銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
夏休みに入ってからというもの、俺の毎日はそれまでに輪をかけて忙しくなっていた。
スケートのリンクへ毎日のように通い、昼からはピアノやスイミングも定期的に。
テレビや本のモデルの仕事まで最近では入っていて、ろくに息をつく暇もないくらいだ。
今、俺はノービスと呼ばれる本格的なフィギュアの試合への出場を目指している。
そのための専用のスケート靴を作るための採寸や、今までとは方向性が異なる新しい衣装の打ち合わせ。
やるべきことは、滑るべきことを行ってひとつ級を上げるだけだった去年までとは比べものにならなかった。
でも、どれもこれも、自分から望んだことなのでしょうがない。
氷の上は、俺がこの二度目の人生で初めて「自分のために欲しい」と思った場所なのだから。
それにおばあちゃんに見せられる晴れ姿が一つでも増えるなら、俺はいくらでも頑張れるつもりでいた。
ただ、この身体がいくら人並み外れた能力を有していても、眠る時間まで増やせるわけではない。
朝が早くて夜が遅い日が続けば当然、さすがに、知らないうちに目の下へうっすら隈をこしらえていたのだった。
日ごとに鏡のなかの銀髪の女の子が少しくたびれた顔をしているのに、自分でも気づいていなかった。
そんなある昼下がりのことだった。
我が家のリビングには、めずらしく、にぎやかな顔ぶれが集まっていた。
母さんが淹れたお茶の匂いのなか、愛奈と、佑香ちゃんのお母さんがソファに腰かけている。
そのまわりでは、明彦と佑香ちゃんとひかりちゃんが、床に座り込んでお絵かきに夢中になっていた。
「瀬理奈ちゃん、見て見て。これ、瀬理奈ちゃんだよ」
「わあ、ひかりちゃん、じょうずだね」
「えへへ。銀色の髪をいっぱい書いたんだ、きれいでしょ?」
ひかりちゃんが、画用紙いっぱいに描いた銀髪の女の子を、得意げに掲げてみせた。
俺の髪のつもりらしいその絵は、銀色のクレヨンでぐるぐると塗りつぶされている――なるほど、ひかりちゃんも同志か。
となりでは佑香ちゃんも、負けじと俺の似顔絵を描いているようだった。
こちらは、大分写実的に描けていて上手に見える。
そんな中、明彦はいつものように俺のとなりにちょこんと座っていた。
その手のなかには、小さな缶バッジが大事そうに握られている。
氷の上を舞う天使が描かれたそれは、去年のコミケのお土産に、俺が買って帰ったものだった。
「明彦くん。それ持ってたの?」
「うん。僕のたからものだもの」
「ふふ。そっか」
明彦はその缶バッジを毎日のように眺めては、にこにこしているらしい。
描かれているのがどう見ても俺自身だということには、もう触れないことにしている――あの子が宝物だと言ってくれるなら、それでじゅうぶんだった。
「ねえ瀬理奈ちゃん。瀬理奈ちゃんって、本になってるんでしょ?」
「え? ほ、本?」
「うん。愛奈さんが見せてくれたの。すっごくかわいい本」
佑香ちゃんの言葉に、俺は思わずお茶を吹き出しそうになった。
去年のコミケで愛奈が買って帰った、あの「画集」のことだ。
あろうことか愛奈は、それをちゃっかり家に飾った上、子供たちにまで見せて回っていたらしい。
「わたしも見たよ! 瀬理奈ちゃんが、お空とんでるの!」
「そうそう、僕のおうちにあるよ。ママがかざってるの」
「うう……」
ひかりちゃんと明彦まで口々にそう言うので、俺はもう頭を抱えたくなった。
自分を題材にした本が、知らないあいだに、こんなにも身近に出回っている。
顔から火が出るとは、まさにこのことだった。
子供たちのお絵かきがひと段落した頃、母さんたちが台所のほうで何やら話しこんでいた。
声をひそめているつもりらしいが、生憎、俺のこの耳はそういう内緒話ほどよく拾ってしまったりする。
お茶のおかわりを淹れる湯気の向こうで、三人の声がひそひそと続いていた。
