銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
帰りの車のなかは、行きよりもずっと静かだった。
愛奈の運転する車が、夜の街をするすると走っていく。
窓の外を流れる町のあかりが、にじんだ色の帯になって後ろへ消えていった。
俺は後ろの席で、ただぼんやりとそれを眺めていた。
隣では明彦が、俺の手をぎゅっと握っていた。
何か言ってあげたいのに、その言葉が見つからないのだろう。
栗色の髪の下のその横顔は、俺なんかよりよっぽど泣き出しそうに見えた。
愛奈は、何も言わなかった。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、この人はひとつも口にしない。
ただときどきバックミラー越しに、静かな目がこちらを見ているのが分かった。
俺の頭のなかでは、まだあの音が鳴り続けていた。
ばちん、という、あの鈍い音。
小さな俺の身体が、硬い氷に叩きつけられた音。
しんとした会場に響いたあの音は、テレビを通じて大阪のあの病室にも届いてしまったはずだった。
おばあちゃんは、あれをどんな顔で見ていたのだろう。
考えまいとしても、考えてしまう。
痩せた身体を起こして、画面の前で胸を痛めていたのだろうか。
俺の頭はそこから先へ進むことを拒んで、おなじ場所をぐるぐると回り続けていた。
愛奈の家に帰り着いても、俺の足取りは重いままだった。
「さ、二人とも。手を洗ってらっしゃい。すぐ温かいものを作るから」
愛奈はいつもの調子でそう言って、台所に立った。
湯気の立つおうどんが出てきたけれど、俺はその半分も食べられなかった。
あれだけ動いたあとの身体が、ちっともごはんを欲しがらないのだ。
「……ごちそうさま」
「はい。お風呂が沸いてるわよ」
残した器を見ても、愛奈は何も言わなかった。
無理に食べなさいとも、元気を出しなさいとも言わない。
その当たり前みたいな顔が、今夜はかえってありがたかった。
お風呂のお湯は、じんわりと熱かった。
打ちつけた腰や肘が、お湯のなかでじくじくと熱を持っている。
人間の限界をわずかに越えたこの身体は、頑丈なことだけが取り柄だった。
明日にはきっと、痛みも腫れもきれいに引いているだろう。
身体の傷は、それでいい。
けれど胸の奥の傷だけは、お湯ではちっとも温まってくれなかった。
寝る前に、明彦がとことこと俺の布団のそばへやってきた。
パジャマ姿のその子は、もじもじと自分の指先をいじっている。
車のなかからずっと探していた言葉を、ようやく見つけてきたらしかった。
「……あのね、瀬理奈お姉ちゃん」
「なあに、明彦くん?」
「ぼくはね。今日の瀬理奈お姉ちゃんを見て、すごいって思ったんだ」
その言葉に、俺は思わず明彦の顔を見た。
すごい、なんて言われる滑りでないことは、誰より俺がいちばんよく分かっている。
けれど明彦は、大きな瞳でまっすぐに俺を見上げていた。
「転んだのに。すぐ立ったでしょ」
「……うん」
「ぼくだったら、きっと痛くて泣いちゃうもん。氷のうえってすごく硬いんだよ」
明彦は、手のひらをぎゅっと握りしめた。
「だから、すぐ立った瀬理奈お姉ちゃんは、すごいんだよ」
俺の喉の奥が、ぐっと詰まった。
この子はいつだって、誰も見ていないところをちゃんと見ている。
俺は泣きそうになるのをこらえて、その栗色の頭をそっと撫でた。
「ありがとう、明彦くん」
「うん。明日もぼくは、ちゃんと見てるから」
「ふふ。ありがとう」
「だって、ぼくは瀬理奈お姉ちゃんのいちばん最初の観客だもん」
明彦はその大事な肩書きを胸を張って言うと、自分の布団へ潜り込んでいった。
いちばん最初の観客は、今夜も律儀に俺のそばにいてくれる。
その寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。
けれど俺のほうは、まるで眠れなかった。
電気を消した部屋の天井を、俺はずっと見つめていた。
目を閉じれば、今日のあの転倒が何度でも繰り返し再生される。
踏み切りの一瞬に顔を出した「無理」が、何度でも俺を氷へ叩きつけるのだ。
明日は、フリーがある。
