銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第三章 第六話 残された時間と選択

おばあちゃんの病気を知らされたその晩、橘の家からいつもの団欒の灯は消えていた。

リビングのソファに座ったまま、俺は膝の上のメダルをずっと握りしめていた。

初めての優勝の証だったはずのものは、もう温度を奪われてただの冷たい金属のかたまりになっている。

 

父さんは何度も電話で大叔母さんと話していた。

低い声で、ええ、ええ、と相づちを打つたびに、その背中がひとまわり小さくなっていく。

受話器を置いた父さんの顔からは、いつものおおらかさがすっかり削げ落ちていた。

 

「明日、いちばんの新幹線で、大阪へ行こうと思う」

「お父さん……お仕事は」

「こんなときに仕事も何もあるか。こういう時のための有給休暇だよ」

 

父さんがそう言いきると、母さんはそれ以上何も言わなかった。

ただ静かに立ち上がって、押し入れから旅行の鞄を引っぱり出してくる。

その手つきは、以前大阪へ行ったときよりもずっと忙しなく、焦りを帯びていた。

 

俺はその様子を、何も考えられずにぼんやりと眺めていた。

学校のことも、スケートのことも、もう頭からすっかり抜け落ちていた。

あったのはただ、おばあちゃんに残された時間が刻一刻と減っていくという、その一点だけだった。

 

 

翌朝、まだ夜も明けきらないうちに家を出た。

 

愛奈がいつものように車を回してくれていた。

明彦も、眠そうに目をこすりながら後ろの席にちょこんと座っている。

東京駅のホームは、平日の朝だというのにそれなりに人がいた。

お盆のときのようなむんとした熱気はもうどこにもない。

冷えきった冬の空気のなかを、俺たちは黙って新幹線の車体へと乗り込んでいった。

 

新幹線がゆっくりとホームを離れていく。

窓の外の景色が少しずつ後ろへと流れはじめる。

明彦が目を輝かせて眺めていた、あの同じ窓だった。

 

けれど今日は、誰ひとりとしてその景色を見てはいなかった。

 

俺は窓の外を流れていく冬枯れの田んぼを、見るとはなしに見ていた。

青々としていた田んぼが、今はすっかり茶色く枯れている。

半年も経たないうちに、世界はこんなにもその姿を変えてしまうのだ。

 

ふと、お盆のあの日のことが、頭をよぎった。

 

東京駅で、俺の好きだった駅弁が、製造を終了していたこと。

当たり前にそこにあると思っていたものは、本当は当たり前なんかじゃないということ。

あのとき胸をよぎった寒さが、いま、はっきりとした形になって、俺の前に立ちはだかっていた。

 

おばあちゃんがそこにいてくれることも、当たり前なんかじゃなかった。

あの駅弁と、おなじように。

俺が気づかないうちに、その時間は、静かに終わりへと近づいていたんだ。

 

「瀬理奈ちゃん」

 

通路をはさんだ隣の席から、愛奈がそっと声をかけてきた。

ほかのみんなは眠っているか、窓の外を見つめているかで、こちらには気づいていない。

 

「……愛奈さん」

「うん」

「瀬理奈、間に合うのかな」

 

愛奈は、すぐには答えなかった。

ただ、俺の頭に、そっと手のひらを乗せてくれる。

その手のひらの温かさだけが、冷えきった俺の胸に、じんわりと染みていった。

 

 

新大阪に着いても、蒸し暑さはもうどこにもなかった。

 

ホームに降り立つと、冷たい風が頬を撫でていく。

父さんを先頭に、俺たちは足早に、電車を乗り継いでいった。

向かう先はおばあちゃんの家ではなく、大叔母さんが教えてくれた病院だった。

 

大きな病院の白い廊下を、俺たちは歩いていった。

 

消毒液の、つんとしたにおい。

どこかで鳴りつづける、機械の電子音。

俺の鋭すぎる耳と鼻が、その「病院」の気配をいやでも拾い上げてしまう。

 

エレベーターで上の階に上がると、廊下の先に見覚えのある小柄な人影が立っていた。

 

大叔母さんだった。

 

前に会ったときは、おばあちゃんとよく似た顔で、からからと笑っていた人。

背筋もしゃんとして、足取りもしっかりしていた、あの大叔母さんだった。

それなのに今日のその顔は、ひと晩でいくつも歳をとったように疲れきって見えた。

 

「秀樹くん……よう来てくれたねぇ」

「叔母さん。ご連絡、ありがとうございました」

「ううん。こっちこそ急なことで、ほんまにすまんねぇ」

 

大叔母さんは父さんの顔を見るなり、ふっと泣きそうに顔をゆがめた。

それでもぐっとこらえて、俺たちのほうを見ると無理に笑顔をつくってみせる。

その笑顔が以前のおばあちゃんのそれとあまりにもよく似ていて、俺の胸はぎゅっと痛んだ。

 