「瀬理奈ちゃん、このごろ、ちょっと頑張りすぎじゃないかしら?」
「ええ、愛奈さんもそう思います? あの子、昔から根を詰めるところがあるから」
「そうですね。お仕事のほうは、私がしばらく入れないようにしておきましょうかね」
母さん、愛奈、佑香ちゃんのお母さんの順で、声が重なっていく。
どうやら三人は、忙しなく駆け回る俺を、本気で心配してくれているらしかった。
俺自身はけろりと振る舞っているつもりだったが、母さんたちの目はそう簡単にはごまかせないようだ。
「そうねぇ。たまには、思いっきり楽しませてあげたいわねぇ」
「確かにそうですね……あぁ、そうだ」
「愛奈さん、なにかいい案でも?」
愛奈の声が、そこでふと、いたずらっぽく弾んだ笑みを伴った。
声色に寒気を感じ、俺は湯気の向こうのその横顔を、いやな予感とともに盗み見た。
愛奈がこういう声を出すときは、たいてい、ろくなことを思いついていない。
「去年、私と二人で行った『あの場所』。瀬理奈ちゃん、すごく楽しそうだったんですよ」
「あの場所、って」
「ええ。本と絵が、いーっぱい売っている、夏の大きなお祭りです」
愛奈の口から出てきたのは、まぎれもなく、コミケのことだった。
俺は思わず、湯のみを取り落としそうになった。
母さんたちの魂胆は、よく分かった。
スケートなど働きづめの俺に、一日たっぷりと羽を伸ばさせてやろう、という親心だ。
でもその行き先に、よりにもよってあの会場を選ぶとは思いもしなかったが。
正直に言えば、あの場所はちっとも「休息」の場所などではない。
朝は暗いうちから並び、人混みにもまれ、夏の熱気のなかを一日じゅう歩き回る。
くたくたになって帰ってくるのが、当たり前の場所なのだ。
それでも――俺の胸は、抑えようもなく高鳴っていた。
前世の俺が机を並べ、愛奈と出会った、あの懐かしい場所。
去年もう一度あそこへ帰れたことが、どれだけ嬉しかったか。
それをまた味わわせてもらえるというのなら、断る理由など、どこにもなかった。
「休息」が人混みと熱気のなかにあるなんて、我ながら、つくづく可笑しな話だと思う。
けれど俺にとっては、あの会場の喧騒こそが、まぎれもないごちそうなのだった。
やがて母さんたちが、お茶のおかわりを手にリビングへ戻ってきた。
母さんは、ことさら優しい声で、俺の前にしゃがみこむ。
「瀬理奈。あのね、今度のお休みの日、おやすみをあげようと思って」
「おやすみ?」
「うん。愛奈さんと大きなイベントにまた行ってきていいわよ」
俺はしっかり聞いていたことなどおくびにも出さず、ぱっと顔を輝かせてみせた。
ここはひとつ、子供らしく無邪気に喜んでおくのが「お作法」というものだ。
「ほんと? 行きたい! 瀬理奈、また行きたい!」
「ふふ、喜ぶと思ったわ」
「やったぁ!」
俺がぴょんと跳ねて喜んでみせると、それに反応したのは子供たちのほうだった。
お絵かきの手を止めたひかりちゃんが、がばっと顔を上げる。
その目は、もう、きらきらと期待に輝いていた。
「いいなぁ! ひかりも、行きたい!」
「ずるい! 佑香も、行く!」
去年とまったく同じ展開に、俺は思わず苦笑しそうになった。
本がいっぱい、人がいっぱい、というだけで、この二人の好奇心はすぐ火がつく。
けれど今年は、二人にはもう一つ、はっきりとした目当てがあるようだった。
「だって、本になってる瀬理奈ちゃんを、見てみたいんだもん!」
「うん! ほんもの見たい!」
ああ、そういうことか、と俺は天を仰いだ。
家で画集を見せられた二人は、それが売られている現場をその目で見たいらしい。
こうなると、もうこの二人は止めようがなかった。
そして、何より俺を驚かせたのは、明彦だった。
去年は「ぼくはいい」と、あっさり留守番を選んだあの子が。
このときばかりはぎゅっと缶バッジを握りしめて、まっすぐに俺を見上げてきたのだ。
「……僕も行くよ」
「明彦くん?」
「うん。僕も瀬理奈おねえちゃんといっしょに行きたい」
……あれ?
