銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
朝から逃げ場のない熱気に満ちている八月の東京駅、お盆の帰省ラッシュは十数年経っても少しも優しくなっていなかった。
大きなスーツケースを引いた人の波が、改札の内と外を、ひっきりなしに行き交っている。
俺はその人混みのなかで、母さんに手を引かれて、ぺたぺたと歩いていた。
「瀬理奈、はぐれちゃだめよ。お盆は、どこもこんなに混むんだから」
「うん。ママ、手をはなさないでね」
「ふふ、まかせて。ぜったいに離さないから」
少し前では、父さんが両手に重たそうな手土産の紙袋を提げて歩いている。
その隣では愛奈が、明彦の手を引きながら、案内表示をきょろきょろと見上げていた。
今日はめずらしく、橘家の全員が揃っての遠出だ。
行き先は、大阪。
父さんの母にあたる、あのおばあちゃんの家だった。
俺と明彦の入学式、春に二年ぶりで東京へ出てきてくれたあの人に今度はこっちから会いに行く番だ。
コミケから、まだ数日しか経っていない。
あの会場の熱気が抜けきらないうちに、俺はもう別の人混みのなかにいる。
夏というのは、どうしてこうも人の集まる行事ばかりが並んでいるんだろうな。
「瀬理奈お姉ちゃん。新幹線は速いかな?」
「うん、速いよ。びゅーん、って」
「びゅーん……ふーん。僕、乗ったことないや」
「だいじょうぶだよ。瀬理奈がとなりの席にすわってあげるから」
明彦は新しいリュックを背負って、ちょっとだけ緊張した顔をしていた。
新幹線に乗るのは、この子にとっては初めてのことらしい。
そういえば俺も、瀬理奈になってからは、新幹線に乗るのは初めてだったっけ。
ホームに上がる前に、父さんがふと足を止めてこちらを振り返った。
「さて。乗る前に、お弁当を買っていこうか」
「お弁当!」
「新幹線のなかで食べるとな、これがまた格別なんだぞ」
「ぱぱ、瀬理奈、えらぶ!」
お弁当という言葉に、俺の胸がことりと小さく鳴った。
そうだ、駅弁だ。
新幹線に乗る前に、売店であれこれ悩んで一つ選ぶ。
あれは前世の俺にとって、ちょっとした旅の楽しみのひとつだった。
実を言うと、俺には昔から旅に出た時に決まって買う、お気に入りの駅弁があった。
甘辛く煮た牛肉が、ごはんが見えなくなるくらい、みっしりと敷き詰められた弁当だ。
蓋を開けた瞬間のあの醤油の匂いを、いまでもはっきりと覚えていた。
学生の頃から社会人になってからも、出張帰りや旅行のたびに、決まってそれを選んでいた。
派手さなんて何ひとつない、茶色いばかりの地味な弁当だったように思う。
それでも俺にとっては、あれがいちばんの「旅の味」だったのだ。
俺は父さんの手を引いて、ずらりと駅弁の並ぶ売店へと向かった。
棚には色とりどりの包みが、所狭しと積み上げられている。
俺の目は、そのなかから、あの見慣れた茶色い包みを探した。
ところが。
何度棚を見渡しても、あの弁当だけが、どこにも見当たらなかった。
似たような牛肉の弁当なら、いくつもある。
真新しいデザインの、知らない弁当も、たくさん並んでいる。
けれど俺がさがしているあの一つだけが、どこにもないのだった。
「ぱぱ。あのね、茶色いお肉のお弁当ない?」
「茶色い肉の弁当か。うーん、どれのことだろうなぁ?」
「いつもここにあったの」
しまった、と思った。
「いつも」なんて、六歳の俺が知っているはずのない言葉だった。
それでも父さんは特に気に留めるふうもなく、近くの店員さんに声をかけてくれた。
「すみません。以前こちらに、牛肉のしぐれ煮の駅弁があったと思うんですが」
「ああ……お客様、申し訳ございません。あちらの商品でしたら、昨年で製造を終了しておりまして」
「そうでしたか。いやぁ、残念だなぁ」
製造を、終了。
その言葉が、俺の耳の奥で、やけに静かに響いた。
なくなってしまったのか。