「瀬理奈ちゃんも、明彦くんも、遠いとこようきたねぇ」

「……こんにちは、大叔母さま」

「姉ちゃんな、瀬理奈ちゃんが来るのをずぅっと待っとったんよ」

 

 

大叔母さんに案内されて、俺たちはその病室の前に立った。

 

引き戸の脇の札には、おばあちゃんの名前がぽつんと書かれている。

父さんがひとつ深く息を吸って、その戸をそっと横へ引いた。

からから、と乾いた音がして、白い部屋のなかが見えた。

 

ベッドの上に、おばあちゃんがいた。

 

——ああ。

 

その姿を見た瞬間、俺は危うく声を漏らしそうになった。

 

前に会ったときも、おばあちゃんはずいぶん小さくなっていた。

けれど今ベッドに横たわるその人は、あのときよりもさらにひとまわり小さくなっていた。

白い布団のなかで、その身体はまるで子供のように頼りなく見えた。

 

俺の耳が、勝手におばあちゃんの息づかいを拾い上げる。

さらに浅く、さらに速くなった、その呼吸を。

頼んでもいないのに、この鋭すぎる身体はまた「終わり」の気配を残酷に教えてくるのだった。

 

「母さん」

 

父さんが、ベッドの脇に立つと腰を落として、そっと声をかけた。

おばあちゃんの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

その目が父さんを捉えると、そこにかすかな光が灯った。

 

「……ああ、秀樹かいな。よう来たねぇ」

「うん。母さん、来たよ」

「こんな遠いとこまで来させて堪忍なぁ。忙しいやろうに」

 

おばあちゃんの声は、前会ったときよりもずっとかすれて細くなっていた。

それでもその口ぶりは相変わらずのんびりとしていて、湿っぽさなんてどこにもない。

こんなときでさえ、この人は息子の仕事の心配ばかりしているのだった。

 

「おばあちゃん」

「おや、瀬理奈ちゃんもおるんかいな……ふふ、また別嬪さんになったなあ」

「うん。瀬理奈も来たよ」

 

俺はベッドのそばへ寄って、布団から出たその手をそっと両手で握った。

骨と皮ばかりになったその手は、さらに細くそしてひんやりと冷たかった。

それでも俺の手を握り返してくる力には、まだちゃんと、おばあちゃんの温もりが残っていた。

 

 

おばあちゃんと、ひとしきり言葉を交わしたあと。

大叔母さんが、父さんと母さん、それから愛奈を、そっと廊下のほうへ手招きした。

 

詳しい話は、子供たちの耳に入れたくないのだろう。

大人たちは病室の戸を半分ほど閉めて、廊下の隅でぼそぼそと話しはじめた。

俺はおばあちゃんのそばに残ったまま、その背中をじっと見ていた。

 

けれど――俺のこの耳はそんな大人の気づかいなんて軽々と飛び越えてしまう。

 

潜めたつもりの声も廊下の足音も、すべてが勝手に流れ込んでくる。

聞きたくないと思っても、この鋭すぎる身体は容赦なくそれを拾い上げる。

俺は聞こえないふりをしながら、その残酷な言葉をひとつ残らず聞いてしまった。

 

「先生はな……もう手の施しようがない、いう話やねん」

「そんな……何かできる治療は」

「やれることは、やってもろたんよ。けど見つかったときにはもうあちこちに回ってしもうてて」

 

大叔母さんの声が、廊下の壁に低く沈んでいく。

母さんが口元を手で押さえる気配がした。

父さんは何も言えずに、ただ立ち尽くしているようだった。

 

「あと、どれくらいなんですか」

 

愛奈の声だった。

こんなときにこそまっすぐに核心を訊くのは、いつだってこの人だ。

湿っぽくならないその問いが、かえって事の重さを際立たせた。

 

「……年は越せるやろう、いう話やけどな」

「……」

「春まではどうやろうなって、いうて。先生は、はっきりとは言わへんかった」

 

春まではどうだろう。

 

その言葉が俺の耳の奥でつめたく反響した。

あと数か月。

おばあちゃんに残された時間はたったそれだけしかないというのだ。

 

俺は握ったままのおばあちゃんの手を、更にぎゅっと握りしめた。

 

去年の夏に交わしたあの約束が、頭のなかをぐるぐると回っていた。

瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、なんぼでも長生きする。

おばあちゃんは、たしかにそう言って笑ってくれたのだ。

 

それなのに。

その「なんぼでも」に、いまはっきりと終わりの線が引かれようとしている。

俺がどれだけ晴れ姿を見せたところで、その線はもう動かせないのだ。

 

やがて大人たちが、病室へと戻ってきた。

 

廊下での話し声を、聞いていなかったふりをするのはたやすいことだった。

けれど俺の胸のなかでは、もう、ある一つの考えがふくらみきっていた。

それは止めようと思っても、止められないほどの大きさになっていた。

 

