銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
朝の光が、薄いカーテン越しに俺の――いや、私の頬を撫でていく。
施設の窓ガラスは古くて、桟の塗装があちこちで剥がれ落ちている。
それでも、外気との隔たりを保つだけの仕事はちゃんとしてくれていた。
「せりなちゃーん、起きてる?」
ふすま越しに、職員のお姉さんの声がした。
俺は、声色だけでそれが誰かを判別する。
今日の早番は、佐々木さんだ。
週に三回、午前中だけ来てくれるパートタイマーで、年齢はたしか四十七歳。
昨夜の夕食前に、夫婦喧嘩をしたらしいことまで、夕方の挨拶の声色だけで分かってしまった。
「おはよぉございます」
俺は、少し舌足らずに、それでいて愛想よく聞こえるように声を返した。
三歳の女の子としては、これくらいが「ちょうどいい」のだと、この三年で学んでいる。
正直、自分でも気色悪いと思う時はある。
だが、可愛がられた方が暮らしやすいというのは、男だった頃の社会人経験で痛いほど分かっていた。
俺は布団から這い出して、寝間着のままぺたぺたと畳の上を歩く。
身長は九十センチちょい。
体重は、先週の月一健診で十三キロをわずかに越えたところ。
標準よりほんの少しだけ小ぶりな、銀髪碧眼の三歳児。
それが、今の俺の見た目の全容だった。
ここは「桐生学園」という名前の児童養護施設で、東京都の北の外れにある。
建物は元々が昭和の保育園で、それを大幅に改修して使っているらしい。
廊下を歩くと、所々で床板がきしむ。
そのきしみ方を聞き分けて、俺はもう、館内のどこに誰がいるかを把握できるようになっていた。
「せりなちゃん、今日はね、来客があるからね。お部屋、ちゃんと片付けようね」
佐々木さんが、ふすまを開けながら言った。
彼女の手には、子供用の歯ブラシと、コップが二つ。
ひとつは俺の、もうひとつは隣の部屋の、四歳の男の子の分だ。
「来客?」
俺は、首をかしげてみせた。
そうしたほうが、佐々木さんが説明してくれるからだ。
こちらから「面接ですか」と訊いたら、たぶん佐々木さんは一瞬固まってしまう。
三歳児は「面接」という単語を知っていてはいけない。
「お父さんお母さん候補のね、ご夫婦が、何組か来てくれるのよ」
「ふーん」
「せりなちゃんも、お行儀よくしてね」
「はぁい」
俺は、にこっと笑ってみせた。
里親候補の見学日。
俺の人生の中で、これはもう何度目になるか、自分でも数えるのをやめた回数だ。
施設での三年間で、俺は自分の体について、ずいぶんと多くのことを学んだ。
まず、体は明らかに「人並み外れている」。
歩き始めたのは生後八ヶ月。
走り始めたのは一歳の手前。
言葉も、こっそりと「俺の中身」が頭で組み立てているせいで、二歳の頃にはすでに五歳児並みの語彙を理解していた。
ただ、それを口に出すかどうかは、別問題だ。
出しすぎれば、「異常」として扱われる。
俺はそのことを、よく分かっていた。
そして、もうひとつ。
五感が、明らかにおかしい。
子供たちが寝静まった後の、隣の部屋の職員同士の世間話。
廊下の向こう、玄関先で交わされる宅配業者と園長のやり取り。
それらが、俺の耳には、まるで自分の隣で話されているかのように、はっきりと届く。
目も同じだ。
夜、消灯後の真っ暗な部屋の中で、天井の木目までくっきりと見える。
匂いに至っては、給食のおばさんが今日は新しい柔軟剤に変えたのか、そういうことまで分かってしまう。
最後のは、知りたくなかった。
本当に、知りたくなかった。
要するに、俺の体は、人間の限界レベルのスペックを、外見が三歳児という器に詰め込んだ、なんとも収まりの悪い代物だった。
神様か誰かが、転生のついでにオプションサービスでもつけたつもりなのか。