おばあちゃんに見せられる晴れ姿は、もうそれが最後の機会かもしれなかった。
今日の失敗を取り返すには、明日、今日よりすごい滑りをするしかない。
そう思った瞬間、胸の奥がまた、ぎりぎりと焦りで軋みはじめた。
——いや、違う。
それが駄目だったんじゃないか、と頭の冷えた場所が言う。
すごいのを見せようとして、俺は力み、無理をして、そして転んだ。
永田さんにあれだけ言われていたのに、最後の最後で同じことをやったのだ。
全部を出すことと、無理をすることは違う。
枷を外すことと、力ずくでこじ開けることは違う。
頭では、ちゃんと分かっている。
なら、力まなければいいのか。
いつもどおりに、おさめて滑ればいいのか。
けれどおばあちゃんに見せる最後の晴れ姿が「おさめた」滑りで、本当にいいのか。
考えは、そこでまた行き止まりにぶつかった。
委ねればいい、ということも分かっていた。
あの優勝の日のように、手綱を放して、音にこの身を預ければいい。
けれど委ねようと焦るその手が、誰よりも固く手綱を握りしめているのだ。
ぐるぐる、ぐるぐると、おなじところを回り続ける。
焦るなと思えば思うほど焦りは膨らんでいく。
楽しめと言われれば言われるほど、楽しみ方が分からなくなっていく。
俺の考えは出口のない路地に迷い込んで、おなじ壁に何度でもぶつかっていた。
——そもそも、俺は。
ふと考えがひとつ深いところへ落ちた。
俺は、何のために滑っているんだろう。
おばあちゃんに晴れ姿を見せるためだ。
前世で何ひとつ返せなかった、あの人への孝行のためだ。
仕事を言い訳に電話ひとつ寄越さなかった、橘隆志の借りを返すためだ。
ならば転んだ俺には、もう何の値打ちがあるんだろう。
孝行のための氷で、俺は無様に転んでみせた。
返すどころか、病の床のあの人に、痛々しい姿で心配までかけてしまった。
楽しそうにしとるのが、いっとう一番。
おばあちゃんは、いつだってそう言ってくれる。
けれど——これが隆志の孝行の舞台なのだとしたら。
俺はその氷の上で、瀬理奈として楽しんでなんて、いいんだろうか。
楽しむことは、借りを返す手を止めることのような気がした。
借りを返そうと力むことは、楽しさを殺すことだった。
どちらへ踏み出しても袋小路で、俺はその真ん中に立ち尽くしていた。
ふすまの向こうで、かたりと小さな音がした。
「……起きてるかしら」
「……うん」
そっと顔をのぞかせたのは、愛奈だった。
廊下の薄あかりを背にしたその人は、俺の枕元に静かに膝をついた。
明彦の寝息を確かめてから、俺はちょっとだけいつもの口調に戻る。
「悪い。起こした?」
「いいえ。眠れないだろうと思っただけ」
「……お見通しか」
愛奈は、俺の額に手のひらをそっと乗せた。
熱を測るみたいなその仕草は、前世で俺が風邪をひいたときと同じだった。
「ねえ、瀬理奈ちゃん。考えるのはいいわ」
「……うん」
「でも、答えの出ない問いを、ひとりで回し続けるのはやめた方がいいわ」
答えの出ない問い。
まさに今夜の俺がやっていることを、この人はぴたりと言い当てた。
「夜の考えごとはね。だいたい出口じゃなくて、奥へ奥へ行くだけなのよ」
「……かもしれないな」
「眠りなさい。眠れなくても、目を閉じなさい。続きは明日の朝、ごはんを食べてからになさい」
愛奈はそれだけ言うと、俺の布団を顎まで引き上げて、部屋を出ていった。
湿っぽさのかけらもない、いつもどおりのこの人だった。
けれどその足音が遠ざかるまで、額にはまだ手のひらの温かさが残っていた。
俺は、言われたとおり目を閉じた。
それでも瞼の裏では、おなじ問いがまだゆっくりと回り続けていた。
俺は明日、誰として氷に立てばいいんだろう。
借りを返しに行く橘隆志としてか。
それとも——。
その問いに答えの出ないまま、夜はしんしんと更けていった。
眠りが俺を拾い上げてくれたのは、窓の外がうっすらと白みはじめた頃だった。
翌朝、俺は早くに目を覚ました。
眠りに落ちたのは明け方だったはずなのに、不思議と目だけはぱちりと開いた。
障子越しの冬の光が、部屋のなかを白く染めている。
隣の布団では明彦が、すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てていた。