あんなに当たり前のようにそこにあったのに。
俺がいなくなった七年のあいだに、あの大好きな駅弁も静かにこの世から消えていたらしかった。
考えてみれば、当たり前のことだった。
俺が死んでからの七年で、世界はちゃんと動き続けている。
変わらないように見えていても、知らないところではいろんなものが少しずつ姿を消していくのだ。
たかが駅弁ひとつのことだ。
それなのに俺は、胸の奥が、すうっと寒くなるのを感じてしまった。
当たり前にそこにあると思っていたものは、たぶん、本当は当たり前なんかじゃない。
「瀬理奈。似たようなのなら、こっちにもあるぞ。ほら、これなんか美味しそうだ」
「……うん。じゃあ、それにする」
「お、いいのか。よし、決まりだな」
父さんが選んでくれた、別の牛肉の弁当を、俺は両手で受け取った。
ずしりと重いその包みは、たしかに美味しそうだった。
それでも、俺が好きだった、さがしていたものとは、やっぱりどこか違うのだった。
ふと、春に会ったときのおばあちゃんの顔が、頭をよぎった。
膝が痛いと言っていた。
大阪は遠いと言っていた。
最近疲れやすいと、まるで天気の話みたいに、軽く笑っていたあの顔。
当たり前にそこにいると思っている人ほど、きっと、当たり前なんかじゃない。
たかが駅弁ひとつのことで、俺は柄にもなく、そんなことを考えてしまっていた。
「瀬理奈ちゃん、明彦。お弁当は買えた? そろそろホームに行くわよ」
愛奈の声で、俺はようやく我に返った。
明彦は、自分で選んだらしいお子様ランチみたいな弁当を、嬉しそうに抱えている。
俺はその顔を見て、寒くなりかけた胸を、ほんの少しだけあたため直した。
エスカレーターでホームへ上がると、銀色の長い車体が、もう静かに待っていた。
明彦が「うわぁ」と声をあげて、俺の手をぎゅっと握ってくる。
俺たちは家族みんなで、その大きな新幹線へと乗り込んでいった。
新幹線が、ゆっくりとホームを離れていった。
窓の外の景色が、だんだんと速さを増して、後ろへ流れ始める。
明彦は窓に張りついて、流れていくビルや川を、目を輝かせて見つめていた。
びゅーん、と小さくつぶやくその横顔は、本当に楽しそうだった。
「明彦くん、たのしい?」
「うん! 速いね! 家が、ぴゅーんって、うしろにいく!」
「ふふ。トンネル入ると、もっとびっくりするよ」
「トンネル?」
ちょうどそのとき、車体がごうっと音を立てて、トンネルに飛び込んだ。
窓の外が一瞬で真っ暗になって、明彦が「わっ」と声をあげる。
俺の腕にぎゅっとしがみついてくるその様子に、母さんと愛奈がくすくすと笑った。
しばらく新幹線が走ったところで、母さんが「そろそろお弁当にしましょうか」と言った。
俺は膝の上で、父さんが選んでくれた牛肉の弁当の蓋を、そっと開けた。
ふわりと立ちのぼる醤油の匂いは、たしかに美味しそうだった。
ひと口食べると、甘辛い味が、ちゃんと口いっぱいに広がっていく。
うん、美味しい。
確かに美味しいのだけれど。
やっぱり、俺が知っているあの味とは、少しだけ違うのだった。
それでも俺は、その弁当を、ひと粒も残さずきれいに食べきった。
なくなってしまったものを惜しんでばかりいても、仕方がない。
いまここにある美味しいものを、ちゃんと味わうほうが、ずっといい。
そう思えるようになったのは、たぶん、二度目の人生をもらったおかげかもしれなかった。
お腹がいっぱいになると、明彦はすぐにこっくりこっくりと舟をこぎ始めた。
朝がうんと早かったから、無理もない。
俺はその小さな頭を、自分の肩でそっと受け止めてやった。
窓の外を、夏の田んぼが、どこまでも流れていく。
青い空と、もくもくと盛り上がった白い入道雲。
その景色を眺めながら、俺はまた、おばあちゃんのことを考えていた。
最後に会ったのは、春の入学式の頃だった。
あのときのおばあちゃんは、その前に会ったときより、ずっと年老いて見えた。