だとしたら、もう少し別の方向に振ってほしかった、と思わなくもない。
例えば、こう、母の愛情に恵まれる方向とか。
「せりなちゃん、お顔洗ってきてね」
「はぁい」
俺は、佐々木さんに手を引かれて洗面所へ向かった。
廊下を歩きながら、もう一度、神様への愚痴をこっそり呑み込む。
朝食は、白飯と味噌汁、それから卵焼きと、刻んだ漬物だった。
施設の食事は、決して豪華ではないけれど、栄養バランスはちゃんと考えられている。
これは、長くここで世話になっている子供として、俺はちゃんと評価していた。
食堂には、三歳から十二歳までの子供が、合わせて二十三人。
それぞれが、年齢ごとに分けられたテーブルに座っている。
俺のテーブルには、もう一人、同い年の女の子がいた。
「せりなちゃん、ご飯、こぼしてるよぉ」
向かいの席から、ゆうかちゃんが、にやにやしながら指差してくる。
俺は自分の口元を、おしぼりで拭った。
たしかに、ご飯粒がついていた。
これも、わざとだ。
あんまり綺麗に食べると、また「三歳児にしては手先が器用すぎる」と言われる。
「ゆうかちゃんも、ほっぺにのりついてるよ」
「うそ!」
ゆうかちゃんは、慌てて自分の頬を擦った。
本当はついていない。
だが、俺がそう言えば、必ずゆうかちゃんは自分の頬を擦る。
三歳児同士のやり取りとしては、たぶんこれくらいが正解だ。
ゆうかちゃんは、俺と同じく、生まれてすぐにここに預けられた子だ。
母親は中学三年生だったらしい、と、夜中の職員の世間話で俺は知っていた。
中学三年生の母。
ゆうかちゃんが今三歳ということは、その母親はまだ十八歳。
未成年で母親になって、未成年のうちに子供を手放した、ということになる。
ここにいる子供たちは、それぞれに、それぞれの事情を背負っている。
俺の銀髪碧眼みたいに分かりやすいものから、もっと暗い、口にも出せないようなものまで。
そのことを、男だった頃の俺は、たぶん、ニュース番組の中の話としてしか知らなかった。
「ねぇ、せりなちゃん」
「なぁに?」
「きょう、おきゃくさんくるんだって」
「うん、ささきせんせいから、きいたよ」
「ゆうかね、おててつないでもらえるかなぁ」
「つないでもらえるよ、きっと」
俺は、にっこり笑って答えた。
ゆうかちゃんが、嬉しそうに、はにかんで俯く。
そのつむじを見ながら、俺は内心、ため息に近いものを吐いた。
里親候補の見学日。
ここに来るご夫婦は、たいてい、もうすでに何人かの候補と顔合わせを済ませた上で、ここに辿り着いている。
そして、見学日の終わりには、誰か一人を心の中で選んで帰っていく。
選ばれる子と、選ばれない子。
これは、はっきりと、選別の場だ。
俺は、これまで何度も、見学に来た夫婦の前に立たされてきた。
そのたびに、相手の夫婦の表情を観察してきた。
最初は興味深そうに、俺の銀髪を見る。
次に、戸惑ったように、俺の青い瞳を見る。
そして、最後には、決まって、互いに目配せをしてから、職員に小さく首を振るのだ。
「綺麗なお嬢さんですね」
「ええ、本当に」
「ただ、まあ……うちには、ちょっと、目立ちすぎるかもしれません」
そんな言葉を、もう何度聞いたか分からない。
俺の外見は、子供を引き取ろうとする善良な日本人夫婦にとって、「身の丈に合わない」と感じさせるらしかった。
ある意味、その感覚は分かる。
分かるからこそ、毎回、何も言わずに笑顔だけ作って見送ってきた。
そんな三年だった。
正直、もうここで老人になるまで暮らすことも、選択肢のひとつとして覚悟し始めていた頃だった。
午前十時。
施設の遊戯室に、子供たちが集められた。
遊戯室、と呼んではいるけれど、要するに二十畳ほどの広めの和室で、隅っこには使い古された絵本の棚と、積み木の箱、それから古いブラウン管のテレビが置いてあるだけの場所だ。
