるの」
俺たちが向かったのは、一般の参加者が並ぶ列とは、別の入り口だった。
サークル用のチケット渡すと、係の人が「おはようございます」と通してくれる。
このサークル入場というやつのありがたさは、前世で嫌というほど知っていた。
会場の中に入ると、まだ準備中の机がずらりと並んでいた。
段ボールを開ける音、ガムテープを引き剥がす音、おはようございますの挨拶。
開場前のこの、嵐の前みたいな静かなざわめきが、俺はわりと好きだった。
その一角で、大柄な男の人が、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
「おーい、愛奈ちゃーん! こっちこっち!」
「シゲさん、ごぶさたしてます」
「いやー、ほんと久しぶり! よく来てくれたなぁ」
シゲさん、と呼ばれたその人は、よれよれのTシャツを着た、人のよさそうなおじさんだった。
前世で俺と同じサークルを主催し、同じジャンルの本を描いていた、古い仲間の一人だ。
あの頃から大きかったお腹は、十数年と言う歳月を経てさらに貫禄を増していた。
「で、その子が、電話で言ってた……」
「はい。この子が瀬理奈ちゃん。隆志の、妹なんです」
「……ああ、やっぱり。テレビで見たまんまだ」
シゲさんは、しゃがんで俺と目線を合わせた。
近くで見るとその目尻のあたりが、ほんの少しだけ赤くなっている。
俺の銀色の髪を、まぶしそうに、じっと見つめていた。
「こんにちは。瀬理奈です」
「こんにちは、瀬理奈ちゃん。シゲおじさんだよ」
「シゲ、おじさん」
「そうそう。隆志とは昔、よーくつるんでた仲でね」
隆志。
シゲさんの口から、その名前が、ごく当たり前のように出てきた。
俺は、なんでもない顔のまま、内心でそっと胸の奥をなでた。
「いやぁ、隆志がなぁ。あいつが生きてたらこの子のこと、どんだけ自慢したことか」
「ふふ。目に浮かびます」
「だろ? 『うちの妹、銀の天使なんだぜ』って絶対そこらじゅうで言いふらしてたよ」
シゲさんは、からから、と笑った。
それから、ふと笑いを引っ込めて、もう一度俺の頭を、大きな手でくしゃりと撫でた。
その手つきは、まるで壊れ物にでも触れるみたいに、おそるおそるだった。
「……あいつにも、見せてやりたかったなぁ」
ぽつりと落ちたその一言が、俺の胸の真ん中に、すとんと刺さった。
ここにいるよ、と言えたら、どんなにいいだろうかと思う。
お前と徹夜をしたり、バカをやっていたあの隆志は、いまこの銀髪の女の子のなかにちゃんといるよ、と。
でも、信じてもらえないだろうし、こんなことは無制限に広めていいものでもない。
だから俺はかわりにちょっとだけ背伸びをして、シゲさんのTシャツの裾をつんと引っぱった。
「シゲおじさん。瀬理奈はお兄ちゃんのこと、知らないけれど」
「うん」
「でも、おじさんが、お兄ちゃんとなかよしだったの、わかるよ」
「……っ、そっか。そうかぁ」
シゲさんは、ごしごしと、手の甲で目元をこすった。
そして、ぐすっと鼻を鳴らして、へへ、と照れたように笑った。
この人が前世から少し泣き虫だったことを、俺はちゃんと覚えていた。
アニメとか、泣きゲーに触れるたびに盛大に泣いていたのものだ。
「ちょっとシゲさん、朝から泣かないでよ。鼻、出てるよ」
「のんちゃんだって、目ぇ赤いじゃねえか」
「うるさいなぁ、もう」
のんちゃん、と呼ばれた女の人が、横からけらけらと笑って割って入ってきた。
こちらも前世からの仲間で、いまはここのサークルの売り子をしているらしい。
湿っぽくなりかけた空気を、こうやってさらりと払うのがこの人は上手だった。
「瀬理奈ちゃん、よく来たねぇ。今日はおばちゃんたちが、いーっぱい可愛がっちゃうから」