俺はそっと布団を抜け出して、台所へと向かった。
愛奈はもう起きていて、お味噌汁の鍋をことことと火にかけていた。
湯気のにおいに、ほんの少しだけお腹が鳴る。
昨夜あれだけ食べられなかった身体が、朝になってようやくごはんを思い出したらしい。
「おはよう。眠れたの」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでも眠れたなら上等よ。顔を洗ってらっしゃい」
冷たい水で顔を洗うと、頭の芯が少しだけはっきりした。
それでも胸の奥の袋小路は、昨夜のまま、そっくり残っていた。
俺は今夜、誰として氷に立てばいいのか——その問いは、まだ出口を見つけていなかった。
そのときだった。
ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴った。
朝ごはんにもまだ早い、こんな時間にいったい誰だろう。
愛奈が玄関へ出ていって、それから少しおどろいた声で俺を呼んだ。
俺がぱたぱたと廊下を駆けていくと——そこに、見慣れた顔が三つ並んでいた。
「瀬理奈ちゃん!」
「瀬理奈ちゃん、おはよーっ!」
佑香ちゃんと、ひかりちゃんだった。
その後ろには、白い息を弾ませた陸くんまで立っている。
三人とも、ほっぺたを真っ赤にして、肩で小さく息をしていた。
「み、みんな……どうしたの、こんな朝はやくに?」
「えへへ。きちゃった」
「来ちゃったじゃないでしょ。ひかりちゃんが走るからみんな走ることになったんだよ」
佑香ちゃんが、ぷうと頬をふくらませてひかりちゃんをにらんだ。
それから俺のほうへ向き直って、もじもじと二つ結びの髪の先をいじる。
「あのね、瀬理奈ちゃん。きのう、テレビを見たの」
その言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。
そうだ。
あの転倒は、おばあちゃんだけじゃなく、この子たちの目にも届いていたのだ。
心配をかけたんだなと、俺がうつむきかけた——そのときだった。
「きのうの瀬理奈ちゃんね。かっこ悪くなんかなかったよ」
佑香ちゃんの声は、まっすぐだった。
「テレビの前でずっと見てたの。転んだとき、すごくびっくりして、声が出ちゃった」
「……うん」
「でも瀬理奈ちゃん、すぐに立ったでしょ。立って、最後までぜんぶ滑ったでしょ」
佑香ちゃんは、そこでひとつ、ぐすりと鼻を鳴らした。
「それを見てたら、なんだか泣けてきちゃって。かっこいいなあって、思ったの」
かっこいい。
あの無様な滑りを見て、この子はそう言ってくれるのか。
俺が言葉を失っていると、こんどは陸くんが一歩前に出た。
「おれも見たぞ! クラスのやつらもみんな見てた!」
「陸くん……」
「あんなにすってんって転んだのに、すぐ立つんだもんな。男子のあいだで、銀の天使はやっぱりすげえって大さわぎだったんだからな!」
陸くんは自分のことみたいに胸を張って、それからずいと何かを差し出した。
見れば、白いはちまきだった。
真ん中に大きく「ひっしょう」と、力強いマジックの字が躍っている。
「おれの宝物だけど、貸してやる。運動会で一等とったときのやつだ」
「ふふ……ありがとうね」
「おう。終わったら返せよな」
ひかりちゃんはひかりちゃんで、ぴょこんと俺の前に進み出た。
ピンクの手袋の両手を、胸の前でぎゅうっと握りしめている。
「あのね、てんしさん。ひかりはきょうも、おうちからテレビをみてるの。でもね」
「うん」
「ひかりのこころはね、きょうもリンクにとんでいくから。いちばんまえで、みてるからね!」
心はリンクに飛んでいく。
初めての試合の前にもくれた、この子のとっておきの言い回しだった。
三人の言葉が、ひとつ、またひとつと、俺の冷えた胸に火を灯していく。
「……みんな、ありがとう」
「えへへ。あ、それでね、瀬理奈ちゃん。これ」
最後に佑香ちゃんが、小さな包みをそっと俺の手に乗せた。
開いてみると、フェルトで作られたお守りだった。
水色の布に、銀色の糸で、小さな天使の羽が縫いつけてある。
「今朝慌てて、ひかりちゃんとつくったの。ちょっと、はねがまがっちゃったけど」
