銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第三章 第八話 幼年期の終わりに

地鳴りのような歓声は、私がゲートをくぐっても、まだ鳴り止まなかった。

氷の上に降りつもった花束やぬいぐるみのあいだを、私は一歩ずつ縫って進んだ。

さっきまでこの身体を満たしていた音楽は、もうどこにもいない。

潮が引いたあとの砂浜みたいに、私のなかは、しんと静かになっていた。

 

ゲートのところで、永田さんが両腕をひろげて待っていてくれた。

 

私はその紺色のダウンの胸へ、倒れ込むように滑り込む。

永田さんの手が、私の背中を、何度も何度もさすってくれた。

その手のひらが小刻みに震えているのが、寄せた頬からまっすぐに伝わってきた。

 

「……瀬理奈ちゃん。よく、やったね」

「永田さん、私やれたかな?」

「ああ。先生は、あんなにきれいなものを生まれて初めて見たよ」

 

永田さんの声は、ぐしゃぐしゃに濡れていた。

顔を上げると、その目尻の笑い皺から、涙がいくつもこぼれ落ちている。

その手にはあの水色のお守りが、まだぎゅっと握りしめられたままだった。

 

私は永田さんに支えられて、ブレードカバーをはめ、リンクサイドの席についた。

 

得点が読み上げられても、私はその数字を、ぼんやりとしか聞いていなかった。

ただ、それを聞いた満員の客席が、もう一度どっと沸き返ったのは分かった。

七歳の私がフリーで出したらしいその数字が何かとんでもないものだったことだけは、まわりの大人たちの色めき立った顔つきから伝わってきた。

けれども私の頭のなかはまだ――あの最後の光景でいっぱいだった。

 

薄紫のカーディガン。

ふっくらとした頬の、やわらかい笑い皺。

氷の上で振ってくれた、あの、骨ばってなんかいない、あたたかそうな手。

 

——おおきにな、瀬理奈ちゃん。

 

光をまといながら私のすぐ前から消えていく時に、おばあちゃんはたしかにそう言ったのだ。

夢でも見間違いでもないことは、なぜだか心の中でちゃんと分かっていた。

そしてそれが本当はもう、ここにいるはずのない――二度と会えない姿だということも。

 

次の人の滑りの準備が終わったらしく、係の人に促されて私は席を立った。

 

カメラの放列の脇をすり抜けて、選手の控え室へと続く通路を歩いていく。

歓声はまだ、建物じゅうにびりびりと響き続けていたけど、その熱気から一歩離れた通路の薄暗がりは嘘みたいにひんやりとしていた。

 

通路の奥に愛奈が立っていた。

その隣には、おでこの「ひっしょう」のはちまきを少し曲げたまま巻いた明彦がいる。

私を見つけて、明彦はぱっと駆け寄ろうとした。

けれどその足が、駆け出す手前でぴたりと止まった。

 

愛奈の顔を、見たからだ。

 

私も、その顔を見て足を止めた。

いつだって落ち着いたこの人の目に、いま、隠しきれない何かが宿っている。

それが何なのか、私には、もう訊くまでもなく分かってしまった。

 

「……愛奈さん」

「瀬理奈ちゃん」

「おばあちゃんのこと、なんだね」

 

愛奈はすぐには答えなかった。

 

ただ私の前まで来て、すうっとしゃがんで目の高さを合わせる。

そして私の冷たくなった両手を、自分の両手でそっと包み込んだ。

その手のひらの温かさが、こわばっていた私の指の先へじんわりと染みていく。

 

「大阪のお義母さまから、たったいま、お電話があったの」

「うん」

「あなたが氷の上を舞っている、ちょうどその間に目を閉じられて——演技の終わりと共に眠るように逝かれたそうよ」

 

逝かれた。

 

その言葉は、不思議なくらい胸に落ちてきた。

おどろきも信じられないという気持ちも、ひとつも湧いてこない。

だって私は、ついさっき、もうその人に会ったあとだったのだから。

 

「……うん。知ってたよ」

「瀬理奈ちゃん……」

「さっきね。氷の上に、私の目の前におばあちゃんが来てたんだ」

 

愛奈の目が、わずかに見開かれた。

 

「いちばん元気だったころのお顔で、フェンスのところに立ってた。私の滑り、ちゃんと最後まで見ててくれたのよ」

「……そう」

「楽しかったかいって、笑ってた。ええ晴れ姿やったでって。それから手を振って——いなくなったの」

 

愛奈は、何も言わなかった。

 

