銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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それが女の子としての始まり
第一章 第一話 転生


蛍光灯の白い光が、開発部第三フロアの天井を埋め尽くしている。

俺はモニターを二枚並べた自分のデスクで、右手にマウス、左手にコーヒー缶を握って、もう何度目になるか分からない仕様書の読み合わせをしていた。

時刻は十六時を回ったところで、フロアの八割はまだ席についている。

 

「橘さーん、この基板のバージョン、結局B改にするんですよね?」

 

斜め向かいの席から、入社三年目の後輩が首を伸ばしてくる。

俺は缶コーヒーをデスクに置きながら、画面から目を離さず答えた。

 

「B改で確定だよ。先方の評価ボードと合わせないと、来月の合同試験で泣くことになる」

「了解です。じゃあ図面側、こっちで差し替えときます」

「あと、変更点のサマリ、A4一枚にまとめておいてくれ。明日の朝イチで部長にレビューしてもらう」

「うわ、また部長レビューですか。先週もやったばっかなのに」

「先方が大手だから仕方ない。何かあった時、ハンコの数が物を言うんだ、こういう仕事は」

 

中川――それが後輩の名前だ――は、心底嫌そうな顔をしてキーボードに戻った。

気持ちはわかる。

俺だって、若い頃は同じことを思っていた。

 

二〇〇八年、十二月。

俺、橘隆志、三十歳。

都内に本社を構える電子機器メーカーの開発部に勤めて、もう八年目になる。

新卒で入って二年目に企画と営業の間を行き来する総合職に異動になり、それからずっとこの製品ラインの担当だ。

 

担当しているのは、産業機器向けの組み込み基板。

派手さは皆無で、家電量販店に並ぶような製品でもない。

ただ、工場のラインや医療機器や、街中のあちこちで地味に動いている類の代物で、俺はこれを「世の中の足元を支える仕事だ」と勝手に解釈している。

これも入社当時の先輩からの受け売りだが。

 

「橘さん、ちょっといいか」

 

声をかけてきたのは、隣の島の課長代理、田所さんだった。

四十手前で、髪は半分ほど白くなりかけている。

温厚な人だが、技術的な突っ込みは鋭い。

 

「来月の合同試験なんだけどな。先方の評価担当者、また替わったらしい」

「またですか。今年に入って三人目ですよ、あそこ」

「上の方針がコロコロ変わるんだろうな。で、新しい担当が来週、表敬訪問で挨拶に来るって連絡があった」

「うちにですか」

「うちに。ちょうどB改の説明と合わせて、お前から仕様の概要を話してくれって、課長から伝言だ」

 

俺は内心で軽く溜息をついた。

担当が替わるたびに、これまで積み上げてきた経緯を一から説明し直すのは、業界あるあるとはいえ毎度堪える。

ただ、断る選択肢はない。

 

「分かりました。となりますと資料は流用じゃなくて作り直した方がいいですよね」

「悪いな。土曜出勤までは要らないと思うが、今週はちょっと残ってくれ」

「了解です」

 

田所さんは軽く手を上げて、自分の島に戻っていった。

俺は缶コーヒーの残りを呷って、空になったそれをデスクの端に置く。

 

仕事自体は嫌いじゃない。

むしろ、好きな部類に入る。

学生の頃に夢見ていた華やかな職場とは全然違うけれど、地味な仕事を地味に積み重ねていくこの感じは、なんだか自分の性に合っていると思う。

 

ただ、最近は時間の使い方が難しい。

来月の中頃には、はじめての子供が生まれる。

それまでに、できる限り仕事の山を片付けておきたかった。

 

俺は新しいExcelファイルを開いて、来週の表敬訪問用の資料の骨子を組み立て始めた。

 

まず、製品の位置付けの再確認。

次に、現行モデルからB改への変更点と、その理由。

それから、評価ボードでの実測値、温度マージン、量産時のばらつき想定。

最後に、来月の合同試験のスケジュールと、各マイルストーンでの判定基準。

 