「まがってないよ! かわいいよ!」
「……ふふ。うん。すごく、かわいい」
俺がお守りをぎゅっと握ると、佑香ちゃんは安心したように笑った。
それから、すうっと息を吸って、いちばん大事な言葉を口にした。
「だから瀬理奈ちゃん。きょうは——がんばって、じゃないよ」
佑香ちゃんは、首をふるふると横に振った。
「楽しんできてね」
その言葉に、俺は、息が止まりそうになった。
楽しそうにしとるのが、いっとう一番。
おばあちゃんとおなじことを、この子は言うのだ。
俺の動機を知っている、たったひとりの友達は、いちばん欲しい言葉をちゃんと知っていた。
「……うん。瀬理奈、楽しんでくる」
俺がそう答えると、三人はそろって、ぱあっと顔をほころばせた。
ちょうどそこへ、寝ぼけまなこの明彦が「ぼくの天使さまに何のようなの」と廊下の奥から現れて、玄関はいつもの小さな争奪戦でわっとにぎやかになった。
三人が帰っていくのを、俺は明彦と並んで、角を曲がるまで見送った。
白い息を弾ませて走っていく三つの背中が、朝の光のなかで小さくなっていく。
胸の奥の袋小路に、ひとすじ、風の通り道ができた気がした。
けれど——壁そのものは、まだそこにあった。
楽しんでいいのか、という、あの壁が。
「瀬理奈ちゃん。ちょっと、いいかしら」
朝ごはんが済んで、明彦が歯みがきに立ったときだった。
愛奈が、静かに俺を台所の奥へと手招きした。
その顔を見た瞬間、俺の心臓がとくりと跳ねた。
いつもの澄ました顔の、その奥に——何かがあった。
「明け方に佳代子さんから、お電話があったの」
母さんから。
その言葉に、俺の血の気がすうっと引いた。
明け方の電話が運んでくる報せを、俺は前世でひとつしか知らない。
「おばあちゃん……っ、おばあちゃんは」
「ご無事よ。いまは、眠っていらっしゃるわ」
愛奈のその一言で、俺はへなへなと力が抜けそうになった。
けれど愛奈の目は、まだ何かを抱えたままだった。
この人は、すうっとしゃがんで俺と目の高さを合わせると、声を落とした。
「昨日ね。お義祖母さまは病室のテレビで、あなたのショートをぜんぶご覧になったそうよ」
「……うん」
「最後まで見届けて——それから深い眠りにつかれたの。いまも、お眠りになったまま」
深い眠り。
その言葉の意味するところを、俺は訊き返せなかった。
愛奈は俺の両手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「眠ってしまわれる前にね。佳代子さんに、言葉を残されたそうよ」
愛奈はそこで、ほんのわずかに息を整えた。
「あなたに、伝えてほしいって」
そして愛奈は、ぐっと顔を寄せて、ささやくよりもなお小さな声で言った。
人間の耳では、きっと拾えない。
俺のこの耳だけに届けるための、吐息みたいな声だった。
「——なあ、隆志、って」
俺の心臓が、止まった。
隆志。
おばあちゃんが、その名を呼んだ。
瀬理奈ちゃん、じゃなく——隆志、と。
「気づかれていらしたの。ぜんぶ」
頭のなかが、真っ白になった。
いつ。
どうして。
あと半歩で、いつも止まっていたはずの、あの手が。
凍りつく俺にかまわず、愛奈は言葉を続けた。
ひとことずつ、おばあちゃんの言葉をそのまま、俺の耳へ流し込んでいく。
「あんた、ようけ、ようけ孝行してくれたなぁ——って」
「……っ」
「肩も叩いてもろた。昔話も聞いてもろた。お墓にも、いっしょに参ってくれた——って」
ひとことごとに、俺の目の奥が熱くなっていった。
「前の分まで、お釣りが来るくらい返してもろたわ。おおきに。ほんまに、おおきにな——って」
お釣りが、来るくらい。
返し終わっていないどころか、まだ何も返せていないと思っていた。
転んで心配までかけて、借りを増やしたとさえ思っていた。
それなのにあの人は、お釣りが来るとまで言ってくれたのだ。
「せやからな、隆志。もう、じゅうぶんや。もう——ええんやで、って」
もう、ええんやで。
その関西なまりの一言が、俺の胸の真ん中に、ぽとりと落ちた。
昨夜からずっと俺を閉じ込めていた袋小路の壁が、音もなく崩れていく。
「これからはな。瀬理奈ちゃんは、瀬理奈ちゃんや」
