銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第二章 第八話 前に出る覚悟

八月後半の東京は、大阪に負けないくらいに蒸し暑かった。

お盆の大阪から帰ってきて、もう一週間が過ぎた頃合い。

セミの声はいよいよ盛りを過ぎて、夕方にはほんの少しだけ涼しい風も混じり始めている。

長かった夏休みも、気づけばあと数日を残すばかりになっていた。

 

朝食を済ませると、俺はまっすぐリビングのピアノの前に座った。

橘の家にやってきて、もう三年近くになるアップライトピアノだ。

鍵盤の蓋をそっと開けると、見慣れた白と黒が、朝の光をやわらかく弾いた。

 

これまでの俺は、習い事というものを、どこか流された形でやっていたように思う。

ピアノもスケートも、ただ楽しいからやっているだけで、それ以上の欲なんて持っていなかった。

上手いと言われても若干力を抜いて、悪目立ちしないように気をつけていたくらいだ。

 

なにしろこの身体は、本気を出せばすぐに人目を引いてしまう。

銀の髪に碧の瞳、おまけに人間離れした身体までついている。

だから自分から進んで前に出ることを、ずっとどこかで避けてきたのだった。

 

——でも、もう、それではいけない。

 

大阪から帰る新幹線のなかで、俺は心に決めたのだ。

氷の上で楽しそうに舞う俺を、鍵盤の前で笑う俺を、おばあちゃんにいっぱい見せてやるのだと。

肩たたきよりもずっと遠くまで届く、それが俺にできる精いっぱいの孝行なのだと。

 

そのためには、ただ楽しんでいるだけでは足りなかった。

楽しそうにしているところをちゃんと形に残して、誰の目にも届くようにしなければならない。

コンクールでも試合でもなんでもいい、俺の晴れ姿をおばあちゃんに見せられる場所が欲しかった。

 

指を鍵盤の上にそっと置くと、低い音が部屋に響き渡る。

 

ちょうどいいことに、ピアノ教室では来月大きなコンクールがあると教えてもらっていた。

湯浅先生が「もしよかったら」と、半分ためらいながら勧めてくれていたもの。

今までの俺なら、たぶん曖昧に笑って、やんわりと断っていただろう。

 

「……うん、出よう」

 

ぽつりと、俺は声に出してみた。

誰もいないリビングに、その小さな声がぽとんと落ちる。

そうと決めたら、不思議と胸の奥が、すっと軽くなった。

その日の午後にピアノ教室で、俺は早速湯浅先生にそれを伝えた。

 

「せんせい。瀬理奈、コンクールに出ようと思うの」

「えっ……ほ、ほんとう? 瀬理奈ちゃんが?」

「うん。出たいんだ」

 

湯浅先生は、目を丸くして固まってしまった。

それもそのはず、これまで湯浅先生から何度勧めても、俺はのらりくらりとかわし続けてきたのだ。

その俺が自分から参加すると言い出したのだから、先生が驚くのも無理はなかった。

 

「どういう風の吹き回しかしら……でも嬉しいわね。先生、すごく嬉しい」

「えへへ」

「瀬理奈ちゃんのピアノをたくさんの人に聴いてもらえるんだもの。はりきっちゃう」

 

湯浅先生は頬を上気させて、何度も頷いた。

この人は俺の「特別」を、いちばん最初に見抜いてくれた人だった。

それでいてピアノを勝ち負けの道具にしようとは、一度もしなかった人でもある。

 

「あのね瀬理奈ちゃん。先生は、コンクールは勝つための場所じゃないと思ってるの」

「??? 勝つための場所じゃない?」

「そう。瀬理奈ちゃんが気持ちよく弾けたらそれがいちばんの花丸なのよ。順位なんてあくまでそのおまけ」

 

その言葉が胸に落ちた。

確かにピアノは、俺にとって戦う場所ではなかった。

鍵盤の前はいつだって、肩肘に力を入れず自然体で帰ってこられる場所なのだ。

 