「えっと……よろしくおねがいします」
「うわっ、ちゃんとご挨拶できて偉い! もうだめ、連れて帰りたい」
のんちゃんは、両手で頬を押さえて、大げさにくねくねと身をよじってみせた。
愛奈が「のんちゃん、それ犯罪だから」と、すかさず冷静に突っ込む。
この二人の掛け合いも、十数年前と、まるで変わっていなかった。
やがて、開場を知らせるアナウンスが、会場じゅうに響き渡った。
ぱちぱちと拍手が起こって、空気が、一気にぴんと張りつめる。
遠くのほうから、人の波がじわじわと押し寄せてくるのが、足の裏に伝わってきた。
俺はサークルの机のうしろから、その懐かしい光景を、しばらくぼんやりと眺めていた。
十数年前、俺もこちら側の机で、同じこの瞬間を、何度も迎えていた。
あの頃の隣には、いつも愛奈がいた。
そして今も、俺のすぐ隣には、ちゃんと愛奈が立っている。
形は、まるで変わってしまったけれど。
それでもこうしてまた、二人で同じ景色を見られたことが、俺はただ、うれしかった。
開場から数十分は、サークルの机のうしろは、ちょっとした戦場だった。
俺のいない間このサークルはずいぶんと規模が大きくなったらしい。
シゲさんとのんちゃんが、次から次へとやってくるお客さんに、手際よく本を手渡していく。
お金を受け取って、お釣りを返して、ありがとうございました、と頭を下げる。
俺はそのあいだ、机の端っこで、おつりの小銭を並べる係を、こっそり手伝っていた。
「瀬理奈ちゃん、百円玉、そこから三枚とってー」
「はーい。いち、に、さん」
「うわ、はやっ。レジ係、いますぐ採用したいわ」
のんちゃんが、忙しい合間に、けらけらと笑った。
小銭を数えるくらい、前世で散々やってきた俺には朝飯前だった。
ただし、それを六歳が完璧にこなすと、ちょっとばかり目立ってしまうので、わざと一回数え間違える小芝居も忘れない。
ひとしきり人の波が引いたところで、愛奈が俺の肩をぽんと叩いた。
「瀬理奈ちゃん。もう一回混んでくる前に、ちょっと見て回ろっか」
「いいの? お手伝いは?」
「いいのいいの。あとはおじさんとおばちゃんに任せて、行っといで」
「おう、行ってこい行ってこい。ゆっくり見ておいで」
「じゃあ、おばちゃんの分も、なんかかわいいの買ってきてー」
「はいはい」
シゲさんとのんちゃんに送り出されて、俺は愛奈と二人、人波のなかへと踏み出した。
通路はもう、人、人、人で埋め尽くされていた。
誰もがそれぞれの目当ての本を求めて、まっすぐ前だけを見て歩いている。
その流れは大きな川みたいで、立ち止まることすら、なかなか難しかった。
おもしろいもので、これだけ目立つ銀髪をしていても、ほとんど誰も俺を気に留めなかった。
みんな、自分の探している本のことで、頭がいっぱいなのだ。
銀の髪の小さな子がいたところで、本を一冊でも多く手に入れることのほうが、よっぽど大事らしい。
こういうとき、目的を持った人間の集中力というのは、本当にすさまじいものがあった。
それでもときどき、立派なカメラを首から下げた人たちが、俺をちらりと振り返った。
「お、銀の天使じゃん。よくできてんなぁ」
「ウィッグじゃなくて地毛っぽいぞ、あれ。気合い入ってる」
「親子で参加かぁ、微笑ましいねぇ」
カメラを持った人――いわゆるカメコと呼ばれる人たちは、さすがに目ざとかった。
ただ彼らも、俺のことを「銀の天使のコスプレをした、出来のいい子」だと信じきっている。
本物が本物だと気づかれないというのは、なんとも不思議な気分だった。
愛奈の手を握って歩きながら、俺は懐かしさで胸がいっぱいになっていた。