人混みが苦手なはずの明彦の、思いがけない申し出だった。
俺はちょっと面食らって、その栗色の頭を見下ろした。
いつもなら、こういう場所には自分から線を引く子なのに。
「明彦くん、人がいっぱいだよ、こわくない?」
「……こわいよ。でも」
「でも?」
明彦は、ちょっとだけ言いよどんでからぽつりと続けた。
その声には、明彦なりの、精いっぱいの決意がにじんでいた。
「だって、瀬理奈お姉ちゃんが、本にされちゃうところ……ぼくも、見なきゃ」
その一言に、俺は、思わず胸をつかれた。
この前、ノービスの話が出たとき。
明彦は「瀬理奈お姉ちゃんが、みんなのものになっちゃう」と、寂しそうにこぼしていた。
あの子のなかでは、俺が「本にされる」ことも、きっと同じ種類の出来事なのだろう。
去年は、留守番をしながら、ただお土産を待っていた。
けれど今年のあの子は、自分の目でそれを見届けようとしている。
人見知りの一歩を、俺のために踏み出そうとしてくれているのだった。
「……うん。じゃあ、みんなで行こっか」
「ほんと?」
「うん。明彦くんも、いっしょ」
俺がそう言うと、明彦の顔がぱっと明るくなった。
栗色のまつ毛の下で、その目が、安心したように細められる。
缶バッジを握る手に力がこもったのが、俺には分かった。
そんな感じで、話はとんとん拍子に決まってしまった。
俺と、明彦と、佑香ちゃんと、ひかりちゃん。
その四人を、愛奈がたった一人で引率するというのだ。
「愛奈さん、子供四人なんて、大丈夫ですか……」
「ふふ。任せてください、佳代子さん。こう見えて、人混みは慣れていますから」
「あの会場、何十万人も来るんでしょう?」
「だからこそです。はぐれないように、手綱はしっかり握りますよ」
愛奈は、湯のみを片手に、涼しい顔でそう言ってのけた。
何十万人もの人波のなかへ、子供を四人も連れていこうというのに、この余裕である。
俺は、頼もしいような、ちょっぴり心配なような、複雑な気持ちでその横顔を眺めた。
こうして、二度目のコミケ参戦は、にぎやかな顔ぶれで行くことに決まった。
去年は愛奈と二人きりだった、あの夏のお祭り。
今年はそこに、大事な仲間たちが、揃って加わることになったのだった。
そして迎えた、当日の朝。
コミケの朝は、いつだって、空がまだ薄暗いうちから始まる。
時計の針が五時を回ったばかりだというのに、俺はもう、ばっちり身支度を終えていた。
前の晩から我が家に泊まり込んでいた佑香ちゃんとひかりちゃんも、眠い目をこすりながら起きてきた。
昨夜は三人ではしゃぎ過ぎて、布団に入ってからもなかなか寝つけなかったのだ。
それでも「お祭り」の朝となれば、不思議と身体のほうが、しゃんと目を覚ましてしまうらしい。
「ふぁ……ねむい。でも、たのしみ」
「ひかりちゃん、顔を洗ってきなさいな」
「はーい」
玄関の前には、もう愛奈の車が停まっていた。
運転席から顔を出した愛奈は、去年と同じ、動きやすそうなパンツ姿をしている。
後部座席では、明彦が半分眠ったまま、こっくりこっくりと舟をこいでいた。
「おはよう、みんな。早いのに、えらいわねぇ」
「愛奈さん、おはようございます」
「さ、はぐれないように、ちゃんとお手てつないで乗ってね」
母さんが、眠そうな子供たちを一人ずつ、車のほうへと送り出していく。
去年は明彦を抱えて見送る側だった母さんが、今年は四人の小さな客人の世話に大わらわだった。
お留守番は、今年は母さんと父さんの二人きりになるらしい。
「佳代子さん。では、お子さんたちは責任を持ってお預かりします」
「はい。愛奈さん、どうか無理だけはさせないであげてくださいね」
「ええ、特に瀬理奈ちゃんには」
