銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
冬に入ると、街はどこもかしこも気ぜわしくなっていた。
リンクへ向かう道すがら、商店街のあちこちで赤や緑の飾りつけが目につく。
気づけば俺がノービスの世界へ飛び込んでから、もう何か月かが過ぎていた。
あれから俺はいくつもの大会に出てきた。
表彰台の常連にはなれたし、二位を取ることも、すっかりめずらしくなくなっていた。
それでもてっぺんの一段だけは、なかなかどうして俺のものにならないままだった。
跳ぶジャンプの回転を増やしても。
詰め込めるだけの技を、構成に詰め込んでも。
あと一歩というところで、俺はいつも誰かに先を行かれてしまうのだ。
その「誰か」が、たいていの場合は森澤花音だった。
すらりと背の高いあの子は、相変わらず迷いのない速さで氷を切り裂いていく。
俺より三つも年上のあの子の背中は、近づいたつもりでもちっとも近づいてはいなかった。
『飛び跳ねているだけでは、ノービスの世界では勝てないわよ』
初めての試合で投げつけられたあの言葉は、いまも俺の耳の奥にこびりついて離れない。
俺はあれから、ずいぶんたくさん「飛び跳ねて」きたつもりだった。
それでもなお足りないものがいったいなんなのか、俺にはまるで掴めずにいた。
そんな俺の足踏みを、誰よりも近くで見ていたのは永田さんだった。
ある日の練習のあとのことだった。
氷から上がった俺を、永田さんはいつものベンチへと呼び寄せた。
紺色のダウンの下で、その顔にはめずらしく、少しだけ緊張の色が滲んでいる。
「瀬理奈ちゃん。前に話した、先生の古い友達のことなんだけどね」
「あ、うん。先生のお友達」
「その人がね、今度、瀬理奈ちゃんの滑りを見てくれることになったんだ」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
自分の手には余ると、あの永田さんがそこまで言った相手だ。
ただ者でないことだけは、なんとなく察しがついていた。
「ほんとうに? いつ来てくれるの?」
「それがね。あいつは普段、海の向こうにいてね」
「海のむこう、ヨーロッパ?」
「うん。ヨーロッパで、長いこと選手を教えている人なんだ」
ヨーロッパ、という言葉に、俺は内心で目をみはった。
日本を遠く離れた地で、競技者を育てている指導者。
永田さんの古い友達というその人は、どうやら俺の想像よりずっと大きな人らしかった。
「だからね。今回日本に戻ってくるのは、ほんのわずかなあいだだけなんだ」
「わずか?」
「ああ。年の瀬のほんの数日。あいつも忙しいんだけどそのあいだに一度だけ、瀬理奈ちゃんを見てもらえることになった」
たった一度、それもほんの短いあいだだけ。
それでも俺の胸は、久しぶりにとくんと小さく高鳴った。
この足踏みの正体を、その人なら見抜いてくれるかもしれない。
永田さんですら言葉にできなかった「見せていないもの」の在りかを。
俺は氷の上で立ち止まったまま、まだ見ぬその人のことを思った。
その人が現れたのは、よく晴れた、冷え込みの厳しい朝だった。
クラブの営業が始まる前の、まだ誰もいないリンクでのことだった。
青白い照明だけがついた静かな氷の上で、俺は永田さんとその人を待っていた。
やがて、入口の扉ががらりと開く音がした。
入ってきたのは、背の高い一人の男の人だった。
歳は永田さんと同じくらいだろうか、けれど纏っている空気がまるで違う。
鋭く張りつめていて、それでいて隙というものがどこにも見当たらない。
「久しぶりだな、永田」
「九条。わざわざ、すまないね」
「気にするな。お前がそこまで言うんだ。よほどの拾い物なんだろう」
九条、と永田さんはその人を呼んだ。
低く、よく通る声だった。
その目が、リンクの上の俺をすっと捉える。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
これまで大勢の大人に見られてきたけれど、こんな目で見られたのは初めてだった。