愛奈の声が、かすかに震えた。
いつだって揺るがないこの人の声が、初めて、震えていた。
「瀬理奈ちゃんは瀬理奈ちゃんとして、好きなように、楽しんで生きてほしい。それがな——ばあちゃんの、いっとう一番の、願いなんやで——って」
——ああ。
涙が、こぼれた。
こらえる間もなかった。
ぽろぽろと、あとからあとから、頬を伝って落ちていく。
台所の床に、小さなしみが、ひとつ、ふたつと増えていった。
楽しんでいいのか、なんて。
俺はひと晩じゅうそんなことを問い続けていた。
借りを返す舞台で楽しむ資格があるのかと、出口のない路地を回り続けていた。
その問いの答えを、おばあちゃんは、とっくに用意してくれていたのだ。
借りなんて、もうない。
返すための氷なら、もうどこにもない。
あの人が最後に望んだのは、ただひとつ——俺が、瀬理奈として楽しんで生きることだった。
「……愛奈。俺——」
口を開いた瞬間、その一人称が、ふっと宙で止まった。
俺。
三十年と、もう七年。
ずっとこの胸のなかで使い続けてきた、橘隆志の一人称。
おばあちゃんは、その隆志に、もうええんやでと言ってくれた。
なら、この言葉も——今日でもう、しまっていいのかもしれない。
俺は涙をぐいと拭って、息を吸い直して、もう一度口を開いた。
「——私、滑るよ」
私。
口にした瞬間、自分でもおどろくほど、その言葉はすとんと舌に馴染んだ。
まるでずっと前から、そこで出番を待っていたみたいに。
「今夜のフリー、私……橘瀬理奈として、楽しんで滑ってくる」
愛奈の目が、ほんのわずかに見開かれた。
この人は、聞き逃さなかった。
七年間ずっと「俺」だった私の、その一文字の変化を。
聡いこの人が、それの意味するところを、取り違えるはずもなかった。
愛奈は何も言わずに、私の頭を、ぽんとひとつ撫でた。
それからいつもの澄ました顔で——けれどその目尻に、光るものをひとつ乗せたまま笑った。
「ええ。行ってらっしゃい——瀬理奈ちゃん」
台所の窓から、冬の朝日が差し込んでいた。
今夜、氷の上に立つのは、借りを返しに行く橘隆志じゃない。
おばあちゃんがいっとう好きだと言ってくれた、楽しそうに舞う女の子。
橘瀬理奈——私だ。
冬の日はとっくに暮れて、会場には昨日とは違う色の光が灯っていた。
フリープログラムの夜。
全日本ジュニアの締めくくりは、煌々と照らされた夜のリンクで行われる。
愛奈の運転する車を降りた私は、その大きな建物をまっすぐに見上げた。
胸のポケットには佑香ちゃんたちのお守りが入っている。
水色のフェルトに銀色の糸の、小さな天使の羽。
明彦はといえば、あの「ひっしょう」のはちまきを、なぜか自分のおでこにきりりと巻いていた。
「だって、陸くんが言ったんだ。これはおうえんする人がまくんだぞって」
「ふふ、そっか。じゃあ今日の明彦くんは、応援団長さんだね」
「うん! ぼく、いちばん大きな声、出すからね」
昨日と同じ建物の、同じ廊下のはずだった。
それなのに今夜の私の足取りは、自分でもおかしいくらいに軽かった。
胸の奥のあの焦りは、もうどこを探しても見つからなかった。
控えへ続く通路に差しかかった、そのときだった。
「あら。いらしたわよ、昨日の」
通路の壁ぎわに、三人の女の子が立っていた。
どの子も私より頭ふたつは大きいお姉さんたちだった。
その真ん中のひとりが、つんと顎を上げて私を見下ろしてくる。
「昨日はずいぶん派手に転んだわね。テレビの銀の天使さま?」
「あれでジュニアだなんて、連盟も人気取りに必死よね」
「七歳のお遊戯会なら、よそでやってちょうだいな」
くすくすという笑い声が、通路の天井に反響した。
きのういちばん棘のある声で笑っていた背の高い子が、ことさら大きく肩をすくめてみせる。
そしてその三人の後ろから、もうひとり、すらりとした影が歩み出てきた。
森澤花音。
私と同じジュニアの特別枠で滑った、ノービスでの壁だった人。
昨日の公式練習で、誰よりも高いジャンプを跳んでいたのは、結局この人だった。
「昨日のあれが、あなたのいまの実力よ」
森澤花音は、あの時のように切れ長の目で俺をすうっと一瞥した。
「テレビがいくら騒いでも、氷は嘘をつかないの。今日はせいぜい、転ばずに終わることね」
