銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
それはとある夏の日の事やった。
路地の角を曲がっていく小さな銀色の頭が、見えなくなるまで手ぇ振っとった。
瀬理奈ちゃんたちを見送ったあともわたしはしばらく、門の前から動かれへんかった。
夏の日ぃはまだ高うて、蝉の声が頭の上から降ってくる。
それやのに胸の真ん中だけが、ぽかぽかとお風呂上がりみたいにあったかかった。
「姉ちゃん。いつまで突っ立っとるん。日射病になってまうで」
「ええやないの。もうちょっとだけ」
「やれやれ。ほんま、孫に骨抜きにされてからに」
隣で妹が、呆れたように笑うた。
そやけどその目ぇも、ちゃんと路地の角のほうを見たままやった。
姉妹そろって、骨抜きにされとるんはおんなじことや。
瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、なんぼでも長生きするわ。
別れ際にわたしは、あの子にそう約束してしもうた。
口から出たあとで、えらいこと言うてもうたなぁと自分でびっくりした。
この歳になって「長生きする」やなんて、そんな大それた約束をする日が来るとは思わへんかったからや。
そやけど不思議なもんで、その約束は重とうなかった。
むしろ胸の奥に、ぽっと小さい灯りがともったみたいやった。
夏休みの宿題をもろた子供みたいに、わたしはなんや、そわそわと嬉しかったんよ。
「なあ、あんた」
「なんやの、姉ちゃん」
「わたし、明日から朝の散歩するわ。あんたも付き合い」
「……はあ? あんた、こないだまで膝痛い言うて、座布団から立つのも難儀しとったやないの」
「せやから歩くんやがな。約束してもうたんよ、瀬理奈ちゃんと」
妹はしばらくぽかんとしとったけど、やがて吹き出すみたいに笑うた。
「なんやの、それ。ほな明日の朝、六時に迎えに来たるわ」
「六時は早すぎるわ。六時半にしとき」
「言うとるそばから、もう値切っとるで」
そんなふうにして、わたしの「長生きの稽古」が始まった。
朝は妹と二人、商店街の手前の川べりをゆっくり歩く。
最初のうちは電信柱三本ぶんで息が切れて、妹に背中をさすってもろた。
それでもひと月もすると、橋のたもとまで休まんと歩けるようになった。
ごはんも変えた。
塩辛い漬けもんを減らして、お医者さんに言われたとおりお野菜と魚を増やした。
夜更かしのテレビもやめて、薬もさぼらんと、ちゃんと飲むようにした。
「姉ちゃん。あんたこの頃、顔色ええなぁ」
「そうやろぉ、約束やからな」
「はいはい。瀬理奈ちゃんさまさまやわ」
お茶飲み仲間の友達らにも、えらい言われたもんよ。
あんた急に若返ったんちゃうか、ええお薬でも飲んどるんか、て。
そのたびにわたしは、ふふんと鼻を高うして答えたった。
「うちの孫がな、東京で待っとるんよ」
ほんで、その秋のことや。
瀬理奈ちゃんが、またテレビに出ることになった。
今度はピアノだけやのうて、スケートも映るんやて。
電話でそれを聞いた日から、わたしはもうそわそわして夜も寝られへんかった。
放送の日、うちの茶の間には妹と、他にもお茶飲み仲間が三人も集まった。
座布団を並べて、おかきを出して、まるで小さい映画館や。
テレビの前のいちばんええ席は、もちろんわたしの指定席やった。
「ほら、始まるで。静かにしぃ」
「姉ちゃんがいちばんやかましいわ」
画面に、銀色の髪の小さい子が映った瞬間。
茶の間じゅうから、わぁ、と声が上がった。
「これかいな、あんたとこのお孫さん!」
「まあまあ、別嬪さんやこと。お人形さんみたいやわぁ」
「そうやろそうやろぉ、うちの瀬理奈ちゃんやで」