かわいい、すごい、天使みたいだ――そういう類の目とは、まるで違う。
その人の目は、俺を「銀の天使」としてではなく、ただ一人の「選手」として値踏みしていた。
「お前が、橘瀬理奈か」
「……はい。橘瀬理奈です」
「九条英二だ。聞いていたとおり、たいそうな器量だが挨拶はいい。滑って見せろ」
それだけ言うと、その人――九条さんは、リンクサイドの低いボードにどすりと肘をついた。
余計な前置きは、ひとつもない。
俺は永田さんのほうを見たけれど、永田さんもただ、小さくうなずくだけだった。
――ああ、こういう人か。
俺は内心で、ひとり、ふっと笑ってしまった。
誰もが子供扱いし、おそるおそる腫れ物に触るように接してくるなかで。
この人だけは、七歳の俺をまるで一人前のように扱おうとしている。
正直に言えば、それはひどく久しぶりの感覚だった。
中身が三十の俺にとっては、子供扱いよりも、よほど心地のいいものだったりする。
俺はブレードカバーを外して、刃の先をそっと氷へと下ろした。
いつもの曲が、がらんとしたリンクに流れ出した。
家のピアノで、何度も何度も弾いてきた、あの曲だ。
俺は息を吸い込んで、いつものように世界から音と質量を引き剥がしていった。
ステップを踏み、ターンを切り、そして跳ぶ。
回転を増やしたジャンプが、ふわりと宙に浮いて、危なげなく決まっていく。
詰め込めるだけの技を、ひとつ、またひとつと、ていねいに氷へ並べていった。
最後のスピンをぴたりと止めて、俺は決めのポーズをとる。
息は、まだちっとも切れていない。
今日も俺は、あらかじめ決めていた構成を、過不足なく完璧に滑りきったのだ。
リンクサイドを振り返ると、永田さんが誇らしげに微笑んでいた。
七歳でここまで滑れる子は、そうそういない。
そのことを、永田さんは九条さんに見せたかったのだろう。
ところが、当の九条さんは――
その顔には、感心の色などひとかけらも浮かんでいなかった。
腕を組んだまま、つまらなそうに、ふっと鼻を鳴らす。
それから低い声で、ぽつりと言った。
「お前、つまらん滑りをするな」
「……九条」
「うまいよ、気味が悪いくらいにな。確かに七つにしちゃあうますぎるくらいだ。だが、それだけだ」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
うまい、けれど、それだけ。
これまで誰一人として、俺にそんなことを言った大人はいなかった。
九条さんは、ボードから身を起こすと、つかつかとリンクの際まで歩いてきた。
そして氷の上の俺を、その鋭い目でまっすぐに見下ろした。
逃げ場のない、ひやりとした視線だった。
「橘瀬理奈。ひとつ訊く」
「……はい」
「お前、いまの滑りで、どこか一つでも、失敗するのが怖い場所があったか」
俺は、その問いに、すぐには答えられなかった。
失敗するのが怖い場所。
そんなものは、正直に言えば、ひとつもなかった。
跳んだジャンプも、回ったスピンも、すべて自分の力の内側にあった。
転ぶかもしれない、落ちるかもしれない――そんな際どい場所には、はじめから一歩も踏み込んでいない。
俺はいつだって、確実に降りられる高さだけを、確実に跳んできたのだ。
「……ないです」
「だろうな」
「え?」
九条さんは、やはりな、というふうに、小さく息をついた。
そして、組んでいた腕を、ゆっくりとほどいた。
「お前の滑りはな。きれいに『おさめる』ことしか考えていない」
「おさめる……?」
「ああ。落とさない。転ばない。決めた通りに、過不足なく終わらせる。――そういう滑りだ」
九条さんの言葉は、ひとつひとつが、まるで冷たい刃のようだった。
けれど不思議と、痛いとは思わなかった。
むしろそのどれもが、俺の胸の奥を的確に貫いていく、心地よさすらあった。
「お前は、教わったことを、ただ教わった通りにやっているだけだ」
「……」
「そこから先へ一歩でも踏み出そうという気が、まるで見えん」
教わったことを、教わった通りに。
その言葉に、俺は、ぐうの音も出なかった。