壁際にずらりと並んだ大きなサークル。
通路にあふれる紙とインクの匂い。
誰かが落としたチラシを、すかさず拾って渡してあげる、見知らぬ人の優しさ。
何ひとつ、あの頃と変わっていなかった。
俺がこの場所に立っていた最後の夏から、もう十年以上が過ぎたというのに。
時間だけが流れて、この景色だけが、まるごと取り残されているみたいだった。
その島の一角で、俺の足が、ふと止まった。
あるサークルの机の上に、一冊のイラスト集が、見本として立ててあったのだ。
その表紙には、銀色の髪をなびかせて氷の上を舞う、小さな女の子が描かれていた。
青い瞳と、流れる銀の髪。誰がどう見ても――それは、俺だった。
「……え?」
俺は、ぴたりと固まった。
表紙の女の子は、きらきらした氷の上で、片足を高く上げてポーズを決めている。
そのまわりには、ご丁寧に、星や羽根みたいな飾りまで散りばめられていた。
タイトルには、流れるような文字で「銀の天使ちゃん画集」と書かれている。
「あらまぁ」
「あ、愛奈、これ……」
「ふふ。瀬理奈ちゃん、人気者ねぇ」
愛奈が、俺の肩越しにそれを覗き込んで、にやりと笑った。
俺は、かぁっと、顔じゅうが熱くなるのを感じた。
自分を題材にした本が、こうして堂々と売られているという事態に、頭がついていかない。
中をぱらぱらとめくってみると、ピアノを弾く俺、氷の上で笑う俺、はては羽根を生やして空を飛ぶ俺まで、いろんな絵が並んでいた。
どれも、悪意なんてかけらもない、ただただ可愛らしいイラストだった。
むしろ実物よりずっと、きらきらして、まばゆく描かれている。
だからこそ、見ていられないくらい、こっぱずかしかった。
「あの、これ……だれが、描いたの?」
「うちのサークルの子だよー。ありがとうねぇ、お嬢ちゃん」
机のうしろに座っていたお姉さんが、にこにこと俺に応えてくれた。
当然このお姉さんも、目の前の銀髪の子が、本人だとは夢にも思っていない。
それどころか、「天使ちゃんのコスプレ、最高だね!」と、満面の笑みで親指まで立ててきた。
俺は、もう、いたたまれなかった。
場所が場所でなかったら、のたうち回って悶絶したいくらいだ。
自分の絵を、自分が、自分のコスプレをした状態で買おうとしている。
この状況の珍妙さを、いったい誰に説明すればいいのか分からない。
そもそも六歳児が説明できる種類の混乱ではなかった。
「愛奈さん……かえりたい……」
「あはは。だめよ、来たばっかりでしょ」
「だって……」
がっくりとうなだれる俺の頭を、愛奈が、おかしそうにぽんぽんと叩いた。
それから財布を取り出して、しれっとその画集を一冊、買ってしまったのだ。
記念に、と、にこやかに言う愛奈の横顔が、いつになく楽しそうだった。
「これ、家に飾ろうかしら」
「やめて。ぜったいやめて」
「明彦に見せたら、喜ぶわよ。きっと」
明彦の名前を出されて、俺は思わずぐぬぬと言葉に詰まった。
たしかに、あの子なら、心から喜ぶに違いなかった。
僕のお姉ちゃんが本になってる、と、目をきらきらさせるに決まっている。
そう思うと、もう、これ以上は何も言えなくなってしまった。
紙袋に入った画集を抱えた愛奈は、すっかり上機嫌だった。
俺はといえば、まだ赤い顔のまま、その背中をとぼとぼと追いかける。
銀の天使は、どうやらこの会場では、本人が思っている以上に有名人になっていたらしい。
午後二時を過ぎた頃、のんちゃんが「外の空気でも吸っといで」と、俺たちを送り出してくれた。
会場の熱気に、さすがの俺も少しのぼせていた。
愛奈に手を引かれて向かったのは、会場の外、コスプレ広場と呼ばれる一角だった。
そこは屋内の戦場とは打って変わって、夏の日差しがさんさんと降りそそぐ、開けた場所だった。