ただ私の手を包む手に、ほんの少しだけ力を込める。

この人は、私の言うことをひとつも疑わなかった。

そういうことが本当に起こるのだと聡いこの人は誰よりも先に、静かに受け止めてくれた。

 

「だから、私は知ってたんだ。おばあちゃんが、もう、いないことを」

 

そこまで言って——私の声が、ふっと途切れた。

 

知っていた。

ちゃんと、分かっていたはずだった。

それなのに「逝かれた」という愛奈の言葉を、こうして耳で聞いたその瞬間。

 

胸の奥で、何かが音もなく決壊した。

 

「……愛奈さん」

「うん」

「私、ちゃんと、見せるべきものを見せられたかな」

 

その先は、もう声にはならなかった。

 

ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

さっき氷の上でこぼれた、あのひとつぶとは、まるで違っていた。

あとからあとから止めようもなく溢れて、通路の冷たい床へと落ちていく。

 

「……っ。ぁぁ、うぅ……」

「ええ。瀬理奈ちゃんはちゃんと見せられたわ」

「ほんとうかな……? おばあちゃんはちゃんと瀬理奈の演技をよろこんで、くれたかな……?」

「ええ。世界じゅうのどこを探したって、こんなに別嬪で楽しそうな子はいない、自慢の孫やって——そう言って、笑って逝かれたそうよ」

 

それは氷の上であの人が私にくれたのと、寸分たがわぬ言葉だった。

 

愛奈は泣きじゃくる私を、そっと胸に抱き寄せた。

ふだんは湿っぽさを見せないこの人の腕が、今日はただあたたかかった。

私はその胸に顔をうずめて声をあげて泣いた。

 

「……せりなお姉ちゃん」

 

明彦の、心細げな声がした。

 

顔を上げると、その大きな瞳がもうぼろぼろに濡れている。

何が起きたのか、この子にも分かってしまったのだろう。

おでこの「ひっしょう」のはちまきが、その小さな泣き顔にひどく不釣り合いだった。

 

「おばあちゃん、いっちゃったの……?」

「……うん」

「やだよぉ。おばあちゃん、やさしかったのに……」

 

明彦はそれだけ言うと、わあっと声をあげて泣き出した。

 

私はその栗色の頭を、片方の腕で、ぎゅっと抱き寄せた。

泣きじゃくる私と、泣きじゃくる明彦を、愛奈がまとめて抱きしめてくれる。

冷たい通路の隅で、私たちはしばらくただ三人で身を寄せて泣いていた。

 

歓声は、まだ、遠くで鳴り続けていた。

 

 

流石にショートがよくなかったので、今回の全日本ジュニアで私は表彰台は流石に逃していた。

まあ、それは妥当な結果だったのだろう。

会場をあとにするとき、私は愛奈のコートの陰にすっぽりと隠してもらった。

 

通用口の外には、もう何台ものカメラが集まりはじめていたらしい。

けれど愛奈は慣れた足取りで人混みをすり抜けて、私を車の後ろの席へと押し込んだ。

明彦が私の手をぎゅっと握ったまま、その隣にちょこんと乗り込んでくる。

 

車が走り出すと、窓の外を夜の街のあかりが流れていった。

 

行きの車のなかで、私は「楽しんでくる」と笑っていた。

あのときは胸の奥に、ひとすじの迷いもなかった。

それなのに帰りの車のなかで、私はもう、声も出ないほど泣き濡れていた。

 

「……瀬理奈ちゃん」

「うん」

「無理に泣き止まなくていいのよ。泣きたいだけお泣きなさい。今日くらいは」

 

その一言で私はまた泣いた。

 

明彦も、つられてまた泣いた。

二人ぶんの泣き声を乗せて、車は夜の道路をするすると東京へ向かう。

愛奈はもう何も言わずに、ただ静かにその車を走らせ続けてくれた。

 

 

愛奈の家に帰り着いたのは、もうずいぶん夜も更けたころだった。

 

泣き疲れた明彦は、お風呂にも入らずに布団のなかですぐに寝入ってしまった。

その寝顔は、まだ涙のあとでところどころ光っている。

私はその栗色の頭を、ただぼんやりと眺めていた。

 

「お茶、淹れたわよ」

 

台所から愛奈が、湯気の立つ湯呑みを二つ運んできた。

 

明彦の寝息を確かめて、私は布団を抜け出し台所の椅子に腰を下ろす。

両手で湯呑みを包むと、そのあたたかさが冷えきった指先にじんわりと染みた。

ゆうべと同じ椅子で、ゆうべと同じように、私たちは向かい合った。

 