たしかに俺は、永田さんに教えてもらった技を、ただていねいに並べているだけだった。
「それにな。お前は、いつも力を余している」
「あまして……?」
「ジャンプも、スピンも、ステップも。八割か、せいぜい九割。残りはぜんぶ、後生大事に懐へしまい込んでいる」
俺は、思わず息を呑んだ。
見抜かれている。
安全に降りるために、いつも余力を残して跳んでいたことを。
確実に着氷できるように。
万に一つも崩れないように。
俺はいつだって、自分の力の、いちばん安全な内側だけを使ってきたのだ。
「お前くらい器用なら、それでも、そこそこは勝てる。表彰台にも乗れるだろう」
「……」
「だが、てっぺんには、絶対に立てん」
てっぺんには、立てない。
その断言に、俺の心臓が、ひやりと冷えた。
それはまさしく、俺がこの数か月、味わってきた壁そのものだった。
九条さんは、ふう、と短く息を吐いた。
そして、しゃがんで、初めて俺と目線を合わせた。
近くで見るその目の奥には、思いのほか、あたたかい色が宿っていた。
「いいか、橘瀬理奈。よく聞け」
「うん」
「滑りには、二つしかない」
九条さんは、骨ばった指を、二本立ててみせた。
「ひとつ。確実に、きれいに『おさめる』滑り」
「うん」
「もうひとつ。届くかどうか分からんところへ、力のぜんぶで『手を伸ばす』滑りだ」
俺は、その二本の指を、じっと見つめた。
おさめる滑りと、手を伸ばす滑り。
これまでの俺は、まちがいなく、前のほうだった。
「おさめると決めたなら、ミスはひとつも許さん。落とした時点で、お前には何も残らんからな」
「……」
「だが、手を伸ばすと決めたなら――転んだって、構わん」
転んだって、構わない。
俺は、思わず九条さんの顔を見返した。
失敗してもいい、などと言う大人に、俺は生まれて初めて出会った。
これまで俺は、ずっと、転ばないことばかりを考えてきた。
悪目立ちしないように、失敗して笑われないように。
だからいつも、自分の力の安全な内側に、きっちりと留まってきたのだ。
けれど、この人の言うことは、まるで逆だった。
安全な内側に留まるかぎり、お前はそこから一歩も出られない。
本当に勝ちたいのなら、転ぶ覚悟で、その外側へ手を伸ばせ――と。
「お前は、転ぶのが怖くて、力を余しているわけじゃないだろう」
「……うん」
「では、なんのために、余している」
俺がその言葉の意味を量りかねていると、九条さんはさらに続けた。
「安全なところで小さくまとまる選手はな――」
「……」
「そこそこ上手いだけの選手で終わるんだ。そんなのは、掃いて捨てるほどいるんだよ」
そこそこ上手いだけの選手。
その言葉が、ちくりと胸の奥を刺した。
それはいつか森澤花音が俺に投げつけた、あの言葉とどこかで重なっていた。
飛び跳ねているだけでは、ここでは勝てない。
あの子は、俺にそう言い放った。
俺はあれからたくさん飛び跳ねてきたけれど、てっぺんには届かなかったのだ。
「お前は、それで満足なのか」
「……瀬理奈は」
九条さんに問われて、俺はぐっと言葉に詰まった。
満足なんて、できるはずがなかった。
俺には、てっぺんから見える景色を見せてやりたい人がいるのだから。
「満足できない。瀬理奈は、いちばんになりたいの」
「ほう」
「いちばん高いところを、見せたい人がいるの」
俺がそう答えると、九条さんはほんの少しだけ眉を上げた。
その鋭い目の奥に、はじめてかすかな興味の色がよぎる。
それから九条さんは、ふと永田さんのほうを振り返った。
「電話で言ってたよな、永田。曲をかけると、ほんの数秒だけこの子が化けるって」
「ああ。ほんの数秒、まるで別人みたいに滑る瞬間があるんだ」
「なるほどな、ふむ」
九条さんは、ひとつ合点がいったようにひとつうなずいた。
それから、また俺へと向き直る。
その視線はさっきよりも、いくらか柔らかくなっていた。
「いいか、橘。その数秒ってのはな」
「はい」
「お前が『十分だ』っていう計算を、制御を、うっかり手放しちまった瞬間だ」
計算を、手放した瞬間。
