銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

23 / 23
喪失、そして覚醒
第三章 第一話 ノービス出場権獲得


四月のクラス替えを無事に乗り越えて、俺は小学二年生へと進級した。

真新しい教室の匂いにも、ひと月も経てばすっかり馴染んでしまった。

窓の外ではもう、夏の気配がずいぶんと色濃くなってきている。

 

進級して、俺にはひとつ嬉しいことがあった。

新しいクラスに見慣れた顔ぶれがちゃんと揃っていたのだ。

仲のいい三人と今年も、また同じ組になれたのである。

 

「瀬理奈ちゃん、おはよう! 今年もとなりの席だね」

「佑香ちゃん、おはよう」

「えへへ。瀬理奈ちゃんのとなりは、佑香の特等席なんだからね」

 

朝の教室に入ると、佑香ちゃんがぱっと顔を輝かせて手を振った。

肩までの黒髪を、今日もきっちり二つに結んでいる。

この子は俺のとなりの席になれたのが、それはもう嬉しくて嬉しくてたまらなかったようだ。

 

「瀬理奈ちゃーん、おはよー!」

「ひかりちゃん、おはよう」

「きのうのテレビ見たよ! 瀬理奈ちゃん、また氷の上でくるくるしてた!」

 

ひかりが、いつもの調子で元気よく駆け込んできた。

この子はスケートクラブでも学校でも、相変わらず俺のまわりをふわふわと飛び回っている。

裏も表もない、見ているこっちまで明るくなるような子だった。

 

「ひかりちゃん、声がおおきいよ」

「あっ、ごめんなさい。でもね、本当にかっこよかったんだもん」

「えへへ。ありがとう」

 

「……瀬理奈お姉ちゃん、おはよう」

「あ、明彦くん。おはよう」

「うん。今日も、いちにちよろしくね」

 

少し遅れて、明彦がそっと教室に入ってきた。

栗色の髪に長いまつ毛の、相変わらず人見知りな男の子だ。

俺と目が合うと、ほっとしたように笑った。

 

去年と同じ顔ぶれが、今年も俺のまわりに揃っている。

たったそれだけのことが、俺にはなんだか、くすぐったいくらいに嬉しかった。

前の人生ではこんなふうに賑やかな朝を過ごした記憶など、ついぞ無かったように思う。

……いや、コミケの前とかもっと騒がしかったか、徹夜だの、原稿が終わってないだの。

 

「あのね明彦くん。瀬理奈ちゃんのとなりは、佑香の席なんだからね」

「……べつに、とったりしないよ。ぼくは、うしろの席だもん」

「ふーん。ならいいけど」

 

佑香ちゃんは、明彦に向かってなぜか得意げに胸を張った。

明彦はそれに、むっとしたように口をとがらせている。

この二人はなにかというと、俺をめぐってこうして小競り合いを始めるのだった。

 

「ねーねー、けんかしないの。瀬理奈ちゃんは、みんなの天使さんなんだから」

「ひかりちゃん。それ、どっちの味方なの」

「ひかりはー、瀬理奈ちゃんの味方ー」

 

ひかりがにこにこと、まるで仲裁になっていない仲裁をしてみせる。

その天然のひと言で、佑香ちゃんも明彦も毒気を抜かれたように黙ってしまった。

このゆるい空気こそが、俺たちのクラスのいつもの朝だった。

 

 

 

学校から帰ったあとの俺の日々は、あいかわらず習い事で埋まっていた。

ピアノにスケート、スイミングに体操と、やることは去年と変わらず盛りだくさんだ、最近はそれにテレビやモデルまで入ってきている。

どれも楽しくて、俺は毎日を文字どおり駆け回って過ごしていた。

 

でも、なかでも俺がいちばん前のめりになっていたのは、やはり氷の上のことになってしまう。

去年の秋に初級のバッジテストに受かってから、俺はその上の級も次々ととってきた。

求められたことだけを淡々とこなして、ひとつ、またひとつと級を重ねていく。

 

そうして俺が活躍を続けるうちに、大阪のおばあちゃんからの電話もすっかり増えていた。

 