母さんと愛奈が、顔を見合わせてくすりと笑った。
俺を羽伸ばしさせるための一日だということを、二人ともちゃんと分かっているのだ。
もっとも当の俺はといえば、これから始まる長い一日に、内心でこっそり腕まくりをしていたのだけれど。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい。お土産、楽しみにしてるわよ」
子供たちの元気な声に見送られて、車は静かに住宅街を走り出した。
窓の外はまだ薄青くて、街灯の明かりが、ぽつぽつと後ろへ流れていく。
俺は後部座席から、運転席の横顔を、そっと眺めた。
去年、この同じ景色を、俺は愛奈と二人きりで眺めていた。
今年はそのとなりに、寝ぼけ眼の仲間たちが、ぎゅうぎゅうと並んでいる。
たった一年で、隣に座る顔が、こんなにも増えたのだった。
電車に乗り込むと、車内の空気は、駅を過ぎるごとに少しずつ変わっていった。
朝の早い時間だというのに、座席もつり革も、同じ匂いのする人たちで埋まっていく。
大きなキャリーバッグ、ぱんぱんに膨らんだリュック、丸めたポスターを入れた筒。
一年経っても、この朝の独特の高揚感は、何ひとつ変わっていなかった。
「みんな、ここからは瀬理奈ちゃんのこと、『天使』ちゃんって呼んだらダメだからね」
「うん。わかってる」
「あと人がすごいから、ぜったいにお手てを離しちゃだめよ」
愛奈は四人の子供を見回して、念を押すように言った。
俺と明彦、佑香ちゃんとひかりちゃんは、それぞれぎゅっと手を繋ぎ合う。
こうして数珠つなぎになっていれば、たしかにはぐれる心配はなさそうだった。
ところで、さっきから俺は、ちらちらと視線を集めていた。
電車に揺られる人たちが、俺の銀色の髪を見て、ふっと目を留めるのだ。
そして、なるほど、という顔で、ちょっとだけ口元をゆるめる。
「ねえ……あの子、もしかして」
「銀の天使ちゃんみたいだね。コスプレするのかなあ」
「かわいいねぇ。気合い入ってる、地毛みたい」
ひそひそ声は、相変わらず俺の耳には全部届いてしまう。
どうやらこの人たちは、俺のことを「銀の天使のコスプレをした女の子」だと思っているらしい。
地毛みたい、ではなく、これは正真正銘の地毛なのだが。
そして今年は、その声を聞いていたのが、俺だけではなかった。
繋いだ手の先で、明彦が、むっと頬をふくらませたのだ。
人見知りのこの子が、こんなに分かりやすく不服そうな顔をするのは、めずらしかった。
「……ちがうもん」
「あきひこくん?」
「瀬理奈お姉ちゃんは、コスプレなんかじゃ、ないもん」
明彦は、小さな声で、けれどはっきりとそう言った。
偽物呼ばわりされたのが、よほど我慢ならなかったらしい。
本物の銀の天使を本物だと、この子だけはちゃんと分かっているのだ。
俺は、慌ててその頭を、ぽんぽんと撫でた。
「しーっ。あきひこくん、いいの、いいの」
「でも」
「ここでは、それでいいんだよ。みんな、楽しんでるだけだから」
ここで「これは地毛で本物です」などと主張したところで、誰も信じはしない。
それどころか、面倒な事態になりかねなかった。
本物が本物だと気づかれないこの珍妙さは、笑って受け流すのがいちばんなのだ。
すると今度は、反対側の手から、佑香ちゃんが得意げに胸を張った。
「ふふん。瀬理奈ちゃんはね、ゆうめいなんだから」
「ゆうかちゃん」
「みんなが、瀬理奈ちゃんのこと知ってるの。すごいよね」
佑香ちゃんは、まるで自分が褒められたみたいに、鼻高々だった。
偽物と思われていることなど、この子はまるで気にしていない。
俺が注目を浴びているという、その一点だけでもう満足らしかった。
「ねえねえ、コスプレって、なあに?」
