銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第三章 第二話 再びコミケに(後編)

午後になると、会場の熱気はいよいよ最高潮に達していた。

十何万という人の体温と、夏の暑さがこもって空気がじっとりと重い。

本来なら元気いっぱいな子供たちも、さすがに頬を上気させて、少しばかりへばってきたようだった。

ひかりちゃんなどは、繋いだ手をぶらぶらさせて、「あつい〜」を連発している。

 

「みんな、ちょっとへばってきたわね。お外の空気を吸いましょうか」

「おそと?」

「うん。屋根のない、広いところがあるのよ」

 

愛奈に手を引かれて、俺たちは会場の外、コスプレ広場と呼ばれる一角へと向かった。

そこは屋内の戦場とは打って変わって、夏の日差しがさんさんと降りそそぐ、開けた場所だった。

むわっとした熱気もあるが、ときおり、海のほうから風が吹き抜けていき心地いい。

 

広場には、色とりどりの衣装やウィッグをまとった人たちが、あちこちでポーズを決めていた。

そのまわりを大きなカメラを構えた人たちが、ぐるりと半円に取り囲んでいる。

かしゃ、かしゃ、というシャッターの音が、ひっきりなしに響いていた。

 

「わぁ……お姫さま、いっぱい!」

「あっちのひと、つばさ生えてる!」

「ほんとだ。かっこいいねぇ」

 

子供たちは、きらびやかな衣装の人たちにすっかり目を奪われていた。

さっきまで熱気でのぼせかけていたのが嘘みたいに、きゃあきゃあと指をさしている。

ここは屋内とはまるで空気が違って、子供心にも、よほど華やかに映ったらしい。

 

ここにいる人たちの目的は、ただひとつ。

きれいな人を、きれいに撮ること。

それだけの、明るく開けた場所だった。

 

――そうなのだが、嫌な予感はしていたのだ。

 

その広場に俺が一歩足を踏み入れた、その瞬間だった。

近くにいたカメラの人の一人がぴたりと動きを止めて、俺のほうを二度見した。

それから隣の仲間の肩を、つんつんと叩く。

 

「おい……あれ、見ろよ」

「うわ、銀の天使だ。しかもクオリティ、めちゃくちゃ高くないか」

「子供であのウィッグの艶……いや、地毛か? 地毛なのか?」

 

ざわり、と広場の注意が、ひとところに集まり始めた。

 

さっきまでばらばらに散っていたカメラが、いつのまにか俺のほうを向き始めている。

あっという間に、俺の前には、レンズの壁ができあがっていた。

屋内ではあれほど無関心だった人たちが、ここでは、まるで別人のようだった。

 

「お嬢ちゃん、一枚いいかな!」

「うわ、可愛い! 天使ちゃん、最高!」

「そのまま、そのままで!」

 

これも、去年とまったく同じ流れだった。

俺は内心でため息をつきながら、それでもまあ仕方がない、と腹をくくりかけた。

ところが今年は、その隣で思いがけない反応が起きていたのだ。

 

明彦が、俺の前に、すっと立ちはだかったのである。

 

両手を小さく広げてレンズの壁から俺を隠すように踏ん張っている。

人見知りのこの子が、こんなにたくさんの大人の前でこんな行動に出るなんて。

俺は、思わず目を見張った。

 

「……だめ。瀬理奈お姉ちゃんを、とらないで」

「明彦くん?」

「みんなで、瀬理奈お姉ちゃんを、とらないでよ」

 

明彦の声は、震えていた。

それでもその小さな背中は、精いっぱい大きく見せようとぴんと伸びている。

たくさんのレンズに囲まれていく俺の姿が、よほど不安だったのだろう。

 

たくさんの知らない人が、俺にカメラを向けている。

それは明彦にとって、まさに俺が「みんなのもの」になってしまう瞬間だったのだ。

本にされ、写真に撮られ、少しずつ遠くへ行ってしまう――そんなふうに見えたのかもしれない。

 