俺はおばあちゃんの手を握ったまま、ぽつりと口を開いた。

 

「……ねえ、おばあちゃん」

「ん、なんやの。瀬理奈ちゃん」

「瀬理奈ね。これからずっと、おばあちゃんのそばにいる」

 

その言葉に、ベッドのまわりの空気がふっと止まった。

父さんも、母さんも、愛奈も、おどろいた顔で俺を見る。

けれど俺は構わずに、胸のなかのものを、ぜんぶ吐き出した。

 

「スケートも、ピアノも、習い事も、おやすみする」

「瀬理奈ちゃん……」

「全日本ジュニアも出ない。瀬理奈、おばあちゃんのおせわするから」

 

俺は本気だった。

 

学校も、スケートも、ピアノも、習い事も、せっかく招かれた全日本ジュニアさえも。

おばあちゃんの残りの時間の前では、なんの値打ちもないように思えた。

俺はもう一度、おなじ後悔を繰り返したくなかったのだ。

 

前世で俺は、このおばあちゃんに何ひとつしてやれなかった。

仕事を言い訳にして、大阪へ来ることもなく電話も早々に切ってしまった。

そうしているうちに俺のほうが先に逝って、孝行する時間はぷつりと断ち切られた。

 

その後悔を、俺は二度目の人生でようやく取り返せると思ったのだ。

だったらいまこの時間を、おばあちゃんのためにぜんぶ使いたい。

氷の上で舞うことよりも、この手で肩を叩いてやることのほうが、大事に決まっている。

 

「だからね。瀬理奈はおばあちゃんのそばに、ずっといる」

 

俺がそう言いきると、母さんが「瀬理奈」と声をつまらせた。

父さんも、何かを言いかけてその言葉を飲み込んだ。

誰もがその決意を、どう受け止めればいいのか分からずにいた。

 

けれど――

 

おばあちゃんだけはちがった。

 

しばらく俺の顔を見つめたあと、おばあちゃんはふっとやわらかく笑った。

そして握られた手を、こんどは逆にぎゅっと握り返してくる。

その目には涙ではなく、おだやかな光が宿っていた。

 

「瀬理奈ちゃん。あのなぁ」

「うん」

「それはあかんよ」

 

あかん。

 

その一言は、やさしかったけれどはっきりとしていた。

俺は、思わずおばあちゃんの顔を見返した。

褒めてもらえるとも思っていなかったが、断られるとも思ってはいなかったのだ。

 

「どうして……? 瀬理奈、おばあちゃんのお世話したいよ」

「うん。その気持ちはな、おばあちゃん、ほんまに、ほんまに嬉しいんよ」

「じゃあ、どうして」

「せやけどな。瀬理奈ちゃんの大事なもん、ぜんぶ捨てさせるわけにはいかんのよ」

 

おばあちゃんはゆっくりと続けた。

 

「瀬理奈ちゃんは、スケート好きやろ」

「……うん」

「いっぱい頑張って、大きな大会に呼んでもろたんやろ?」

 

俺は、こくりとうなずいた。

全日本ジュニアの封筒のことは、まだ電話で伝えてすらいなかった。

それなのにおばあちゃんは、まるで全部分かっているような顔をしていた。

 

「あんなぁ、瀬理奈ちゃん。おばあちゃんはな」

「うん」

「瀬理奈ちゃんが氷の上で楽しそうに舞うとこが、いっとう一番好きなんよ」

 

楽しそうに舞うところが、いっとう一番好き。

 

その言葉は、去年の夏に聞いたあの言葉とまったく同じだった。

上手か下手かは分からへん。

けど、ずっと楽しそうにしとった。

それが、いっとう一番。

おばあちゃんは、いつだって俺にそう言ってくれるのだ。

 

「肩たたいてくれるんも、嬉しい。お世話してくれるんも、嬉しいわ」

「うん」

「けどな。おばあちゃんがいっとう見たいのは、それとちがうんよ」

 

おばあちゃんは、そこでひとつ大きく息をついた。

その呼吸は、やっぱり浅くて、少しだけ苦しそうだった。

それでもその目だけは、まっすぐに俺のことを見つめていた。

 

「瀬理奈ちゃんの、晴れ姿が見たいんよ」

「……晴れ姿」

「そうや。いっとう大きな舞台で、いっとう楽しそうに舞う、瀬理奈ちゃんの姿がな」

 

「おばあちゃんな、もうそんなに長ないこと、ちゃあんと分かってんねん」

「……っ」

「せやからこそ最後に、瀬理奈ちゃんのいっとう綺麗な晴れ姿、この目で見せてぇんよ」

 

最後に。

 