ある夜のことだった。

夕飯の片づけが終わった頃合いに、リビングの電話がりりりんと鳴った。

受話器を取った母さんの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。

 

「あ、お義母さん! はい、はい……ええ、お変わりないですか?」

 

その声だけで電話の相手が誰なのか、俺にはもう分かってしまった。

大阪のおばあちゃんだ、俺はいそいそと電話のほうへ駆け寄った。

 

「瀬理奈と代わりますね。ほら瀬理奈、おばあちゃんよ」

「おばあちゃん!」

 

母さんから受話器を受け取ると、俺はそれを両手でぎゅっと握りしめた。

受話器の向こうから、聞き慣れたやわらかい声が流れ込んでくる。

ただその声は、前に聞いたときよりも、だいぶ張りがあるように感じられた。

 

「もしもし、瀬理奈ちゃんか? おばあちゃんやで」

「うん! おばあちゃん、げんき?」

「おうおう、元気元気。このごろは、すこぶる調子がええんよ」

 

その声を聞いて、俺は内心で、ほっと胸をなでおろした。

去年の夏に大阪で会ったときのおばあちゃんは、息も浅くて、声もどこか掠れていた。

それがいまは電話越しにも分かるくらい、しっかりとした張りを取り戻している。

 

俺のこの耳は、人の身体の調子というやつを、勝手なくらいに細かく拾ってしまう。

だからこそ去年は、おばあちゃんの「終わり」の気配まで、いやおうなしに感じ取ってしまった。

そのおばあちゃんが、いまこうして元気な声を聞かせてくれているのだ。

 

「おばあちゃん、ほんとに元気そうだね。よかった」

「ふふ。それもこれも、瀬理奈ちゃんのおかげやで」

「瀬理奈の?」

 

「そうやがな。瀬理奈ちゃんの活躍を見るのが、いまのおばあちゃんのいちばんの楽しみなんよ」

 

その言葉に胸が、じんと熱くなった。

テレビで、ネットで、俺の晴れ姿を見るたびに、おばあちゃんは元気をもらっているのだという。

楽しみがひとつあるというだけで、人はこんなにも元気になれるものらしい。

 

「次はどんなすごいのを見せてくれるんやろうて、毎日それが楽しみでなぁ」

「えへへ。じゃあ瀬理奈、もっともっとがんばらないとね」

「おうおう、頼むで。おばあちゃんも、まだまだ長生きせなあかんからな」

 

長生きする。

大阪を発つ日に交わしたあの約束を、おばあちゃんはちゃんと胸に抱いていてくれた。

俺が一つでも多く晴れ姿を見せることが、そのままおばあちゃんの生きる力になっている。

 

だったら、と俺は思った。

もっとだ。

もっとすごいところを、おばあちゃんに見せてやりたい。

 

 

 

そんな気持ちが膨らんでいた、ある日のスケートクラブでのことだった。

 

学校が終わると、俺はいつものようにリンクへと向かった。

色あせた看板のかかった、あの古びた施設だ。

氷の上でひととおり身体を慣らしていると、永田さんが俺を手招きした。

 

「瀬理奈ちゃん。ちょっと、こっちおいで」

「永田さん、なあに?」

「うん。瀬理奈ちゃんに、相談したいことがあってね」

 

永田さんはリンクサイドのベンチにしゃがんで、俺と目線を合わせた。

紺色のダウンに、目尻の笑い皺。

俺がこの氷の世界に踏み出した時から、いちばん最初から見守ってくれている人だ。

 

「瀬理奈ちゃん、このごろ、ぐんぐん級を上げてきただろう」

「うん。この前、またひとつ受かったよ」

「そうだ。それでね、いよいよ次の級なんだけど」

 

永田さんは、いつになく、それでいて少しだけ改まった顔をしていた。

その手には級ごとの課題が書かれた、見慣れたあの古い表が握られている。

その表の、ずっと上のほうを、永田さんの指がとんとんと叩いた。

 