カメラの人たちも、突然現れた小さな男の子に戸惑って手を止めた。

 

俺は、明彦と目線を合わせた。

震えるその肩に、そっと両手をさしのべる。

 

「明彦くん。だいじょうぶだよ」

「でも……」

「ちょっとだけ、写真を撮ってもらうだけ。瀬理奈は、どこにも行かないから」

 

俺は、できるだけやわらかい声で、明彦にそう言い聞かせた。

それから自分の鼻を、ちょん、と指さしてみせる。

画集の前でやったのと、同じ仕草だった。

 

「ほんものの瀬理奈は、ぜんぶ終わったら、ちゃんと明彦くんのところに帰るよ」

「……ぜったい?」

「うん。ぜったい。だって、瀬理奈のいちばん最初の観客は、ずっと明彦くんだもん」

 

その言葉に、明彦のぴんと張っていた背中から、ふっと力が抜けた。

栗色のまつ毛の下で、その目がほっとしたように揺れる。

それから、こくりと小さくうなずいて、俺の後ろへ一歩下がってくれた。

 

「……わかった。じゃあ、ぼくはここで見てる」

「見ててね」

「うん。ぼくがいちばん最初の観客、だもん」

 

明彦は自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返した。

いちばん最初の観客。

その役目を確かめるみたいに、缶バッジをぎゅっと握りしめている。

 

俺は立ち上がって、カメラのほうへ向き直った。

 

こうなったら、もう仕方がない。

どうせ撮られるなら、中途半端なのは性に合わなかった。

それに――いちばん最初の観客が、じっと見ているのだ。

だったら、無様な姿だけは見せられない。

 

俺は、すっと片足を後ろへ引いて、氷の上で何度も決めた、滑走の終わりのポーズをとった。

両腕をやわらかく広げて、あごをほんの少しだけ上げる。

銀色の髪が、夏の日差しのなかで、海風に揺れてふわりと流れた。

 

その瞬間、広場の空気がぴんと張りつめた。

 

かしゃ、かしゃ、かしゃ、とシャッターの音がいっせいに連なる。

さっきまでざわついていたカメラの人たちが、一瞬しんと静まり返った。

それから、わっと、どよめきと拍手のようなものが沸き起こった。

 

「なにこの子、ポーズが本物すぎる!」

「銀の天使、降臨だ……!」

 

降臨、という言葉に、俺は内心で、そっと苦笑した。

 

降臨も何も、これが本物なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだ。

けれど、それを言えるはずもなく、俺はただぎこちなく微笑んでみせる。

レンズの壁の向こうで、たくさんの人が心から楽しそうにしていた――それで十分だ。

 

そして、その人垣のいちばん端っこで、明彦が目をまんまるにして俺のポーズに見入っていた。

 

「……すごい」

「明彦くん?」

「やっぱり、瀬理奈お姉ちゃんは、ぼくのてんしさまだ」

 

ぽつりと漏れたその一言は、人混みの喧騒に紛れて、誰の耳にも届かなかった。

俺の、この、地獄耳を除いては。

カメラに向けた微笑みを崩さないまま、その小さなつぶやきをそっと胸に受け止めた。

 

「ずるい! 佑香も、撮ってほしい!」

「ひかりも、ひかりも!」

 

すると今度は、黙って見ていた佑香ちゃんとひかりちゃんが、いっせいに身を乗り出してきた。

 

二人とも、俺ばかりが撮られているのが、うらやましくなってきたらしい。

佑香ちゃんは二つ結びを揺らして、ひかりちゃんはその場でくるりと回って、得意げにポーズを決めてみせる。

カメラの人たちは、突然増えた小さなモデルたちに、どっと笑い声をあげた。

 

「おお、お友達も可愛いねぇ!」

「はいはい、三人とも、こっち向いてー!」

「えへへ!」

 