膝に手を添えて、よっこいしょ、と腰を下ろす姿が、なぜだか目に焼きついている。
あれから、もう四ヶ月が経っていた。
人混みのなかで駅弁ひとつが静かに消えていったように。
会わないあいだに、人もまた、少しずつ変わっていくのだろうか。
考えても仕方のないことだとは、分かっていた。
それでも俺の胸の奥は、新幹線が西へ進むほどに、少しずつ重くなっていった。
「瀬理奈ちゃん、起きてる? もうすぐ新大阪よ」
愛奈の声に、俺は窓から顔を上げた。
いつのまにか車内には、降りる支度を始める人たちの気配が満ちている。
肩で眠っていた明彦も、母さんに揺り起こされて、ぐずぐずと目をこすっていた。
新幹線を降りると、大阪の空気は、東京よりもいっそう蒸し暑かった。
ホームに立っただけで、じわりと汗が滲んでくる。
それでもどこか、東京とは少しだけ違う匂いがする気がした。
父さんが生まれ育った街の匂いだと思うと、俺はなんだか不思議な気持ちになった。
そこから電車を乗り継いで、俺たちはおばあちゃんの暮らす町へと向かった。
古い商店街を抜けて、細い路地を曲がる。
昔ながらの家がぎゅっと肩を寄せ合うように並ぶ、静かな住宅街だった。
おばあちゃんの家は、その一角に、ひっそりと建っていた。
「ここよ。瀬理奈ちゃん、明彦。着いたわ」
俺は、その小さな門の前で、ひとつ、深く息を吸った。
理由はうまく言えないけれど、胸の奥が、とくとくと早く鳴っている。
四ヶ月ぶりに会うおばあちゃんは、いったい、どんな顔をしているだろう。
母さんが呼び鈴を押すより先に、玄関の引き戸が、からからと内側から開いた。
「いらっしゃーい。よう来たねぇ、こんな遠いとこまで」
「お義母さん、ご無沙汰しております」
「ええんよええんよ。さ、暑かったやろ。早う入り、早う入り」
戸の向こうに、おばあちゃんが立っていた。
その後ろからもうひとり、よく似た面立ちの小柄なお年寄りが、にこにこと顔を出している。
おばあちゃんの妹さん――俺にとっては大叔母にあたる人だった。
おばあちゃんと目が合った瞬間、俺の胸が、ことりと嫌な音を立てた。
四ヶ月ぶりに見るおばあちゃんは、春のときより、またひとまわり小さくなっていた。
薄紫のカーディガンの肩が、骨の形が分かるくらいに、ストンと落ちている。
頬のあたりの肉も削げて、目のまわりの皺が、前よりずっと深く刻まれていた。
「おや。瀬理奈ちゃん、また別嬪さんになって……」
「おばあちゃん、こんにちは」
「ようきたねぇ。ほんま、よう来てくれたねぇ」
おばあちゃんは、俺の頭を撫でようとゆっくり手を持ち上げた。
その動作が、春のときよりもひと呼吸ぶんだけ、遅い。
撫でてくれた手のひらは骨ばっていて、そして少しだけひんやりとしていた。
俺の耳は、おばあちゃんの息づかいが、前より浅く速いことさえも、勝手に拾ってしまう。
俺の目は、廊下を歩くおばあちゃんの足が、すり足みたいに小さく運ばれるのを、見てしまう。
どうしてか、こういうときこの鋭すぎる身体は、見たくないものまで勝手に教えてくるのだった。
「瀬理奈ちゃん、明彦くん。あんたら、ようこそ来てくれたなぁ」
「あの……こんにちは」
「ふふ、ご丁寧に。わたしはな、このおばあちゃんの、妹やねん」
「おばあちゃんの、いもうとさん?」
「そうそう。せやから、瀬理奈ちゃんからしたら、もうひとりのおばあちゃんやな」
大叔母さんは、おばあちゃんとよく似た顔で、からからと笑った。
ただこちらは背筋もしゃんとしていて、足取りもまだしっかりしている。
同じ姉妹でも、その元気のあるなしの差が、俺にはかえって残酷に見えた。
「ちょっと姉ちゃん。お客さん来てんねんから、もうちょっとシャキッとしぃや」
「やかましいわ。あんたかて、近頃は目ぇ悪ぅなったくせに」
「なんやの、口だけは達者やねぇ、姉ちゃんは」
姉妹の遠慮のない掛け合いに、座敷がやわらかい笑いに包まれた。