「えっと……だれかのまねっこをして、その服を着ることだよ」
「じゃあ、瀬理奈ちゃんは、瀬理奈ちゃんのまねっこ?」
ひかりちゃんの素朴すぎる疑問に、俺は、思わず言葉に詰まった。
俺、瀬理奈が、橘瀬理奈のまねっこをする。
本人が言うと冗談みたいだが、まわりから見れば、まさにそういうことになる。
あまりに的を射た問いに、隣の愛奈が、こらえきれずに肩を震わせていた。
「ふふ。そうね、ひかりちゃん。瀬理奈ちゃんは、瀬理奈ちゃんのまねっこが、世界一上手なの」
「へえ! すごーい!」
「愛奈さん……」
愛奈の人を食った答えに、ひかりちゃんは無邪気に感心している。
俺はといえば、なんとも言えない気持ちで、その二人を見比べるしかなかった。
本物が本物のコスプレと間違われ、それを本物が肯定するという、もはや訳の分からない構図だった。
電車を降りてホームに立つと、そこはもう人の波だった。
改札を抜けるための列が、長い長い帯になって続いている。
その全部が、同じ建物を目指して、ゆっくりと進んでいた。
人波の向こうに、見覚えのある巨大な逆三角形の建物が、朝日を受けて光っている。
東京ビッグサイト。
俺が前世で何度も通った、あの会場だった。
形も、立ち並ぶ人の数も、去年とまるで変わっていなかった。
「うわぁ……おっきい!」
「お船みたい! さかさまの、お船!」
「ひかりちゃん、迷子になるから、離れないでね」
子供たちは、初めて見る巨大な建物に、すっかり目を丸くしていた。
ひかりちゃんは逆三角形の建物を「さかさまのお船」と呼んで、はしゃいでいる。
俺はその手をしっかり握りながら、懐かしさで胸がいっぱいになっていた。
「みんな、こっちよ。私たちは、こっちの入り口」
「みんないっぱい並んでるのに、いいの?」
「うん。今日はサークルさんのお手伝いで来てるから、早く入れるの」
俺たちが向かったのは、一般の参加者が並ぶ列とは別の入り口だった。
愛奈がサークル用のチケットを渡すと、係の人が「おはようございます」と通してくれる。
サークル入場というやつのありがたさは、前世で嫌というほど知っていた、今回は人数が凄まじいのでなおさらだ。
会場の中に入ると、まだ準備中の机がずらりと並んでいた。
段ボールを開けて本を取り出す音、ガムテープを引き剥がす音、そこかしこから聞こえるおはようございますの挨拶。
懐かしい、いつもの光景だった。
「しずかだね……」
「うん。でも、もうすぐ、すっごい人になるんだよ」
「ほんと?」
明彦がきょろきょろと辺りを見回して、少し心細そうにつぶやいた。
がらんとした広い会場は、人見知りのこの子にはかえって落ち着かないのかもしれない。
俺は繋いだ手を、ぎゅっと握り返してやった。
その一角で男の人が、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
「おーい、愛奈ちゃーん! こっちこっち!」
「シゲさん、ごぶさたしてます」
「いやー、ほんとしばらくぶり! よく来てくれたなぁ」
シゲさんと呼ばれたその人は、よれよれのTシャツを着た人のよさそうなおじさんだった。
去年と変わらず、その大きなお腹は堂々とした貫禄を保っている。
前世では俺と同じ机を囲み、一緒に徹夜で原稿作業もしていた、古い仲間の一人だ。
シゲさんは、俺の顔を見るなり、ぱっと相好を崩した。
「お、瀬理奈ちゃんじゃないか! また会えたなぁ」
「シゲおじさん、こんにちは」
「おう、こんにちは。一年ぶりだなぁ、大きくなって、よりかわいくなったなぁ」
シゲさんはしゃがんで俺と目線を合わせると、その大きな手で俺の頭をくしゃりと撫でた。
去年と同じ、まるで壊れ物にでも触れるみたいな、おそるおそるの手つきだった。