三人の子供が、夏の日差しのなかで思い思いのポーズをとっている。

それを、たくさんのカメラが、にこにこと撮っていく。

さっきまでの張りつめた空気は、いつのまにか、ほのぼのとしたものに変わっていた。

 

俺は、その真ん中で、なんだかおかしくなってしまった。

 

本物の銀の天使と、その友達。

誰一人として、その「本物」が文字どおりの本物だとは、気づいていない。

それでもこの広場は、いま、まぎれもなく明るい笑顔で満ちていた。

 

何枚か撮られたところで、愛奈がぱんと手を叩いた。

 

「はーい、そこまで。この子たち、もう疲れちゃうから」

「えー、もう少し!」

「だめだめ。ありがとうございましたー」

 

愛奈は慣れた様子でぺこりと頭を下げると、四人の子供をまとめて、人垣のなかからするりと連れ出した。

背中のほうから、ありがとー、という声がいくつも飛んでくる。

俺はさすがにぐったりとしながら、その声に小さく手を振り返した。

 

「……愛奈さん、ひどい。今年も、ぜったい面白がってたでしょ」

「ふふ。だって、あんなにきれいに撮られてる瀬理奈ちゃん、なかなか見られないもの」

「もう、知らない」

 

俺がぷいっと拗ねてみせると、愛奈はおかしそうに肩を揺らした。

明彦は、その隣でもうすっかり安心しきった顔をしている。

広場を出るときに、俺の手をぎゅっと握ってきたのはほかの誰でもないあの子だった。

 

 

 

広場を出て会場へ戻ると、午後の人の波は、少しだけ落ち着きはじめていた。

 

もうひと回りだけしようということになって、愛奈を先頭に俺たちはまた、本の島のあいだをのんびりと歩いていく。

さっきの広場で気が済んだのか、子供たちの足取りもどこか軽やかだった。

 

正直に言えば、俺は少しだけ、気を緩めていたのだと思う。

 

危ない奥の一角は、もうとっくに通り過ぎていた。

さっきまで歩いていたのは、明るくて健やかな本ばかりが並ぶ島だ。

ここまで来れば、もう大きな波風は立つまい――そう、高をくくっていた。

 

けれども油断とは、こういうときにこそ足をすくうものらしい。

 

ふと数歩先のサークルの机の上に、見覚えのある銀色がちらりと覗いた。

それより早く、子供たちの目がそれを見つけてしまっていた。

 

「あっ! また、瀬理奈ちゃんだ!」

「ほんとだ! こっちにも、瀬理奈ちゃんの本がある!」

 

佑香ちゃんとひかりが、ぱっと顔を輝かせて、その机へ駆け寄った。

 

しまった、と思ったときには、もう遅かった。

画集を見つけたときの楽しさが、二人の足を、勝手に前へと運んでしまったのだ。

俺は慌てて「待って」と手を伸ばしたが、その指は、むなしく空をつかんだ。

 

机に近づいた俺は、そこに並んだ一冊を見て――全身から、すうっと血の気が引いた。

 

表紙には、たしかに銀色の髪の女の子が描かれている。

ぱっと見は、さっきの画集とそう変わらない。

けれどその表紙の隅には、はっきりと、赤い文字でこう刷られていたのだ。

 

『成年向け』。

 

その三文字が、俺の目に、焼けつくように飛び込んできた。

 

――前世であちら側に机を構えていた俺に、その表記の意味が分からないはずもない。

それがどういう類の本で、伏せられた表紙の向こうに何が待ち構えているのか。

俺の頭は望んでもいないのに、その答えを完璧に弾き出してしまった。

 

知りたくなかった。

心の底から、知りたくなかった。

よりにもよって、その題材が自分自身ときている。

 

俺は声にならない悲鳴を、喉の奥でぐっと噛み殺した。

 

「ちょ、ちょっと待って、お嬢ちゃんたち! それは、だめ!」

 