取り巻きのお姉さんたちが、勝ち誇ったように笑った。
昨日の私なら、この言葉に少しは胸がざわついたのかもしれない。
けれど——今夜の私の胸は、不思議なくらいに凪いでいた。
迷いは、もうなかった。
誰に何を言われても、今夜の私のやることは、朝からひとつも変わらないのだ。
私は森澤花音の目をまっすぐに見上げて、にこりと笑った。
「……ありがとうございます。でも、私は今日はもうだいじょうぶ」
「は?」
「今日はね、いっとう楽しく滑るって決めてるんだ。おばあちゃんとお友達と約束してきたから」
森澤花音の眉が、ぴくりと動いた。
負け惜しみでも、強がりでもない。
ただの約束の報告みたいな私の声に、毒気を抜かれたような顔だった。
取り巻きの誰かが「なにそれ」と鼻で笑ったけれど、その声はもう私の耳を素通りしていった。
「……変な子」
森澤花音はそれだけ言うと、長い髪を翻して歩き去っていった。
取り巻きたちが慌ててそのあとを追いかけていく。
私はその背中にぺこりとお辞儀をして、リンクへの通路を進んだ。
リンクサイドでは、永田さんが待っていた。
紺色のダウンのその人は、私の顔をひと目見るなり、おや、という顔をした。
それから何かを確かめるみたいに、じっと私の目をのぞき込む。
「……瀬理奈ちゃん。いい顔になったね」
「ふふ。わかるかな?」
「ああ。先生はずっと見てきたからね」
私は胸のポケットから、あの小さなお守りを取り出した。
「永田さん。これ、持っててほしいの」
「うん?」
「お友達がくれたんだ。私が滑ってるあいだ、いちばん近くで見ててもらいたいから」
永田さんは、その小さな羽を、両手でそっと受け取った。
壊れ物を扱うみたいなその手つきに、私は思わず笑ってしまった。
「永田さん。私、今日はね」
「うん」
「楽しんでくる」
永田さんの目尻の皺が、くしゃりと深くなった。
「ああ——行っておいで」
「続いて、橘瀬理奈選手」
名前が呼ばれて、私はリンクの中央へとすべり出た。
満員の客席が、ざわりと揺れる。
昨日転んだ七歳の子が、今夜はどんな滑りをするのか。
好奇と心配と値踏みの入り混じった何千もの視線が、いっせいに私へと注がれた。
リンクの真ん中で、開始のポーズをとる。
いつもなら、私はここで世界から音と質量を引き剥がす。
ざわめきも視線も締め出して、冷たく静かな世界へ潜っていく。
けれど——今夜は、その必要がなかった。
私は目を閉じて、ぜんぶをそのまま受け入れた。
観客のざわめきも。
カメラの駆動音も、製氷の名残の水のにおいも、照明のかすかな唸りも。
何もかもが今夜は、これから始まる音楽の一部だった。
どこか遠くの病室で、おばあちゃんが眠っている。
その枕元まで届くように——ううん、届くかどうかなんて、もうどうでもよかった。
あの人がいっとう好きな滑りを、私はただ、すればいい。
ピアノの最初の一音が、ぽつりと氷に落ちた。
その瞬間——私は、手綱ごと、私を手放した。
委ねようと思う間もなかった。
最初の一音が鳴ったときには、もう、旋律がこの身体のなかを流れていた。
指先から爪先から銀の髪の一本一本まで、音が、私になっていた。
滑っているという感覚は、最初の数歩で溶けて消えた。
ステップは旋律の言葉になり、ターンは旋律の吐息になった。
氷を蹴れば音が跳ね、腕をひらけば和音が咲く。
家の鍵盤で何千回も撫でてきたこの曲が、いま、私という楽器を選んで鳴っていた。
そして——曲が、大きくせり上がった。
旋律が空へ駆け上がっていく、その一節。
音がのぼるのなら、私ものぼるだけだった。
前を向いたまま、私は氷を蹴った。
アクセル。
身体がふわりと浮き上がって、世界がゆっくりと回りはじめる。
一回転。
二回転。
三回転——そして、もう半分。
着氷の音は、しなかった。
雪がひとひら積もるみたいに、私のブレードは音もなく氷へ降りていた。
客席の悲鳴のようなどよめきが、波になって押し寄せてくる。
けれどそのどよめきさえ、今夜は曲の一部として、私のなかで鳴っていた。
七歳の女の子が、三回転半を跳んだ。
それがどれだけのことなのか、頭の隅では分かっていた。
けれど私にとってそれは、ジャンプですらなかった。