俺の頭のなかに、あの不思議な数秒がぱっと蘇った。
跳ぼうとも回ろうとも思わず、ただ音と一緒にこの身があった、あの数秒。
「自分で滑りを操ってやろう、としているうちは絶対に出てこない」
「操る……ですか?」
「ああ、手綱を握って、馬を御しているつもりでいるうちはな。出ないんだよ」
九条さんの言葉が、すとんと胸に落ちてきた。
そうだ。
俺はいつも自分の滑りを、これくらいで十分だと、自分の手で御していた。
「ぎりぎりまで攻めて、自分の力をぜんぶ放り出してみろ」
「ぜんぶ……?」
「ああ。出し惜しみなんざ、いっさい無しだ。そうすりゃ――転ぶ代わりにその感覚がお前を拾い上げる」
転ぶ代わりに、あれが拾い上げる。
その言葉に、俺の背筋を、ぞくりと何かが駆け抜けた。
攻めて、攻めて、力をぜんぶ放り出した、その先に。
そこにあの数秒が――俺の「宝物」が待っているというのだ。
不意に、俺は家のピアノのことを思い出した。
鍵盤の前でいちばん気持ちよく弾けるのは、上手く弾こうなんて考えていないときだった。
ただ音に身を委ねたとき、指は勝手に、歌うように動いてくれる。
氷の上のあの数秒も、きっと根っこは同じなのだ。
操ろうとする手を放して、ただ音に委ねたときだけ、それは顔を出す。
九条さんの言葉は、俺がずっと探していた「宝物」の在りかを、まっすぐに指し示していた。
九条さんは、それだけ言うと、ふっと表情をゆるめた。
ほんのわずかだけれど、その厳しい目元に、不器用な笑みのようなものが浮かぶ。
それから、永田さんのほうへと向き直った。
「永田。この子のことは、しばらくお前に任せる」
「ああ」
「だがな。もしこいつが本当にブレーキを捨てる気になったら――そのときは、俺に連絡しろ」
ブレーキを捨てる気になったら。
その言葉に、永田さんが嬉しそうに目を細めた。
それはきっと九条さんなりの、精いっぱいの認め方だったのだろう。
「分かった。必ず連絡する」
「ふん、せいぜい化けてみせろよ。銀の天使さん、とやら」
九条さんは、最後にもう一度だけ、俺をちらりと見下ろした。
そして黒いコートの襟を立て直すと、来たときと同じようにぞんざいに手を振った。
冷たい外気を背に、そのすらりとした背中が、扉の向こうへと消えていく。
短いあいだの、たった一度きりの邂逅だった。
それなのにその人の言葉は、俺の胸の奥へ深々と楔を打ち込んでいた。
あさってにはまた海を越えてしまう人の置き土産を、俺はぎゅっと両手で握りしめた。
九条さんの言葉を胸にしまったその日から、俺の滑りは、目に見えて変わっていった。
まず、力を余すのをやめた。
これまで八割で跳んでいたジャンプを、ためらわずに十割で跳ぶ。
着氷が乱れて、何度も氷の上に尻もちをついた。
転ぶのは、思っていたよりずっと痛かった。
それでも、不思議と、ちっとも嫌な気持ちにはならなかった。
転ぶたびに、自分のいちばん外側へ、ほんの少しずつ手が届いていく気がしたからだ。
「瀬理奈ちゃん。だいじょうぶか、いまの転倒」
「うん。平気平気」
「無理は、しなくていいんだよ」
「ううん、これでいいの。九条さんが言ってたもん、転んでもいいって」
俺がそう言って立ち上がると、永田さんはなんだか眩しそうに目を細めた。
そしてそれまで止めていた言葉を、ようやく口にした。
「……瀬理奈ちゃん。先生は思っていたんだ」
「なあに?」
「瀬理奈ちゃんは、ほんとはもっと跳べるのにってね」
その言葉に、俺は、思わず永田さんを見上げた。
やっぱり、この人は、ずっと前から気づいていたのだ。
「でも先生には、その蓋の開けかたがよく分からなかった。だから九条を呼んだんだ」
「永田さん……」
「うん。あいつを呼んでよかったよ」
永田さんは、いつもの笑い皺をくしゃりと深くした。
その目の奥にあった、あの言葉にならない色はもうどこにもなかった。
あったのはただ、まっすぐな、誇らしさだけだった。
それからの俺は、毎日のように転んだ。
けれど転ぶたびに、跳べる高さも、回れる速さも、確実に伸びていった。