だったら、コンクールもきっと怖くない。

おばあちゃんに見せるための晴れ姿を、いちばん得意なこの場所で気持ちよく弾けばいい。

そう思うと、肩の力がいい具合に抜けていった。

 

課題曲は、すぐに決まった。

ゆったりとした三拍子の優しい曲だった。

相変わらず一度楽譜に目を通しただけで、頭はもう最後の一音までを覚えてしまっていた。

 

 

 

コンクール当日は、よく晴れた九月のはじめの日曜日だった。

 

会場は市の文化ホールの、こぢんまりとした小ホールだった。

ロビーにはよそゆきの服を着た子供たちと、その親たちがあふれている。

どの子も少し緊張した顔で、指を動かしたり楽譜をめくったりしていた。

 

俺は母さんに手を引かれて、その人混みのなかを歩いていた。

父さんは例によって一眼レフを首から下げて、朝から気合いを入れている。

明彦と愛奈も、わざわざ応援に駆けつけてくれていた。

 

「瀬理奈お姉ちゃん、がんばってね」

「明彦くん、見ててね」

「うん、僕いちばん前で見るから」

 

明彦は自分のことのようにそわそわしていた。

俺がコンクールに出るというだけで、この子は朝からずっと落ち着かない様子だった。

その手にはお守りだといって持ってきた、白うさぎのぬいぐるみが握られている。

 

やがて、俺の名前が呼ばれた。

 

「次は、たちばな・せりなさん」

 

俺はぺこりとお辞儀をして、舞台の中央のピアノへと歩いていった。

客席のほうから、ちいさなどよめきが起こるのが分かった。

銀色の髪の小さな子が出てきて、みんな少しだけ驚いたのだろう。

 

椅子の高さを直して、俺は鍵盤の前に座った。

 

——その瞬間、世界から余計な音が、すうっと薄れていく。

 

客席のざわめきも、空調の低い唸りも、誰かの咳ばらいも。

全部が遠くへ引いていって、自分の呼吸と心音だけがはっきりと残った。

氷の上に刃を下ろすときとまったく同じ感覚だった、鍵盤の上でこの感覚が来るのは珍しい。

 

そして最初の一音を、そっと鍵盤に落とした。

 

ゆったりとした三拍子が、静かなホールにぽつんと広がっていく。

ドの少し上で、二拍ぶんだけ伸びる優しい音。

その音がまるで誰かの手のように、俺の指を次の音へとそっと導いた。

 

弾きながら、俺はおばあちゃんのことを思い出していた。

膝が痛いと言いながら、それでも俺の頭を撫でてくれた、あの骨ばった手のひら。

楽しそうにしとるのが一番だと笑った、あのやわらかい声。

 

不思議だった。

おばあちゃんのことを思い浮かべると、指先がふっと軽くなる。

旋律がひとりでに温かい色をまといはじめる。

 

旋律がサビの辺りにさしかかったあたりで、俺は「弾こう」と意識するのをやめていた。

考えるのをやめ、おばあちゃんに直接聴かせるつもりで音に身を委ねる。

すると指は、もう俺が動かさなくても勝手に踊りはじめた。

頭のなかにある音と、鍵盤の上にある指先が、ぴたりとひとつに重なっていく。

 

それから曲の終わりまで、俺はたぶん、いつもとは違うピアノを弾いていた。

最後の一音をそっと鳴らして、鍵盤からふわりと指を離す。

余韻がしんとしたホールの天井にゆっくりと吸い込まれていった。

 

一拍の静寂。

 

それから、客席が、わっと拍手に包まれた。

 

舞台の袖に戻ると、湯浅先生が、両手を口に当てて固まっていた。

 

「瀬理奈ちゃん……いまの、すごく……」

「先生?」

「言葉が出てこないわ……本当に綺麗だった」

 