画面の中の瀬理奈ちゃんは、ピアノの前でにこにこ笑うて、それはそれは楽しそうに弾いとった。
それから氷の上で、ひらひらの服を着て、お山に積もる雪みたいにきれいに舞うた。
じょうずか下手かは、わたしにはやっぱりようわからへん。
そやけどあの子は最初から最後まで、ずぅっと楽しそうやった。
それがわたしには、いっとう一番やった。
「……姉ちゃん。あんた、また泣いとる」
「泣いてへんわ。目ぇにゴミ入っただけや」
「はいはい。ほら、お茶」
放送が終わってすぐ、わたしは東京へ電話をかけた。
受話器の向こうの瀬理奈ちゃんの声は、鈴を転がすみたいに弾んどった。
おばあちゃん見てくれたん、瀬理奈がんばったよ、て。
ずっと元気でいてね、瀬理奈の姿を見ててね。
あの子はまた、そう言うてくれた。
ほんで、わたしも約束を繰り返す。
晴れ姿を見るまではなんぼでも長生きするって、約束したやろ、て。
電話を切ったあと、わたしは仏壇の前にちょこんと座った。
おじいさんの写真の横に、若いまんまの隆志の写真が並んどる。
わたしはその写真に向かって、今日もひとしきり自慢話をした。
「なあ、隆志ぃ。見たかいな今の。瀬理奈ちゃんなぁ、テレビでまた、あないに立派にやっとったで」
仏壇のお鈴を鳴らすより先に、口のほうが勝手に動いてまう。
ばあさんの自慢話は、生きとる相手だけでは足りんのよ。
「あんたにも、見せたかったわぁ……ほんまに、なぁ」
写真の中の隆志は、ちょっと困ったみたいな顔で笑うとるだけや。
この子は昔から、写真になると決まってこんな顔をする子やったなぁ。
わたしはその顔をしばらく眺めてから、おりんを鳴らして手ぇを合わせた。
年が明けても、わたしの「長生きの稽古」は続いた。
東京からは、ようけ電話がかかってくるようになった。
バッジテストやらいうもんに受かったとか、試合に出られる切符をもろたとか。
聞いても半分もわからへんのやけど、瀬理奈ちゃんの声が弾んどるのだけはようわかった。
佳代子さんは、まめな人でなぁ。
瀬理奈ちゃんの映っとる映像を、わざわざ円盤に焼いて送ってくれるんよ。
わたしはそれを妹と二人、お茶を淹れては何べんも何べんも観た。
「姉ちゃん。それ、もう五へん目やで」
「ええやないの。何べん観ても、ええもんはええんや」
「はいはい。ほな、うちもお相伴しよか」
春の検診では、お医者さんに褒められた。
数字がえろう良うなっとる、この調子なら百まで生きはるかもしれませんなぁ、て。
わたしは診察室で、思わず胸を張ったもんよ。
「先生。わたしな、今は死なれへん理由があるんですわ」
「ほうほう。それはまた、どんな理由ですか」
「孫との約束ですねん。これがまあ、極上の薬でしてなぁ」
お医者さんは、声を上げて笑うてはった。
そんな薬はうちでは出せませんわ、大事になさい、て。
言われんでも大事にするに決まっとる。
ほんで、また秋になって、瀬理奈ちゃんが初めての試合に出た。
その晩の電話で、あの子は三位やったと教えてくれた。
七つの子が表彰台に立ったんやで、わたしはもう、受話器を握ったまま飛び上がりそうやった。
「ほんまにすごいわ。近所中にまた自慢してまわらなあかんなぁ」
「えへへ。でもね、おばあちゃん」
「ん、どないしたん?」
「瀬理奈ね。次はいちばんになりたいの」
「ほう。いちばんに、なぁ」
「うん。おばあちゃんにもっとすごいの、見せてあげたいから」
その言葉が嬉しゅうて、そしてほんの少しだけ、くすぐったかった。
わたしのために、いちばんになりたいやなんて。
そやからわたしは、いつもの言葉をゆっくり言うて聞かせた。
「でもな、瀬理奈ちゃんが楽しそうにしとるのが、おばあちゃんはいっとう一番なんよ」
