銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
暑かった夏が過ぎて、季節はもうすっかり秋になっていた。
朝晩の風はひんやりと冷たく、街路樹の葉も少しずつ色づきはじめている。
コミケでさんざん笑って赤面したあの一日が、まるで遠い昔のことのように思える静かな十月だった。
夏の終わりからこっち、俺の毎日はいよいよ氷の上のことで埋まっていた。
ノービスに出ると決まってから、リンクに立つ時間がぐっと増えたのだ。
そして俺の足元には、前まではなかったものが加わっていた。
真新しい、俺だけのスケート靴である。
革のにおいがまだ残る白い靴は、俺の足の形にぴたりと合わせて作られていた。
貸し靴とはまるで別物の、身体に吸いつくような感触に、俺は毎日ひそかに感動していた。
合わせて新規の衣装も仕立ててもらっていた。
リンクを使う時間も、永田さんについて滑る回数も、これまでとは比べものにならない。
本気で競技をやるというのはこういうことなのだろうと、俺は日に日に実感していた。
そんなふうに準備を重ねてきて、ついにその日が近づいてきた。
ノービスの、地方大会である。
俺にとっては正真正銘、生まれて初めての勝ちに行く「試合」だった。
「瀬理奈ちゃん、いよいよ明日だね。試合」
「うん。なんだか、どきどきしてきちゃった」
「だいじょうぶだよ。瀬理奈ちゃんなら、ぜったい勝てるもん」
昼休みの教室で、佑香ちゃんが自分のことのように胸を張った。
肩までの黒髪を二つに結んだその顔は、すっかり勝つ気でいるようだった。
俺が試合に出ると知ってから、この子はずっとこの調子なのだ。
「ひかりもね、おうちでおうえんしてるからね」
「ひかりちゃんは、見にこないの?」
「ママがとおいからだめって。でもね、こころはリンクにとんでいくから」
ひかりちゃんが、胸の前で小さなこぶしをぎゅっと握ってみせた。
心だけでもリンクに飛んでいく、というのがこの子らしい言い回しだった。
相変わらず、見ているだけでこちらまで明るくなる子だった。
「……僕は、ちゃんと見にいくよ」
「ほんと? 明彦くん」
「うん。だって、ぼくは瀬理奈お姉ちゃんの、いちばん最初の観客だもん」
明彦が、栗色の髪の下で、ほんの少し照れたように笑った。
いちばん最初の観客、と言うのはこの子が大事に握りしめている肩書きだ。
試合の当日は、雲ひとつない秋晴れだった。
愛奈の運転する車で、俺は父さんと母さん、それから明彦と一緒に会場へ向かった。
高速道路に乗ってから一時間あまり走った先に、その大きなスケートリンクはあった。
会場に一歩足を踏み入れた瞬間、俺は思わず息をのんだ。
これまで通っていた古びた区民のリンクや、ノービス以下の披露会とは何もかもが違っていた。
天井は一段と高く、氷は青白く澄んでいて、空気そのものもぴんと張りつめている。
ロビーには、クラブのメンバーなのだろうか、おそろいのジャージを着た子供たちがあちこちにかたまっていた。
どの子も真剣な顔つきで、コーチらしき大人と、何やら熱心に話し込んでいる。
バッジテストのときに感じた、あのぴりっとした空気を、何十倍にも煮詰めたような場所だった。
そんな場所だけれども、ひとつだけ、すぐに分かったことがあった。
ここに集まった子供たちのなかで、俺は頭ひとつぶん以上も背が低かったのだ。
どの子も俺より、二つ三つは年上に見えた。
それもそのはずだった。
ノービスというのは本来、もっと――そう二~三年は、俺より大きな子たちのための舞台なのだ。
言ってしまえば七歳でこの場所に立っている俺の方が、よほど場違いな新入りだった。
受付を済ませて控えのスペースへ向かうと、ちらほらと視線が集まってきた。
銀色の髪と青い瞳は、こういう場所では、いやでも人目を引いてしまう。