湯浅先生はいつものように語彙が尽きて、ただ笑うばかりになっていた。

その目尻にはうっすらと光るものが滲んでいる。

 

結果が発表されたのは、その日の夕方だった。

 

俺の名前は、低学年の部の、いちばん上のところで呼ばれた。

金賞、という二文字を、係の人がマイクで読み上げる。

客席の父さんが立ち上がって、夢中でシャッターを切っていた。

 

「瀬理奈ちゃん、おめでとう……!」

「やったね、瀬理奈!」

「瀬理奈お姉ちゃん、金賞! 金賞だって!」

 

母さんも、愛奈も、明彦も、自分のことのように喜んでくれた。

俺は賞状を両手で受け取って、その重みをしっかりと噛みしめた。

ただ楽しいだけだったピアノが、初めて目に見える「かたち」になった瞬間だった。

 

——おばあちゃん。

 

俺はその賞状を見つめながら、心のなかでそっと呼びかけた。

瀬理奈はちゃんと、金賞をとったよ。

これが、俺の最初の晴れ姿だ。

 

そう思った瞬間、俺の胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

 

 

夏休みが明けて、二学期が始まった。

 

まだ夏の名残が色濃い、九月の半ばのことだった。

スケートクラブでは、バッジテストというものが行われることになっていた。

学校が終わると、俺はいつものようにリンクへと向かった。

 

「瀬理奈ちゃん。バッジテストって、知ってる?」

「ばっじてすと?」

「うん。フィギュアの、級を取るための試験みたいなものでね」

 

永田さんはリンクサイドのベンチにしゃがんで、俺と目線を合わせた。

紺色のダウンの胸元には、相変わらず笑い皺の似合う顔がある。

その手には、級ごとの課題が書かれた、一枚の古びた表が握られていた。

 

「決められた技をちゃんと滑れたら、ひとつずつ級が上がっていくんだ」

「級があがるんだ」

「そう。瀬理奈ちゃんなら、いまの実力で初級くらいは軽く受かると思うよ」

 

級が上がるという言葉に、俺はぴくりと反応した。

それはまさに、俺がいま欲しがっていたものだった。

目に見える「かたち」になって、あとにちゃんと残るもの。

 

「永田さん。瀬理奈はそれ受けてみたい」

「お、いいね。やる気だね」

「うん。級をとりたいの」

 

永田さんは、嬉しそうに、にっと笑った。

この二年、スケートもあまり悪目立ちしすぎないように適度に調整して満足してきた。

その俺が自分から級を取りたいと言ったことを、この人はちゃんと喜んでくれた。

 

そうして迎えた、バッジテストの当日。

 

いつもより少しだけぴりっとした空気が張っていた。

何人かの判定員が、リンクサイドのテーブルに難しい顔で並んで座っている。

受験する子供たちが、順番に呼ばれては決められた技を披露していった。

 

やがて、俺の番が来た。

 

刃の先を、そっと氷の上に下ろすと、いつものように世界から音と質量が薄れていく。

判定員の視線も、ひかりの応援の声も、全部が冷たい空気のなかへ吸い込まれていった。

 

課題そのものは、難しいものではなかった。

決められた向きに滑って、決められたターンをして、決められたところで止まる。

今の俺の身体には、目をつぶっていてもできるくらいの簡単な内容だった。

 

俺はその課題をひとつひとつていねいにこなしていった。

速すぎず遅すぎず、大きすぎず小さすぎず。

教科書に載っているお手本みたいに、正確に滑ってみせる。

 

跳びたければ、もっと高く跳べたと思う。

回りたければ、もっと速く回れたと思う。

でも今日はそれをしなかった、試験で求められていることだけを過不足なくこなした。

 

最後のポーズをぴたりと決めると、判定員たちが、ほう、と息をついた。

それから何人かが、満足そうに頷き合っている。

結果を聞くまでもなく受かったのだということが、その様子で分かった。

 

「瀬理奈ちゃーん、合格ー!」

 