うちみたいな会社の場合、こういう資料は「相手が新人でもわかる粒度」で作る必要がある。

ただし、完全に新人扱いした文章を見せると相手のプライドを逆撫でする可能性もあるので、表現には気を遣う。

「ご存じの通り」と「念のためおさらいですが」を、職人芸のような按配で混ぜていくのだ。

新人研修ではこんなことは教えてくれないが、社会人を五年目を過ぎたからには自然と身に付くスキルだった。

 

「橘さん、これ見てもらえます? 昨日のシミュレーションの結果」

 

中川が、印刷したばかりの波形図を手に立ち上がる。

俺はモニターから目を離して、紙を受け取った。

A3サイズに小さく印字された波形が、何本も並んでいる。

 

「うーん……これ、立ち上がりがちょっと甘いな。コンデンサの容量、変えた?」

「いえ、回路は前回と同じです。配線パターンだけ、ちょっと最適化しました」

「最適化、ね。どこをどう」

「電源ラインの引き回しを、こう、最短になるように……」

 

中川がペンで紙の上をなぞる。

俺はそれを目で追いながら、頭の中で電流の流れをシミュレートする。

 

「ここ、戻りの経路が長くなってないか? 配線は短いけど、面積はむしろ広がってる気がする」

「あ……」

「いやまあ、悪くはないと思うよ。でも、ノイズ評価の時にここが効いてくる可能性があるから、念のため対策パターンも用意しておこう」

「分かりました。ありがとうございます」

 

中川は紙を抱えて、自分の席に戻っていく。

そのまま新しい解析をかけ始めたのが、背中越しでも分かった。

真面目なやつだ。

俺もあのくらいの歳の頃は、ああやって食いついてきたものだろうか、と懐かしくなる。

 

時計を見上げると、十八時を少し過ぎていた。

窓の外はとっくに暗くなっていて、ガラスに自分のシャツ姿が薄く映っている。

 

「橘さん、夕飯どうします。食堂、まだ間に合いますよ」

 

中川が立ち上がりながら、また声をかけてくる。

壁の時計に目をやれば、十八時二十分。

社員食堂の夜営業は十九時までだから、確かにそろそろ動かないと閉まる。

 

「なら行くか。資料の続きは戻ってからにするよ」

 

俺は伸びをして、ノートと社員証を持って席を立った。

 

社員食堂は地下一階にある。

昼間は七百人を呑み込むほど広いが、夜になると照明が半分落ちて、出ているメニューもA定食とB定食、それからカレーの三種類だけになる。

それでも残業組には貴重なオアシスで、夜の食堂には独特の安らぎがあるんだ、と俺は密かに思っている。

 

「今日のA、何ですかね」

「掲示板はカレイの煮付けだったぞ」

「うわ、地味」

「夜営業の煮付けは当たりだよ。昼に売れ残ったやつを煮込み直してるから、味が染みてる」

「橘さん、それ昼から働いてる人の前で言わないでくださいよ」

 

食堂のトレイを並んで取りながら、中川が苦笑する。

俺は券売機でA定食のチケットを買って、配膳口でおばちゃんに渡した。

分厚い湯気の向こうで、おばちゃんがいつも通りの愛想笑いを返してくれる。

 

席に着いて、ぬるくなる前にと味噌汁を一口すする。

出汁の味が薄い気がしたが、それを言ったら同期の佐藤からどやされるだろう。

あいつは食堂のおばちゃんとやたら仲がいい。

 

「お、揃ってんじゃん」

 

噂をすれば、なんとやら。

トレイを持った佐藤が、向かいの席に勝手に座る。

営業部の佐藤は、同期入社でずっと付き合いのある男で、別部署のくせに食堂ではよくこの島に来る。

 