これまでずっと懐にしまい込んでいた力が、少しずつ、氷の上へあふれ出していく。
そうして俺の滑りは、誰の目にも、はっきりと派手になった。
七歳の子が跳んでいるとは、とても思えない構成。
リンクを使う上級生たちまでが、いつのまにか俺の練習に、足を止めて見入るようになっていた。
そんなある日、永田さんが、一枚の用紙を手に俺のところへやってきた。
「瀬理奈ちゃん。次の大会のことなんだけどね」
「うん」
「今度の試合はね、森澤さんが出ないんだ」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
森澤花音。
俺がここしばらく、どうしても越えられなかった、あの壁だ。
「どうして?」
「彼女はね、上の年代の試合に呼ばれて、いまヨーロッパに遠征しているそうなんだ」
「ヨーロッパ……」
「ああ。彼女ももう、ずっと上の舞台を見ているのさ」
ヨーロッパと聞いて、俺はなんだか不思議な縁を感じた。
九条さんがいる海の向こう。
森澤花音もまた、俺の知らない大きな世界へとすでに歩き出しているらしい。
正直に言えば、ほんの少しだけ複雑な気持ちもあった。
あの子の、森澤花音のいない大会で勝ったところで、本当に勝ったことになるのだろうか。
俺がいちばん越えたかった壁は、その日、リンクにはいないのだから。
それでも、と俺は思い直した。
誰がいようと、いまいと。
俺は俺の「ぜんぶ」を、氷にぶつけてくるだけだ。
そう決めて、俺は、その大会の朝を迎えた。
試合の当日も、よく晴れた冬の朝だった。
愛奈の運転する車で、俺は家族みんなと一緒に会場へ向かった。
膝の上では、新しい衣装の入ったバッグが、かたりと小さく揺れている。
会場に着くと、いつものぴりっとした空気が、俺を出迎えた。
受付を済ませて控えへ向かうあいだも、あちこちから視線が集まってくる。
銀の天使がまた来た、と、ひそひそ声が、俺の耳には届いてしまう。
けれども、その日の俺は、いつもとは少しだけ違っていた。
その視線のひとつひとつが、もう全く気にならなかったのだ。
俺の頭のなかにあったのは、ただ、九条さんの言葉だけだった。
転んでもいい。
だから、ぜんぶをぶつけてこい。
「続いて、橘瀬理奈選手」
名前が呼ばれて、俺はリンクの中央へとすべり出た。
青白い照明の下で、銀色の髪がきらりと光る。
俺はリンクの真ん中で、すうっと深く息を吸い込んだ。
いつもの感覚が、やってきた。
世界から、音と質量が、ほんの少しだけ引き剥がされていく。
観客のざわめきも、判定員の視線も、すべてが冷たい空気のなかへ吸い込まれていった。
その静まりかえった世界に、聞き慣れた曲が、そっと流れ出す。
家のピアノで、何度も弾いてきた、あの曲だ。
けれど今日の俺は、これまでのように、ただ「おさめる」つもりはなかった。
いつもなら、ここで俺は「これくらいで十分だ」と決めて跳ぶ。
危なげなく降りられる、安全な高さと回転で収める。
けれど今日は――そのブレーキを、俺は思いきり踏み外した。
最初のジャンプから、俺は、力のぜんぶを解き放った。
これまで懐にしまい込んでいた一割を、ためらわずに氷へとぶつける。
跳び上がった高さは、自分でも驚くほどに、これまでとはまるで違った。
その瞬間、俺はたしかに「いつもより一回転、多く回れる」と感じていた。
――ぐらり。
着氷が、ほんの少しだけ乱れる。
それでも俺は、構わずに次の技へとつないでいった。
転んでもいい。いまの俺はそう思えるのだから。
ステップを刻み、ターンを切り、そしてまた高く跳ぶ。
氷を蹴るたびに、観客席からこれまでで一番大きなどよめきが上がる。
余力を残さない俺の滑りは、自分でも怖いくらいに生き生きとしていた。
ぎりぎりまで攻めて跳んだ、あの感覚。
身体の限界の、そのほんの少し向こう側。
俺はいま、その「向こう側」へ、たしかに足を踏み入れていたのだ。
そうして、演技の終盤に差しかかった頃だった。
俺は、次のジャンプの構えに入った。
いつもの俺なら、ここでまた「跳ぼう」「回ろう」と身体に命じている。