「この級に受かるとね。瀬理奈ちゃん、『ノービス』の大会に出られるようになるんだ」

「のーびす?」

「うん。フィギュアの選手を本気で目指す子たちが出る、ちゃんとした試合だよ」

 

ノービス、という耳慣れない言葉を、俺は胸のなかで繰り返した。

これまで俺が出ていたのは、級を取るためのバッジテストだけだった。

それが今度は、ほかの子と競い合う「試合」の話になってくるらしい。

 

「これまでみたいにひとりで課題を滑るのとは、ちょっと違ってくる」

「ほかの子と競争するの?」

「そうだね。同じくらいの歳の子が集まって点数で競うんだ」

 

永田さんの説明を聞きながら、俺の胸の奥がとくんと小さく高鳴った。

ほかの子と点数で競い合う。

それは、これまでの俺の世界にはなかった種類の言葉だった。

 

正直に言えば、勝ち負けそのものには俺はあまり興味がなかった。

ピアノのコンクールだって、特段勝つために出たわけではない。

ただ俺は、おばあちゃんに見せられる晴れ姿が、一つ増えればいいと思っていた。

 

でももし試合に出られれば、その姿はきっといろんなところに届く。

また、テレビやネットにも乗るかもしれない。

そうすれば大阪のおばあちゃんにも、俺の新しい晴れ姿を届けてあげられる。

 

――ならば、やることは一つしかない。

 

「永田さん。瀬理奈、そのテスト受けてみたい」

「お。やっぱり、そう来たか」

「うん。ノービス、でてみたいの」

 

永田さんは、俺の答えに嬉しそうに笑った。

それでいてその目の奥には、どこか誇らしげな色も滲んでいる。

悪目立ちを避け安全なところ滑ってきた俺が、自分から前へ出ようとしたのが嬉しかったのかもしれない。

 

 

 

そうして迎えた、バッジテストの当日のことだった。

 

その日のリンクには、また、いつもとは違うぴりっとした空気が張り詰めていた。

何人かの判定員が、リンクサイドのテーブルに、難しい顔をして並んでいる。

受験する子供たちが、順番に呼ばれては、決められた技を披露していった。

 

今度の級は、これまでよりもずっと難しい課題が並んでいた。

細かなステップに、いくつものターン、それからジャンプも求められる。

このひとつを越えれば、いよいよノービスへの扉が開くのだ。

 

やがて、俺の番が来た。

 

刃の先をそっと氷に下ろすと、いつものように世界から音と質量が薄れていく。

判定員の視線も、手すりの向こうのひかりの声も、すべてが冷たい空気のなかへ吸い込まれていった。

あとに残るのは、自分の呼吸と、足の裏に伝わる氷の感触だけだった。

 

課題は、たしかに今までよりは手応えのある内容だった。

それでも今の俺にとっては、まだまだ余裕のある範囲でしかない。

俺は決められたステップを踏み、決められたターンを切り、決められたジャンプを跳んだ。

 

速すぎず、遅すぎず。

高すぎず、低すぎず。

お手本どおりの滑りを、ひとつひとつ、ていねいに並べていく。

 

本当のところを言えば、もっと高く跳ぶことも、もっと速く回ることもできたと思う。

けれど今日も俺は、求められたことだけを、過不足なくこなした。

それで十分なのだと、俺はどこかで決めていたのだ。

 

最後のポーズをぴたりと決めると、判定員たちが、ほう、と息をついた。

それから何人かが、顔を見合わせて、満足そうに頷き合っている。

結果を聞くまでもなく受かったのだと、その様子で分かった。

 

「瀬理奈ちゃーん、ごうかくー!」

 

手すりの向こうで、ひかりがぴょんぴょん跳ねながら叫んでいた。

明彦も佑香ちゃんも、いつもの指定席のベンチからぱちぱちと拍手を送ってくれている。

俺は三人に向かって、ぺこりと小さくお辞儀をした。

 

リンクから上がると、永田さんが満面の笑みで近づいてきた。

 

「おめでとう、瀬理奈ちゃん。これで合格だ」

「えへへ。やったね」

「うん。文句なしだよ。これで瀬理奈ちゃんも、ノービスの仲間入りだ」

 