「佐藤さん、こんばんは」

「中川、お疲れ。橘のお小言、まだ食らってる?」

「食らってるっていうか、もうBGMですね」

「言うようになったな、お前」

 

佐藤がにやりと笑い、俺はカレイの煮汁で米を一口かき込む。

 

「でさ、橘。新しいやつやってる?」

「メタルギアの4ね。やってる」

「だろ。お前なら絶対やってると思った。あれ反則じゃね? ムービー長すぎ」

 

むかしながらのゲームに慣れてると、最近ただ見てる時間がしんどい。

もっとハイテンポで遊びたいと思うが、これが時代の流れと言う奴だろうか。

 

「俺もそれ思った。プレイ時間の半分くらいムービー見てる気が」

「俺、最後のあれで泣いたわ。スネークがさあ……」

「待て待て待て、ネタバレ禁止」

 

慌ててネタバレ部分を話そうとする佐藤を止める。

 

「あ、まだだったか」

「俺は遅れてやってるんだよ。家でじっくり進めたい派なの。仕事して帰ってドラム缶のとこまで進めて寝るのが楽しいの」

「相変わらず渋いプレイスタイルだな」

 

佐藤は腹を抱えて笑う。

中川はその様子をぽかんと見ていたが、しばらくして恐る恐る口を挟んできた。

 

「橘さんって、ゲーム以外もすごい色々詳しいですよね。漫画とかアニメとか」

「まあ、好きだから」

「コミケとか行ってたんですよね」

「行ってた。っていうか、サークル側だった時期もある」

 

まて、佐藤。

その話は会社では触れない約束だっただろ。

 

「マジっすか。何のジャンル?」

「言わない。墓場まで持っていく」

「えー、ずるい」

「橘のサークル時代の話はな、俺も知らないんだよ」

 

佐藤が口を挟んでくる。

こいつとは大学時代からの付き合いだが、当時はサークルが違ったし、佐藤は俺がコミケに出ていたことは知っていても、何を描いていたかまでは知らない。

そして、たぶん永遠に知らないままにしておく。

 

「奥さんは知ってんだろ、それくらい」

「知ってるよ。っていうか、本人が同じジャンルの隣のサークルだったし」

「うわ、出来すぎだろ。馴れ初めもラブコメみたいだもんな」

「向こうが値札忘れて焦ってた俺に貸してくれたのが最初。あの時、彼女に救われてなかったら、たぶん俺、その夏で同人辞めてた」

「で、値札代が一生の借金になって、名札が表札になったわけだ」

「言い方よ」

 

中川が向かいで笑っている。

俺は煮魚の身をほぐしながら、自分の昔話を妙に冷静な気持ちで聞いていた。

 

学生時代の自分は、今より痩せていて、髪は今より長くて、もう少し尖っていた。

日中は学部の講義に出て、夜はバイト、週末は同人誌の原稿。

休みの日には秋葉原に通って、店頭に並ぶゲームの新作と、店の奥にひっそりと置かれた同人誌の山を眺めて、財布の中身と相談しながら戦利品を抱えて帰った。

あの頃の自分が、今の自分を見たら、たぶん「お前、ちゃんと社会人やってるじゃん」と驚くだろう。

あるいは、「お前、まだメタルギアやってんのかよ」と呆れるかもしれない。

 

「奥さん、もう臨月でしたっけ」

 

中川が、ふと話題を戻す。

 

「来月の中頃が予定日」

「うわ、もうすぐじゃないですか。男っすか女っすか」

「男の子。エコーで見たけど、もうほとんど顔の輪郭までわかる」

「いやー、おめでとうございます。橘さんが父親かあ」

「俺が一番びっくりしてる」

「名前、決まったのか?」

 

佐藤が割り箸を置きながら聞いてくる。

俺は首を横に振った。

 

「まだ。候補は二つに絞ったけど、最後の決め手がない」

「教えろよ」

「言わない。決まってからでいいだろ」

「ケチくさいな」

「お前、絶対冗談で対抗馬出してくるから言わない」

「失礼な。俺はお前の息子の名付け親に立候補したいだけだぞ」

「断る」

 