そのうえ俺は、テレビやネットで名が知れてしまった『銀の天使』でもあった。
「ねえ、あの子……」
「うん。テレビに出てる、銀の天使だ」
「あんな小さい子が、ノービスに出るの?」
ひそひそとした声が、俺の鋭い耳にははっきりと届いてしまうのだ。
その声に混じっていたのは、物珍しさと、ほんの少しの棘だったりする。
ただ歓迎されているわけでは、どうやらなさそうだった。
氷の上では何人かの子が、本番前の練習で滑っていた。
俺は練習の順番を待ちながらリンクサイドの手すりから、なんとはなしにその様子を眺めていた。
そのなかに一人、ひときわ目を引く子がいた。
すらりと背の高い、俺よりも三つは年上に見える女の子だった。
深い青の衣装をまとって、迷いのない速さで氷を切り裂いていく。
そして次の瞬間、その子は高々と宙に舞い上がり、くるくると回って降りてきた。
危なげのない、惚れ惚れするようなくらいのジャンプだった。
回転の数も、これまで俺が見てきた子たちよりも、明らかに多い。
ただ跳んでいるというより、跳ぶために生まれてきたようにすら見える子だった。
俺が見入っていると、近くにいた子たちがささやき合うのが聞こえてきた。
どうやらあの子は、この大会でいちばんの優勝候補なのだという。
名前を、森澤花音というらしかった。
その森澤花音が氷から上がってくると、まわりに二、三人の女の子が集まっていった。
取り巻き、とでも言えばいいのだろうか。
その子たちが、俺のほうをちらちらと見ながら、くすくすと笑っている。
「あの子じゃない? テレビの、銀の天使って」
「ほんとだ。へえ、こんなに小さいんだ」
「ノービスもなめられたものね」
取り巻きの一人が、つんと顎を上げて、俺を上から見下ろした。
そこにあったのは、はっきりとした棘と、それから、隠しきれない対抗心だった。
俺がテレビで注目されていることが、どうやら面白くないらしい。
「ねえ、あなたが銀の天使ちゃん?」
「……うん。橘瀬理奈です」
「ふうん。テレビでちやほやされて、いい気なものね」
そんな取り巻きたちを、当の森澤花音は、つまらなそうに一瞥しただけだった。
そして俺の前まで来ると、その切れ長の目で俺を上から下までじっと見た。
品定めをするような、ひやりと冷たい視線だった。
「……ふうん」
「あ、あの」
「べつに。期待はずれじゃないと、いいけど」
森澤花音は、それだけ言うと、ぷいと俺に背を向けた。
取り巻きたちが、慌ててそのあとを追いかけていく。
あとに残された俺は、狐につままれたような心地でその背中を見送った。
正直に言えば、少しだけ、胸の奥がざわついた。
あんなふうに、誰かから真っ向から値踏みされたのは、この人生では初めてだった。
無敵のつもりでいた俺の足元が、ほんの少しだけぐらりと揺れた気がした。
「瀬理奈お姉ちゃん。だいじょうぶ……?」
「あ、明彦くん。うん、だいじょうぶだよ」
「あの子……なんだか、こわいね」
いつのまにか明彦が俺のそばに来て、心配そうに顔をのぞき込んでいた。
この子は俺の気持ちの揺れを、誰よりも早く嗅ぎ取る。
俺は明彦ににこりと笑ってみせて、ぐっと気持ちを立て直した。
「瀬理奈ちゃん。そろそろ、こっちおいで」
「あ、永田さん」
「うん。本番前の、六分間練習が始まるよ」
紺色のダウンを着た永田さんが、いつもの笑い皺を浮かべて手招きした。
今日も俺のそばには、いちばん最初から見守ってくれているこの人がいる。
それだけで、ざわついていた胸が落ち着いていくのが分かった。
「永田さん。みんな、すごく上手だね」
「ああ。ここに来るような子たちはみんな本気だからね」
「瀬理奈、勝てるかな」
俺が思わずそう尋ねると、永田さんは少しだけ目を細めた。
その目の奥に、またあのいつもの色がちらりとよぎった気がした。