ノービスの仲間入り、その言葉に俺の胸がふわりと浮き立った。

まだ七歳の俺がフィギュアの選手を、そう、世界を目指す子たちと同じ舞台に立てるのだ。

本来の推奨年齢よりも二年も早く。

 

永田さんは俺の頭を、いつものようにわしわしと撫でてくれた。

その手は、嬉しさでいっぱいに満ちている。

ただその目の奥には、今日もまた、ほんの少しだけ別の色が混じっていた。

 

それでも永田さんは、その色を口には出さなかった。

ただ「よくやった」と、もう一度だけ、俺の頭を撫でただけだった。

俺もまた、聞こえなかったふりをして、にこりと笑い返した。

 

 

 

ノービスの出場権を取ったことは、思っていた以上に、あちこちで話題になった。

 

銀の天使が、わずか七歳にして、いよいよ年上に交じって本格的な試合に出るらしい。

そんな噂が、またネットのあちこちで、ぱちぱちと火花を散らしはじめた。

学校でも、知らない上級生にまで、廊下でこそこそと指をさされる始末だった。

 

「ねえねえ瀬理奈ちゃん。ノービスって、すごい選手が出るやつなんでしょ?」

「うん。永田さんが、そう言ってた」

「すごーい! 瀬理奈ちゃん、ほんとに選手になっちゃうんだ」

 

佑香ちゃんが、自分のことのように、得意げに胸を張ってみせる。

ひかりは「天使さんが、おそらにとんでいっちゃう」などと、よく分からないことを言っていた。

明彦だけは、嬉しそうな顔の裏で、どこか落ち着かない様子だった。

 

みんなが俺を「すごいすごい」と囃し立てるなか、明彦はそっと俺の袖を引いた。

 

「瀬理奈お姉ちゃん。あの……瀬理奈お姉ちゃんは、遠くにいっちゃうの?」

「遠くって?」

「うん。なんか、みんなのものに、なっちゃうみたいで」

 

明彦のその言葉に、俺は、思わず頬がゆるんだ。

この子はいつだって、俺がどこか遠いところへ行ってしまうのを、ひそかに恐れている。

俺はしゃがんで、明彦と目線を合わせた。

 

「だいじょうぶだよ。瀬理奈は、どこにもいかないよ」

「ほんと?」

「うん。瀬理奈のいちばん最初の観客は、ずっと明彦くんだもん」

 

そう言うと、明彦の顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。

栗色の髪の下で、長いまつ毛が、嬉しそうにふるりと揺れていた。

 

 

 

ところが、浮き足立っていた俺の気持ちに、すぐに水を差す出来事があった。

ノービスに出るためには、いろいろと「揃えなければならないもの」があったのだ。

ある日のリンクで、永田さんが、少し言いにくそうに切り出した。

 

「瀬理奈ちゃん。ノービスに出るとなると、これからは道具も本気のものが要るんだ」

「どうぐ?」

「うん。まず、今滑っている貸し靴じゃなくて、瀬理奈ちゃん専用のスケート靴がね」

 

その言葉に、俺は内心でぴくりと反応した。

これまで俺はずっと、クラブの貸し靴で滑ってきた。

本気で競技をやるとなれば、それではもう足りないらしい。

 

「ちゃんとした靴は、瀬理奈ちゃんの足に合わせて作るから、それなりのお値段がしてね」

「ええっと。それなりって、どれくらい?」

「うーん。靴と刃を合わせると、まあ、ちょっとしたものだよ」

 

永田さんは、はっきりとは言わずに言葉を濁した。

けれど前の人生で社会人をやっていた俺には、その「ちょっとしたもの」の中身が大体想像できてしまった。

専用のスケート靴と刃を合わせれば、ゆうに十万円は超えるはずだった。

 

そしてそれは、ほんの入り口に過ぎなかった。

 

試合に出るとなれば、衣装だって、それらしいものが要る。

リンクを使う時間も、これまで以上に増えていくだろう。

遠くの会場まで遠征するとなれば、その旅費だってばかにならない。

 