机のうしろにいた売り子のお兄さんが、血相を変えて立ち上がった。

そして見本のその一冊を、ばっと両手で隠すように伏せる。

小さな子供が成年向けの机に近づくのは、この場所では、何より避けるべきことなのだ。

 

「ごめんね、これは、その……おとなの人のための本でね」

「おとなの……?」

「うん。ちっちゃい子は、見ちゃだめなやつなんだ。ほんとに、ごめんね!」

 

お兄さんは、平謝りで、ぺこぺこと頭を下げた。

当然この人も、目の前の銀髪の子が表紙の本人だとは夢にも思っていない。

似すぎたコスプレの子を成年向けの机に近づけてしまった、と、ただただ青くなっているだけだった。

 

その「見ちゃだめ」の一言と、伏せられた本の赤い文字。

それだけで、明彦と佑香ちゃんは、何かを敏感に察したらしかった。

 

中身は見ていない。

何が描かれているのかも二人には分からない。

それでも――「見てはいけない本」が「瀬理奈ちゃんの本」だという、その一点だけは、はっきりと伝わってしまったのだ。

 

「……ゆるさない」

 

ぽつりとそう言ったのは、明彦だった。

 

栗色のまつ毛を吊り上げて、伏せられた本をきっと睨みつけている。

さっき広場でレンズの壁に立ちはだかったとき以上の、本気の顔だった。

 

「瀬理奈お姉ちゃんを……こんな、見ちゃだめな本にするなんて!」

「そうだよ! 瀬理奈ちゃんを、こんなふうにして!」

 

佑香ちゃんも、二つ結びを逆立てる勢いで机に食ってかかった。

 

何をどうされたのかは、二人ともまるで分かっていない。

ただ「大事な瀬理奈ちゃんが、見てはいけない何かにされた」。

その保護者じみた憤りだけが、二人の小さな身体をぱんぱんに膨らませていた。

 

「おにいさん、めっ! ですよ!」

「めっ、です!」

 

子供二人に「めっ」と叱られて、大の大人の売り子がいよいよ涙目になっている。

この珍妙な構図を、俺は頭を抱えながら眺めるしかなかった。

 

その横で、ひかりちゃんだけがきょとんと首をかしげていた。

 

「ねえ。なんで、見ちゃだめなの?」

「ひ、ひかりちゃん、それは……」

「瀬理奈ちゃんの本なのに、なんで?」

 

純粋すぎる問いに、俺は言葉に詰まった。

これに正直に答えられる大人は、この会場のどこにもいないだろう。

ひかりちゃんはただ、みんなが急にぴりぴりし始めた理由がさっぱり分からないのだった。

 

そして当の俺はといえば、もういたたまれないどころの騒ぎではなかった。

 

明彦たちのように純粋に怒ることすら、俺にはできない――できるわけがない。

なにせ俺は――前世で、まさに「あちら側」の机に座っていた人間なのだから。

何を作っていたかは今世でも墓まで持っていくと決めているが、それにしたって人のことを言えた義理ではなかった。

 

かつて自分がやっていたことが、巡り巡って、自分の身に返ってきている。

これを因果応報と呼ばずに、いったい何と呼べばいいのか。

怒るに怒れず、笑うに笑えず、俺はただ、真っ赤な顔で天を仰ぐしかなかった。

 

「はいはい。明彦も佑香ちゃんも、そこまで」

 

そこへ、さらりと割って入ってきたのは、やはり愛奈だった。

 

子供たちの肩をぽんぽんと叩いて、机の前からそっと引き離す。

それから青くなっている売り子のお兄さんに、軽く頭を下げてみせた。

 

「すみませんねぇ、うちの子たちが。お騒がせしました」

「い、いえ、こちらこそ……!」

「子供は気にしませんから。ほら、みんな、行くわよ」

 