けれど今日の俺は、その手綱をすっと放してしまった。
無理に操ろうとするのを、やめる。
その制御する力を放り出して、ただ音に、この身を委ねる。
すると――その瞬間、世界がぐにゃりと色を変えた。
「跳ぼう」も「回ろう」も、頭のなかから消えていく。
あるのはただ、俺を包む音楽だけだった。
旋律が、俺の指先から、爪先から、髪の一本一本まで、するすると流れ込んでくる。
身体が、勝手に動いた。
いや、動かしているという感覚すら、もうなかった。
俺という器のなかを、音楽そのものが、駆け抜けていくようだった。
これだ、と俺は思った。
あの数秒。
追いかければ追いかけるほど逃げていった、俺の「宝物」。
それが今、逃げるどころか、俺の身体に深々と棲みついている。
ジャンプも、ステップも、スピンも、その境い目が溶けてなくなっていく。
俺はもう、技を「滑って」いるのではなかった。
ただ、音楽を、舞っていた。
ピアノの一音が高く跳ねれば、俺の身体も高く跳ね上がる。
旋律がやわらかく歌えば、俺の腕も、しなやかに宙を撫でる。
氷の上に、目に見える楽譜が、一筆書きに描かれていくようだった。
家の鍵盤の前で、何度も何度も触れてきた、この曲。
その音のひとつひとつが、いまや俺の身体そのものになっている。
ピアノが帰る場所で、氷が戦う場所だと、ずっとそう思ってきた。
けれども、違ったのだ。
帰る場所と戦う場所は、ほんとうは一本の根で繋がっていた。
鍵盤の前で委ねることを覚えた身体が、いま氷の上で、その花を咲かせている。
俺は、これでもかと攻めた。
出し惜しみなんて、ひとかけらもなかった。
それなのに、あれほど握りしめていた「ブレーキ」のことを、俺はもう完全に忘れていた。
ぎりぎりを攻めれば攻めるほど、音楽が俺を深く抱きとめてくれる。
転ぶ怖さの、ずっと向こう側。
そこには、俺がこれまで見たこともない、自由な世界が広がっていた。
最後のスピンへと、俺は流れ込んでいった。
身体の芯を一本通して、こまのように回りながら、だんだんと速さを上げていく。
ピアノの旋律が、まさにその一点へと収束していくのに、ぴたりと寄り添わせる。
そして、最後の一音。
俺は、ぴたりと回転を止めて、決めのポーズをとった。
高く掲げた指先の、そのてっぺんで、銀色の髪がふわりと舞い落ちる。
最後の音が、リンクの天井へと、すうっと吸い込まれていった。
一瞬――会場が、しんと静まりかえった。
それから、堰を切ったように、拍手が沸き起こった。
これまで俺が浴びてきたどの拍手とも、まるで違う種類のものだった。
ただ「上手だね」ではない、何か胸を打たれたような、熱い拍手だった。
「すごい……いまのなに、何なの?」
「あんな滑り、見たことないわ」
「背筋が凍った……」
リンクサイドのあちこちから、ため息のような声が聞こえてくる。
俺は肩で大きく息をしながら、その声をぼんやりと聞いていた。
今日は珍しく、本当に久しぶりに、息がきちんと切れていた。
それは、出し惜しみをしなかった証だった。
俺はたしかに、自分の力をぜんぶ、この氷の上に放り出したのだ。
途中でバランスを崩したことなんて、もう小さなことにしか思えなかった。
リンクから上がると、永田さんが俺を待っていた。
紺色のダウンの下で、その目が、真っ赤に潤んでいる。
あの永田さんが、声もなく、ただぼろぼろと涙をこぼしていた。
「永田さん、泣いてるの?」
「……ああ、すまんね。あんまり、きれいな滑りでね」
「ふふ。瀬理奈、ちゃんとブレーキ捨ててきたよ」
永田さんは、ぐいと目元を腕でぬぐった。
それから、俺の頭をくしゃくしゃと、何度も何度も撫でてくれる。
言葉にならないものが、その手のひらから、いっぱいに伝わってきた。
やがて、得点が発表された。
電光掲示板に映し出された俺の点数は、これまでのどの試合をも、大きく上回っていた。
そして俺の名前は、出場者のいちばん上に、ぽつんと表示されていた。
一位。
生まれて初めての、優勝だった。
「瀬理奈ちゃん、ゆうしょう――っ!」
手すりの向こうで、明彦が、声を裏返して叫んでいた。