頭のなかで、俺は厳正にそろばんを弾いていた。

靴に、衣装に、リンク代に、遠征費。

本気でノービスをやるというのは、つまりそういうことだったのだ。

 

俺の家は、けっして貧しいわけではない。

父さんは会社で部長をしているし、暮らしに困ったことなど一度もなかった。

それでも子供の習い事に、ぽんと出せる額には限りがある。

 

俺はもう、四つも習い事をさせてもらっている。

ピアノにスケート、スイミングに体操と、そのどれにも月謝がかかっている。

その上スケートにこれ以上のお金をかけるとなれば、家計の負担はぐっと重くなるはずだった。

 

前の人生で、俺は組み込み基板の開発をしていた、ごく普通の会社員だった。

給料のなかでやりくりをして、毎月をなんとか回していく。

そのお金の重みというものを、俺は、このクラスの誰よりもよく知っていた。

 

——これ以上、父さんと母さんには、負担をかけるわけにはいかない。

 

そう思うと、あれほど浮き足立っていた気持ちが、すうっとしぼんでいった。

ノービスに出たい気持ちは、本物だ。

氷の上は、俺がこの二度目の人生で、初めて「自分のために欲しい」と思った場所なのだから。

行けるのならば、行けるところまでやってみたい。

 

けれどもその「欲しい」のために、家族に無理をさせるのはなにか違う気がした。

だったら、どうすればいいのだろうのか。

俺はその晩、布団のなかで、ひとり、ぐるぐると考え込んでしまった。

 

いっそ、ほかの習い事を、いくつか減らすべきだろうか。

スイミングと体操をやめれば、その月謝のぶん、スケートに回せるかもしれない。

けれど、ピアノだけは、やめるわけにはいかなかった。

 

ピアノはきっと、俺にとって戦う場所ではなく帰る場所だ。

氷の上で発揮しているあの感覚も、根っこをたどればピアノにも繋がっている。

鍵盤の前を離れてしまえば、きっと氷の上の俺も、徐々に痩せ細ってしまうだろう。

 

ならば、いっそスケートのほうを、程々にしておくべきだろうか。

ノービスなんて本格的なものは目指さず、これまでどおり、楽しく滑るだけにしておく。

そのほうがきっと、誰にも無理をさせずに済むのだから。

 

そんなふうに考えているうちに、俺の気持ちはだんだんとしぼんでいった。

あれほど胸を高鳴らせたノービスの扉が、急に遠いもののように思えてくる。

俺はその夜、なんだか寝つけないまま、天井をぼんやりと見上げていたままだった。

 

 

 

それから何日か、俺はどこか元気のないまま過ごしていた。

 

自分ではいつもどおりに振る舞っているつもりだった。

けれど前世も含めると相当に長く顔を突き合わせた家族の目は、そう簡単にはごまかせなかったらしい。

ある晩の夕飯どきに、母さんが、ふと箸を止めて俺の顔をのぞき込んだ。

 

「瀬理奈。あなた、このごろ元気がないわね」

「……そんなこと、ないよ」

「ううん。お母さんには分かるの。なにか、あったでしょう」

 

母さんの声は、やわらかくて、それでいて逃げ場のないものだった。

向かいでは父さんも、新聞を置いて、こちらをじっと見ている。

俺は口のなかのごはんをもぐもぐと噛みながら、答えに迷った。

 

本当は、言うつもりなんて、なかった。

お金のことで両親に気を遣わせるなんて、いちばんやりたくないことだった。

それでも二人のまっすぐな目に見つめられて、俺はとうとう観念した。

 

「……あのね」

「うん」

「瀬理奈ね、ノービスはやめようかなって、思ってるの」

 

俺がそう言うと、父さんと母さんが、はっとしたように顔を見合わせた。

 

「やめる? どうして。あんなに、出たがっていたじゃないか」

「うん。でも……」

「でも?」

 

俺はうつむいたまま、ぽつりぽつりと言葉を継いだ。

ノービスに出るには自分専用の靴が要ること。

衣装も、リンク代も、遠征のお金も、これまでよりずっとかかること。

 