佐藤が大袈裟に膝を打って嘆いてみせる。

中川が、その横で堪えきれずに吹き出していた。

 

そんな他愛もないやり取りをしながら、俺は心の奥で、まだ見ぬ息子のことを考えていた。

ベビーベッドはもう組み立てた。

名前は妻と相談中で、漢字一文字か二文字か、まだ迷っている。

仕事が落ち着いたら、そろそろ決めたい。

 

エコーではじめて息子の姿を見た時、妻が「お腹の中で動いてる」と言って、自分の腹を撫でた。

俺は画面に映る小さな影をじっと見つめながら、ああ、本当にここにいるんだな、と思った。

それまで漠然としていた「父親になる」という言葉が、その瞬間、急に重みを持って胸に落ちてきた。

 

俺は仕事が好きだが、それ以上に、もう「父親になる自分」が好きだった。

 

「橘、お前さあ」

 

佐藤が、湯呑みの茶を啜りながらニヤニヤする。

 

「ニヤけてんぞ」

「うるさいよ」

「中川、こいつな、最近息子の話題になると顔が崩れるからな。営業部でも噂になってる」

「営業部、暇か?」

「ヒマじゃない。お前の話題が美味すぎるだけだ」

 

俺は仏頂面を作って煮魚に戻る。

中川は、もう完全に佐藤の側について笑っていた。

 

食事を終えて、俺たちはエレベーターで開発フロアに戻った。

佐藤は途中で営業部の階に降りていき、扉が閉まる直前に「お疲れー、無理すんなよ」と片手を上げた。

中川は別の案件に戻り、俺は午前中から書きかけだった相手先向けの資料を仕上げる作業に取り掛かる。

 

仕様変更の根拠、評価ボードでの実測値、来月のスケジュール感。

カチカチとキーボードを叩きながら、頭の中で文章を組み立てては崩し、組み立てては崩しを繰り返す。

途中で田所さんがふらりとやってきて、「悪い、ここの数字、最新のに差し替えといて」と紙片を一枚置いていった。

俺は黙ってそれを受け取って、データを更新し、グラフを差し替え、文章を整える。

 

気づけば、外の窓ガラスに自分のシャツ姿が映っているくらいに、夜が深くなっていた。

オフィスの人影もまばらになって、エアコンの音だけが妙に大きく聞こえる。

 

「お、終わった終わった」

 

最後の図表を貼り付けて、保存。

社内サーバーにアップロードして、念のため自分のメールにもバックアップを送る。

壁時計を見上げると、二十二時四十五分。

帰るには遅すぎず、早すぎず、いつもの時間だ。

 

「お先っす」

 

通りすがりに声をかけると、まだ残っていた数人が片手を上げて応えた。

中川はすでに帰ったらしく、彼の席にはきちんと畳まれたデスクマットだけが残っていた。

真面目なやつだ、と俺はもう一度思って、自分も鞄に手を伸ばす。

 

コートを羽織って、社員通用口から外に出た。

 

外気は冷えていて、吐く息が白い。

十二月の夜の空気は、シャツの上にコートを羽織ったくらいではすぐに肌に染み込んでくる。

社員駐車場までの数十メートルを歩く間、俺は両手をコートのポケットに突っ込んで、肩を縮めていた。

 

駐車場に停めてある自分の車――ブルーのコンパクトカーまで歩く間、俺は明日のタスクを頭の中で並べていた。

 

九時に部内ミーティング。

十時半から先方の購買担当と電話会議。

午後イチで品証と摺り合わせ。

夕方までに、表敬訪問用の資料の第一版を田所さんに見せる。

 

うん、いつも通りだ。

いつも通りで、いつも通り忙しい。

 