愛奈の手つきは、まったくもって危なげがなかった。

慌てるでもなく、怒るでもなく、ただ淡々とその場をおさめていく。

この人もまた、前世でこの会場に、まさに俺の隣の机に座っていた古強者なのだ。

 

俺は、その愛奈の横顔を見て、はたと気づいた。

 

愛奈は、内心で明らかに面白がっている。

口元こそ涼しい顔を保っているが、その目の奥がくすくすと笑っているのだ。

俺――死んだ夫がまさにこういう手合いだったことを、きっと思い出しているのだろう。

 

去年、俺の画集を上機嫌で買っていったときと、まったく同じ目だった。

この人にとっては、こういう一幕すら、懐かしくも可笑しい思い出の延長らしい。

俺の悶絶などどこ吹く風で、愛奈はすっかり、この状況を楽しんでいるのだった。

 

「愛奈さん……笑ってるでしょ」

「あら。笑ってなんかいないわよ」

「目が笑ってる、ぜったい」

「ふふ。気のせいよ」

 

ぜんっぜん、気のせいではなかった。

 

愛奈に引きずられるようにして、俺たちはその机からようやく離れた。

明彦と佑香ちゃんは、まだぷりぷりと怒り顔を解かずに、何度も後ろを振り返っている。

ひかりちゃんだけが、最後まで「なんでー?」と不思議そうに首をかしげていた。

 

人混みのなかをしばらく歩いて、俺はようやく長い息を吐いた。

 

銀の天使は、どうやら俺が思っているよりずっといろんな人に愛されているらしい。

それも、ずいぶんと――幅広い愛され方を、されているらしかった。

そのことをこんな形で思い知らされるとは、我ながらつくづく数奇な人生である。

 

 

 

長い一日も、気が付けば、いつのまにか終わりが近づいていた。

 

会場の熱気にもまれ続けて、さすがに子供たちもずいぶんとくたびれた様子だった。

それでもその顔は、三人ともみんな満ち足りたようにほてっている。

俺たちは、サークルの机へ戻る前に約束のお土産を探して回ることにした。

 

去年は、留守番のみんなのために俺がひとりで選んだお土産だ。

けれど今年は、そのみんなが揃ってここにいる。

だから今年のお土産は、それぞれが自分の気に入ったものを一つずつ選ぶことになった。

 

「ひかりはね、これ! くまさんの、キーホルダー!」

「佑香は、このシールにする。かわいいから」

「ふふ。二人とも、いいの見つけたね」

 

ひかりと佑香ちゃんは、迷うことなくぱっと欲しいものを選び取った。

こういうとき、この二人の決断はいつもびっくりするほど早い。

俺は二人ぶんの小銭を、こっそり手伝って数えてやった。

 

その隣で明彦だけが、なかなか決められずにいた。

 

あれこれと手に取っては、また棚に戻す。

人見知りのこの子は、こういう選びものになるととたんに慎重になるのだった。

俺はその栗色の頭の横で、しゃがんでいっしょに棚を眺めた。

 

「明彦くん、欲しいの、見つかった?」

「うん……でも、いっぱいあって、迷っちゃうな」

「ふふ。ゆっくり選んでいいよ」

 

去年のこの子なら、自分の分は俺に任せてただ待っているだけだった。

それが今年は、自分の手で自分の宝物を選ぼうとしている。

たったそれだけのことが、俺にはなんだかひどく嬉しかった。

 

ずいぶん長く悩んだ末に明彦が選んだのは、一枚の小さなしおりだった。

 

そこには氷の上を舞う、銀色の髪の天使が描かれている。

去年の缶バッジと、同じモチーフのものだった。

結局この子は、今年もまた俺自身を選んでくれたらしい。

 

「これにする。本にはさむんだ」

「本に?」

「うん。ぼくのたからものの本に、はさむ」

 

明彦が言う「たからものの本」が、家に飾ってあるあの画集のことだとすぐに分かった。

俺を描いた画集に俺を描いたしおりを挟んで、大事にするつもりらしい。

その健気さに、俺はもうこっぱずかしいやら嬉しいやらで、頭を抱えそうになった。

 