ただ、高く跳ねた一音といっしょに、跳ねただけだった。
——リンクサイドへ続く通路の陰で、森澤花音は立ち尽くしていた。
誰よりも高く跳び、誰よりも速く回ることだけを磨いて、女王の座まで駆け上がってきた。
その花音の目が、氷の上の小さな影に、釘付けになっていた。
なんなの、あれは。
あれは、ジャンプではない。
スピンでも、ステップでもない。
あの子が氷の上でしていることに、花音は名前をつけられなかった。
跳んでいるのではなく、音が跳ねている。
回っているのではなく、旋律が渦を巻いている。
手すりを握る花音の指から、すうっと血の気が引いていった。
「……なんなのよ」
隣で、震える声がした。
きのう瀬理奈が転倒したときにいちばん大きな声で笑っていた、あの背の高い取り巻きの子だった。
その顔は紙のように白く、唇がわなわなと震えている。
自分たちが見下していたはずのものの正体に、誰よりも早く気づいてしまったのだ。
「なによ、これ……こんなの……」
次の瞬間、その子は駆け出していた。
「こんなの、認められない!」
通路の奥——音響卓のほうへ。
花音が止める間もなかった。
その子は機材の前の係員に取りすがると、半狂乱で叫んだ。
「止めて! 音を止めなさいよ、早く!」
「な、何を言って——きみ、やめなさい!」
もみ合う腕が、卓の上を薙いだ。
ぶつり。
スピーカーの音が、死んだ。
「——っ、あなた、なんてことを……!」
花音は血相を変えてリンクへ振り返った。
曲の途中で音が止まれば、演技は止まる。
場内は騒然となり、あの子は氷の真ん中で立ち尽くすはずだった。
そのはず、だった。
けれど。
誰ひとり、気づかなかった。
審判も。
観客も。
カメラの向こうの何十万も。
リンクの上の彼女を見つめていたすべての人間が——音が止まったことに、気づかなかった。
なぜなら、彼女が舞えば、そこに旋律があったからだ。
エッジが氷を撫でるささやきは弦の歌になり、ブレードが氷を刻む響きは鍵盤の連なりになった。
裾が空を切る音は管の吐息に、銀の髪が散らす光は降りそそぐ高音になった。
彼女の描く弧のひとつひとつが、誰の耳にもたしかに聴こえる音符として、宙に綴られていった。
スピーカーなど、最初から飾りだったのだ。
この会場を満たしていた音楽の源は、ずっと、あの小さな身体だった。
彼女が舞うかぎり、旋律は途切れようがなかった。
彼女そのものが——音楽だった。
世界は、音で満ちていた。
どこか遠くで、スピーカーの音が途切れたのは分かっていた。
私の耳は、そういうことを勝手に拾ってしまう耳だから。
けれど——それが、どうしたというのだろう。
この曲は、もうずっと前から、外から流れてきてなどいなかった。
何千回も撫でてきた鍵盤の上に、この曲の最初から最後までが棲んでいる。
その指が躍るかぎり、その身体が舞うかぎり、旋律は途切れようがない。
私は私という楽器を鳴らしながら、ただ音楽の続きを生きていた。
楽しい。
ああ——楽しい。
氷が私を滑らせてくれる。
音が私を跳ばせてくれる。
力むことも、急かされることも、何ひとつないまま、身体は次々と歌の続きを描いていく。
おばあちゃん。
これが、瀬理奈だよ。
隆志でも、銀の天使でもない。
おばあちゃんがいっとう好きだと言ってくれた、楽しそうに舞うだけの女の子。
あなたの孫の、橘瀬理奈だよ。
旋律が、ゆっくりと終わりへ向かって降りてきた。
名残を惜しむようなステップが、氷の上にさいごの言葉を綴っていく。
私は両腕をひらいて、その音たちをぜんぶ抱きしめながら、最後のスピンへと流れ込んだ。
世界が銀色の渦になって、ひとつの点へと収束していく。
そして——最後の一音。
私は回転をぴたりと止めて、両手を高く、夜空へ伸ばした。
その指の先で、見えない鍵盤の最後の一音を、そっと押す。
私のなかで鳴っていた音楽が、長い長い余韻を引いて、リンクの天井へ昇っていった。
——しん。
会場は、水を打ったように静まりかえっていた。
拍手は、なかった。
ざわめきも、咳払いひとつもなかった。
何千の人がいるはずのその場所で、時間そのものが止まったみたいだった。
その、止まった時間のなかで。