その一言に、俺の喉の奥が、ぐっと詰まった。

おばあちゃんはぜんぶ分かっていた。

分かったうえで残された時間の使いみちを、自分で選ぼうとしているのだ。

 

「でも……でも、瀬理奈は」

「うん」

「瀬理奈は、おばあちゃんのそばに、いたいの」

 

俺の声は、元30だった男のものとしては、われながら情けないくらいに震えていた。

 

そばにいたい。

ほんとうに、ただ、それだけだった。

氷の上で舞うことより、この人の隣で最後の時間を過ごしたかったのだ。

 

おばあちゃんは、そんな俺の頭を骨ばった手でそっと撫でてくれた。

以前とおなじ、あのひんやりとした、それでいてあたたかい手のひらだった。

 

「あのな、瀬理奈ちゃん」

「うん」

「そばにおってくれるより、なんぼも嬉しいことがあるんよ」

 

「瀬理奈ちゃんが、いっとう大きな舞台できらきら舞うてくれたらな」

「うん」

「おばあちゃんはそれを見てな。ああ、うちの孫は、なんてええ子なんやろて、胸張って逝けるやろ」

 

胸張って、逝ける。

 

おばあちゃんはそんな縁起でもないことを、まるで楽しい話みたいにからからと笑って言った。

湿っぽさなんてかけらもなかった。

だからこそその言葉は、俺の胸をいっそう深くえぐっていった。

 

「それがな、おばあちゃんにとっては、いっとうの孫孝行なんよ」

「……」

「肩たたきより、なんぼも、なんぼも、遠くまで届くやろ?」

 

肩たたきより、遠くまで届く。

 

——ああ。

 

俺は、思わず目を見開いた。

それは昨年の夏の夜、布団のなかで俺自身が気づいたことと、寸分たがわず同じだった。

 

肩を叩くだけが、孝行じゃない。

そばにいて世話を焼くことだけが、孝行じゃない。

おばあちゃんがいちばん喜ぶのは、結局、俺が楽しそうにしている姿なのだ。

 

俺は、あの夜たしかにそう誓ったはずだった。

氷の上で楽しく舞う俺を、おばあちゃんに見せてやるのだと。

それなのに、いざこのときになって、俺はその誓いを自分から手放そうとしていたのだ。

 

「……うん」

「分かってくれたか、瀬理奈ちゃん」

「うん。瀬理奈、出るよ。全日本ジュニアにちゃんと出る」

 

俺がそう言うと、おばあちゃんの顔がぱっと花が咲いたように明るくなった。

 

「ほんまか。ああ、よかった」

「うん。おばあちゃんに、いっとう綺麗な晴れ姿を見せてあげる」

「約束やで。おばあちゃん、テレビの前で、首を長ぁして待っとるさかいな」

 

約束やで。

 

去年にも、俺たちは、おなじ約束を交わした。

あのときは、生きる理由を一つでも多く渡したくて、俺がこの約束をねだったのだ。

今度はおばあちゃんのほうから、最後の楽しみとしてこの約束を結んでくれていた。

 

俺は、こみあげてくるものを、ぐっとこらえた。

ここで泣いてしまっては、おばあちゃんを困らせるだけだ。

俺はせいいっぱい、いつもの子供みたいな笑顔をつくって、こくりとうなずいた。

 

ベッドのまわりで、父さんも母さんも、そっと目元をぬぐっていた。

愛奈だけがいつもの顔で、けれどどこか優しい目で俺を見ていた。

 

おばあちゃんは、ふと俺の顔を、もう一度じっと見つめた。

 

「……なあ、瀬理奈ちゃん」

「なあに?」

「あんたと話しとると、なんでやろねぇ。昔の大事な身内と話しとるみたいな、気ぃがするんよ」

 

俺の心臓が、とくん、と小さく跳ねた。

去年にもおばあちゃんは、おなじことを言った。

あと半歩、というところで、いつもその手は止まるのだ。

 

「ふふ。ええんよ、ええんよ。歳とると、いろんなもんがごっちゃになってなぁ」

 

おばあちゃんは、そう言って、自分で小さく首を振った。

俺は何も言わずに、ただその手を、もう一度ぎゅっと握り返した。

俺はいっとう綺麗な晴れ姿を見せるのだと、心のなかで誓い直した。

 

おばあちゃんと過ごせたのは、結局その日の夕方までだった。

 

全日本ジュニアの本番は、もう、すぐそこに迫っていた。

東京へ帰って、すぐにでも準備にかからなければとてもではないが間に合わない。

俺は後ろ髪を引かれる思いで、おばあちゃんの病室をあとにすることになった。

 

話し合いのすえ、母さんはしばらく大阪に残ることになった。

大叔母さんと二人でおばあちゃんの看病をするためだ。

父さんも仕事の都合をつけては、何度も大阪へ通うという。

 

そして俺と明彦は、愛奈に連れられて、ひと足先に東京へ帰ることになった。

 