「ところでシゲさん。今日は、にぎやかでしょう」
「ああ、聞いてた聞いてた。瀬理奈ちゃんのお友達だね」
愛奈が、後ろにずらりと並んだ子供たちを、手のひらで示した。
シゲさんとのんちゃんは、愛奈の昔からのお友達――子供たちにはそう紹介してある。
前世のことなど話せるはずもないので、これがいちばん無難な説明だった。
「こちら、佑香ちゃんと、ひかりちゃん。瀬理奈ちゃんのお友達です」
「こんにちは!」
「こんにちはー!」
「おう、元気だなぁ。シゲおじさんだ、よろしくな」
佑香ちゃんとひかりちゃんは、大きなおじさんに、元気よく頭を下げた。
人懐っこいひかりちゃんは、もうさっそくシゲさんのTシャツの柄に興味津々である。
シゲさんも、孫でもあやすみたいに、その二人をにこにこと見下ろしていた。
「それから、こっちが――私と隆志の息子の、明彦です」
愛奈がそう言った瞬間、シゲさんの表情がほんのわずかに揺れた気がした。
「……っ、そうか。愛奈さんと隆志の、息子さんか」
「ええ。今年は、どうしても来たいって聞かなくて」
「そうか……そうかぁ。こんなに、大きくなったんだな」
シゲさんの声が、ほんの少しだけ湿り気を帯びた。
この人は、前世の俺――明彦の父親と長いことつるんでいた仲だ。
生まれてくる子を見ることなく逝った友のことを、きっと思い出してくれているのだろう。
明彦は、突然そんなふうに見つめられて、愛奈の後ろにそっと半分隠れた。
「……こんにちは」
「おう、こんにちは。明彦くん、か。いい名前だなぁ」
「うん……」
人見知りの明彦は、もごもごとそれだけ挨拶を返した。
シゲさんは、その栗色の頭を撫でたそうにして、けれども、ぐっと手を引っ込めた。
初めて会う相手を怖がらせまいと、こらえているのが、俺には分かった。
俺は、なんとも言えない気持ちで、その光景を眺めていた。
前世の友が、前世の俺の息子の頭を、撫でたがっている。
そのすぐ隣で、当の俺自身は、銀髪の女の子の姿で立っている。
こんな珍妙であたたかい場面が、この世にまたとあるだろうか。
「ちょっとシゲさん。朝からしんみりしないでよ」
「のんちゃん……」
「ほぉら、子供たちがぽかんとしてるじゃない」
横から、けらけらと笑いながら割って入ってきたのは、のんちゃんだった。
こちらも前世からの仲間で、湿っぽくなりかけた空気をさらりと払うのが、相変わらず上手い。
「みんな、よく来たねぇ。今日はおじちゃんとおばちゃんたちが、いーっぱい可愛がっちゃうから」
「うわぁ、おねえさん、きれい!」
「お、おねえさんだって! この子、見る目あるわ。連れて帰りたい」
のんちゃんは、ひかりちゃんの一言に、両手で頬を押さえて大げさに身をよじってみせた。
すかさず愛奈が「のんちゃん、それ犯罪だから」と、去年とまったく同じ突っ込みを入れる。
この二人の掛け合いも、一年経って、何ひとつ変わっていなかった。
やがて、開場を知らせるアナウンスが、会場じゅうに響き渡った。
ぱちぱちと拍手が起こって、空気が、一気にぴんと張りつめる。
遠くのほうから、人の波がじわじわと押し寄せてくるのが、足の裏に伝わってきた。
子供たちはその地鳴りのような気配に、思わず怯えてぴたりと身を寄せ合った。
俺はサークルの机のうしろから、その懐かしい光景をしばらく眺めていた。
去年、俺はこの景色を、愛奈と二人きりで眺めていた。
その前の人生でも、俺はこちら側の机で、同じこの瞬間を、何度も迎えていた。
そして今は――俺のすぐ隣に、愛奈と、明彦と、佑香ちゃんと、ひかりちゃんがいる。
形は、まるで変わってしまったけれど。
それでもこうしてまた、にぎやかな顔ぶれで同じ景色を見られたことが、俺はただうれしくて仕方がなかった。