けれど永田さんはそれを口には出さず、ただ俺の頭をぽんと撫でた。
「勝ち負けはやってみないと分からないさ」
「うん」
「瀬理奈ちゃんは、いつもどおり、瀬理奈ちゃんの滑りをしておいで」
いつもどおりの滑り。
その言葉に、俺はこくりとうなずいて、リンクへ続くゲートへと向かった。
冷たい空気が、俺の頬を、きゅっと引き締めていった。
ブレードカバーを外して、刃の先をそっと氷に下ろす。
ひやりとした冷たさが、足の裏から、すうっと背筋まで駆け上がってきた。
こうして俺の、生まれて初めての試合が、いよいよ幕を開けようとしていた。
「続いて、橘瀬理奈選手」
名前が呼ばれて俺はリンクの中央へとすべり出た。
青白い照明の下で、銀色の髪がきらりと光ったのが自分でも分かる。
観客席のざわめきが、ほんの少しだけ大きくなった。
リンクの真ん中で、開始のポーズをとる。
すうっと息を吸い込むと、いつものあの感覚がやってきた。
世界から音と質量が、ほんの少しだけ引き剥がされていく。
観客のざわめきも、判定員の視線も、すべてが冷たい空気のなかへ吸い込まれていく。
あとに残るのは、自分の呼吸と、足の裏から伝わる氷の感触だけだった。
その静まりかえった世界のなかへ、聞き慣れた曲が、そっと流れ出した。
家のピアノで、何度も何度も弾いてきた曲だった。
鍵盤の前で過ごしたあの時間が、そのまま氷の上に溶け出していく。
俺の身体は、その音にのって、するすると動きはじめた。
ステップを踏み、ターンを切り、そして高く跳ぶ。
前向きに踏み切るアクセルが、ふわりと宙に浮いて、危なげなく着氷する。
氷を蹴るたびに、観客席から、小さなどよめきが上がるのが分かった。
途中、ほんの数秒だけ、不思議な瞬間があった。
「跳ぼう」とか「回ろう」とか、そういう考えが、ふっと頭から消えたのだ。
ただ音が俺の身体と共にあるだけなのに、身体が勝手に、楽譜そのものを表現するように躍りはじめた。
けれどその感覚は、掴もうと意識した途端に、するりと逃げていった。
次のジャンプの構えに入ると、俺はまた、いつもの「滑り」へと戻っていた。
あの数秒がなんだったのか、俺自身にも、よく分からないままだった。
最後のスピンをぴたりと止めて、俺は決めのポーズをとった。
息はまだ、ちっとも切れていない。
今日も俺は、あらかじめ決めていた構成をきれいに完璧に滑りきったのだ。
深く一礼すると、観客席から、温かい拍手がわっと沸き起こった。
それで十分なのだと、俺はどこかで決めていたのかもしれない。
「すごい、まだあんなに小さいのに」
「ジャンプ、ぜんぶ降りたわよ」
「さすが、銀の天使ね」
リンクを上がると、客席のあちこちから、そんな声が聞こえてきた。
七歳の子がノービスでこれだけ滑れば、それは目を引くらしい。
手すりの向こうでは、明彦が、両手を真っ赤にして拍手を送ってくれていた。
「瀬理奈お姉ちゃん、すごかったよ!」
「えへへ。ありがとう」
「うん。きっと、いちばんだよ」
俺をベンチに迎えた永田さんも、満足そうに頷いていた。
点数を待つあいだ、俺はなんとなく、悪くない手応えを感じていた。
いつもどおりに、きれいに滑れたのだから。
やがて得点が発表され、俺の名前は上位の何人かのなかに並んでいた。
けれど、いちばん上ではなかった。
俺の順位は三番目、七歳でのノービス初出場で三位の表彰台だった。
まわりの大人たちは、それを「快挙だ」と言って、口々に褒めてくれた。
そして優勝したのは、あの森澤花音だった。
二位もまた、俺より三つは年上の、大きな女の子だった。
表彰台のいちばん高いところと俺の立つ場所には、はっきりとした差が刻まれていた。
正直に言えば、俺は少しだけ悔しかった。
勝ち負けそのものに、もともと興味はなかったはずだった。