それでも俺は、笑うおばあちゃんがその途中で小さく咳き込んだのを、見逃さなかった。
大叔母さんが慣れた手つきで、その背中をそっとさすっていた。
座敷に通されて、みんなで冷たい麦茶をいただいた。
おばあちゃんは、座布団に腰を下ろすのにも、よっこいしょ、と時間をかける。
そのたびに膝のあたりに手を添えるのが、もうすっかり癖になっているようだった。
俺は麦茶のグラスを両手で持ったまま、おばあちゃんの横顔を、そっと見ていた。
思いたくなかった。
思いたくなかったけれども、知っている、と思った。
俺はこの「だんだん小さくなっていく」感じを、たぶん、この場の誰よりもよく知っている。
なにせ俺は一度、死んだことがあるのだから。
あの夜のことを、俺はまだ、はっきりと覚えている。
対向車のライトが膨らんで、世界がぐにゃりと歪んで、そして真っ暗になった、あの瞬間。
痛みよりも先に来たのは、ただ「終わる」という、底のない恐怖だった。
死ぬというのは、こわい。
これは、生きているうちには絶対に分からない種類の、こわさだった。
そしておばあちゃんは今、その入り口のほうへ、ゆっくりと近づいている。
母さんも、父さんも、愛奈も、みんなおばあちゃんを見て「年をとったね」と思っている。
でもたぶん、その先にあるものまでは、まだ本気では見ていない。
俺だけが、その「先」を、嫌になるくらいはっきりと見てしまっていた。
そして俺には、もうひとつ、胸に刺さったままの棘があった。
前世で、俺はこのおばあちゃんに、何ひとつ孝行というものをしていなかった。
社会人になってからは、仕事を言い訳にして、大阪へ足を運ぶことはほとんどなかった。
電話がかかってきても、忙しいからと、いつも早々に切っていた。
「次の盆には帰るよ」と口ばかりで、結局その「次」は、一度も来なかった。
そうこうしているうちに、俺のほうが、先に逝ってしまった。
おばあちゃんよりずっと若い俺が、孫のほうが、先に。
孝行する時間なんていくらでもあると思っていたのに、それはある日、ぷつりと断ち切られたのだ。
東京駅で消えていた、あの駅弁のことが、また頭をよぎった。
当たり前にあると思っていたものは、本当は当たり前なんかじゃない。
おばあちゃんと過ごせる時間も、きっと、それとまったく同じものなのだ。
——だったら、今度こそ。
俺は、麦茶のグラスを、ぎゅっと握りしめた。
二度目の人生で、もう一度このおばあちゃんに会えたのは、きっと偶然なんかじゃない。
やり残した孝行を今のうちに返しなさいと、誰かにそう言われている気さえした。
残された時間が、もう、そんなに長くないのなら。
俺はその時間のあいだに、誰よりもこのおばあちゃんを大事にすると決めた。
六歳の身体でできることなんて、たかが知れているだろう。
それでも、できることは全部やってやる。
その日から、俺の「おばあちゃん孝行」が始まった。
夕飯のときには、俺はさっそく、おばあちゃんの隣の席に陣取った。
「おばあちゃん、これ、食べる? 瀬理奈、とってあげる」
「あらあら。瀬理奈ちゃん、おばあちゃんのお世話、焼いてくれるん?」
「うん。せりな、おばあちゃんの、おてつだいする」
おばあちゃんの取り皿に、煮物やら何やらを、ちょっとずつ取り分けてやる。
箸が進まないようなら、やわらかそうなものを選んで、そっと勧める。
前世で、愛奈のお腹が大きかった頃、似たようなことをしてやった覚えがあった。
「ふふ。瀬理奈ちゃんは、ほんまに、よう気のつく子やねぇ」
「おばあちゃん、いっぱい、たべてね」
「はいはい。瀬理奈ちゃんがそう言うなら、おばあちゃん、もうひと口だけ、食べよかね」
俺がそう言うと、おばあちゃんは、本当に嬉しそうに、もうひと口を口へ運んだ。
その箸の動きを見ているだけで、俺の胸は温かいような切ないような、妙な具合になる。
食べてくれている、それだけのことがこんなにありがたいものだとは思わなかった。