手すりの向こうで、ひかりが、ぴょんぴょん跳ねながら叫んでいた。

明彦も佑香ちゃんもいつもの指定席のベンチから、ぱちぱちと拍手を送ってくれている。

俺は三人に向かって、ぺこりと小さくお辞儀をした。

 

リンクから上がると、永田さんがにこにこしながら近づいてきた。

 

「おめでとう瀬理奈ちゃん。一発合格だ」

「えへへ。やったね」

「うん。文句なし、きれいなもんだったよ」

 

永田さんは、俺の頭をわしわしと撫でてくれた。

その手つきは、いつものように嬉しさで満ちている。

けれどその目の奥には、ほんの少しだけ別の色も混じっていた。

 

それは二年前に初めて滑った日、この人がほんの一瞬だけ飲み込んだ色に似ていた。

言いたいことがあるのに、口には出さずにそっと胸の奥にしまうときの顔。

けれども俺の耳は、その人が小さくつぶやいた独り言まで勝手に拾ってしまった。

 

「ほんとは、もっと跳べるのになぁ……」

 

その一言は、咎めるようでも急かすようでもなかった。

むしろ、宝物を前にしてまだ蓋を開けていない子供を見るような、そんな声だった。

永田さんはたぶん俺が安全なところでしか滑っていないことを、とっくに見抜いている。

 

俺は聞こえなかったふりをして、にこりと笑ってみせた。

 

別に隠しているつもりはない。

級が、ひとつ取れた。

それで、じゅうぶんだった。

おばあちゃんに見せられる晴れ姿が、また一つ増えたのだから。

 

 

 

そんなふうに俺が前のめりに活躍を始めると、それはやはり目立った内容として受け取られ始めた。

 

まあきっかけはいくつもあった。

ピアノのコンクールで金賞を取ったことや、コミケの広場で撮られた写真が、またネットに出回ったこと。

そういった小さな火種が、いつのまにか、あちこちで燃えて話題になっていたらしかった。

 

ある日の夜、父さんのところに、一本の電話がかかってきた。

 

電話の主は、二年前にお世話になった、テレビ局のディレクターの古屋さんだった。

銀の天使にまた出てほしい、できれば今度はピアノだけでなくスケートも、と。

受話器の向こうの声は、二年前よりもずっと、熱がこもっているように聞こえた。

 

電話を切った父さんは、少しだけ困った顔をしていた。

 

「どうしたものかな……前は、一回きりのつもりだったんだが」

「あなた、瀬理奈の負担にならないかしら」

「うん。本人が嫌なら、もちろん断るが」

 

二年前、俺は父さんを困らせたくない一心で、テレビに出た。

あのときは正直、出たくて出たわけではなかった。

でも、いまは、少しだけ事情が違っていた。

 

「パパ。瀬理奈はでてもいいよ」

「えっ? 瀬理奈はいいのか?」

「うん。だってテレビにでたら、大阪のおばあちゃんも見られるでしょ?」

 

俺がそう言うと、父さんと母さんがはっとしたように顔を見合わせた。

 

そうなのだ。

テレビに映れば、その姿は大阪のおばあちゃんのところにも届く。

東京の俺の晴れ姿を、画面の向こうからおばあちゃんに見せてやれる。

 

俺が活躍を形に残したいのも、人前に出るのを嫌がらなくなったのも、根っこは全部そこにあった。

おばあちゃんに、楽しそうにしている俺を一つでも多く見てもらいたい。

そのためならテレビでもネットでも、使えるものはなんでも使ってやろうと思っていた。

 

「……そうか。瀬理奈は、そういうつもりなのね」

「うん、そのつもり」

「わかった。じゃあお受けしましょう。あなた」

「ああ。そうだな」

 

ただテレビに出るにあたり、ひとつだけ困ったことがあった。

 