リモコンキーで解錠して、運転席に乗り込む。

エンジンをかけて、シートベルトを締める。

シートに座った瞬間、一日分の疲れがどっと背中にのしかかってきた。

それでも、ハンドルを握れば気持ちはすっと切り替わる。

車を運転している時間は、俺にとってちょっとした自分だけの時間だ。

 

カーラジオが、深夜帯のニュース番組を流していた。

どこかの選挙の話、株価の話、明日の天気は雨のち曇り。

 

「雨か。傘、車に置きっぱだったよな」

 

独り言を呟きながら、駐車場を出る。

ゲートのバーが上がるのを待つ短い間に、俺は携帯電話を一度だけ確認した。

妻からのメールが一通入っていた。

 

『今日もお疲れさま。お風呂沸かしてあるよ。気を付けて帰ってきてね』

 

短い文面に、俺は思わず口元を緩める。

返信を打ちかけて、運転中はやめておこうと思い直し、携帯をダッシュボードの上に置いた。

帰ってから、直接「ありがとう」と言えばいい。

 

会社から自宅のアパートまでは、車で二十分ほどの距離だ。

郊外を貫く片側二車線の幹線道路を、ずっと真っ直ぐ走るだけで、信号もそう多くはない。

深夜帯はトラックがそこそこ走っているが、それも慣れたものだ。

 

ラジオが八〇年代の懐メロ特集に切り替わったあたりで、俺は鼻歌を歌っていた。

TM NETWORKの「Get Wild」。

妻と知り合った頃、彼女がカラオケでよく歌っていた曲だ。

当時、まさかこの曲を聴いて結婚するとは思っていなかったし、ましてや、その彼女との子供がもうすぐ生まれるとも思っていなかった。

 

人生というのは、案外、こういう小さな縁の積み重ねでできているのかもしれない。

 

「明日、何時に帰れるかな……」

 

予定日まではまだ一ヶ月ほどあるが、念のため早めに上がれる日はそうしたい。

妻は最近、立ち上がるだけでも辛そうで、俺にできることは家事を引き受けるくらいしかない。

それでも、せめてそれくらいはちゃんとやろうと思っていた。

 

ハンドルを握る手の薬指で、結婚指輪が鈍く光る。

信号で止まった時、何気なくそれを眺めていたら、ふと、妻が指輪を選びに行った日のことを思い出した。

あの時、彼女は宝飾店のショーケースの前で散々悩んだ挙句、一番シンプルなプラチナのリングを選んだ。

「これが一番、長く使えそうだから」と言って。

 

合理的な女だ、と思った。

そして、そういうところが好きなのだろうな、とも思った。

 

信号が青に変わる。

俺はアクセルを軽く踏み込んで、車を発進させた。

 

対向車線のヘッドライトが、規則正しく流れていく。

こちら側の車線は前後ともに車が少なく、視界の端にちらほら見えるテールランプも、ずいぶん遠かった。

ラジオの曲が、いつの間にか中森明菜に変わっていた。

 

俺は鼻歌を続けながら、半ばぼんやりと、半ば慎重に、ハンドルを切り続ける。

 

その光景に異変が起きたのは、本当に一瞬のことだった。

 

対向車線を走っていた一台のセダンが、急にこちら側へ膨らんできた。

ヘッドライトの軸が斜めに振れて、こっちを照らす。

中央分離帯を乗り越えたのだ、と俺の脳が認識したのは、おそらくその零コンマ数秒後だった。

 

「――は?」

 

声というより、息に近い音が喉から漏れた。

ブレーキを踏むより先に、ハンドルを切ろうとした。

だが、こちらの車線にも隣はトラックが来ていて、避ける先がない。

セダンは、まっすぐ俺の車のフロントに突っ込んでくる。

 

時間が、急にゆっくりと流れ始めた。

 

不思議だった。

本当に、走馬灯というものは存在するらしい。

あれほど現実離れした言い回しだと思っていた言葉が、今、この瞬間、自分の頭の中で確かに起きている。

 