「……明彦くんは、ほんとに、瀬理奈が好きだねぇ」

「うん。だいすき」

 

あんまりまっすぐに返されて、俺は、ぐっと言葉に詰まってしまった。

この子のこういうところには、前世の息子とは分かっていてもついぞ慣れることがない。

しょうがないんで俺はごまかすように、その栗色の頭を撫でた。

 

 

サークルの机に戻ると、シゲさんとのんちゃんが店じまいの準備を始めていた。

机の上の本は、朝にあったうずたかい山が嘘みたいにほとんどなくなっている――これは黒字だ、焼肉とか食べるんだろうな。

今年も大盛況だったらしく、二人とも、心地よさそうに疲れた顔をしていた。

 

「おかえり。楽しめたか?」

「うん。すっごく楽しかった」

「そりゃよかった。みんなも、はぐれずに済んだみたいだな」

 

シゲさんは、俺を含めて四人の子供を見回してにっこりと笑った。

俺はいろいろあった一日のことを思い返して、ちょっとだけ苦笑いした。

まあはぐれはしなかったが、思いがけない本とはしっかり出会ってしまったのだけれど。

 

「シゲおじさん、のんちゃん。今日はありがとう」

「こちらこそだよ。来てくれてほんとに嬉しかった」

「またおいでねぇ。おばちゃん、待ってるから」

 

のんちゃんが三人の頭を順番に撫でながら、名残惜しそうに言った。

ひかりと佑香ちゃんは「うん!」と元気に頷き、明彦も小さく「うん」と返す。

人見知りのあの子が別れ際にちゃんと挨拶を返せたことに、俺はそっと胸を温めた。

 

「瀬理奈ちゃん。また会おうな」

 

最後にシゲさんが、もう一度しゃがんで俺と目線を合わせた。

そしてその大きな手で、俺の頭をくしゃりと撫でる。

その手は、今年もほんの少しだけ震えている――でも、その震えは小さくなっていることに俺は気が付いた。

 

「うん。シゲおじさんも、のんちゃんも、げんきでね」

「おう。瀬理奈ちゃんも元気でな。……あと、あれだ」

「あれ?」

「テレビもネットもちゃんと見てるからな。これからも楽しみにしてるよ」

 

シゲさんはぐすっと鼻を鳴らして、へへ、と照れたように笑った。

学生の頃、親友と呼べたこの人が、テレビの向こうの俺を応援してくれている。

それを思うとなんだか胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。

 

 

 

シゲさんのサークルの片づけを終えて会場の外に出ると、夕方の空がオレンジ色に染まっていた。

一日の終わりを告げる閉会のアナウンスが、背中のほうから流れてくる。

それに合わせて、どこからともなく、大きな拍手が湧き起こった。

誰が始めたわけでもない、参加者みんなで、一日を称え労い合うための拍手だった。

 

俺は自らも手を鳴らしながら、その拍手の音をしばらく耳のなかに溜めていた。

 

前世でも、去年も、俺はこの拍手を、何度も聞いた。

くたくたに疲れて、それでも心は妙に満たされて聞く、あの夏の音だ。

その同じ拍手が、いま同じように会場を包んでいる。

 

ただ今年はその拍手のなかに、三つの小さな手も混じっていた。

 

「ぱちぱち! たのしかったねぇ!」

「うん。佑香、また来たい」

「ぼくも……また、来てもいい」

 

子供たちが見よう見まねで、ぱちぱちと手を叩いている。

人見知りの明彦までが「また来てもいい」と言ったのには、俺は思わず吹き出した。

あれだけ人混みを怖がっていたのに、どうやらこの子もすっかり楽しんでくれたらしい。

 

愛奈の車に乗り込むと、子供たちはもうくたくただった。

 