「……変なのよ」

 

私は、湯気を見つめながら、ぽつりとこぼした。

 

「あんなに悲しいはずなのに。胸の奥のどこかがちょっとだけあったかいままなの」

「うん」

「おばあちゃんが最後にちゃんと笑ってたから。私の滑りを見てよかったって、笑ってくれたから」

 

愛奈は、湯呑みに口をつけたまま、静かにうなずいた。

 

「あなたが渡したかったものはちゃんと渡せたのよ。前世の分も全部。お釣りが来るくらいにね」

 

お釣りが来るくらい。

 

それはおばあちゃんが、最後に遺してくれた言葉だった。

返すどころか、まだ何ひとつ返せていないとゆうべまでの私は思い込んでいた。

それなのにあの人は、もうじゅうぶんだと笑って逝ってくれたのだ。

 

「……愛奈。私はね」

 

私は、湯呑みのなかの、揺れる水面を見つめた。

 

「もう、橘隆志の借りを返すために滑らなくていいんだね」

「ええ」

「これからはただの橘瀬理奈として、滑っていいんだね」

 

愛奈は、湯呑みをそっと置いた。

 

そしてテーブルの向こうから手を伸ばして、私の頭をぽんとひとつ撫でる。

その手つきは、ゆうべ私の額に手のひらを乗せてくれたときと、おなじだった。

 

「ええ。それがお義母さまの一番の願いだったのよ」

 

私はこくりとうなずいた。

 

それから、もう一度静かに泣いた。

さっきまでのただ悲しいだけの涙とは、少しだけ違う涙だった。

悲しいのに、あたたかい。

そんな不思議な涙を、私はその夜何度も何度もこぼした。

 

そんな私たちの静かな夜とは、うらはらに。

 

愛奈の携帯電話は、ひっきりなしに小さく震え続けていた。

画面をちらりと見た愛奈が、ほんの少しだけ眉を寄せる。

それから電源を切って、その電話を棚の上へ伏せて置いた。

 

「外はたいへんなことになっているみたいね」

「外……何が起きているの?」

「ええ。でも今夜のあなたには、関係のないことよ」

 

愛奈が何のことを言っているのか、そのときの私にはよく分からなかった。

 

今、私の世界は、この小さな台所と隣で眠る明彦と、目の前のこの人ですべてだった。

氷の外で何が起きていようと、それはずっと遠い、別の世界のことのように思えた。

私はあたたかいお茶をもうひと口すすって、そっと目を閉じた。

 

けれど——その「外」の世界は、もう、とんでもない速さで動きはじめていたのだった。

 

 

 

朝になって、目を覚ましたとき窓の外はもう白んでいた。

 

ゆうべは、泣いて、泣いて、いつのまにか眠っていたらしい。

隣の布団では、明彦がまだすうすうと寝息を立てている。

泣き腫らした瞼が、まだ少しだけ、じんじんと熱を持っていた。

 

布団のなかで、私はしばらく天井を見つめていた。

 

おばあちゃんは、もういない。

ゆうべ何度も自分に言い聞かせたその事実は、朝になってもちゃんとそこにあった。

胸の奥にぽっかりと穴が空いたみたいに、すうすうと風が通り抜けていく。

 

それでも——その穴のふちは、不思議とあたたかかった。

 

あの人は、笑って逝った。

私の晴れ姿を見て、自慢の孫やと言って、笑って逝ってくれたのだ。

だからこの穴は、ただ冷たいだけの穴ではなかった。

 

そんな風に物思いに更けて居ると、台所のほうから低い話し声が聞こえてきた。

 

愛奈の声と、もうひとつ、聞き覚えのある女の人の声だった。

私はそっと布団を抜け出して、その声のするほうへ向かう。

襖を開けると、台所のテーブルに、愛奈と向かい合って座る人がいた。

 

佑香ちゃんの、お義母さんだった。

 

「あら。瀬理奈ちゃん、起こしちゃったかしら」

「……おはようございます」

「おはよう。ゆうべは、少しは眠れた?」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、いつものやわらかい笑顔で私を迎えてくれた。

 

この人は前に芸能事務所でマネージャーをしていた人で、私のテレビや取材の窓口を引き受けてくれている。

こんな朝はやくにここにいるということは、何かただならぬことが起きているのだろう。

テーブルの上には、何台もの携帯電話と、書類みたいなものが、几帳面に並べられていた。

 