学生時代にはじめて買ったゲーム機の起動音。

中学の文化祭で読んだ拙い詩。

高校の部室で何度も読み返した古い漫画雑誌の匂い。

大学のサークル棟、机に散らばったスクリーントーンの切れ端。

彼女がはじめて「貸して」と言いに来た時の、緊張で震えていた声。

結婚式の朝、義父が泣きそうな顔で「娘をよろしく」と言ったこと。

病院でエコーを見た時、画面の中で胎児が小さく動いたこと。

 

ああ、これが走馬灯か、と妙に冷静な部分が呟いた。

 

そして、もう一つ、別の自分が呟いた。

 

俺、死ぬのか。

 

衝撃が来た。

 

正面から、ハンマーで殴られたような音と、衝撃と、それから全身を一斉に襲う痛み。

痛い、というより、もう「痛い」という言葉が追いつかない種類の感覚だった。

胸の奥で何かが千切れる感触、首が後ろに、それから前に投げ出される感触、視界が真っ白に焼き切れる感触。

口の中に、鉄の味が広がる。

それが血だと気付くより先に、もう自分の体が自分のものではなくなっていた。

 

最後に俺の頭をよぎったのは、まだ生まれていない息子の顔だった。

エコーの白黒画面で見た、まだ目も鼻も曖昧な、小さな小さな輪郭。

 

ごめん。

 

そう思ったか、思おうとしたか、もう自分でも分からない。

 

意識が、ぷつりと途切れた。

 

 

 

 

 

暗い。

 

最初に感じたのは、それだった。

 

暗くて、温かくて、何かに包まれている。

体が、自分の体じゃないみたいに小さくて、手も足も思うように動かない。

 

ここはどこだ、と思った。

 

死んだはずだった。

あの衝撃、あの痛み、あれで生きているはずがない。

だとしたら、これは病院か。

意識不明のまま運ばれて、今ようやく目を覚ましかけているのか。

 

そう思って瞼を開けようとした瞬間、まばゆい光が視界に飛び込んできた。

 

白い。

ぼんやりと、いろんな影が動いている。

焦点が合わない。

ただ、自分の周りで何かが慌ただしく動いているのはわかる。

 

「もう一度いきみますよ、お母さん」

「はい……っ、はい、っ」

「もうすぐ出てきますからね、頑張ってください」

 

声が、聞こえる。

 

医師らしい男性の声。

看護師らしい女性の声。

そして――荒い息をしながら、何かに耐えている女性の、若い声。

 

ここで、俺はようやく異変に気付いた。

 

声が、近い。

近いというより、自分のすぐ「外側」から聞こえる。

そして、自分の体が、その声の主の体の中にいる、という感覚があった。

 

まさか。

 

頭の中が真っ白になった。

 

その「まさか」を確かめる暇もなく、ぐるりと世界が回って、強い力で押し出されるような感覚があった。

それから、急に冷たい空気に肌が触れて、体中の毛穴が一斉に縮こまった。

ぎゃあ、と誰かが泣いた。

いや、誰かじゃない。

それは自分の喉から出た声だった。

 

「おめでとうございます、女の子ですよ」

 

医師の声が、すぐ近くで言った。

 

俺は、生まれた。

 

三十歳の橘隆志として死んだはずの俺は、たった今誰かの娘として、もう一度この世界に生まれ落ちたらしかった。

 

混乱、という言葉では足りなかった。

 

生まれた、という事実を理解するより先に、俺の体は反射的に泣き続けていた。

意思とは無関係に、肺が空気を吸い込み、声帯がそれを震わせ、口がそれを音にして外へ吐き出す。

ぎゃあ、ぎゃあ、と自分のものとは思えない甲高い泣き声が、ずっと喉から漏れ続けていた。

 

止めようと思っても、止まらない。

体を動かそうと思っても、手足が思うように動かない。

目を開けようとしても、まぶたが重くて、光が眩しすぎて、まともに開けられない。

 