シートに座るなり、ひかりちゃんが、こっくりこっくりと舟をこぎ始める。

佑香ちゃんも、あくびを噛み殺しながら、まぶたを重そうにしていた。

夕日に照らされた車内は、お土産の袋の匂いと、子供たちの寝息で、すっかり穏やかだった。

 

「みんな、よく頑張ったわね。たくさん歩いて、えらかった」

「愛奈さん。今日は、ありがとう」

「ふふ。私もね、久しぶりに楽しかったわよ」

 

運転席の愛奈が、バックミラー越しににっこりと笑った。

窓の外では、海沿いの街が、夕焼けのなかをゆっくりと流れていく。

俺は、その横顔を、そっと盗み見た。

 

人の少なくなった車内で、俺は、ほんの少しだけ声を落とした。

明彦たちが眠っているのを確かめてから、前世の口調で、ぽつりと言う。

 

「……なあ、愛奈」

「なに?」

「今年も、連れてきてくれて、ありがとな」

 

愛奈は、前を向いたまま、くすりと笑った。

 

「どういたしまして。……でも、すごい一日だったわね」

「ほんとだよ。まさか、あんな本にまで出くわすとは思わなかった」

「ふふ。あなた、真っ赤になってたじゃない」

 

そのことを蒸し返されて、俺は、思わず呻いた。

助手席ならぬ後部座席で、俺は、がっくりと頭を垂れる。

昼間の悶絶が、夕日のなかで、また鮮やかに蘇ってきた。

 

「……笑うなよ。こっちは前世のこともあって、いろいろ複雑なんだ」

「知ってるわよ。隣の机だったんだから」

「だから、それを言うなって」

 

愛奈は、おかしそうに、肩を揺らした。

死んだ夫が、まさにその「複雑」の当事者だったことを、この人はちゃんと覚えている。

だからこそ、俺の慌てぶりが、よけいに可笑しかったのだろう。

 

「でも、明彦と佑香ちゃんの怒りようには、私も笑っちゃった」

「ああ、あれな。大の大人が、子供に『めっ』されてたな」

「あの子たち、瀬理奈ちゃんが大好きなのよ。だから、許せなかったの」

 

愛奈の言葉に、俺は、後部座席で眠る子供たちを、そっと振り返った。

 

何を描かれていたのかも分からないまま、ただ俺のために、本気で怒ってくれた二人。

きょとんと首をかしげていた、無邪気なひかりちゃん。

そして、いちばん最初の観客だと、何度も自分に言い聞かせていた、明彦。

 

考えてみれば、なんという一日だっただろう。

 

本物が、本物のコスプレと間違われ。

自分の画集を、自分が、自分の顔で買われ。

あげくの果てに、見てはいけない自分の本にまで、出くわしてしまった。

 

それでも――それでも、俺の胸は、不思議と満ち足りていた。

 

去年は、置いてきた過去と、もう一度手を繋ぎ直した一日だった。

今年はそこに、大事な仲間たちが揃って加わって、にぎやかな笑い声で満ちていた。

珍妙で、こっぱずかしくて――それでいて、こんなにもあたたかい一日がほかにあるだろうか。

 

家では、母さんと父さんが、お土産を楽しみに俺たちの帰りを待っている。

大阪のおばあちゃんも、電話の向こうで、テレビの俺を心待ちにしているだろう。

明日は流石に一日ごろ寝させてもらうが、明後日からはまた氷の上の本格的な毎日が待っている。

 

それでも今日は。

ただ、思いきり楽しんだ一日として、胸にしまっておこう。

 

俺は、眠る明彦の手からずり落ちかけていたしおりを、そっと握らせ直した。

氷の上を舞う銀色の天使のしおり。

夕焼けの道を、車は家のほうへとゆっくり走っていく。

二度目の人生で、二度目のコミケ参戦。

それは、笑って、赤面して、また笑った、忘れられない夏の一日になったのだった。

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