「——楽しかったかい、瀬理奈ちゃん」
声がした。
リンクサイドのフェンスの向こうに、その人は立っていた。
薄紫のカーディガン。
ふっくらとした頬に、やわらかい笑い皺。
痩せる前の、病気になる前の、あの夏よりもっと前の——いちばん元気だったころの、おばあちゃんだった。
ああ、と私は思った。
夢でも、見間違いでもないことは、なぜだか分かった。
そしてこれが、本当はここにいるはずのない姿だということも。
それでも私は怖くなんかなくて、ただその顔が懐かしくて、息ができないくらいに嬉しかった。
「うん」
私は、ありったけの笑顔で、答えた。
「私、楽しかった。私はいままでで一番楽しく滑れたよ」
おばあちゃんの笑い皺が、いっとう深くなった。
満開の花がほころぶみたいに、その顔がやわらかく崩れていく。
あの夏の縁側で、あの春の上映会で、何度も見てきた、私の大好きな笑い方だった。
「……ほんまに、ええ晴れ姿やったで」
おばあちゃんは、ゆっくりと、ゆっくりと頷いた。
「世界中のどこを探したかて、こない別嬪で、こない楽しそうな子はおらへんわ。——うちの、自慢の孫や」
その姿の輪郭が、ふわりと光をまといはじめた。
ああ——行ってしまうんだ。
引き止める言葉は、不思議と浮かんでこなかった。
これが最後のやり取りなのだということだけが、胸の真ん中に、静かに分かった。
あの人は約束どおり、私のいっとう綺麗な晴れ姿を、ちゃんと見届けてくれたのだ。
「おおきにな、瀬理奈ちゃん」
光のなかで、おばあちゃんが小さく手を振った。
枕の上から振ってくれた、あの日とおなじ振り方で。
けれど今日のその手は、骨ばってなんかいない、ふっくらとあたたかそうな手だった。
「——うん」
私は、笑った。
笑ったまま——目尻から、ひとつぶだけ、涙がこぼれた。
それは頬を伝って、顎の先で小さくきらめいて、氷の上へと落ちていった。
ぱしゃん。
涙が、氷の上で小さく弾けた——その瞬間。
世界の、音が戻った。
「「「うわあああああああああっ!!」」」
地鳴りのような歓声が、会場のすべてから噴き上がった。
止まっていた時間が、堰を切ったみたいに一斉に流れ出す。
何千の人が総立ちになって、手を打ち鳴らし、声のかぎりに叫んでいた。
天井がびりびりと震えるほどの音の洪水が、リンクの上の私へと降りそそいでくる。
「すごい、すごいすごい、何なのいまのは!」
「音が……音が見えた! あの子から音が聴こえたのよ!」
「七歳……あれが、七歳……!」
客席のあちこちから、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が上がっていた。
泣いている人がいた。
隣同士で抱き合っている人たちがいた。
色とりどりの花束が、ぬいぐるみが、雨のように氷へと舞い降りてくる。
その歓声の渦のなかから、私の耳は、ひときわ大きなひとつの声を拾い上げた。
「せりなおねえちゃあああんっ!!」
客席の手すりから身を乗り出して、明彦が叫んでいた。
おでこの「ひっしょう」のはちまきを揺らして、千切れんばかりに両手を振っている。
あの人見知りの子が、顔をくしゃくしゃにして、誰よりも大きな声で叫んでいた。
いちばん最初の観客は、今夜もちゃんと、いちばん前で見ていてくれたのだ。
私はリンクの真ん中で、深く、深くお辞儀をした。
歓声が、いっそう大きくうねった。
顔を上げると、リンクサイドで永田さんが、両手で顔を覆って立っていた。
その指のあいだから、涙がぼろぼろとこぼれて、紺色のダウンを濡らしている。
その手には、あの水色のお守りが、ぎゅっと握りしめられていた。
私はゲートに向かって、ゆっくりと滑り出した。
氷の上に降りつもった花のあいだを縫って、一歩ずつ、ゲートへ向かう。
歓声はまだ、鳴り止む気配すらなかった。
全日本ジュニアの夜の会場は、熱狂の頂点に包まれていた。
——のちに、この夜は長く語り草になる。
音響が途絶えたことに、会場の誰ひとり気づかなかった夜。
七歳の女の子が三回転半を跳び、少女そのものが音楽だった夜。
すべての伝説が、ここから始まったのだと。
銀の天使の——俺の。
いや。
私の伝説は、この夜から始まったのだった。