「だからね。これ以上パパとママには、お金の心配をかけたくないの」

 

そう言い切って、俺はぎゅっと唇を結んだ。

言ってしまった。

なんだか胸の奥が、しんと冷たくなる気がした。

これでノービスの話は、なかったことになるのだろう。

 

しばらくのあいだ、食卓には、しんとした沈黙が流れた。

 

それから、父さんがこらえきれないように笑った。

母さんも、目元をやわらげて小さく笑っている。

俺は二人がどうして笑うのか分からず、きょとんとしてしまった。

 

「まったく瀬理奈は。そんなことを気にしていたのか」

「だって……」

「七つの子が、親のお財布の心配なんてするもんじゃないよ」

 

父さんはめずらしく、目尻に深い皺を寄せて笑っていた。

母さんも、となりで何度もうなずいている。

どうやら俺の悩みは、二人にとっては、笑ってしまうくらいに微笑ましいものだったらしい。

 

「あのね瀬理奈。お父さんとお母さんにはね、瀬理奈に言ってないことがあるの」

「いってないこと?」

「うん。瀬理奈がテレビやお仕事でいただいたお金はね、ぜんぶ、瀬理奈のために貯めてあるのよ」

 

その言葉に、俺はぱちぱちと目をしばたたいた。

 

そういえば、と俺は思い出した。

二度目のテレビ出演のあと、俺の「お仕事」の窓口は、佑香ちゃんのお母さんが引き受けてくれていた。

あの人は元・芸能事務所のマネージャーで、契約のこともお金のことも、きっちり取り仕切ってくれていたのだ。

 

「佑香ちゃんのお母さんはね、ちゃんとしたお仕事だけ選んでくださっているの」

「うん」

「だから、おかげでね。瀬理奈のためのお金がそこそこ貯まっているのよ」

 

母さんはいたずらっぽく、ふふっと笑った。

父さんも、うんうん、と満足そうにうなずいている。

俺の知らないあいだに、俺自身の頑張りが、ちゃんと「かたち」になって積もっていたのだ。

 

「だからね瀬理奈。靴も、衣装も、ぜんぶそのお金でまかなえるんだ」

「ほんとに?」

「ああ。これは瀬理奈が自分で稼いだお金だ。瀬理奈のやりたいことに堂々と使えばいい」

 

父さんの言葉が、俺の胸に、じんわりと染み込んでいった。

 

考えてみれば、なんという巡り合わせだろう。

俺がテレビに出たのは、おばあちゃんに晴れ姿を見せたかったからだ。

その晴れ姿がめぐりめぐって、今度はノービスへの扉を開けてくれている。

 

おばあちゃんのためにと思ってやったことが、ちゃんと俺自身を後押ししてくれていた。

誰かのためにと差し出したものが、まわりまわって、自分のもとへ帰ってくる。

そういうことも、世の中にはあるものらしい。

 

「それにね、瀬理奈」

「うん」

「お父さんとお母さんはね、瀬理奈が楽しそうにしているのが、いちばん嬉しいのよ」

 

母さんのその言葉に、俺は、思わず胸が詰まった。

 

楽しそうにしているのが、いちばん。

それは大阪のおばあちゃんが、いつも口にしていた言葉と同じだった。

父さんも、母さんも、おばあちゃんも、みんな同じことを俺に言ってくれている。

 

俺はこれ以上、遠慮なんてできなかった。

こんなにもまっすぐに背中を押されて、なお首を横に振るほど、俺は意地っぱりではない。

気づけば俺の目の奥が、じわりと熱くなっていた。

 

「……瀬理奈、ノービス、でてもいい?」

「もちろんよ」

「全力でやってもいい?」

「ああ。瀬理奈の好きなだけ、やりなさい」

 

俺がそう尋ねると、父さんと母さんはそろってにっこりと笑った。

その笑顔があんまり温かくて、俺はこくりと大きくうなずいた。

こうして俺のノービスへの挑戦が、正式に決まったのだった。

 