それから大阪に滞在したあいだ、俺は本当に、おばあちゃんにべったりとくっついて過ごした。
朝、おばあちゃんが起きてくると、俺はすぐにそばへ寄っていく。
夜、おばあちゃんが横になるまで、俺はその枕元を離れなかった。
家族の誰よりも早く、俺はいつもおばあちゃんの隣にいた。
「おばあちゃん、肩たたいてあげる。背中を向けて座ってね」
「あらまぁ。瀬理奈ちゃん、肩たたきまでしてくれるん?」
「うん。瀬理奈、じょうずだよ。とんとんって」
俺は、おばあちゃんの背中にまわって、小さな両手でその肩を叩いた。
骨ばった肩は、想像していたよりずっと薄くて、叩くたびにこちらの胸が痛んだ。
それでも俺は、痛くない程度に、とんとんとんとていねいに叩き続けた。
「ああ、ええ気持ちやわぁ。瀬理奈ちゃんの手は、あったかいねぇ」
「おばあちゃん、肩、こってるね」
「ふふ。歳とると、あちこちこってまうんよ。瀬理奈ちゃんには、まだわからんやろうけどなぁ」
わかるよ、と俺は内心で答えた。
中身が三十歳の俺には、肩こりも、膝の痛みも、嫌というほど覚えがある。
けれどそれは口に出さず、ただ黙って、その薄い肩を叩き続けた。
膝が痛むと言えば、俺はそっとその膝をさすった。
喉が渇いたと言う前に、俺は冷たい麦茶を運んでいった。
立ち上がるときには、小さな身体を踏ん張って、その手を支えた。
「瀬理奈ちゃんは、ほんまに、よう気のつく子やなぁ」
「えへへ。おばあちゃんの、お手伝いさん」
「こんなええ孫、おばあちゃん、罰当たるんとちがうかしらねぇ」
おばあちゃんは、そう言っては、何度も目尻を拭った。
この人はもともと涙もろい人だったが、近頃はいっそう涙もろくなったらしい。
俺がほんの少し世話を焼くだけで、すぐにほろほろとこぼしてしまうのだった。
夜になると、おばあちゃんは、昔の話をよく聞かせてくれた。
俺は布団の上で、おばあちゃんの話に、ひとつひとつ相づちを打った。
父さんが小さかった頃の話。
もう亡くなったおじいちゃんと、若い頃に行った旅行の話。
「むかしなぁ、おじいちゃんと、よう山に登ったもんよ」
「おじいちゃんと?」
「そうそう。けど、おばあちゃん、すぐへばってしもうてな。おじいちゃんに、なんべんも背中押してもろたわ」
その話のなかには、俺の知らないおばあちゃんが、たくさんいた。
俺が「隆志」として知っていたのは、おばあちゃんの、ほんの一部だけだったのだ。
こうして話を聞くたびに、俺はこの人のことを、何も知らなかったのだと思い知った。
「瀬理奈ちゃんは、ほんまに、ようおばあちゃんの話、聞いてくれるねぇ」
「うん。瀬理奈、おばあちゃんのおはなし、好きだよ」
「そうかぁ。……ふふ、なんやろねぇ。瀬理奈ちゃんと話してると、昔のこと、ぽろぽろ思い出すわ」
おばあちゃんは、ふと言葉を切って、俺の顔をじっと見た。
その目が、また少しだけ、いつもと違う色をしている。
何かを、ずっと奥のほうから手繰り寄せようとするような、そんな目だった。
俺はなんでもない顔で、その視線を、まっすぐに受け止めた。
「……なんや、瀬理奈ちゃんと話してると、昔の身内と話しとるみたいな、不思議な気ぃがしてなぁ」
「ふしぎ?」
「ふふ、ええんよ。歳とると、いろんなもんが、ごっちゃになってしまうだけやから」
おばあちゃんは、自分で小さく首を振って、その話を畳んでしまった。
あと半歩、というところで、いつもその手は止まる。
俺はそのたびに、安堵と、ほんの少しの寂しさを、同時に飲み込むのだった。
知ってほしいという気持ちは、たしかにあった。
けれどそれは、たぶん、おばあちゃんを驚かせて困らせるだけの、ただの俺のわがままだった。
だから俺は、何も言わない。
言うかわりに、ただ黙って、この人の世話を焼く。
それが今の俺にできる、せいいっぱいの孝行だった。
滞在も半ばを過ぎた、お盆のさなかのことだった。