畳はあちこちで擦り切れていて、ところどころ補修の跡がある。
それでも、施設の中では一番、子供たちが「ちゃんと子供らしく振る舞える」ように整えられた部屋ではあった。
俺は、ゆうかちゃんと並んで、部屋の隅っこに座っていた。
隅っこを陣取るのには、ちゃんと理由がある。
最初に話しかけられる位置を、できるだけ後ろに回すためだ。
俺の見た目は目立つから、たいてい最初に声をかけられる。
だが、最初に声をかけられた子は、結局のところ「最初に観察される子」であって、その夫婦が誰を選ぶかは、最後の方に話した子で決まることが多い。
俺は、そういう、就職活動の面接で言うところの「最終調整枠」に回ることを、もう何度も学んでいた。
「みなさーん、おはようございます」
園長先生が、にこやかに部屋に入ってきた。
五十代後半の、恰幅のいい女性だ。
名前は、井之上先生。
善良な人だが、ややせっかちで、いつも腕時計を二回続けて見るクセがある。
「今日はね、皆さんのことを見にきてくれた、優しい方たちがいらっしゃるのよ」
園長先生の後ろから、三組の夫婦が、遠慮がちに部屋に入ってきた。
俺は、その姿を、いつもの「最終調整枠の余裕」をもって、ゆっくりと観察した。
最初の組は、四十代半ばの、いかにも公務員然とした夫婦。
夫の方は黒縁の眼鏡をかけていて、妻の方は、ベージュのカーディガンを上品に羽織っている。
落ち着いた、堅実そうな雰囲気の二人だった。
二組目は、三十代後半くらいの、もっとカジュアルな夫婦。
夫はジーンズに薄手のニット、妻は明るい色のワンピース。
こちらは、いかにも「子供と一緒に休日を楽しみたい」という空気を漂わせていた。
そして、三組目――。
俺の視界の中で、世界が、一瞬、止まった。
三組目の夫婦が、おずおずと、部屋の中へと入ってくる。
夫は背の高い、痩せた男性。
スーツ姿で、ネクタイは地味な紺色。
妻はその少し後ろに、隠れるようにして立っている。
彼女は、淡い灰色のワンピースを着て、肩には薄手のショールをかけていた。
俺の、男だった頃の――父さんと、母さんだった。
橘家の、父さんと、母さん。
橘秀樹、五十七歳。
橘佳代子、五十四歳。
そのはずだった。
そのはずの、夫婦だった。
だが、三組目の夫婦の顔は、俺の記憶の中の橘家の両親より、明らかに、十年は老け込んで見えた。
父の髪は、半分以上が白くなっていた。
頬はげっそりと痩けていて、眼の下には濃いクマが、深く彫り込まれている。
母の方は、もっと変わっていた。
ふっくらしていたはずの頬は、すっかり削げ落ちていて、首筋には目立つ皺が刻まれている。
唇には血の気が薄く、目には、感情の光が、ほとんど見えなかった。
二人とも、まだ五十代の半ばのはずだった。
それなのに、目の前にいる夫婦は、もう、七十代と言われても通用しそうなくらいに、げっそりと、老け込んでいた。
俺は、ぎゅっと、自分の小さな手のひらを握りしめた。
ああ、と思った。
それから、もう一度、ああ、と思った。
俺が死んだのだ。
俺が、あの夜、対向車線から飛び込んできたセダンに轢かれて、死んだのだ。
まだ生まれてもいなかった息子を抱くこともできずに死んだ橘家の長男を失ったまま、この夫婦は三年を生きてきたのだ。
三年。
たかが三年。
されど、三年。
人ひとりの息子を失った両親にとって、その三年は、いったいどれだけ重たい三年だったのだろう。
俺は、その重さを、目の前の二人の顔に、はっきりと見た。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
気付けば、視界が、じわりと滲み始めていた。
おい、と内心で自分に呼びかけた。
泣くな。
今、泣いてはいけない。