うちの両親は二人とも根っからの技術屋と専業主婦だ。

テレビだの取材だの、そういう華やかな世界とはまるきり縁のない人たちだった。

依頼が増えてきたときにその窓口を誰がやるのかというのが、ちょっとした問題になったのだ。

 

その話を聞きつけたのは、思いがけない人だった。

 

佑香ちゃんの、義理のお母さんである。

 

夏のあいだに、佑香ちゃんの一家とうちの一家は、すっかり仲良くなっていた。

あの校庭での一件のあと、両親同士も度々顔を合わせるようになっていたのだ。

母さんが俺の活動についてぼやいていた時、佑香ちゃんのお母さんがふとこんなことを口にした。

 

「あの、橘さん。もしよかったら、わたしでお役に立てないかしら?」

「? と、おっしゃいますと?」

「実はわたし、佑香を引き取る前までは芸能事務所でマネージャー業をしていたんです」

 

その一言に、うちの両親はぽかーんと口を開けた。

俺もリビングの隅で積み木をしながら、内心で目を丸くしていた。

まさか佑香ちゃんのお母さんが、そんな経歴の持ち主だったとは。

 

「契約のことやスケジュールのことなら、私でしたら一通り分かりますから」

「いえ、で、ですが。そんな、ご迷惑では」

「いいえ、佑香がこんなに毎日楽しそうにしているの、瀬理奈ちゃんのおかげですもの」

 

佑香ちゃんのお母さんは、やわらかく笑った。

施設に置いていかれて、ずっと一人で待っていたあの子。

その子がいま、毎日笑って学校へ通えているのが、よほど嬉しいことだったらしい。

 

「うちの佑香をお友達にしてくれたお礼です。これくらいはさせてください」

 

こうして俺の「お仕事」の窓口は、佑香ちゃんのお母さんが引き受けてくれることになった。

 

考えてみれば、これ以上ないくらい心強い味方だった。

プロの目で無理な仕事はきっぱり断ってくれるし、危ない話には乗らない。

おかげでうちの両親は、いらぬ心配をせずに済むようになった。

 

「瀬理奈ちゃん。お仕事はね、無理だけはしちゃだめよ」

「うん。だいじょうぶ」

「楽しくなくなったらいつでも言ってね。すぐ、やめさせるようにするから」

 

その言葉は、二年前に両親と交わした「つらくなったら必ず言う」という約束と、そっくりだった。

俺のまわりにはいつのまにか、こうやって俺を守ってくれる大人が、また一人増えていた。

置いてきたはずの場所から始まった縁が、こんなところで巡り巡って、俺を助けてくれている。

 

なんだか、可笑しかった。

そして、それ以上に、ありがたかった。

 

 

 

テレビの収録は、十月のはじめに行われた。

 

二年ぶりのスタジオは、まばゆいくらいの照明に照らされていた。

カメラやマイクが、あちこちから俺のほうへ向けられている。

二年前はこの空気に、正直すこし呑まれていたものだった。

 

「銀の天使ちゃーん、今日はよろしくね!」

「よろしく、おねがいします」

「うわぁ、ご挨拶も完璧。しっかりしてるねぇ」

 

司会のお笑い芸人さんが、大げさに目を丸くしてみせている。

この人は二年前にも、俺の演奏に脱帽してくれた人だった。

あの頃よりかはほんの少しだけ髪が薄くなっている気がしたが、そこは黙っておくのが男の情けである。

 

収録は、まずピアノから始まった。

 

スタジオの真ん中に置かれた、つやつやの黒いグランドピアノ。

俺はその前に座って、コンクールで弾いたあの三拍子の小品を、もう一度奏でた。

頭のなかの音と指先がぴたりと重なる、あの感覚にそっと身を委ねる。

 

弾き終わると、スタジオが、しんと静まり返った。

 

「……いやぁ参ったね。何回聴いても、これは子供の演奏じゃないよ」

「えへへ」

「おじさん、鳥肌立っちゃったよ。ねえ、すごくない?」

 