開場から数十分は、サークルの机のうしろは、ちょっとした戦場だった。
この一年で、このサークルはまた少し規模が大きくなったらしい。
シゲさんとのんちゃんが、次から次へとやってくるお客さんに、手際よく本を手渡していく。
お金を受け取って、お釣りを返して、ありがとうございました、と頭を下げる。
子供たちは、その目まぐるしさに、最初はただ目を白黒させていた。
けれど、じっとしているのが性に合わないのか、ひかりちゃんがいちばんに手を挙げた。
「のんちゃん、ひかりも、なにかやりたい!」
「お、頼もしいねぇ。じゃあ、この紙袋、取り出して渡してくれる?」
「はーい!」
ひかりちゃんは、紙袋を渡す係を、嬉しそうに引き受けた。
佑香ちゃんも、それに負けじと、箱から本を出す係を買って出る。
でも人見知りの明彦だけは、机の裏の端っこで、俺の袖をつかんだまま離れなかった。
もちろん俺はといえば、おつりの小銭を並べる係を手伝っていた。
「瀬理奈ちゃん、百円玉、そこから三枚とってー」
「はーい。いち、に、さん」
「うわ、はやっ。今年もレジ係、即採用したいわ」
のんちゃんが、忙しい合間に、けらけらと笑った。
小銭を数えるくらい、前世で散々やってきた俺には朝飯前だ。
ただし今年は、すぐ隣で明彦と佑香ちゃんが、じっと俺の手元を見ている。
七つの子があんまり鮮やかに小銭をさばくと、ちょっとばかり目立ってしまう。
俺は去年と同じく、わざと一回数え間違える小芝居を、忘れずに挟んでおいた。
「あれぇ?」ととぼけてみせると、佑香ちゃんが「もう、瀬理奈ちゃんったら」と笑ってくれる。
ひとしきり初動の人の波が引いたところで、愛奈が俺たちの肩をぽんぽんと叩いた。
「みんな。もう一回混んでくる前に、ちょっと見て回ろっか」
「いいの? おてつだいは?」
「いいのいいの。あとはおじさんとおばちゃんに任せて、行っといで」
「おう、行ってこい行ってこい。ゆっくり見ておいで」
去年と同じくシゲさんとのんちゃんに送り出されて、俺たち五人は、人波のなかへと踏み出した。
通路はもう、人、人、人で埋め尽くされていた。
誰もがそれぞれの目当ての本を求めて、まっすぐ前だけを見て歩いている。
その流れは大きな川みたいで、立ち止まることすら、なかなか難しかった。
「うわぁ、すごい人……」
「明彦くん、はぐれないでね。お手て、ぎゅってして」
「うん……」
愛奈を先頭に、俺たちは数珠つなぎになって、人の川をゆっくりと進んだ。
おもしろいもので、これだけ目立つ銀髪をしていても、ほとんど誰も俺を気に留めない。
みんな、自分の探している本のことで、頭がいっぱいなのだ。
ただ、はしゃぐ子供たちの隣で、俺はひそかに気を張っていた。
この会場は、たしかに本がいっぱい売っている。
けれどその本のなかには、子供に見せるには刺激が強すぎる、と言うか捕まる類のものも、山ほど交じっているのだ。
前世で何度も通った俺は、どのあたりにそういう一角があるのか、だいたい見当がついていた。
子供たちには、もちろんそんな知識はない。
本がたくさんというだけで、目につくものに片っ端から駆け寄ろうとする。
俺は繋いだ手をさりげなく引きながら、四人の進む先を、安全なほうへ安全なほうへと誘導していった。
我ながら、なんとも奇妙な役回りである。
中身がおっさんだからこそ、こういうときばかりは妙に頼りになってしまう。
ひかりちゃんが知らない通路へ突進しかけるたびに、俺は心臓を冷やしながら、その背中を呼び止めた。
「ひかりちゃん、そっちはだめ。こっちだよ」
「えー、なんで?」
「えっと……そっちは、おとなの人のお店だから。つまんないよ」