広場には、色とりどりの衣装をまとった人たちが、あちこちでポーズを決めていた。
そのまわりを、大きなカメラを構えた人たちが、ぐるりと半円に取り囲んでいる。
かしゃ、かしゃ、というシャッターの音が、ひっきりなしに響いていた。
ここは、屋内とはまるで空気が違った。
本を探すのに必死な人はここにはいない。
ここにいる人たちの目的は、ただひとつ。
きれいな人を、きれいに撮ること。それだけだった。
その広場に、俺が一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。
近くにいたカメコの一人が、ぴたりと動きを止めて、俺のほうを二度見した。
それから、隣の仲間の肩を、つんつんと叩く。
俺の銀色の髪が、夏の日差しを浴びて、きらきらと光っていた。
「おい……あれ、見ろよ」
「うわ、銀の天使だ。しかもクオリティ、めちゃくちゃ高くないか」
「子供であのウィッグの艶……いや、地毛か? 地毛なのか?」
ざわ、と、広場の空気が、ひとところに集まり始めた。
さっきまでばらばらに散っていたカメラが、いつのまにか俺のほうを向き始めている。
あっという間に、俺の前には、レンズの壁ができあがっていた。
屋内ではあれほど無関心だった人たちが、ここでは、まるで別人のようだった。
「お嬢ちゃん、一枚いいかな!」
「うわ、可愛い! 天使ちゃん、最高!」
「そのまま、そのままで!」
俺は、思わず愛奈の手を、ぎゅっと握りしめた。
助けを求めて見上げると、愛奈は、なぜだか、にんまりと笑っている。
どうやらこの人は、俺が困っている顔を、わりと面白がっているらしかった。
「愛奈、さん……どうしよう」
「ふふ。せっかくだから、撮ってもらいなさいよ」
「えー……」
「顔は、もう平気でしょ。あれだけテレビに出たんだから、いまさらよ」
愛奈に背中を押されて、俺は、おずおずとカメラのほうへ向き直った。
こうなったら、もう仕方がない。
どうせ撮られるなら、中途半端なのは性に合わなかった。
俺は、すっと片足を後ろへ引いて、氷の上で何度も決めた、あのポーズをとった。
両腕をやわらかく広げて、あごを、ほんの少しだけ上げる。
銀色の髪が、夕方に向かう日差しのなかで、ふわりと流れた。
その瞬間、広場の空気が、ぴんと張りつめた。
かしゃ、かしゃ、かしゃ、と、シャッターの音が、いっせいに連なる。
さっきまでざわついていたカメコたちが、一瞬、しんと静まり返った。
それから、わっと、どよめきと、拍手のようなものが沸き起こった。
「なにこの子、ポーズが本物すぎる!」
「銀の天使、降臨だ……!」
降臨、という言葉に、俺は内心で、そっと苦笑した。
降臨も何も、これが本物なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだ。
けれど、それを言えるはずもなく、俺はただ、ぎこちなく微笑んでみせる。
レンズの壁の向こうで、たくさんの人が、心から楽しそうにしていた。
何枚か撮られたところで、愛奈が、ぱんと手を叩いた。
「はーい、そこまで。この子、もう疲れちゃうから」
「えー、もう少し!」
「だめだめ。ありがとうございましたー」
愛奈は、慣れた様子でぺこりと頭を下げると、俺の手を引いて、人垣のなかからするりと抜け出した。
背中のほうから、ありがとー、という声が、いくつも飛んでくる。
俺はぐったりとしながら、その声に、小さく手を振り返した。
「……愛奈さん、ひどい。ぜったい面白がってたでしょ」
「ふふ。だって、あんなにきれいに撮られてる瀬理奈ちゃん、なかなか見られないもの」
「もう、知らない」