電話を切って、仏壇の隆志に報告して、布団に入る。
明日も六時半から散歩や。
瀬理奈ちゃんの「いちばん」を見るまでは、風邪ひとつ引いとられへんのやから。
——そう思うとった矢先のことやった。
その頃からどうにもこうにも、ごはんが喉を通らんようになった。
好物の炊き込みごはんを、茶碗に半分も食べられへん。
背中の奥のほうが、夜になるとしくしくと重とう痛む。
体重を量ったら、ひと月で着物ひとつぶんほども軽うなっとった。
歳のせいや、とわたしは思うことにした。
夏の疲れが出ただけや、稽古もしとるんやから大丈夫や、て。
約束があるんやもの、わたしの身体が、そない簡単にへたばるはずがないんや。
そやけど、妹の目ぇだけは、ごまかされへんかった。
妹は、わたしがごはんを残すたびに、黙ってこっちを見るようになった。
何も言わへんのが、かえって怖いもんや。
ある朝とうとう、川べりの散歩の途中でわたしは足が止まってしもうた。
電信柱三本ぶんも歩かんうちに、息が切れてしもうたんよ。
「……姉ちゃん」
「なんやの。ちょっと休んだら、すぐ歩けるわ」
「あかん。もう決めた。明日、大きい病院行くで」
「大げさやなぁ。夏の疲れが出ただけや」
「夏はとっくに終わっとるわ!」
妹があないに大きい声を出したんは、何十年ぶりやったやろか。
その目ぇが真っ赤になっとるのを見たら、わたしはもう何も言い返されへんかった。
次の日から、検査の毎日が始まった。
大きい機械の筒に入れられたり、何本も血ぃを採られたり。
病院いうとこは、どこへ行っても消毒のにおいがして、機械の音がぴこぴこ鳴っとる。
わたしは検査の合間の長椅子で、妹と二人、ぬるいお茶ばっかり飲んどった。
「なあ、あんた」
「なんやの」
「うちの冷蔵庫にな、炊いた小豆が入っとるんよ。早う帰らんと、悪うなってまうわ」
「……こんなときに、小豆の心配かいな」
「こんなときやから、小豆の心配しとるんやないの」
妹は笑おうとして、うまいこと笑えんと、下を向いてしもうた。
わたしかて、ほんまは分かっとった。
こんなにようけ検査をするいうことが、どういうことなんかくらい。
結果を聞く日、先生はわたしやのうて、まず家族の方をと言わはった。
「先生。本人を差しおいて、なんの相談ですの」
「いえ、その……」
「わたしの身体の話ですやろ。ほな、わたしがいちばん先に聞かんと筋が通りませんわ」
先生は困った顔で妹を見て、妹は黙ってうなずいた。
ほんで先生は、ひとつひとつ言葉を選びながら、ゆっくり話してくれはった。
ガンが、見つかりました。
それも見つかったときには、もうあちこちに回ってしもうてて。
手術で取れるような段階は、とうに過ぎとるんやそうや。
手の施しようがない、いうのはこういうときに使う言葉なんやなぁと、わたしは妙に静かな頭で聞いとった。
「……あと、どのくらいですやろか」
訊いたんは、わたしやのうて妹やった。
膝の上の手ぇが、白うなるほど握りしめられとる。
「年は、越せると思います。ただ、春までとなりますと……」
先生はそこから先を、はっきりとは言わはらへんかった。
言わへんことが、いちばんはっきりした答えやった。
帰りのタクシーの中で、妹はずっと窓の外を向いとった。
「なあ、あんた」
「……なんやの」
「泣くんやったら、家まで我慢しぃ。運転手さんが困らはるわ」
「泣いてへん……泣いてへんわ、あほ」
そう言うた声が、もうぐしゃぐしゃに濡れとった。
わたしはその丸い背中を、ぽんぽんと叩いたった。
妹のくせして、姉より先に泣くやなんて、順番が逆さまや。
不思議なもんでなぁ。