「瀬理奈ちゃん。しばらく、うちで一緒に暮らしましょうね」

「……うん。愛奈さん、よろしくね」

「ええ。明彦も、お姉ちゃんと一緒で嬉しいわよね」

「うん! ぼくも、瀬理奈お姉ちゃんと一緒だとうれしい」

 

母さんが大阪にいるあいだ、俺の世話は、愛奈が引き受けてくれることになった。

学校への送り迎えも、リンクへの送り迎えも、ぜんぶこの人がやってくれるという。

俺はこうして、しばらくのあいだ、愛奈の元へと預けられることになったのだった。

 

病室を出るとき、俺はもう一度だけベッドのほうを振り返った。

 

おばあちゃんは、枕の上から小さく手を振ってくれていた。

骨ばったその手が、白い布団のうえでひらひらと頼りなく揺れている。

俺はその姿を、目に焼きつけるようにして大きく手を振り返した。

 

待っててね、おばあちゃん。

俺、いっとう綺麗な晴れ姿、見せに来るから。

だから、それまでは、ぜったいに――

 

そこから先は、口にするのも、心で思うのも、こわかった。

俺はその言葉を飲み込んで、ただぎゅっと唇を結んだ。

 

 

東京の、愛奈たちの部屋はあたたかかった。

 

明彦が寝てしまったあと、俺はなかなか寝つけずに起きていた。

台所で愛奈が、温かいお茶を二つ、れてくれていた。

ほかに誰もいないのを確かめて、俺はちょっとだけいつもの口調に戻る。

 

「……なあ、愛奈」

「なあに」

「俺さ。こんなことしてて、いいのかな」

 

俺は湯気の立つお茶を両手で包みながら、ぽつりとこぼした。

 

おばあちゃんは、いま、大阪のベッドの上にいる。

それなのに俺は、東京でのうのうとスケートの練習をしようとしている。

そばにいてやれないことが、どうしようもなく後ろめたかった。

 

「おばあちゃん、あんなに痩せちまって。息も苦しそうでさ」

「うん」

「俺がここで氷の上を舞ってるあいだに、もしものことがあったら――」

 

そこまで言って、俺は、言葉に詰まった。

愛奈は、すぐには何も言わなかった。

ただ向かいの椅子に腰を下ろして、まっすぐに俺の目を見た。

 

「お義祖母さまは、自分で選んだのよ」

「……」

「あなたのそばで看取られるより、あなたの晴れ姿を見て逝くことをね」

 

愛奈の言葉は、いつものようにまっすぐで、よけいな飾りがなかった。

 

「あなたが大阪のベッドの脇で、しょげた顔をしてたら」

「うん」

「お義祖母さまは、きっといちばん悲しむわ」

 

ぐうの音も出なかった。

そのとおりだった。

おばあちゃんが望んでいるのはめそめそした俺じゃない。きらきらと舞う俺なのだ。

 

「だからね、瀬理奈ちゃん」

「……うん」

「いまのあなたにできる、いちばんの孝行は、めいっぱい滑ることでしょう?」

 

めいっぱい、滑ること。

 

愛奈にそう言われて、俺はようやく顔を上げた。

そうだ、俺がやるべきことは、もうはっきりしている。

くよくよ悩むくらいなら、その分、氷の上で一回でも多く跳んでやればいいのだ。

 

「……ありがとう、愛奈」

「お礼を言われることじゃないわ。当たり前のことを言っただけ」

「ふっ。愛奈は、ほんと変わらないな」

 

俺がそう言うと、愛奈はほんの少しだけ口の端をゆるめた。

前世のあの頃と何ひとつ変わらない、聡いこの人だった。

俺は温かいお茶をひと口すすって、ようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

けれど――

 

そのとき俺は、まだ気づいていなかった。

「めいっぱい滑る」というその決意が、いつのまにかおかしな方向へ走り出していたことに。

 

 

翌日から、俺はこれまで以上にリンクに入りびたるようになった。

 

愛奈に送ってもらって、ひたすら氷の上で過ごす。

全日本ジュニアまでのわずかな日々を、一秒だって無駄にはしたくなかった。

何しろこれは、おばあちゃんに見せる最後の晴れ姿になるかもしれないのだから。

 

「永田さん。瀬理奈、もっと難しいのを跳びたい」

「もっと難しいの?」

「うん。もっとすごいのを見せたいの。いちばんすごいのを」

 

俺は、永田さんに次々と無茶を願い出た。

 

これまで跳べていたジャンプの、さらに上。

回転をもう一つ増やす。組み合わせをもっと複雑にする。

おばあちゃんに見せるのなら、これまでのどんな滑りよりすごいものでなければ気が済まなかった。

 

俺は、跳んだ。

これまでなら絶対に手を出さなかった、無謀な高さと回転に。

着氷は当然のように乱れ、何度も何度も氷の上に叩きつけられた。

 