我ながら、わりと無難な言い訳だった。
本当の理由を七つの子に説明できるわけもない。
「つまらない」の一言で、ひかりちゃんはあっさり、こちらの通路へ戻ってきてくれた。
そうして安全な島を選んで歩いていると、ふと、見覚えのある机の前で、俺の足が止まった。
そう。
去年、俺を悶絶させた、あのサークルだ。
机の上には今年も、一冊のイラスト集が、見本として立ててあった。
その表紙には、銀色の髪をなびかせて氷の上を舞う、小さな女の子が描かれている。
青い瞳と、流れる銀の髪。
誰がどう見ても――それは、俺だった。
「あっ!」
「これ、これ! 明彦くんのおうちにあるやつ!」
「瀬理奈ちゃんだ! ほんとにある!」
子供たちが、いっせいに机へ駆け寄った。
佑香ちゃんとひかりちゃんは、表紙を指さして、きゃあきゃあと大はしゃぎである。
家で見た「本になってる瀬理奈ちゃん」が、本物のブースに並んでいる。
その事実に、二人の興奮は、もう最高潮に達していた。
そして明彦は、その表紙を、食い入るように見つめていた。
「……僕の、天使さまなのに」
「あきひこくん?」
「……瀬理奈お姉ちゃんが、いっぱい、いる」
明彦は、ぽつりとそんなことをつぶやいた。
缶バッジを握りしめたまま、その表紙から目を離せずにいる。
嬉しいような、それでいて、どこか落ち着かないような複雑な顔だった。
うーん、この子のなかでは、俺が「本にされる」ことはやっぱり一大事なのだろう。
たくさんの知らない人が、俺の絵を見て買っていく。
それはあの子にとって、俺が少しずつ「みんなのもの」になっていくことなのかもしれない。
俺は、その栗色の頭を、そっと撫でた。
「だいじょうぶだよ、明彦くん」
「……なにが?」
「本のなかの瀬理奈はいっぱいいるけど。本物は、ここにちゃんといるでしょ?」
そう言って、俺は自分の鼻をちょんと指さしてみせた。
明彦ははっとしたように顔を上げて、それからふにゃりと笑った。
本物が一人だけそばにいる、その当たり前のことにようやく安心したらしかった。
「あら、お嬢ちゃんたち、その本を気に入ってくれたの?」
机のうしろに座っていたお姉さんが、にこにこと顔を上げた。
去年と同じ、この本を描いた張本人らしい。
当然このお姉さんも、目の前の銀髪の子が本人だとは夢にも思っていない。
「うわぁ、しかも、銀の天使ちゃんのコスプレまで! その子、すっごく似てるわねぇ!」
「えへへ。瀬理奈ちゃんはね、瀬理奈ちゃんのまねっこが、せかいいちなんだよ」
「あはは、なにそれ、かわいい!」
ひかりちゃんが、電車のなかで愛奈に吹き込まれた台詞を、得意げに披露した。
お姉さんは、その意味も分からず、ただ無邪気に笑っている。
俺はもう、いたたまれなくて、思わず後ろを向いてしまった。
自分の絵を、自分が、自分のコスプレをした状態で、褒められている。
この状況の珍妙さは、一年経っても、ちっとも慣れるものではなかった。
場所が場所でなかったら、のたうち回って悶絶したいくらいだ。
「愛奈さん……かえりたい……」
「あはは。今年も、それを言うのね」
がっくりとうなだれる俺の頭を、愛奈が、おかしそうにぽんぽんと叩いた。
それから、しれっと財布を取り出して、その画集の新しいほうをまた一冊買ってしまう。
記念にと言うその横顔は、去年と同じくいつになく楽しそうだった。
「これで、二冊目ね」
「やめて。もう、明彦君の家じゅうが瀬理奈だらけになっちゃう」
「あら、いいじゃない。明彦だって喜ぶわよ」
明彦の名前を出されて、俺は、ぐぬぬと言葉に詰まった。
たしかにあの子なら、新しい一冊を、また宝物にするに違いない。
そう思うと、もう、これ以上は何も言えなくなってしまうのだった。