それでもいちばん上から見える景色を、おばあちゃんに見せてやりたかった。
表彰式で、俺は銅メダルを首からかけてもらった。
七歳の表彰台と、会場のあちこちでカメラのシャッターが切られる。
小さな俺がメダルを提げている姿は、それなりに絵になったのだろう。
表彰台を降りたところで、ふいに、横から声がかかった。
振り向くと、金メダルを提げた森澤花音が俺を見下ろしていた。
あの、ひやりと冷たい目で。
「あなた、年齢の割に悪くないわね」
「……ありがとう」
「でもね。飛び跳ねているだけでは、ノービスの世界では勝てないわよ」
森澤花音はそれだけ言うと、すっと背を向けて去っていった。
取り巻きたちが勝ち誇ったようにそのあとに続く。
あとに残された俺は、その言葉の意味をうまく飲み込めずにいた。
飛び跳ねているだけでは、勝てない。
俺の身体は、跳ぶことも回ることも、人より得意なはずだった。
それなのに、その「得意」だけでは、ここでは届かないというのだろうか。
ベンチに戻ると、父さんと母さんが駆け寄ってきてくれた。
二人とも俺の銅メダルを見て、それはもう嬉しそうにしている。
俺はその笑顔に、内心のゆがみを表に出さないようなんとか笑い返した。
「瀬理奈、よく頑張ったな。立派なものだ」
「いちばん小さいのに、三位なんてすごいわよ」
「うん……ありがとう」
父さんも母さんも、口をそろえて俺を称えてくれた。
歳がいちばん下なのだから、三位でも上出来なのだと。
たしかにそのとおりなのだろう、と俺も思った。
ただひとりだけ、永田さんだけは俺の銅メダルを見つめながら、いつもの笑い皺を少しだけ曇らせていた。
その目の奥には、今日もまた、あの口に出されない色が静かに揺れていた。
帰りの車のなかで、ずっと窓の外を眺めていた。
膝の上には銅メダルが、ひんやりと重く乗っている。
みんなが「すごい」と言ってくれた、初めての表彰台のメダルだった。
それなのに俺の胸のなかは、なんだかすっきりとしなかった。
森澤花音のあの冷たい言葉が耳の奥にこびりついて離れない。
『飛び跳ねているだけでは勝てない』
窓の外を、夕暮れの街が、後ろへ後ろへと流れていく。
銀の天使は、生まれて初めての試合で、表彰台に立った。
けれどそのてっぺんには、ほんの少しだけ、手が届かなかったのだ。
その夜、家に帰り着くと、大阪のおばあちゃんから電話がかかってきた。
俺が初めての試合に出ることは、前々から伝えてあったのだ。
受話器を取ると、待ちかねたようなやわらかい声が、耳に流れ込んできた。
「もしもし、瀬理奈ちゃんか。どうやった、試合は」
「うん。あのね、瀬理奈、三位だったの」
「まあまあ、三位かいな。たいしたもんやで、ほんまに」
電話の向こうで、おばあちゃんが、ぱっと声を弾ませた。
七歳で表彰台に立ったというだけで、この人にとっては大事件らしい。
俺はその嬉しそうな声に、思わず頬がゆるんだ。
「ほんまにすごいわ。近所中に、また自慢してまわらなあかんなぁ」
「えへへ。でもね、おばあちゃん」
「ん、どないしたん?」
俺は受話器を握りしめたまま、ほんの少しだけ声を落とした。
本当はもっと上を見せてやりたかった。
表彰台のいちばん高いところから見える景色を、この人に届けたかったのだ。
「瀬理奈ね。次はいちばんになりたいの」
「ほう。いちばんに、なぁ」
「うん。おばあちゃんにもっとすごいの、見せてあげたいから」
俺がそう言うと、おばあちゃんはふふっとやわらかく笑った。
そして、いつものあの言葉をゆっくりと口にした。
「でもな、瀬理奈ちゃんが楽しそうにしとるのが、おばあちゃんはいっとう一番なんよ」
その言葉に、俺は、こくりとうなずいた。
楽しそうにしているのがいちばんと、おばあちゃんはいつだって俺にそう言ってくれる。
それでも、と俺は思った。