司会の人が、自分の腕をさすりながら、客席のほうへ呼びかけた。

鳥肌、という言葉に、俺はふと永田さんの顔を思い出して、内心で少しだけ笑った。

どうやら俺のピアノは、あちこちの人の腕の毛を逆立てて回っているらしい。

 

ピアノのあとは、リンクで撮ってきたスケートの映像が流された。

 

氷の上を滑る俺、ターンをする俺、そして前を向いて跳ぶ俺。

大きなスクリーンに映し出されたその姿に、スタジオじゅうがどよめいた。

ピアノを弾く銀の天使が氷の上でも舞っている、というその事実がよほど意外だったらしい。

 

「ちょっと待って、ピアノもスケートも、両方なの?!」

「うん。両方とも好きなの」

「いやいや、欲張りすぎでしょ! 神様、二物どころじゃないよ!」

 

司会の人が頭を抱えておおげさにのけぞってみせた。

客席からも驚きの声があがる。

ピアノとスケート、その二つが合わさったことで騒ぎはちょうど二倍の大きさになっていた。

 

収録のあいだは、俺は終始落ち着いていた。

 

二年前はただ父さんを困らせたくなくてここに立っていた。

でも今日は違う。

俺はここに、自分の意思で立っている。

この映像の向こうに大阪のおばあちゃんがいると思えば、ちっとも怖くなかった。

 

「銀の天使ちゃん、最後にひとこと、どうぞ!」

「えっと……」

「テレビの前のみんなに、なにかある?」

 

カメラのレンズが、まっすぐに俺を捉えている。

俺はその黒い丸いレンズの向こうに、ひとりの人を思い浮かべた。

薄紫のカーディガンを着た、骨ばった手のひらの、あのおばあちゃんを。

 

「あのね。瀬理奈、これからも、いっぱいがんばるね」

「おお、頼もしい!」

「だからね、ずっと見ていてね」

 

見ていてね、という言葉にいちばん力を込めた。

それは画面の前のみんなへの言葉でありながら、本当はたったひとりへの言葉だった。

見ててね、おばあちゃん。

瀬理奈の晴れ姿を、ずっと見ててね。

 

 

 

放送のあとは二年前とまったく同じことが起きた。

 

いや、同じどころではなかった。

ピアノだけだった二年前と違って今度はスケートまでくっついている。

銀の天使が氷の上に、コミケ会場に、降臨したとかなんとか言いだして、騒ぎは二年前の比ではなかった。

 

動画の再生数はあっという間にとんでもない数字まで膨れ上がった。

海外のSNSでも、また「The Silver Angel」の名前が飛び交っているらしい。

学校でも、知らない上級生にまで、廊下でこそこそと指をさされる始末だった。

 

ただ、肝心の橘家のほうは、いたって平和なものだった。

 

「あらあら。また、うちの子が有名になっちゃって」

「ふふ。佳代子さん、もう三回目ですもんね」

「はいはい、またうちの天使が、ってね」

 

母さんと愛奈は、リビングでお茶をすすりながらけらけらと笑っていた。

一度目のときはあんなに慌てふためいていた二人が、もうすっかり場慣れしている。

父さんにいたっては「ほう、今度は何万回いくかな」と、どこか他人事のようにのんびり構えていた。

 

そして、当の本人である俺はと言えば。

 

二年前の俺なら、この騒ぎを、きっと持て余していただろう。

そっとしておいてほしいと、内心でため息をついていたに違いない。

でも、いまの俺の胸にあったのは、それとはまるで正反対の気持ちだった。

 

——むしろ、大歓迎だ。

 

リビングの隅で、俺はひとり、こっそりとそうつぶやいた。

むしろ広まれ、もっと広まれ、と思う。

この映像が遠くまで届けば届くほど、おばあちゃんの目に触れる機会も増えるのだから。

 

バズるのも、騒がれるのも、上等だった。

銀の天使でもなんでも好きに呼んでくれていい。

俺の姿が日本中に、世界中に広まるなら、それは俺にとって願ったり叶ったりだった。

 