栗色の髪を振り乱して、両手を高く突き上げている。
あの人見知りの子が、こんなに大きな声を出すのを、俺は初めて見た。
父さんも母さんも、客席で、互いに手を取り合って喜んでいる。
愛奈までもが、いつものすました顔をゆるめて、小さく拍手を送ってくれていた。
俺の初めての優勝を、みんなが我がことのように喜んでくれている。
リンクを上がると、永田さんが両腕を広げて俺を迎えた。
俺はその胸に、思いきり飛び込んだ。
紺色のダウンが、ひんやりと冷たくて、それでいてふわりとあたたかかった。
「やったな瀬理奈ちゃん。優勝だ!」
「やったね、永田さん」
「うん。文句なしの、堂々たる一位だよ」
優勝の余韻のなかで、それでも俺の胸には、ほんの小さな影もあった。
今日のリンクに森澤花音はいなかった。
俺がいちばん越えたかったあの壁は、その日ここにはいなかったのだ。
だから、心のどこかではやはり思ってしまう。
あの子がいたら、俺は本当に勝てたのだろうか、と。
このてっぺんはまだ「本物」ではないのかもしれない、と。
それでも、と俺は思い直した。
たとえ相手が誰であれ、今日の俺は初めて余力を残さなかった。
息を切らすほど、自分の全部を氷の上にぶつけたのだ。
今日俺が掴んだものは、勝ち負けなんかより、ずっと大きなものだった。
ずっと追いかけて、追いかけるほど逃げていった、俺の「宝物」。
それを俺は、たしかにこの手で掴んだ気がしていた。
森澤花音に勝てるかどうかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、いつもの滑りをしていた自分には、今日初めて勝てた。
それはきっと、点数よりもずっと大きな本当の一歩だった。
そんな俺のところへ、表彰式のあと、永田さんが興奮した面持ちで駆け寄ってきた。
その手には、一枚の封筒が握られている。
いつも穏やかなこの人が、こんなに前のめりになるのは、めずらしいことだった。
「瀬理奈ちゃん、すごいことになったぞ。とんでもないお知らせなんだ」
「すごいこと、ですか?」
「ああ。連盟の人たちが、瀬理奈ちゃんの最近の伸びを、ずっと見ていたらしくてね」
連盟、という言葉に、俺は首をかしげた。
永田さんは、その封筒を、そっと俺に差し出した。
「全日本ジュニアという、大きな大会があるんだ」
「全日本、ジュニア……?」
「うん。本来ならノービスを卒業した、もっと年上の選手しか出られない、国際水準の全国の舞台なんだよ」
国際水準の全国の舞台。
その言葉の大きさに、俺はごくりと唾を呑んだ。
これまで俺が出ていたノービスより、ずっと上の世界の話だった。
「そこにね。瀬理奈ちゃんを、特別な枠で呼びたいというんだ」
「特別な、枠ですか?」
「ああ。まだ七歳だというのにここまで伸びてきた選手は、めったにいないからね」
俺は、その封筒を、両手でそっと受け取った。
本来なら立てるはずもない、ずっと年上の選手たちの舞台。
そこへ俺は、特別な一枠として、招かれようとしているのだ。
俺の心臓が、とくん、と高鳴った。
ノービスのてっぺんよりも、さらに上へ、俺は特別に招かれたのだ。
正直に言えば、少しだけ怖かった。
ノービスでさえ俺は、いちばん小さな新入りだったのだ。
ジュニアともなれば、相手はもっと大きくて、もっと強い子たちばかりだろう。
でも――
「やってみるかい、瀬理奈ちゃん」
「……うん、やるよ。瀬理奈、やってみたい」
「そう来ると思ったよ」
永田さんは、目尻の皺をくしゃりと深くして笑った。
俺の胸のなかでも、小さな火が、ぱっと大きく燃え上がっていた。
――おばあちゃんに、見せてあげたい。
俺の頭に、まっさきに浮かんだのは、大阪のおばあちゃんの顔だった。
全国の舞台で年上のお姉さんたちに交じって舞う俺の姿は、きっと、これまででいちばん大きな晴れ姿になる。
このごろ、すこぶる調子がええんよ。
電話の向こうで、おばあちゃんはいつもそう言って笑っていた。
このいちばん大きな晴れ姿を伝えたら、あの人は、どんなに声を弾ませるだろうか。