ぷいっと俺は拗ねた表情をしてみせた。
そうこうしているうちに、長い一日も、終わりが近づいてきた。
帰り際、俺たちは約束のおみやげを、ちゃんと探して買い込んだ。
ひかりには、ピンクのうさぎのキーホルダー。
佑香には、二つ結びの女の子が描かれた、小さなシール。
明彦には、迷った末に、氷の上を舞う天使の缶バッジを選んだ。
それがどう見ても俺自身を描いた絵だということには、もう目をつぶることにする。
あの子は俺がスケートをするのを見るのが、いちばん好きだから、きっと宝物にしてくれるだろう。
サークルの机に戻ると、シゲさんとのんちゃんが、店じまいを始めていた。
「おかえり。楽しめたか?」
「うん。すっごく、楽しかった」
「そりゃよかった。また、いつでもおいでね」
やがて、会場じゅうに、閉会のアナウンスが流れた。
長い一日の終わりを告げる、その放送。
それに合わせて、どこからともなく、大きな拍手が湧き起こった。
誰が始めたわけでもない、参加者みんなで、一日を称え合うための拍手だった。
俺は、その拍手の音を、しばらく耳のなかに溜めていた。
十数年前にも、俺はこの拍手を、何度も聞いた。
くたくたに疲れて、でも心は妙に満たされて、隣の愛奈と顔を見合わせた、あの夏。
あの頃と同じ拍手が、いま、まったく同じように、会場を包んでいた。
「瀬理奈ちゃん。また、会おうな」
「うん。シゲおじさん、のんちゃん、ありがとう」
「こちらこそ。来てくれて、ほんとに嬉しかったよ」
シゲさんは、最後にもう一度、俺の頭を、くしゃりと撫でた。
その手は、やっぱり少しだけ、震えていた。
さよならを言うとき、この人がまた泣きそうになっているのを、俺は気づかないふりをした。
会場の外に出ると、夕方の空が、オレンジ色に染まっていた。
海のそばを吹く生ぬるい風が、火照った頬に気持ちよかった。
俺と愛奈は、おみやげの詰まった袋を提げて、駅へと続く道を、のんびりと歩いた。
人波はもう、行きとは逆の方向へ、ゆっくりと流れていく。
「疲れたでしょ、瀬理奈ちゃん」
「うん。でも、たのしかった」
「ならよかった」
ふと、愛奈が、歩きながら、ぽつりと言った。
「……あのね、瀬理奈ちゃん。今日、隆志のお友達に会わせられて、よかった」
「うん」
「あの人たち、隆志が死んでから、ずっと寂しがっててね」
愛奈の声は、いつもどおり、さらりとしていた。
それでもその横顔には、夕日のせいだけではない、やわらかな色が差していた。
俺は、その言葉の意味を、しばらく胸のなかで転がした。
俺は、ちょっとだけ、周りを見回した。
みんな自分の帰り道のことで頭がいっぱいで、誰も俺たちのことなんて気にしていない。
だから俺は、ほんの少しだけ声を落として、前世の口調で答えた。
「……ありがとな、愛奈」
「うん」
「お前のおかげで、俺、もう一回、あいつらに会えたよ」
愛奈は、何も言わずに、ただ、俺の手を、きゅっと握り直した。
夕日が、二人の影を、長く長く、道の上に伸ばしている。
その影は、大人の女の人と、小さな女の子の、ありふれた親子に見える影だった。
二度目の人生で、初めてのコミケ参戦。
それは、ただ懐かしい場所に帰っただけの、一日のはずだった。
けれど俺にとっては、置いてきたはずの過去と、もう一度ちゃんと手を繋ぎ直せた一日になった。
おみやげの袋が、歩くたびに、かさかさと鳴る。
家では明彦が、母さんと一緒に、俺の帰りを待っている。
大阪のおばあちゃんにも、もうすぐ会いに行く。
帰る場所が、こんなにもたくさんある。
それだけで、もう、じゅうぶんすぎるくらいだった。
俺は夕日に向かって、愛奈の手を引いて、一歩、また一歩と歩いていった。