三年前と言えばあんなに静かに暮らしたかったのにな。

人というのはたった一つ理由ができるだけで、こんなにも変わるものらしい。

 

その夜のことだった。

 

夕飯の片づけが終わった頃、リビングの電話がりりりんと鳴った。

母さんが電話番号を確認して受話器を取ると、その顔がぱっと明るくなる。

電話の相手が誰なのか、俺の耳は、もう声だけで分かってしまった。

 

「あ、お義母さん! はい、はい……ええ、ご覧になりました?」

 

大阪のおばあちゃんだった。

 

俺は積み木をする手を止めて、思わず電話のほうへ駆け寄った。

母さんが「瀬理奈と代わりますね」と、受話器をそっと俺に手渡してくれる。

受話器の向こうから、あのやわらかくて少しかすれた声が流れ込んできた。

 

「もしもし、瀬理奈ちゃん? おばあちゃんやで」

「おばあちゃん! テレビ、見てくれたの?」

「見たよ、見たとも。妹と二人でテレビにかじりついて見たわ」

 

おばあちゃんの声は、電話越しでも分かるくらい弾んでいた。

胸がことりと温かい音を立てる。

見てくれた。

ちゃんと、見てくれていた。

 

「いやぁ、たまげたわ。瀬理奈ちゃん、ピアノもスケートも、あんなに上手やったんやねぇ」

「えへへ。おばあちゃん、瀬理奈、がんばったよ」

「がんばったねぇ。ほんま、ようがんばったねぇ」

 

おばあちゃんの声が、途中から、少しだけ湿っていった。

あの涙もろい人のことだ、きっと電話の向こうで、また目尻を拭っているのだろう。

俺は受話器を両手で握りしめて、その声の一つひとつを、耳の奥に大事にしまった。

 

「あんな別嬪さんが氷の上で舞うんやもの。おばあちゃん、自慢で鼻が高こうてなぁ」

「ふふ。おばあちゃん、はなたかさん」

「そうそう。近所中に言うてまわったわ。うちの孫やでって」

 

その言葉に、俺は、ぐっと胸が詰まった。

 

大阪のお墓の前で、おばあちゃんは死んだ隆志に語りかけていた。

瀬理奈という可愛い子がうちに来てくれた、と。

その同じ口で今、おばあちゃんは、俺のことを近所中に自慢してくれているのだ。

 

「おばあちゃん。瀬理奈ね、もっともっと上手になるからえ」

「うん」

「だからね、おばあちゃん、ずっと元気でいてね。瀬理奈の姿を見ててね」

 

俺がそう言うと、受話器の向こうでおばあちゃんがふふっと笑った。

 

「言われんでも、見るに決まっとるやろ」

「ほんと?」

「ほんまほんま。瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、おばあちゃん、なんぼでも長生きするって、約束したやろ」

 

なんぼでも長生きする。

大阪を発つ日に交わした、あの約束を、おばあちゃんはちゃんと覚えていてくれた。

俺がいちばん聞きたかったその一言を、もう一度、聞かせてくれた。

 

「ほな、瀬理奈ちゃん。風邪なんか、ひいたらあかんよ」

「うん。おばあちゃんも、げんきでね」

「あいよ……ほんま、ええ子や。おやすみ、瀬理奈ちゃん」

 

電話が切れたあとも、俺はしばらく受話器を握ったままでいた。

ツーツーという音だけが、耳元で小さく鳴っている。

それでも俺の胸のなかはこれ以上ないくらいに満たされていた。

 

俺はいつものようにピアノの前に座った。

 

窓の外は、もうすっかり秋の夜だった。

南向きの掃き出し窓の向こうで、虫の声がりりりと静かに響いている。

リビングには母さんの淹れたお茶の匂いが、ほんのりと漂っていた。

 