その日、橘の家の全員で、近くのお墓参りに出かけることになった。
おばあちゃんと大叔母さんに連れられて、坂の上の古い墓地まで、ゆっくりと歩いていく。
夏の日差しが容赦なく照りつけて、蝉の声が、頭の上から滝みたいに降ってきた。
墓地の一角に、その墓はあった。
「橘家之墓」。
そう刻まれた、こぢんまりとした石のお墓だった。
父さんが桶の水をかけ、母さんと愛奈が、手分けして花を供えていく。
俺は、線香に火がつくのを待ちながら、その墓石を、じっと見つめていた。
墓石の脇には、小さな板碑のようなものが、ひっそりと立てられている。
そこには、亡くなった人たちの名前が、何人ぶんも並んで彫られていた。
そしてその列のいちばん新しいところに――「隆志」の名前が、あった。
二〇〇八年、十二月。
享年、三十。
それは、まぎれもなく、前世の俺の名前であり、俺の命日だった。
不思議な気分だった。
自分の名前が刻まれた墓の前に、自分が、こうして立っている。
死んだはずの俺が、銀髪の女の子になって、自分自身に手を合わせようとしているのだ。
おばあちゃんが、誰よりも先に、その墓の前にしゃがみ込んだ。
そして、皺だらけの両手を、ゆっくりと合わせる。
その口が、小さく、何かをつぶやくように動いていた。
俺の耳は、その声にならないような声まで、勝手に拾い上げてしまう。
「……隆志。おばあちゃんやで。今年も、来たよ」
俺の心臓が、どくんと跳ねた。
「あんたが逝ってもうて、もう七年やねぇ。早いもんやわ」
「……」
「おばあちゃんも、もうすっかり婆さんになってもうて。たぶん、そっち行くのも、そう遠ないわ」
そっち行くのも、そう遠ない。
その一言を、おばあちゃんは、まるで隣に座る隆志に話しかけるみたいに、やわらかく言った。
湿っぽさなんて、かけらもなかった。
だからこそ俺の胸には、その言葉が、ぐさりと深く突き刺さった。
おばあちゃんは、墓石に向かって、なおもぽつぽつと話しかけ続けた。
「あんたが死んでから、ええこともあったんよ。瀬理奈ちゃんいう、可愛い子がうちに来てくれてなぁ」
「……」
「あの子がなぁ。おばあちゃんの世話、いっぱい焼いてくれるんよ。気のつく、ほんまにええ子でなぁ」
俺は、その後ろ姿を見ながら、ぐっと奥歯を噛んだ。
おばあちゃんは、死んだ薄情な孫のために、こうして毎年坂を登ってここへ来ていたのだ。
膝が痛むと言いながら。それでも、孫のために。
俺が前世で何ひとつ返せなかった孝行を、おばあちゃんは俺が死んだあともずっと続けてくれていた。
墓の前で手を合わせ、近況を報告し、いつか自分も逝くのだと、笑いながら語りかけて。
その重さの前では、俺の数日ばかりの肩たたきなんてあまりにも軽すぎた。
「瀬理奈ちゃんも、おいで。ご挨拶しよか」
「……うん」
おばあちゃんに手招きされて、俺は墓の前に進み出た。
そして、おばあちゃんの隣にちょこんとしゃがんで、小さな両手をぴたりと合わせた。
自分の名前が刻まれた、その墓石に向かって。
ただいま、と、俺は心のなかでつぶやいた。
おばあちゃん。
俺はちゃんと帰ってきたよ。
今度は絶対に、あなたを置いて先には行かない。
少しでも、少しだけでも孝行するから。
蝉の声が、いちだんと大きくなった。
合わせた手のひらが、夏の暑さでじんわりと汗ばんでいる。
気を抜くと俺の目から、つうっと涙が一筋こぼれそうになって――俺は慌てて、それを指で拭った。
隣でおばあちゃんが、そんな俺の頭を、そっと撫でてくれた。
「ふふ。瀬理奈ちゃん、暑かったなぁ。よう、お参りできたねぇ」
「……うん」
「ええ子や。ほんま、ええ子やわぁ」
その手のひらは、骨ばっていて、ひんやりとしていて。
それでも、たまらないくらい、あたたかかった。
楽しかったお盆も、終わりが近づいてきた。
大阪を発つ前の晩、俺は布団のなかで、なかなか寝つけずにいた。
隣の部屋からは、おばあちゃんの、少しかすれた寝息が聞こえてくる。