「瀬理奈ちゃん。まずは、おばあさまのことを。心から、お悔やみ申し上げます」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、すっと背筋を伸ばして深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

「つらいときにこんなお話をしてごめんなさいね。でもひとつだけ、瀬理奈ちゃんに知っておいてほしいことがあるの」

 

そう言って、その人はテーブルの上のひとつの画面を、そっとこちらへ向けた。

 

画面のなかはものすごい数の言葉で、埋め尽くされていた。

 

文字が滝みたいに、上から下へとすごい速さで流れていく。

そのどれもが、ゆうべの私のことを書いているのだと、佑香ちゃんのお義母さんは言った。

「銀の天使」という言葉が、その流れのなかに、何度も何度も顔を出している。

 

「ゆうべのあなたの演技はね。テレビでもネットでも、世界じゅうで大さわぎになっているの」

 

佑香ちゃんのお義母さんの声は、静かだった。

 

「音が止まったのに誰も気づかなかったこと。七歳の子が三回転アクセルを跳んだこと。少女そのものが音楽だった、って——みんな、そう言って騒いでいるわ」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、そこでひとつ間を置いた。

 

「でもね。みんながいちばん知りたがっているのは、それじゃないの」

 

その人は、画面をそっとなぞった。

 

「演技が終わったあと、あなたが氷の上でひとつぶだけ涙をこぼしたでしょう。あのカメラがね、それを、はっきりと映していたのよ」

 

私の、あのひとつぶの涙。

 

おばあちゃんが光のなかへ消えていったあの瞬間、頬を伝って氷へ落ちた、あの涙。

それは何百万もの人が見ているテレビの画面に、大きく映し出されていたらしい。

あんなに楽しそうに、あんなにすごい滑りをした子が、どうして最後に泣いたのか——と。

 

「世界じゅうの人が、その理由を知りたがっているの。あの子はなぜ泣いたんだろう、って」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、そこでいったん言葉を切った。

 

そしてまっすぐに私の目を見て、こう続けた。

 

「これはね、瀬理奈ちゃん。あなたとご家族が決めることなの。私が勝手に決めることじゃないわ。あなたとおばあさまのことを世間にお話ししてもいいかしら。それとも、全部そおっとしておきたい?」

 

私は、すぐには答えられなかった。

 

おばあちゃんとのことは、私と、あの人だけの、大切なものだった。

それを顔も知らない大勢の人に話すなんて、少しこわい気もした。

けれど——

 

私は、おばあちゃんの言葉を思い出していた。

 

近所中にまた自慢してまわらなあかんなぁ。

電話の向こうで、おばあちゃんはいつも、そう言って笑っていた。

あの人は、私のことを自慢するのが、本当に好きな人だったのだ。

 

だったら——きっと、隠さなくていい。

 

「……お話ししてください」

 

私は顔を上げて言った。

 

「おばあちゃんはね。私が頑張ってるのをみんなに自慢するのが大好きだったの。だからいいんです。私がおばあちゃんと約束したことを。おばあちゃんがそれを見て笑ってくれたことを。みんなに知ってほしい」

 

佑香ちゃんのお義母さんの目が、ほんの少しだけ潤んだ。

 

そして、いつもの仕事の顔に戻ると、こくりとひとつ深くうなずいた。

 

「分かったわ。あなたとおばあさまの名誉を何ひとつ傷つけないように。私が責任をもってお伝えするわ」

 

その日のうちに、短い文章が世の中へと出された。

 

七歳の銀の天使には、闘病中の祖母がいたこと。

その祖母こそが、孫の楽しそうな晴れ姿を、何より楽しみにしていた人だったこと。

そして——その祖母が孫が氷の上で舞い終えた、まさにそのときに、息を引き取ったこと。

 

その報せが流れた瞬間、世界の騒ぎ方ががらりと変わったのだと、佑香ちゃんのお義母さんにはあとで聞いた。

 

「すごい」「天才だ」と沸いていた声が、いっせいに嗚咽に変わったらしい。

あの子は死にゆく祖母に見せるために、あの滑りを滑っていたのか、と。

最後の涙の意味を知った人々が、画面の前でわっと泣き出したのだという。

 

「祖母との約束を果たした孫」。

 

その物語は、ゆうべの演技の映像とともに、もう誰にも止められない速さで世界じゅうへと広がっていった。

 

 

そして世間が騒いでいたのは、私の涙のことだけではなかった。

 