転ぶのは、もう怖くなかった。

九条さんが言ったように転んでもいい。

手を伸ばすと決めたなら転んでも構わない。

俺はそう自分に言い聞かせて、立ち上がってはまた無謀なジャンプに挑んだ。

 

けれど何度跳んでも、降りられないものは降りられなかった。

それどころか、跳べば跳ぶほど、着氷は荒れていく一方だった。

俺は、明らかに自分の限界のずっと向こう側を、力ずくでこじ開けようとしていた。

 

「瀬理奈ちゃん。ちょっと、おいで」

 

何度目かの転倒のあと、永田さんが、俺をリンクサイドへと呼んだ。

紺色のダウンの下のその顔は、いつもの笑い皺をひそめて、めずらしく真剣だった。

俺は氷から上がって、肩で大きく息をしながら、その前に立った。

 

「瀬理奈ちゃん。ひとつ訊いていいかな」

「なあに、永田さん」

「いまの瀬理奈ちゃんはね。あの日の瀬理奈ちゃんとはぜんぜん違うんだ」

 

あの日。

それは俺が初めて「宝物」を掴んだ、あの優勝の日のことだった。

 

「あの日の瀬理奈ちゃんは、確かに力をぜんぶ出しきっていた。でも歯を食いしばってなんかはいなかった」

「……」

「音に身をまかせて、ふわっと自由に舞っていたんだ」

 

永田さんの言葉が、俺の胸にちくりと刺さった。

 

「でも、いまの瀬理奈ちゃんは、ちがう」

「ちがう……?」

「うん。歯を食いしばって、無理やり自分の力をこじ開けようとしている」

 

無理やり、こじ開けようとしている。

そのとおりだった。

俺はいま降りられるはずもないジャンプを、力ずくでねじ伏せようとしていたのだ。

 

「いいかい、瀬理奈ちゃん」

「うん」

「自分の全部を出すことと、無理をすることはね。似ているようでぜんぜん違うことなんだよ」

 

全部を出すことと、無理をすること。

似ているようで、まるで違う。

 

それは――そうだ。

 

九条さんが言っていた「枷を外す」というのは、たぶんこういうことじゃなかった。

余分なブレーキを手放して、自分を自由にしてやること。

それが、枷を外すということ。

力みもしないものを力ずくで増やすのは、それとはまったくの別物だったのだ。

 

「瀬理奈ちゃんは、いま心がすごく急いでる」

「……」

「焦っているのはわかる、でもそれではダメなんだ」

 

永田さんにずばりと言い当てられて、俺はどきりとした。

 

焦っている。

そのとおりだった。

おばあちゃんに残された時間が短いと知ってから、俺の心はずっと急かされ続けていた。

 

「瀬理奈ちゃん。今日は、いつもの構成だけにしよう」

「……うん」

「無理に難しくしなくても、瀬理奈ちゃんの滑りは、もう十分にすごいんだから」

 

俺は、こくりとうなずいた。

永田さんにそう言われると、頭ではちゃんと分かるのだ。

無理をするのと力を出しきるのは、違う。

焦っても、いいことなんて何もない。

 

そう言い聞かせて、俺はもう一度、いつもの構成で滑ってみた。

永田さんに直されたとおりに、力みを抜いて、いつもの高さで跳んでみる。

すると着氷は、嘘のようにぴたりと決まった。

 

ほら、これでいいんだ。

頭では、ちゃんとそう分かっている。

それなのに――

 

俺の胸の奥は、ちっとも落ち着いてはくれなかった。

 

これでいいわけがない、と心のどこかが叫んでいた。

もっとすごいものを見せなければ。

おばあちゃんに向ける最後の晴れ姿が、こんなものでいいはずがない。

時間がないんだ、急がなければ、間に合わないんだ、と。

 

頭では分かっているのに、心がそれをどうしても追い越していく。

落ち着け、と自分に言い聞かせるほど、胸の奥はいっそうざわついていった。

俺は結局その焦りを、本番の日まで鎮めることができなかったのだ。

 

 

 

全日本ジュニアの当日は、雲ひとつない、凍てつくような冬晴れだった。

 

愛奈の運転する車で、俺は明彦と二人、その大きな会場へと向かった。

父さんと母さんは、大阪のおばあちゃんのそばにいる。

今日の俺の晴れ姿はテレビの画面を通して、あの病室へと届けられるはずだった。

 

会場に一歩、足を踏み入れて、俺は思わず息をのんだ。

 

これまで出てきたノービスの大会とは、何もかもの格がちがった。

天井はどこまでも高く、客席はぐるりと立派に組まれている。

リンクのまわりには、見たこともない大きなカメラが、何台も据えられていた。

 

——あのカメラの向こうに、おばあちゃんがいる。

 