その寝息を聞きながら、俺はずっと、自分のしてきたことを数え直していた。
肩を叩いた。
膝をさすった。
昔の話を、たくさん聞いた。墓の前で、一緒に手を合わせた。
数日のあいだ、俺は確かに、家族の誰よりもおばあちゃんに尽くしたと思う。
それでも胸の奥のもやもやは、いっこうに晴れてくれなかった。
むしろ別れの朝が近づくほどに、それは重くなっていくばかりだった。
全然足りない、と俺は思った。
こんなものでは、ぜんぜん足りない。
肩たたきも、世話焼きも、しょせんは数日かぎりのことだ。
俺が東京へ帰ってしまえば、おばあちゃんはまたこの大阪でひとり、歳を重ねていく。
そしておばあちゃんに残された時間は、たぶんそんなに長くない。
次に会えるのが、いつになるのかも分からない。
そのわずかな時間に、俺はいったい、何を返してやれるのだろうのか。
布団のなかで、おばあちゃんがいつか言った言葉を思い出していた。
『瀬理奈ちゃんも明彦くんも、画面のなかで、ずぅっと楽しそうにしとった』
『おばあちゃんはな、それが、いっとう一番やと思うんよ』
楽しそうにしているのが、一番。
そして、こうも言っていたな。
『孫の晴れ姿、見んと死ねるかいな』と。
——ああ、そうか。
布団のなかでゆっくりと目を開けた。
胸のもやもやの晴らし方が、急にすとんと腑に落ちたのだ。
肩を叩くだけが、孫としての孝行じゃない。
そばにいて世話を焼くことだけが、孝行じゃない。
おばあちゃんがいちばん喜ぶのは、結局、俺が楽しそうにしている姿なのだ。
だったら、俺が東京で為すべきことは、もう決まっている。
ピアノを、もっと弾こう。
スケートで、もっともっと滑ろう。
氷の上で楽しそうに舞う俺を、鍵盤の前で笑う俺を、おばあちゃんに見せてやるのだ。
それは肩たたきよりも、ずっと遠くまで届く孝行だった。
東京にいても、画面の向こうからでも、おばあちゃんを笑顔にできる。
俺がいちばん得意とすることで、おばあちゃんを、いちばん喜ばせてやれるのだ。
時間がないのなら、なおさらだ。
おばあちゃんの目が、まだちゃんと俺を見てくれているうちに。
俺の晴れ姿を一つでも多く、その目に焼きつけてもらわなければならない。
そう決めたら、胸のもやもやが、すうっと軽くなっていった。
俺は、隣の部屋の寝息に向かって、心のなかでそっと誓った。
待っててくれ、おばあちゃん。
俺、もっともっと、おばあちゃんを笑顔にしてみせるから。
大阪を発つ日は、よく晴れた、暑い一日だった。
おばあちゃんと大叔母さんが、玄関の外まで俺たちを見送りに出てくれた。
父さんが手土産のお礼を言い、母さんと愛奈が、何度も頭を下げている。
明彦はおばあちゃんに「またね」と、小さく手を振っていた。
俺はおばあちゃんの前に進み出て、その顔をまっすぐに見上げた。
「おばあちゃん」
「なんやの、瀬理奈ちゃん」
「あのね。瀬理奈、東京でピアノとスケート、いっぱいがんばるね」
おばあちゃんは、きょとんとした顔で、俺を見下ろした。
「瀬理奈、もっともっと上手になるの。上手になってすごいの、いっぱい見せてあげる」
「あらまぁ」
「だからね、おばあちゃん、見ててね。瀬理奈のこと、ずっと見ててね」
俺がそう言うと、おばあちゃんの目が、みるみるうちに潤んでいった。
「……うん。うん、見るよ。おばあちゃん、ぜったい、見るからね」
「約束する?」
「約束や。瀬理奈ちゃんの晴れ姿、見るまでは、おばあちゃん、なんぼでも長生きするわ」
なんぼでも長生きする。
その一言が聞きたくて、俺はこの約束を持ちかけたのかもしれなかった。
おばあちゃんに生きる理由を、一つでも多く渡しておきたかった。
孫が楽しそうにしているのを見るために、もう少しだけこっちにいてくれと、それはもう願いに近かった。
おばあちゃんは、ほろりと一筋、涙をこぼした。
それから、その涙を指で拭って心から嬉しそうに笑った。