だからこそいちばん楽しそうに舞う俺を、おばあちゃんにはてっぺんで見せてやりたいのだ。
受話器を置いた俺の胸には、小さな、けれど熱い火が灯っていた。
それからしばらくして、永田さんが俺に特別な練習をつけてくれるようになった。
クラブの営業が終わったあとの、誰もいない静かなリンクでのことだった。
本気でノービスをやるのなら、それだけの練習が要るのだと、永田さんは言った。
がらんとしたリンクに、俺と永田さんの声だけが、よく響く。
青白い照明の下で、永田さんは俺の滑りを、いつになく真剣な目で見つめていた。
そしてひととおり滑り終えた俺を、リンクサイドへと呼び寄せた。
「瀬理奈ちゃん。正直に言ってもいいかな」
「うん。なあに、永田さん」
「このままだとね。瀬理奈ちゃんは成長するまで数年間ノービスじゃ勝てないと思う」
その言葉に、俺は、思わず永田さんの顔を見上げた。
いつも俺を褒めてばかりだった永田さんの口から、初めて出た厳しい言葉だった。
紺色のダウンの下で、永田さんの目は、まっすぐに俺を見ていた。
「どうして永田さん。瀬理奈はジャンプ、ちゃんと跳べてるよ」
「ああ。そうだね。ジャンプも、ステップも、文句のつけようがないくらい上手だ」
「じゃあ、どうして……」
俺が口ごもると、永田さんは少しだけ困ったように頭をかいた。
それからしゃがんで、俺と目線を合わせた。
その目の奥には、いつもの言葉にならない色が、はっきりと浮かんでいた。
「うまく言えないんだけどね」
「うん」
「瀬理奈ちゃんの滑りには、まだ、見せていないものがあると思うんだ」
「見せていないもの……」
俺は、その言葉を、胸のなかで繰り返した。
それがなんなのかは俺には分からないけれど、出しきっていないものがあるのなら、出すまでだ。
これまで蓋をしてきた力があるなら、ぜんぶ氷の上に注ぎ込もうと決めた。
けれども――
「永田さん。瀬理奈はなにを見せてないの?」
「それがね。先生にも、まだはっきりとは分からないんだ」
「分からない……?」
永田さんはばつが悪そうに笑って、俺の頭をくしゃりと撫でた。
そして、ぽつりと独り言のように言った。
「前にね。曲をかけて滑ったとき、ほんの数秒だけ瀬理奈ちゃんがまるで別人みたいになったことがあった」
「……?」
「あれだよ。あれが、たぶん、瀬理奈ちゃんのいちばんの宝物なんだ」
その言葉に、俺ははっとした。
大会の本番でも、ほんの数秒だけ訪れた、あの不思議な瞬間のことだ。
跳ぼうとも回ろうとも思わず、ただ音と共にその身があった、あの数秒。
けれど、あの感覚は、掴もうとすると、するりと逃げていく。
どうやって出せばいいのか、俺自身にもまるで分からないのだ。
永田さんもまた、その「宝物」の出しかたを、まだ知らずにいるのだった。
ならばと、俺は安全に跳ぶために余力を残していたジャンプも、高く跳んだ。
決めにつなげるために抑えていたスピンも、回った。
これまでの「過不足なく」を抑えて、俺は教えてもらったかぎりの技を氷の上にぶつけた。
その結果、俺の滑りは、目に見えて派手になった。
誰が見ても、七歳にできる難度とは思えない構成になっていく。
永田さんも、その上達ぶりには、目を丸くしていた。
「すごいな瀬理奈ちゃん。ここまで跳べるとは、先生も思わなかったよ」
「えへへ。これだけ跳べれば勝てるかな」
「ああ。これだけ跳べれば、きっと――」
そうして俺は、次のノービスの大会に臨んだ。
回転を増やしたジャンプは、本番でもきれいに決まり、内心ほっとしていた。
観客席のどよめきは、前のとき――初出場よりもずっと大きかった。
結果として俺の順位も、たしかにひとつ上がった。
俺は、二位になった。
三位だった前回より、ひとつだけ表彰台を登った。
けれど、今回もいちばん上には手が届かなかった。
そして、その日も――優勝したのは、森澤花音だった。