そう思うと、俺の心臓はまた少しだけ、速く打ちはじめた。

このリンクで舞う俺の姿が、まさに大阪のあの病室へと流れていくのだ。

だからこそ俺はいっとう綺麗な晴れ姿を、見せなければならなかった。

 

控えのスペースには、選手たちが思い思いに身体をほぐしていた。

 

どの子も、俺より頭ふたつぶんは背が高い。

中学生か、もしかしたら高校生くらいの、すらりとしたお姉さんたちばかりだ。

七歳の俺はそのなかでただひとり、まるで迷い込んだ子供のように浮いていた。

 

ノービスでさえ、俺はいちばん小さな新入りだった。

ジュニアともなれば、その差はいよいよ大きい。

それでも俺はぎゅっと拳を握って、その場違いな空気に抗うように必死に背筋を伸ばした。

 

「瀬理奈ちゃん。緊張してるかい」

「……うん。ちょっとだけ」

「だいじょうぶだよ、瀬理奈ちゃんの本来の力ならいいところまでいける」

 

リンクサイドで、永田さんがいつもの笑い皺を浮かべてくれた。

紺色のダウンのその人がそばにいてくれるだけで、いつもなら胸は落ち着くはずだった。

それなのに今日は、その言葉さえ俺の焦りを、ちっとも鎮めてはくれなかった。

 

いつもどおりで、いいわけがない。

これは、おばあちゃんに見せる、最後の晴れ姿かもしれないのだ。

いつもどおりの滑りで、終わってしまっていいはずがなかった。

 

 

「続いて、橘瀬理奈選手」

 

名前が呼ばれて、俺はリンクの中央へとすべり出た。

青白い照明の下で、銀色の髪がきらりと光る。

ぐるりを取り囲む客席から、ほうっとどよめきが起こるのが分かった。

 

あんなに小さい子が。

ほんとうに、ジュニアに出るの。

そんなささやきが、俺の鋭い耳には、いやでも届いてしまう。

 

俺はリンクの真ん中で、開始のポーズをとった。

そしてすうっと深く、息を吸い込む。

いつものように、世界から音と質量を、引き剥がそうとした。

 

——けれど。

 

今日だけは、その世界が、いつまでも静かになってくれなかった。

 

観客のざわめきも、カメラの存在も、判定員の視線も。

いつもなら冷たい空気のなかへ吸い込まれていくはずのそれらが、今日はちっとも消えてくれない。

俺の胸の奥が、あまりにも、うるさく鳴り続けていたからだった。

 

おばあちゃんが見ている。

すごいのを見せなきゃ。

最後の晴れ姿なんだ。

失敗なんて、できるはずがない。

落ち着け、と念じれば念じるほど、その声はいっそう大きくなっていく。

 

聞き慣れた曲が、リンクに流れ出した。

家のピアノで、何度も弾いてきた、あの曲だ。

いつもなら、その音にのって、俺の身体はするすると動きはじめる。

 

それなのに今日は、その音がちっとも、俺のなかへ入ってこなかった。

 

委ねよう、と思った。

あの優勝の日のように、手綱を放して、音に身をまかせよう、と。

けれども握りしめた手綱は、どうやってもほどけてくれなかった。

 

委ねるどころか、俺はむしろ、いつも以上にぎゅうっと自分を握りしめていた。

うまく舞わなきゃ。

すごく見せなきゃ。

失敗しちゃだめだ。

その焦りが俺の身体をこちこちに固くしていった。

 

そうして、最初のジャンプの構えに、入った。

 

いつもの俺なら、ここで力みを抜いて跳ぶ。

永田さんにも、練習したとおりでいい、と言われていた。

それなのに――踏み切る、その一瞬。

 

おばあちゃんに、もっとすごいのを。

 

その思いが、ふっと、俺の身体を突き上げた。

俺は決めていたよりも、ほんの少しだけ強く氷を蹴ってしまった。

永田さんに止められたはずの「無理」が、最後の最後で顔を出したのだ。

 

身体が、宙に舞い上がる。

けれどそれは、いつものような自由な浮遊では、まるでなかった。

力みでこわばった身体は、回りきる前にぐらりと大きく傾いていた。

 

——あ。

 

そう思ったときには、もう遅かった。

 

俺の身体は氷の上へと、したたかに叩きつけられた。

ばちん、という鈍い音が、しんとした会場に、いやというほど大きく響く。

転んだ衝撃よりも、その音の大きさのほうが、俺の胸をぐさりと刺した。

 

会場が息をのむのが、分かった。

 

銀の天使が、転んだ。

そんなどよめきが、客席のあちこちから、さざ波のように広がっていく。

そしてそのざわめきは、いまこの瞬間テレビを通して、大阪のあの病室へも届いているはずだった。

 