俺は昼間に氷の上で滑るときに使った曲を、そっと弾き始めた。

鍵盤の上で、指は来る音を全部知っている。

ピアノの音が夜の静かなリビングに響き渡る。

 

考えてみれば、不思議な一年だった。

 

氷の上で、級を取った。

前を向いて跳ぶあのジャンプも跳べるようになった。

鍵盤の前では、金賞を取った。

たくさんの人に、演奏を聴いてもらえた。

ピアノとスケート、その二つで、俺は二度目の人生を思いきり駆け抜けていた。

 

二つは別々のものだと思っていた。

氷の上で滑るのと、鍵盤の前に座るのとは、まるで違う遊びなのだと。

でも本当はこの一年で、その二つが、しっかり繋がっていることを俺は知った。

 

氷の上で疲れても、ここに帰ってくれば、また明日もがんばれる。

 

「瀬理奈、上手ねぇ。それ、また氷の上の曲?」

 

台所から、食器を拭きながら、母さんが顔を出した。

父さんも新聞を下ろして、こちらに耳を傾けている。

ソファでは、遊びに来ていた明彦が、愛奈の膝にもたれて、うとうとしていた。

 

「うん。これを弾くとね、氷の上のことを思い出すの」

「あら。じゃあ、氷の上では、ピアノのことを思い出すの?」

「うん。そう。ぜんぶ、つながってるんだ」

 

母さんは「そう」と、やわらかく笑った。

父さんは何も言わず、ただ目を細めて、俺の弾く音に聞き入っている。

あたたかい光のなかで、ピアノの音だけが、静かに流れていった。

 

弾きながら、俺は、来年のことを少しだけ考えた。

 

氷の上で、もっと上を目指そう。

級も、もっと上げていこう。

ピアノでも、もっといろんな曲を、たくさんの人に届けよう。

そのすべてが、大阪のおばあちゃんの笑顔に、まっすぐ繋がっているのだから。

 

——きっと、これからの俺の日々は、その繰り返しでできていく。

 

そしてその両方で楽しそうにしている俺を、おばあちゃんに見せてやるのだ。

 

そう考えながら最後の一音を、そっと鳴らして、俺は鍵盤からふわりと指を離した。

 

虫の声が、また、りりりと響く。

明彦の小さな寝息と、母さんと愛奈の笑い声が、リビングにやわらかく混ざっていた。

俺の帰る場所は、氷の上にも鍵盤の前にも、そしてこの食卓にもちゃんとあった。

 

銀の天使の日々は、まだ始まったばかりだ。

そしてその先に待っているものを、このときの俺は、まだ何も知らずにいた。

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ブラック企業勤めの社畜、榊透也は、仕事を辞めて人生をやり直そうと決めたその日に事故で死亡する。▼……だが次に目を覚ました時、彼は謎の実験施設の中で銀髪美少女に転生していた。▼しかも転生した世界は、前世で読んでいた大好きなヒーロー漫画『アステリオン』の世界だった。▼企業ヒーロー、能力犯罪、人体実験。▼漫画の中では派手で格好良かった世界は、実際に来てみるとかなり…


総合評価:4301/評価:8.62/連載:17話/更新日時:2026年05月31日(日) 07:00 小説情報

いや、死神とか聞いてないし(作者:わお)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

死神少女にTS転生してしまった一般人。▼本人はただの下っ端役職だと思っている。▼だがそんなはずもなく。


総合評価:2675/評価:7.8/連載:9話/更新日時:2026年05月20日(水) 20:31 小説情報

TS転生したら人類の敵だった(作者:生しょうゆ)(オリジナル現代/冒険・バトル)

私の名前は伊藤桜。前世の記憶がある女子高生!▼そんな私はある日、自分の家族を惨殺し、この世界に原作があることを知ったのだった。▼この作品はカクヨムにも投稿しています。


総合評価:4644/評価:8.53/連載:28話/更新日時:2026年05月27日(水) 23:09 小説情報


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