 

 

その夜、俺はいつものように、ピアノの前に座った。

 

窓の外はもうすっかり夏めいていた。

南向きの掃き出し窓の向こうで、虫や蛙の声が、静かに響いている。

リビングには母さんの淹れたお茶の匂いが、ほんのりと漂っていた。

 

俺は鍵盤の蓋をそっと開けて、氷の上でいつも使っている曲を静かに弾きはじめた。

この曲を弾くと、いつも氷の上のことを思い出す。

そして氷の上では、きっと、このピアノのことを思い出すのだ。

 

弾きながら、俺は、大阪のおばあちゃんのことを思った。

 

このごろ、すこぶる調子がええんよ。

電話の向こうで、おばあちゃんはそう言って笑っていた。

俺が一つ晴れ姿を見せるたびに、あの人はまた少し元気になってくれる。

 

だったら、もっとだ。

ノービスでもなんでもいい。

いっぱい見せてあげよう。

氷の上で楽しそうに舞う俺を、おばあちゃんに、これでもかと見せてやるのだ。

 

「瀬理奈。また氷の上の曲?」

「うん。これを弾くと氷の上を思い出すの」

「ふふ。そう」

 

台所から、食器を拭きながら、母さんが顔をのぞかせた。

父さんも新聞を下ろして、こちらに耳を傾けている。

あたたかい光のなかで、ピアノの音だけが、静かに流れていった。

 

俺の挑戦は、まだ始まったばかりだ。

専用の靴も、衣装も、これから一つずつ揃えていくことになる。

その先には見たこともない、本格的な試合の世界が待っているのだろう。

 

それでも、ちっとも怖くなかった。

俺の帰る場所は氷の上にも、鍵盤の前にも、そしてこの食卓にもちゃんとある。

そのすべてが、大阪のおばあちゃんの笑顔に、まっすぐ繋がっているのだから。

 

最後の一音をそっと鳴らして、俺は鍵盤からふわりと指を離した。

虫の声が、また、りりりと響く。

銀の天使の新しい挑戦は、こうして静かに幕を開けたのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

転生してイージーモード!(作者:ハニラビ)(オリジナル現代/日常)

普通に生きて普通に死んだ男がチートを得て現代日本にTS転生したお話。作者はバカだからよぉ、難しい話は無しにしねーか?(ただのバカ)


総合評価:3097/評価:8.61/連載:15話/更新日時:2026年05月24日(日) 18:02 小説情報

TS転生美少女が男友達ムーブして幼馴染の情緒を破壊する話(作者:寿司鮓)(オリジナル現代/恋愛)

男友達だと思ってた幼馴染が実は女の子で再開したら美少女になってたムーブを自然にしてたTS転生者ちゃんさぁ。


総合評価:2119/評価:8.45/連載:6話/更新日時:2026年03月13日(金) 07:16 小説情報

いや、死神とか聞いてないし(作者:わお)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

死神少女にTS転生してしまった一般人。▼本人はただの下っ端役職だと思っている。▼だがそんなはずもなく。


総合評価:2726/評価:7.82/連載:9話/更新日時:2026年05月20日(水) 20:31 小説情報

TS転生失敗作ちゃんが頑張る話(作者:cannolo)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ブラック企業勤めの社畜、榊透也は、仕事を辞めて人生をやり直そうと決めたその日に事故で死亡する。▼……だが次に目を覚ました時、彼は謎の実験施設の中で銀髪美少女に転生していた。▼しかも転生した世界は、前世で読んでいた大好きなヒーロー漫画『アステリオン』の世界だった。▼企業ヒーロー、能力犯罪、人体実験。▼漫画の中では派手で格好良かった世界は、実際に来てみるとかなり…


総合評価:4345/評価:8.6/連載:18話/更新日時:2026年06月03日(水) 07:00 小説情報

夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く(作者:匿名TS美少女)(オリジナル現代/日常)

夭折した天才漫画家が転生して続きを書く話。


総合評価:2796/評価:7.37/未完:17話/更新日時:2026年03月03日(火) 12:04 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>