死ぬのが怖い、いう気持ちは、思うたほど湧いてこんかった。
おじいさんも向こうにおるし、隆志かて向こうにおる。
お墓の前で、いっつも言うとったとおりや。
そっち行くのも、そう遠ない、て。
それが少うし早まっただけのこと、そう思えば腹も据わるいうもんや。
——そやけど。
その晩、布団の中でわたしは、たったひとつのことだけが諦められへんかった。
約束や。
瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、なんぼでも長生きする。
わたしはあの子とそう約束したんや。
生きる理由をもろて、やっと身体まで言うこと聞くようになって、これからやっていうときなのに。
神さんも、いけずなことしはるわ。
「なあ、あんた。頼みがあるんやけどな」
次の日、病室に入る支度をしながら、わたしは妹に言うた。
「東京には、まだ言わんとってや」
「……なんでやの」
「瀬理奈ちゃんな、もうじき大事な試合があるんよ。いちばんになりたい、言うとった試合や」
「姉ちゃん」
「ばあさんの病気のことなんか聞いたら、あの子の氷が曇ってまうやろ。せやから試合が済むまでは——」
「あほんだら!」
妹に怒鳴られたんは、人生でこれが二へん目やった。
「秀樹くんらにも黙っとけて、あんたそれでも親かいな!」
「親やからこそや」
「ちゃうわ! 知らされへんかった側が、あとでどんだけ悔やむか……あんた、分からんのかいな」
妹はそう言うて、ぼろぼろ泣きながらわたしを睨んだ。
知らされへんかった側、いう言葉が、胸の奥にずんと刺さった。
ああ、この子は隆志のときのことを言うとるんやな、と分かったからや。
あの夜、東京からの電話で隆志の事故を知らされたとき。
わたしは知らんうちに孫を亡くしとった自分を、長いこと責めたもんやった。
妹はそれを、ずっとそばで見とったんや。
「……分かったわ。あんたの好きにしぃ」
「最初からそう言うとったらええんや」
妹はその日のうちに、東京の秀樹に電話をかけた。
廊下で話すその声を、わたしは病室のベッドの上で聞くともなしに聞いとった。
すまんなぁ、秀樹。すまんなぁ、瀬理奈ちゃん。
ほんでその晩のことや。
電話を切って戻ってきた妹が、なんや妙な顔をしとった。
泣き腫らした目ぇのまんま、口元だけがむずむずと笑おうとしとる。
「姉ちゃん。あんた、聞いて驚きや」
「なんやの、気色悪い」
「瀬理奈ちゃんな、今日、試合やったんやて」
「えっ……ほんで、ほんで、どないやったん」
「いちばんや。優勝しはったんやて」
いちばん。
その言葉を聞いた瞬間、わたしは病人やいうことも忘れて、ベッドの上で手ぇを叩いとった。
やりよった、やりよったわ、あの子。
次はいちばんになりたい言うた、その次で、ほんまにいちばんを獲ってしもた。
「それだけやないんよ、姉ちゃん。なんやえらい大きい大会に、特別に呼ばれたんやて」
「大きい大会……?」
「全日本の、ジュニアいうやつや。秀樹くんが言うとった。ほんまやったら、まだ出られる歳やないらしいわ」
全日本。
その響きの大きさに、わたしは思わず息を呑んだ。
日本でいちばんの子ぉらが集まる氷の上に、うちの瀬理奈ちゃんが立つんや。
それはきっと、あの子のこれまででいっとう大きい、いっとう綺麗な晴れ姿になる。
——見たい。
骨の髄から、そう思うた。
それを見るまでは死なれへん、死んでたまるかいな、と。
わたしは点滴の管に繋がれた腕で、布団をぎゅうっと握りしめとった。
次の日、東京から、みんなが来てくれた。
秀樹に、佳代子さんに、愛奈さん。
ほんで明彦くんと——瀬理奈ちゃん。
病室の戸が開いて、あの銀色の髪が見えた瞬間、わたしの胸はぱあっと明るうなった。