これが、赤ん坊の体なのか。

 

頭の片隅で、そう思った。

そう思える程度には、俺の中の「橘隆志」という意識は、まだ残っていた。

 

「今、お子さん拭きますからね、少しお待ちください」

 

看護師らしい女性の声がする。

俺の体は、布のようなものでくるまれて、温かいタオルで何度か拭われた。

誰かの手が、俺のへその緒を、何かでぱちんと挟んで切る音がする。

それから、また別の手が、俺をすくい上げる。

 

「お母さん、お疲れさまでしたね。よく頑張りましたね」

 

医師の声が、母らしき女性に語りかけている。

 

「お子さん、お顔、見ますか?」

 

返事は、なかった。

代わりに、肩で息をするような、荒い呼吸音だけが聞こえる。

 

「お母さん?」

 

もう一度、看護師の声。

 

「……はい」

 

ようやく返ってきた声は、まだ若い、二十歳そこそこに聞こえる女の声だった。

そして、その声はひどく疲れているのと同時に、何か別の感情を抑え込もうとしているように、固く張り詰めていた。

 

俺は、ぼんやりとした視界の中で、自分が誰かの腕に抱え上げられていくのを感じた。

そのまま、母らしき人物の元へと運ばれていく。

 

「はい、お母さん。可愛いお嬢さんですよ」

 

看護師が、俺をその人の腕に預けた。

俺の体が、若い女性の胸の上に、そっと置かれる。

温かい体温と、汗の匂いと、それから血と消毒液の入り混じった、複雑な匂いがした。

 

俺は、ようやく薄目を開けた。

 

視界はまだぼやけている。

赤ん坊の目は、生まれてすぐにはまだピントが合わないのだと、いつかどこかで読んだ気がする。

それでも、目の前にある人の顔の、おおまかな輪郭くらいは分かった。

 

長い黒髪。

汗で額に張り付いた前髪。

若い、本当に若い、まだ少女の面影を残した顔。

目元には涙の跡。

 

その目が、俺を見下ろしていた。

 

俺を見下ろした、最初の数秒間――。

彼女の表情は、なんとも言えない、複雑なものだった。

喜びでもなく、安堵でもなく、ただ何かを必死に確認しようとしているような、そんな表情だった。

 

その表情が、ゆっくりと、別のものに変わっていく。

 

最初は、戸惑い。

次に、疑惑。

そして、最後に――。

 

絶望。

 

俺は、その変化を、ぼんやりとした視界の中で、確かに見た。

 

「……っ」

 

彼女の喉から、声にならない声が漏れる。

 

そして、その視線が、俺の頭の方へと向けられる。

正確には、俺の頭髪と、半開きになった俺の瞳に。

 

「お母さん?」

 

看護師が、彼女の異変に気付いたらしい。

やや戸惑った声で、もう一度声をかける。

 

「……あの、髪が」

 

母の声は、震えていた。

 

「髪が、白いんですけど」

「ええ、そうですね。色素の薄い赤ちゃんは、ときどきいらっしゃいますよ。すぐに普通の色に……」

「目も、青いです」

 

そこで、看護師の声が一瞬、止まった。

 

「……ええ、新生児はみなさん、目の色がはっきりするまで時間が……」

「いいえ」

 

母は、はっきりとした声でそれを遮った。

 

「これは、違います」

 

俺の上で、母の胸が大きく上下する。

彼女が何か大きな感情を、必死に抑え込もうとしているのが、その体の動きで分かった。

 

「先生」

 

母が、医師に向かって呼びかける。

その声は、もう先ほどまでの疲れた若い女性の声ではなかった。

ひどく冷たい、何かを覚悟したような声だった。

 

「この子は、夫の子じゃ、ありません」

 

部屋の空気が、凍った。

 