銀髪碧眼の三歳児が、初対面の夫婦を見ていきなり泣き出したら、それはもう「面接の最終調整枠」どころの話ではなくなる。
俺は、慌てて手の甲で目元を擦った。
「せりなちゃん、どうしたのぉ?」
ゆうかちゃんが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「なんでもなぁい。あくびしただけ」
「あくびぃ?」
「うん、あくび」
俺は、にこっと笑ってみせた。
ゆうかちゃんは、納得したのかしていないのか、「ふーん」と言って、また自分の積み木に戻った。
部屋の前方では、園長先生が三組の夫婦に向かって、子供たちの紹介を始めていた。
「あちらにいるのが、健太くん。元気な男の子で、もう小学校に上がる年なんですよ」
「あの女の子は、まなみちゃん。絵を描くのが大好きで……」
夫婦たちは、子供たちの方を見ながら、にこにこと頷いている。
最初の夫婦は、しきりにメモを取っていた。
二組目の夫婦は、何度か手を振って、子供たちに笑顔を見せている。
そして――三組目の橘家の夫婦は。
ただ、立っていた。
笑顔を作ろうとして、作りきれていなかった。
父さんは、唇の端をぎこちなく持ち上げただけで、その目はどこか遠くを見ていた。
母さんは、もっと露骨だった。
彼女の視線は、子供たちの方には向いていなくて、ずっと、自分の足元の畳の縁を、辿っていた。
俺は、その姿を見ているのが、辛かった。
たまらなく、辛かった。
俺が知っている橘佳代子は、もっと、よく笑う人だった。
学生時代の自分の話を、酒の席で何度もして、何度も同じところで笑う、そういう、屈託のない人だった。
父さんも、もっと張りのある声で、家族の話をする人だった。
仕事の話より、家の犬の話を長々とする、そういう、温かい人だった。
それが、もう、ここにはなかった。
目の前の二人は、息子を失った後の、抜け殻のような両親だった。
そして、その息子は――。
今、彼らの目の前に、銀髪碧眼の三歳の女の子として、座っている。
「最後に、こちらが、せりなちゃんです」
園長先生の声が、俺の耳に届いた。
俺は、反射的に、ぴょこんとお辞儀をした。
三歳児としては、たぶん、これくらいが「ちょうど可愛い」のだ。
「こんにちは、せりなです」
舌足らずに、語尾を伸ばす。
顔は、できるだけ、にこっと笑う。
これも、もう、何度も練習した「面接用の挨拶」だった。
最初の夫婦が、わぁ、と小さな声を上げた。
「まあ、綺麗なお嬢さんね」
「本当に。お人形さんみたいですね」
二組目の夫婦も、感心したように頷いている。
「ハーフかしら?」
「いえ、純粋に日本人の親御さんから生まれた子だそうですよ。色素が……」
園長先生が、いつもの説明を始める。
俺は、それを耳の片隅で聞き流しながら、視線だけで、三組目の夫婦の方を見た。
橘家の夫婦は、初めて、子供たちの方に視線を向けていた。
正確には――俺の方に。
父さんが、何かに気付いたように、わずかに眉を寄せた。
母さんは、はっと息を呑むようにして、片手を口元にあてた。
二人とも、俺を見ていた。
それも、他の夫婦のような「綺麗な子だな」という視線ではなかった。
もっと、深い。
何かを、必死に思い出そうとしているような――。
あるいは、目の前にいる小さな何かに、自分でも理由の分からない引力を感じている、そんな視線だった。
俺は、その視線を、まっすぐに受け止めた。
そして、思った。
放っておけない、と。
理屈ではなかった。
転生だ前世だ、そういう小難しい話を、頭の中で整理する前に、もう、足が動いていた。
俺は、座り込んでいた畳から、ぴょこんと立ち上がった。
ゆうかちゃんが、「あれ?」と不思議そうな顔で俺を見上げる。
「ちょっと、ごあいさつしてくるね」
俺はゆうかちゃんに、にこっと笑いかけて、それから、ぺたぺたと、橘家の夫婦の方へ歩いていった。