それから、いくつもの試合に出た。
俺は表彰台の常連になり、二位を取ることも、めずらしくなくなった。
それでも、てっぺんだけは、どうしても俺のものにならなかった。
ジャンプを増やしても。
回転を詰め込んでも。
あと一歩のところで、俺はいつも、誰かに先を行かれてしまうのだった。
『飛び跳ねているだけでは、ノービスの世界では勝てないわよ』
森澤花音の、あの言葉が、何度も頭をよぎった。
俺はあれから、ずいぶんたくさん「飛び跳ねて」きた。
けれどそれだけでは、やはり、てっぺんには届かないらしかった。
練習しながら俺は悩んだ。
学んだ技は全部出した筈だった。
それでもなお足りないものが、いったいなんなのか、俺にはまるで分からなかった。
誰もいないリンクで、何度も何度も同じ曲を滑った。
あの数秒の感覚を、もう一度この手で掴もうとして。
けれどあの「宝物」は、追いかければ追いかけるほど、遠くへ逃げていくばかりだった。
「どうすれば、いいんだろうか」
がらんとしたリンクで、ぽつりと漏れた俺のつぶやきが、冷たい天井へと吸い込まれていく。
氷の上は、俺がこの人生で初めて「欲しい」と思った場所だった。
けれどもその場所で、俺はこの人生で生まれて初めて、越えられない壁にぶつかっていた。
そんな俺の姿を、永田さんは、ずっとそばで見ていた。
ある日の練習のあと、永田さんはリンクサイドのベンチに腰を下ろした。
そして、いつもの笑い皺をめずらしく曇らせたまま、しばらく黙り込んでいた。
それから意を決したように、ぽつりと切り出した。
「瀬理奈ちゃん。先生は、ひとつ決めたことがあるんだ」
「決めたこと?」
「うん。先生だけじゃ、今の瀬理奈ちゃんをノービスのてっぺんに連れていけない。それが、よく分かったんだ」
永田さんの声は、どこか悔しさをにじませていた。
けれどそれ以上に、その目にはまっすぐな決意が宿っていた。
自分で見出した存在が自分の手に余ると認めるのは、きっと、簡単なことではなかったはずだ。
「だから。先生の古い友達に瀬理奈ちゃんのことを相談してみようと思うんだ」
「お友達?」
聞き慣れないその名前を、俺は胸のなかで繰り返した。
永田さんの口ぶりからは、その人がただ者ではないことがなんとなく伝わってきた。
「あいつなら、瀬理奈ちゃんの『見せていないもの』を引き出してくれるかもしれない」
「ほんとに?」
「ああ」
永田さんはそう言って、ようやくいつもの笑顔を取り戻した。
俺の頭を、わしわしといつものように撫でてくれる。
その手には俺をてっぺんへ送り出したいという願いが、いっぱいに込められていた。
その夜家に帰り着くと、俺はいつものようにピアノの前に座った。
南向きの窓の外では、秋の虫の声も、もうずいぶん細くなっていた。
俺は鍵盤の蓋をそっと開けて、氷の上でいつも滑っているあの曲を弾きはじめた。
弾きながら、俺は本番で訪れたあの数秒のことを、ぼんやりと思い返していた。
跳ぼうとも、回ろうとも思わなかった、あの数秒。
ただこの曲といっしょにこの身が空間にあった、あの不思議な瞬間。
あれこそが俺の宝物なのだと、永田さんは言った。
その宝物の出しかたを、俺はまだ知らない。
鍵盤を撫でる指先に、小さな期待と不安をそっと乗せた。
「瀬理奈。また氷の上の曲ね」
「うん。これを弾くとなんだか落ち着くの」
「ふふ、そうなんだ」
台所から、母さんがやさしく顔をのぞかせた。
あたたかい光のなかで、ピアノの音だけが静かに流れていく。
俺の越えるべき壁は、まだ目の前に高くそびえたままだった。
それでも、と俺は思った。
表彰台のてっぺんも、おばあちゃんに見せたい景色も、きっとその壁の向こうにあるのだ。
前話で悪ノリが過ぎましたので、口直し代わりに、予定を変更してもう一話投稿させていただきます