看護師が息を呑む音。

医師が、何かを言いかけて、それを呑み込む音。

分娩室の中の、いくつもの音が、その瞬間だけ、消えた。

 

俺は、母の腕の中で、ぼんやりとその沈黙を聞いていた。

 

ああ、と再び思った。

 

そういう、ことか。

 

赤ん坊として産まれ落ちた俺は、まだ自分の置かれた状況の半分も理解できていない。

それでも、生前は三十年生きてきた人間として、その言葉の意味だけは、嫌というほど分かった。

 

俺は今、不倫の証拠として、生まれてきてしまった。

 

母にとって、俺は子供ではない。

俺は、自分の罪を、目に見える形で世界に晒してしまった――そういう、忌むべき何かだった。

銀の髪と、青い瞳。

それが、彼女の人生をぐしゃぐしゃに壊しに来た、その動かぬ証拠だった。

 

「お母さん、落ち着いてください。今は、まずお子さんを……」

 

看護師が何かを言いかけたが、母はもう聞いていなかった。

 

「連れて行ってください」

 

母の声は、ぞっとするほど平坦だった。

 

「もう、見たくありません」

 

俺は、その言葉を、自分の頭の上で、はっきりと聞いた。

 

母の腕に力がこもる、ということもなかった。

彼女は、ただ、俺を抱いた腕を、ゆっくりと体から離した。

抱き締めるのとも、突き放すのとも違う、ただ「もう関わりたくない」という、意思の表明だった。

 

「お母さん、少し気持ちを落ち着けて……」

「連れて行ってって、言ってるんです」

 

声の温度が、もう一段下がる。

 

「私は、こんな子、産んだ覚えはありません」

 

その一言で、看護師は何かを察したらしい。

俺の体は、もう一度、別の手によって、母の腕からそっと持ち上げられた。

温かい体温と、汗の匂いから、引き剥がされる。

 

俺の上に、母の顔が、もう一度だけ映った。

 

その顔は、もう、俺を「子供」として見ていなかった。

何か汚いものでも見るような、それでいて、見ている自分自身を一番に嫌悪しているような、そんな顔だった。

頬を、一筋の涙が伝う。

だが、その涙さえも、俺のために流されたものではないように見えた。

 

それが、俺がこの世界で、自分の母親と呼ぶべき女性を見た、最初で最後の瞬間だった。

 

俺は、看護師の腕の中に移される。

そのまま、母の体から、ゆっくりと遠ざけられていく。

視界の端で、母が顔を背けるのが見えた。

彼女は、もう、こちらを見ようとしなかった。

 

「先生……」

 

看護師の、戸惑った声。

 

「ひとまず、新生児室に。あとは、ご家族と相談で……」

 

医師の、低い声。

 

その会話を、俺はぼんやりと聞いていた。

言葉の意味は、半分くらいしか頭に入ってこなかった。

ただ、自分が今、この場所で「不要なもの」として扱われ始めたことだけは、嫌というほど理解できた。

 

俺は、もう一度、産声に近い泣き声を上げた。

 

それは、生まれたばかりの赤ん坊として、肺に空気を入れるための、反射的な泣き声だった。

だが同時に、それは、三十年生きてきた橘隆志という男が、自分の置かれた状況に対して上げた、最初の悲鳴でもあった。

 

妻の顔が、頭をよぎる。

まだ見ぬはずだった、自分の息子の顔が、頭をよぎる。

あの世界に置いてきてしまった、自分の人生の続きが、ぐるぐると頭の中を回る。

 

そして、そのすべてから自分は今引き剥がされたのだということを、俺はぼんやりと理解し始めていた。

 

天井の蛍光灯がぼやけた視界の中で、白く、白く、滲んでいた。

 

その白い光に向かって、俺は、ただ泣き続けた。

他にできることが、何一つなかった。

 

新しい人生が、たった今、始まったばかりだった。

そして、それは――俺が思い描いていた、どんな未来とも、似ても似つかないものだった。

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