「……ああ、秀樹かいな。よう来たねぇ」
「うん。母さん、来たよ」
「こんな遠いとこまで来させて堪忍なぁ。忙しいやろうに」
瀬理奈ちゃんは、ベッドのそばに来て、わたしの手ぇをそっと両手で包んでくれた。
小さい、あったかい手ぇやった。
その手ぇの熱が、点滴のお薬よりよっぽど効く気がしたもんよ。
そのうち妹が、大人らを廊下へ連れて出ていった。
病気の細かい話を、子供らの耳に入れんためやろ。
病室にはわたしと、瀬理奈ちゃんと明彦くんだけが残った。
瀬理奈ちゃんはわたしの手ぇを握ったまま、なんや、じいっと考えこんどるみたいやった。
ほんで大人らが戻ってきたとき、あの子はぽつりと口を開いたんや。
「……ねえ、おばあちゃん」
「ん、なんやの。瀬理奈ちゃん」
「瀬理奈ね。これからずっと、おばあちゃんのそばにいる」
病室の空気が、ぴたりと止まった。
あの子は青い目ぇでわたしをまっすぐ見たまま、ひと息に続ける。
「スケートも、ピアノも、習い事も、おやすみする。全日本ジュニアも出ない。瀬理奈、おばあちゃんのおせわするから」
秀樹も佳代子さんも、愛奈さんも、みんな驚いた顔であの子を見とる。
スケートもピアノもやめて、ずっとそばにおる、て。
七つの子ぉが、たったいま自分の宝物をぜんぶ、わたしの枕元に積み上げよったんや。
嬉しかった。
嘘やない、胸が震えるほど嬉しかったんよ。
そやけどな、嬉しいのと、ええのとは別の話や。
わたしはあの子の手ぇを、ぎゅっと握り返した。
「瀬理奈ちゃん。あのなぁ」
「うん」
「それはあかんよ」
あの子は、ぱちりと目ぇを見開いた。
青い綺麗な目ぇが、なんでと言うように揺れとる。
「どうして……? 瀬理奈、おばあちゃんのお世話したいよ」
「うん。その気持ちはな、おばあちゃん、ほんまに、ほんまに嬉しいんよ」
「じゃあ、どうして」
「せやけどな。瀬理奈ちゃんの大事なもん、ぜんぶ捨てさせるわけにはいかんのよ」
ばあさんの残りの寿命と引き換えに、子供の宝物を取り上げる。
そんな罰当たりな話が、この世にあってたまるかいな。
それにな、わたしにはわたしの欲があるんや。
「瀬理奈ちゃんが氷の上で楽しそうに舞うとこが、いっとう一番好きなんよ。肩たたいてくれるんも、嬉しい。お世話してくれるんも、嬉しいわ」
あの子は、こくりと小さくうなずいた。
わたしはその手ぇを包んだまま、言葉を継ぐ。
「けどな。おばあちゃんがいっとう見たいのは、それとちがうんよ」
わたしはひとつ、大きい息を吸うた。
胸の奥がしくりと痛んだけど、そんなもんに構うとられへん。
「瀬理奈ちゃんの、晴れ姿が見たいんよ。そうや。いっとう大きな舞台で、いっとう楽しそうに舞う、瀬理奈ちゃんの姿がな」
あの子は小さく息を呑んで、わたしの顔を見つめ返した。
わたしはその青い目ぇを、まっすぐ見返して続けた。
「おばあちゃんな、もうそんなに長ないこと、ちゃあんと分かってんねん。せやからこそ最後に、瀬理奈ちゃんのいっとう綺麗な晴れ姿、この目で見せてぇんよ」
あの子の目ぇに、みるみる水の膜が張っていった。
「でも……でも、瀬理奈は」
「うん」
「瀬理奈は、おばあちゃんのそばに、いたいの」
その震えた声を聞いた瞬間、胸の奥で、なんや懐かしいもんがことりと鳴った。
ずっとずっと昔にも、こんな声を聞いた気がする。
誰やったやろ、いつのことやったやろ。
そやけどそれを手繰り寄せる前に、わたしはあの子の銀色の頭を撫でとった。
「あのな、瀬理奈ちゃん。そばにおってくれるより、なんぼも嬉しいことがあるんよ」
撫でる手ぇを止めんまま、わたしはゆっくり言うて聞かせる。
言葉のひとつひとつが、ちゃあんとあの子の胸に届くように。