早く伝えたい。
俺は封筒をぎゅっと抱きしめて、はやる気持ちのまま、そう思った。
誰よりも先に、あの人にこの報せを届けたかった。
そんなことを、永田さんと話していたときだった。
ふと控えのほうから、母さんがこちらへ歩いてくるのが見えた。
俺の優勝を、あんなに喜んでくれていたはずの母さんだった。
それなのに――その足取りが、なんだかおかしい。
俺の、この耳が。
俺の、この目が。
頼んでもいないのに、母さんの異変を、勝手に拾い上げてしまう。
いつもより、ほんの少しだけ浅くて速い、呼吸。
固く結ばれた、唇のかたち。
携帯電話を握りしめた手の、かすかな、けれど止まらない震え。
俺の背筋を、つうっと冷たいものが伝った。
この感覚を、俺は知っている。
去年の夏、大阪で、おばあちゃんの「終わり」の気配を拾ってしまった、あのときと同じだ。
「……母さん?」
「瀬理奈」
「どうしたの。何かあったの……?」
母さんは、俺の前まで来ると、無理やり笑顔をつくろうとした。
けれど、つくりきれなかった。
その目のふちが、見る間に、じわりと赤くなっていく。
「お話があるの……おうちに、帰ってから」
「うん」
「だいじょうぶよ。だいじょうぶだからね、瀬理奈」
だいじょうぶ、と母さんは、二度くり返した。
けれどもその「だいじょうぶ」は俺にではなく、母さん自身に言い聞かせているように聞こえる。
俺の胸の奥で、あれほど燃えていた火が、すうっと小さくしぼんでいった。
その日の帰りの車のなかは、いつになく静かだった。
膝の上には、初めての優勝メダルが、ひんやりと重く乗っている。
それなのに、誰も、その話をしようとはしなかった。
俺はただ、窓の外を流れていく冬の夕暮れを、ぼんやりと眺めていた。
家に帰り着いて、リビングのソファに腰を下ろすと、父さんが静かに口を開いた。
いつもおおらかなその顔が、今日は、ひどく強張っている。
「瀬理奈。よく聞いてくれ」
「……うん」
「大阪の、おばあちゃんのことなんだ」
おばあちゃん、という言葉に俺の心臓がひときわ大きく跳ねた。
やっぱりそうだった。
俺の耳が拾ってしまった嫌な予感は、当たってしまったのだ。
「大叔母さんから、さっき電話があってね、おばあちゃんがこのごろ調子が悪いと、大叔母さんが病院に連れていってくれたんだそうだ」
「……病院」
「うん。それでね、瀬理奈。検査をしたら悪い病気が見つかった――見つかってしまったんだ」
悪い病気、一体それは何なのだろうか。
疑問に思う俺だったが、父さんはその先の言葉を、なかなか口にできずにいた。
それでもやがて、自分にも言い含ませるように、絞り出すように言った。
「ガンだ。それも、もうあまりよくない場所まで進んでいるらしい」
その言葉が、俺の胸に重く落ちてきた。
頭のなかが真っ白になる。
膝の上のメダルが、急にひどく冷たいものに思えた。
俺は、ついさっき、初めて優勝した。
大舞台への、いちばん大きな切符まで手にした。
それを誰よりも先に、おばあちゃんに届けたかった。
おばあちゃんに、もっとたくさんの晴れ姿を見せたかった。
そのために俺は、転ぶのも怖がらずに、ぜんぶを氷にぶつけたのだ。
楽しそうに舞う俺を見て、あの人に孝行して、一日でも長く生きてほしかったから。
――瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、なんぼでも長生きする。
別れ際に交わした、あの約束が、耳の奥でこだまする。
あの約束を、おばあちゃんは守ろうとしてくれていた。
それなのにその時間に、いま、はっきりと終わりの線が引かれようとしている。
俺は心細くなって、ぎゅっとメダルを握りしめた。
初めて手にした、優勝の証。
それは、こんなにも嬉しいはずのものなのに、冷たさにあふれていた。
リビングの窓の外で、冬の日が静かに暮れていく。
銀の天使は生まれて初めて、ノービスの大会のてっぺんに立った。
けれども同じ日に、大切な人の時間が刻一刻と減りはじめたことを知ってしまったのだった。