俺の知るかぎり、それは今回のお盆でいちばんの、おばあちゃんの笑顔だった。
「ほな、気をつけて帰りや。瀬理奈ちゃん、明彦くん。また、おいでな」
「うん。おばあちゃん、げんきでね」
「あんたもな。風邪なんか、ひいたらあかんよ」
路地を曲がる間際、俺はもう一度だけ、後ろを振り返った。
おばあちゃんと大叔母さんが、まだ門の前に立って、こちらに手を振っていた。
小柄なふたりの影が、夏の光のなかで、寄り添うように並んでいる。
俺は、その姿を、目に焼きつけるようにして、大きく手を振り返した。
また会おうね、おばあちゃん。
そのときの俺は、きっと、もっとすごくなっているから。
あなたが「楽しそうやねぇ」と笑ってくれるような、そんな姿を、必ず見せに来るから。
帰りの新幹線は、行きよりもずっと静かだった。
窓の外を、夕暮れに向かう田んぼが、また逆向きに流れていく。
明彦は早々に、母さんの膝で、すやすやと寝息を立てていた。
俺は、窓に頬杖をついて、流れていく景色を、ぼんやりと眺めていた。
東京駅で消えていた、あの好きだった駅弁のことを、ふと思い出す。
当たり前にあると思っていたものは、当たり前なんかじゃない。
だから俺は、おばあちゃんがそこにいてくれるうちに、生きてくれているうちに、できることは全部やると決めたのだ。
「瀬理奈ちゃん。なんだか今日は、ずいぶん大人びた顔してるわね」
通路をはさんだ隣の席から、愛奈が小さな声で言った。
ほかのみんなが眠っているのを確かめて、俺はちょっとだけ、前世の口調に戻る。
「……なあ、愛奈」
「なに?」
「おばあちゃん、たぶん、もうそんなに長くないと思う」
愛奈はすぐには何も言わなかったが、その目がほんの少しだけ悲しそうに細められる。
愛奈も、薄々は気づいていたのだろう。
「俺さ。前世じゃ、おばあちゃんに、何にもしなかった、何もしてやれなかったんだ」
「……うん」
「だから今度こそ、ちゃんとしてやりたい。といっても、肩たたきくらいしかできないんだけどな」
俺がそう言うと、愛奈はやわらかく笑った。
「肩たたきだけじゃないんでしょ。お義祖母さまに約束したんですってね」
「……聞いてたのか」
「ええ。ピアノとスケート、いっぱい頑張るって。あんなに嬉しそうなお義祖母さま、私、初めて見たわ」
俺は、ばつが悪くなって、窓のほうへ顔を背けた。
「……笑うなよ」
「笑ってないわよ。むしろ」
「むしろ?」
「あなたらしくて、いいなって思っただけ」
愛奈はそれっきり何も言わずに窓の外へ視線を戻した。
夕日が車内をオレンジ色に染めて、眠る明彦の頬をやわらかく照らしている。
俺はその光のなかでもう一度、自分の決意を確かめ直した。
氷の上で楽しく舞おう。
鍵盤の前で気持ちよく笑おう。
おばあちゃんが「ええなぁ」と目を細めてくれる、その姿を一つでも多く届けるのだ。
それが俺にできる、いちばん遠くまで届く孝行だった。
肩たたきでは届かない場所まででも、ピアノとスケートならきっと届く。
東京の氷の上から大阪のおばあちゃんの笑顔まで、まっすぐに。
新幹線がまた、ごうっとトンネルに飛び込んだ。
窓の外が一瞬で真っ暗になる。
それでも俺の胸のなかは、もう寒くなんかなかった。
やるべきことがちゃんと見えているからだった。
トンネルを抜けると、東京の夜景が遠くにちらちらと光り始めていた。
家に帰れば俺の帰る場所がちゃんと待っている。
氷の上にも鍵盤の前にも俺の帰る場所がある。
そしてその先には、俺の晴れ姿を待っていてくれるおばあちゃんがいる。
待っててくれ、おばあちゃん。
心のなかでもう一度だけそうつぶやいた。
膝の上の小さな手のひらを、ぎゅっと握りしめながら。
二度目の人生でありながら、たぶん初めてのおばあちゃん孝行。
薄情だった俺の孝行、それはきっとこれからも続いていく。
氷の上から、鍵盤の前から、俺の精いっぱいの笑みを――おばあちゃんへその笑顔を届けるために。