「瀬理奈ちゃんが、いっとう大きな舞台できらきら舞うてくれたらな。おばあちゃんはそれを見てな。ああ、うちの孫は、なんてええ子なんやろて、胸張って逝けるやろ」
縁起でもない話やのに、われながら声は弾んどった。
ほんまのことやから、しゃあないんよ。
「それがな、おばあちゃんにとっては、いっとうの孫孝行なんよ。肩たたきより、なんぼも、なんぼも、遠くまで届くやろ?」
あの子は、はっと息を呑んで、わたしの顔を見つめた。
まるで自分の言葉を、誰かに返されたみたいな顔やった。
ほんで長い長い間のあとで、こくりとうなずいたんや。
「……うん。瀬理奈、出るよ。全日本ジュニアにちゃんと出る」
「ほんまか。ああ、よかった」
「うん。おばあちゃんに、いっとう綺麗な晴れ姿を見せてあげる」
「約束やで。おばあちゃん、テレビの前で、首を長ぁして待っとるさかいな」
あの子は、せいいっぱいのいつもの笑顔で、うなずいてくれた。
わたしはその顔をじいっと見つめて——ほんで、また、あれが来た。
「……なあ、瀬理奈ちゃん」
「なあに?」
「あんたと話しとると、なんでやろねぇ。昔の大事な身内と話しとるみたいな、気ぃがするんよ」
口に出してから、われながら、また変なことを言うてしもたと思うた。
「ふふ。ええんよ、ええんよ。歳とると、いろんなもんがごっちゃになってなぁ」
わたしは自分で首を振って、その妙な感じを胸の奥へ畳んでしもうた。
いつものことや。
半歩だけ進んで、半歩だけ戻る、いつものあれや。
みんなが帰ったあとの病室は、しんと静かやった。
佳代子さんが、看病のために大阪へ残ってくれた。
ありがたいことやと思いながら、わたしは夜中にひとり、目ぇが冴えてしもうた。
窓の外には、冬のお月さんが、ぽつんと白う浮かんどる。
わたしは布団の上で、そっと両手を合わせた。
「……なあ、隆志。聞こえとるか。おばあちゃんな、欲が出てしもうたわ」
返事なんぞ、あるはずもない。
それでも真夜中の静けさの中やと、なんや声が届く気がするんよ。
「ついこないだまで、そっち行くのもそう遠ない、なんて気楽に言うとったのになぁ。あと十日や。あと十日だけ、待っとってや」
わたしは合わせた手ぇに、ぎゅうっと力を込めた。
拝む相手は、孫ひとりでは足りんかった。
「神さんもや。仏さんも、おじいさんも、聞いとってや。瀬理奈ちゃんの晴れ姿を見るまでは、わたしをそっちへ連れて行かんとっておくれやす」
虫のええ頼みやいうことは、百も承知や。
それでも頼まんわけには、いかへんかった。
「見届けたらな、文句ひとつ言わんと、ちゃあんと逝きますさかい。せやから——もうちょっとだけ。なあ、隆志。あんたからも、頼んだってや」
月あかりの病室で、ばあさんがひとり、手ぇを合わせとる。
傍から見たら、さぞかし妙な絵やったやろなぁ。
そやけどわたしは大真面目に、死んだ孫と神さんに、命の借金を頼んどったんよ。
——ほんで、当日が来た。
その朝、わたしの身体は、わたしを裏切った。
息を吸うても吸うても、胸に空気が入ってこん。
背中の痛みが、夜のうちにずんと重うなって、熱も上がっとった。
お医者さんと看護婦さんがばたばたと出たり入ったりして、腕の管が一本増えた。
「お義母さん、お義母さん……!」
「……佳代子さん。そない、心配せんでええ」
「いま、東京に……愛奈さんに連絡を」
「あかん」
わたしは、佳代子さんの袖を掴んだ。
我ながらびっくりするくらい、強い力が出たもんや。
「瀬理奈ちゃんには、言わんとってや」
「でも……!」
「あの子はな、これから氷の上に立つんよ。ばあさんの病気のことなんか耳に入れたら、あの子の氷が曇ってまう」