俺は慌てて氷の上に手をつき、立ち上がった。

痛みなんて、ほとんど感じなかった。

ただ頭のなかが真っ白になって、それからいっそうの焦りでぐちゃぐちゃになっていく。

 

取り返さなきゃ、ここからでも、なんとか取り返さなきゃ。

けれどそう思えば思うほど、俺の身体はますます言うことを聞かなくなっていった。

立ち上がった直後の俺の動きはぎこちなかった。

このままでは、残りもぜんぶ、崩れ落ちていくだけだった。

 

――いや、待て。

 

そのとき、頭のどこか冷えた場所が、ふっと声を上げた。

焦りでばらばらになりかけていた俺が、その一言ですっと我に返る。

俺はリンクの真ん中で、無理やりにでも深く息を吸い込んだ。

 

ここで崩れたら、フリーはない。

おばあちゃんに見せると約束した、いちばんの滑り。

それを届ける場所まで、俺はまだ一歩も辿り着けていないのだ。

 

転んだことは、もう取り返せない。

それならせめてここから先を、一つも落とさずに滑りきってやる、もうそれしかない。

俺は焦りでぐらつく自分を、両手でぐっと掴み直した。

 

委ねることは、できなかった。

あの「宝物」を呼ぶための、力をぜんぶ放り出すあの感覚。

焦りで手綱を握りしめた俺には、それが訪れなかった。

 

でも、いまはそれでよかった。

焦りで狂った今の俺の時計に必要なのは、化けることなんかじゃない。

転ばないこと、落とさないこと――そちら側の判断だった。

 

俺は、九条さんに捨てろと言われたはずの「ブレーキ」を、今ばかりは踏み直した。

力の八割――いや、今なら九割五分くらいまで調整できる出力へ。

「橘隆志」みたいに、限界近くの、でも制御できる段階まで、ていねいに選んで滑っていく。

 

残りのジャンプは、無理も無茶もしない。

絶対に転ばない程度で制御し、一つ、また一つと、ぴたりと氷へ降ろしていった。

自分の力の内側で、一つ一つを確実に収めていく。

それでもそれは、ぼろぼろのまま投げ出すより、ずっとましな滑りだった。

 

そうして俺は、どうにかこうにか最後まで滑りきった。

 

最後のスピンを止めて、決めのポーズをとる。

息は、めちゃくちゃに切れていた。

けれどそれは出しきった証なんかではなく、ただ必死に喰らいついた証だった。

 

転んだ。けれど、そこで止まりはしなかった。

ぐらつく自分を掴み直して、最後まで滑り切った。

それだけが、せめてもの――明日のフリーへと、かろうじてつながる、たった一つの救いだった。

 

リンクを上がると、永田さんが何も言わずに、俺を迎えてくれた。

その手が、俺の頭を、いつものようにそっと撫でる。

いつものような誇らしさは、たしかにそこにはなかった。

それでもその手のひらには、よく持ちこたえたな、とでも言いたげな別のあたたかさがあった。

 

やがて、得点が電光掲示板に映し出された。

 

その数字を見て、俺はぐっと唇を噛んだ。

枷を外してあの優勝をもぎ取った、あの日の俺――その俺の点数からは低い数字だった。

それでも――その数字は、かろうじて予選を通過する位置に、俺の名前を残してくれていた。

前半で落としたぶんを、後半で踏みとどまったぶんが、ぎりぎりで補ってくれたのだ。

 

いちばんではない。

いつもの俺には、まるで届かない。

それでも俺は、明日のフリーへと、なんとか滑り込んだのだった。

 

七歳でジュニアに呼ばれた、銀の天使。

その鳴り物入りの晴れ舞台は、苦い転倒と、いつもに届かない点数で、その短い幕を閉じた。

 

俺は、控えのベンチに座り込んでしばらく動けずにいた。

 

転倒した身体が、じんじんと痛みはじめていた。

けれどそんな痛みよりも、ずっと、ずっと痛いものが胸の奥にあった。

 

最後の晴れ姿。

おばあちゃんに見せると、あんなに固く約束した、いっとう綺麗な晴れ姿。

それなのに、俺がテレビの向こうのあの人に見せたのは――無様に転ぶこんな姿だったのだ。

 

おばあちゃんは、いまどんな顔でこれを見ているだろう。

 

がっかりしているだろうか。

それとも痩せた身体で、画面の前で心配して泣いているだろうか。

そう思うと、俺はいてもたってもいられなくなった。

 

「……瀬理奈お姉ちゃん」

 

明彦が心配そうに、俺の顔をのぞき込んでいた。

栗色の髪の下の、その大きな瞳が今にも泣き出しそうに潤んでいる。

俺はいつものように笑ってやることさえ、できなかった。

 

七歳の銀の天使は、いちばん大きな舞台でいちばんみじめに転んだ。

そしておばあちゃんに約束した、いっとう綺麗な晴れ姿は、いまだ見せられないままだった。

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