息が切れて、声がうまいこと続かへんかった。
それでもわたしは、その袖を離さへんかった。
「演技が済むまでは、なんにも言わんとって。お願いや、佳代子さん」
佳代子さんは、唇を噛んで、ぽろぽろ泣きながらうなずいてくれた。
すまんなぁ、佳代子さん。
あんたにばっかり、つらい役を頼んでしもて。
「ほんでな。テレビ、点けとくれ」
「お義母さん、いまは身体を……」
「これを見るために生きとるんや。点けとくれ」
病室の小さいテレビに、大きい大きい氷の舞台が映った。
天井は高うて、お客さんがぎょうさん入っとって、まるでお祭りみたいや。
こんな立派なとこに、うちの瀬理奈ちゃんが立つんやなぁ。
わたしは枕を高うしてもろて、霞みそうになる目ぇを必死に開いとった。
ほんで——あの子が、出てきた。
照明の下で、銀色の髪がきらりと光る。
画面の向こうのお客さんが、ほうっとどよめくのが分かった。
そらそうやろ、あんな綺麗な子、世界中探したかておらへんもの。
「……瀬理奈ちゃん。おばあちゃん、ここにおるで。ちゃあんと、見とるさかいな」
音楽が、流れはじめた。
あの子が、すうっと氷の上を滑り出す。
わたしは合わせた両手に、ありったけの祈りを込めた。
ほんで最初のジャンプに、あの子の身体がふわりと浮いて——
落ちた。
ばちん、いう音が、テレビ越しでも聞こえた気がした。
銀色の小さい身体が、硬い氷の上に、したたかに叩きつけられた。
佳代子さんが、ひっ、と喉の奥で悲鳴を呑んだ。
「瀬理奈ちゃん……!」
痛いやろ。
冷たいやろ。
ああ、代われるもんなら、いますぐこの婆ぁが代わったるのに。
そやけど、あの子は。
あの子は転んだ次の瞬間にはもう、氷に手ぇをついて立ち上がっとった。
ほんで音楽を追いかけて、また滑り出したんや。
その顔がカメラに大映しになったとき——わたしの息は、止まった。
歯ぁを、食いしばっとった。
あの子が。
いっつもいっつも、お花が咲いたみたいに笑うて滑っとった、あの瀬理奈ちゃんが。
奥歯を噛みしめて、眉を寄せて、それでも前だけを見て滑っとる。
わたしは、その顔を知っとった。
——いつかの夏の、夕方やった。
家の前の路地で、小さい男の子が自転車の稽古をしとった。
何べん漕いでも、何べん漕いでも、がしゃんと倒れてまう。
膝も肘も擦りむいて、血ぃが滲んどるのに、その子は泣かへんかった。
泣くかわりに、歯ぁを食いしばって、また自転車を起こすんや。
もうやめとき、また明日にしぃ、てわたしが言うても聞きやせん。
もういっかい、もういっかいだけ、って。
日が暮れて路地が暗うなるまで、その子は転んでは立ち上がりを繰り返しとった。
——隆志や。
小さい頃の、隆志の顔や。
その瞬間、いままでばらばらやったもんが、音を立てて繋がっていった。
ビデオの中の笑い顔を見て、隆志にそっくりや、と思うたこと。
話しとると、昔の大事な身内と話しとるみたいな気ぃがしたこと。
血ぃも繋がらんばあさんに、まるで借りでも返すみたいに尽くしてくれたこと。
お墓の前で、小さい手ぇをいつまでも合わせて、こっそり涙を拭いとったこと。
ほんで——あの子の誕生日は、師走の二十一日。
隆志が逝った、あの日と、おんなじ日ぃ。
いままでわたしは、何べんもそこの手前まで行った。
ほんでそのたびに、そんなあほな話があるかいな、て自分で首を振って戻ってきた。
歳のせいや、ごっちゃになっとるだけや、て。
そやけど、もう、あかんかった。
理屈やない。
画面の中で歯ぁ食いしばって滑っとるあの子は、あの夏の路地の男の子と、おんなじ顔をしとる。
ばあちゃんいうもんはな、孫の顔だけは、何十年経っても見間違えへんのよ。
——隆志。
あんた、やったんやなぁ。
帰って、きとったんやなぁ。
涙が、あとからあとから溢れて止まらんかった。
ああ、せやから、なんやな。
せやからあの子は、あないに肩を叩いてくれたんやな。
せやからあの子は、ばあさんの退屈な昔話を、あないに嬉しそうに聞いてくれたんやな。
電話も寄越さんと先に逝ってしもたこと、あの子はずっと、悔やんどったんやな。
あほやなぁ、隆志。
そんなもん、孝行のうちに入らんでええのに。
あんたが生きて、生きてくれただけで、ばあちゃんは、じゅうぶんやったのに。
それをあんたは、二度目の生まで使うて、返しに来てくれたんかいな。
画面の中で、あの子はまだ滑っとった。
転んだあとのジャンプを、ひとつ、またひとつと、必死に氷の上へ降ろしていく。
楽しそうやとは、お世辞にも言われへん滑りやった。
そやけどそれは、わたしがこれまで見たなかで、いっとう胸に迫る滑りやった。
ええんよ、瀬理奈ちゃん。
転んでもええ。
いちばんやのうても、ええ。
あんたはもう、じゅうぶんすぎるくらい、ばあちゃんに晴れ姿を見せてくれたんやから。
演技が終わって、画面の中のあの子が、ちょこんとお辞儀をした。
それを見届けたところで、わたしの身体から、すうっと力が抜けていった。
ああ、あかんな、これは。
潮が引いていくみたいに、目ぇの前が少しずつ暗うなっていく。
「お義母さん!? お義母さん、しっかり……! いま先生を」
「……佳代子、さん」
わたしは、最後の力で、佳代子さんの手ぇを掴んだ。
言うとかなあかんことが、あるんや。
これだけは、言うとかなあかんのや。
「あの子に……伝えてや」
「お義母さん……?」
「……なあ、隆志」
佳代子さんの息が、ひゅっと止まったのが分かった。
見開いたその目ぇから、涙がひと粒、ぽろりと落ちる。
ええんよ、佳代子さん。あんたも、知っとったんやろ。
「あんた、ようけ……ようけ、孝行してくれたなぁ。肩も叩いてもろた。昔話も聞いてもろた。お墓にも、いっしょに参ってくれた」
ひと言しぼり出すたびに、息が切れた。
そやけど不思議と、言葉のほうはすらすらと出てきよる。
ずっとずっと前から、胸の奥に用意してあったみたいやった。
「前の分まで、お釣りが来るくらい返してもろたわ……おおきに。ほんまに、おおきにな」
わたしの手ぇを、佳代子さんが両手で包んでくれとる。
ぽろぽろ泣きながら、何べんも何べんも、うなずいてくれとる。
この人が瀬理奈ちゃんのおかあちゃんで、ほんまによかった。
「せやからな、隆志。もう、じゅうぶんや。これからはな……瀬理奈ちゃんは、瀬理奈ちゃんや」
自分の声が、だんだん遠くなっていくのが分かる。
それでもこれだけは、最後まで言い切らなあかんのや。
「瀬理奈ちゃんは、瀬理奈ちゃんとして、好きなように楽しんで生きてほしい。それがな……ばあちゃんの、いっとう一番の、願いなんやで」
佳代子さんが、何かを叫んどった。
そやけどその声はもう、ずいぶん遠くから聞こえた。
目ぇの前が、ゆっくりと、あったかい暗がりに包まれていく。
怖うはなかった。
暗がりの向こうでな、見えるんよ。
夕暮れの路地で、歯ぁ食いしばって自転車を起こす、小さい男の子。
大きい氷の上で、歯ぁ食いしばって立ち上がる、銀色の女の子。
ふたつの姿が、ひとつに重なって、ほんで、どっちも笑うた気がした。
ああ、ええ子や。
ほんまに、ほんまに、ええ子やわぁ。
だから——まだやで、神さん。
まだ、逝かへんで。
あの子の試合はな、明日も続きがあるんやそうや。
約束やからな。晴れ姿を見るまではなんぼでも、なんぼでも――おばあちゃんは――
そこで、わたしの意識は、深い深い眠りの底へと沈んでいった。