ゆうべの試合の順位のことでも、ずいぶんと騒ぎになっているらしかったのだ。

佑香ちゃんのお義母さんが、もう一枚の画面をそっと私のほうへ向ける。

そこには、ゆうべの全日本ジュニアの最終的な順位が並んでいた。

 

私の名前は——会場で聞いた通り表彰台の対象ではなかった。

 

「ショートで転んだぶんがね。最後まで、響いてしまったのよね」

 

佑香ちゃんのお義母さんが、静かに言った。

 

ゆうべのフリーで私が出した点数は、ジュニアとしては誰も見たことのない数字だったらしい。

けれど、その前の日のショート。

あの、焦って転んでしまったショートの低い点数が、合計では、どうしても取り返せなかったのだ。

 

ショートとフリーを足した合計点で私は、表彰台には届かなかった。

 

「でも瀬理奈ちゃん、これだけは聞いておいてほしいの。順位がどうあろうとも、ゆうべのあの舞台の本当の一番はあなただって、世界じゅうの誰もがそう言っているのよ」

 

画面のなかの言葉も、たしかにそう書かれていた。

紙の上の順位と、ゆうべ会場となったリンクで起きたことは、別のものだと。

点数では一番じゃなくても、あの夜に人々の心をまるごと奪ったのは、あの銀色の女の子だと。

「本物の優勝者」という言葉が、私の名前のとなりに、いくつもいくつも、並んでいた。

 

正直に言えば、順位のことなんて、もう私にはどうでもよかった。

 

おばあちゃんは、順位なんかじゃなく、私が瀬理奈として楽しそうに舞う姿を見たいと言ってくれた。

そして私が瀬理奈として滑るそれをちゃんと見て、笑って逝ってくれた。

だったら私はもう、いちばん大切な「一番」を、とっくに手にしていたのだ。

 

ただ、世間がいちばん大きな声で嘆いていたのは、まったく別のことだった。

それは、私の「これから」のことだった。

佑香ちゃんのお義母さんが、また少し困ったように画面の文字を読み上げてくれる。

そこには私を惜しむ声が、悲鳴みたいにあふれていた。

 

「あの滑りを、世界はあと十年近くも待たなければならないのか」と。

 

「えっと、どういうこと?」

「あなたはまだ七歳でしょう。決まりでね、大人の選手が出るシニアのいちばん大きな舞台には、あと何年も立てないの」

 

その言葉になるほどと思った。

 

七歳の私が、ずっと年上のお姉さんたちのジュニアに出られたのは、特別なことだった。

けれど、その上のシニアという舞台には年齢の決まりがあって、すぐには上がれない。

あの大きな氷の上で本当に世界と戦えるのは、まだずっとずっと先のことなのだ。

 

「五輪の世界一の舞台であの子が舞うのを見たい。でも、それまで十年近くも待てない」。

 

世間はそう言って、まるで子供みたいに地団駄を踏んでいるらしかった。

 

私はその騒ぎ方を聞いて、ほんの少しだけ笑ってしまった。

 

ゆうべ初めて私を見た人たちが、もう次をその次を欲しがっている。

あと十年も待てないと、本気で嘆いてくれている。

それはなんだか、ありがたいような、こそばゆいような、不思議な気持ちだった。

 

——おばあちゃん。

 

心のなかで、そっと呼びかける。

 

あなたが大好きだった、私の楽しそうな姿。

それを、こんなにたくさんの人が、もっと見たいと言ってくれているよ。

あなたが自慢してくれた孫はね、いま世界じゅうの人に自慢してもらえる子になったんだよ。

 

その報告が、ちゃんと天国まで届くといいなと、私は思った。

そんな私を見る佑香ちゃんのお義母さんの顔が、ふと、曇った。

 

「瀬理奈ちゃん。実はもうひとつ、お話ししなければならないことがあるの」

 

その声の調子が変わったので、私は湯呑みから顔を上げた。

これまでのやわらかい声とは違う、少しだけ重たい響きだった。

テーブルの向こうで愛奈も静かに、佑香ちゃんのお母さんのほうを見ている。

 

「ゆうべね。瀬理奈ちゃんが滑っているあいだに、音楽が途中で止まってしまったでしょう」

 

——音楽が、止まった。

 

ああ、そういえば、と私はぼんやり思い出した。

あの数分のなかで、スピーカーの音が途切れたのは、たしかに分かっていた。

私の耳は、頼んでもいないのに、そういうことを勝手に拾ってしまうから。

 

けれど、それが、どうしたというのだろう。

あの曲は、もうずっと前から、私のなかで鳴っていたのだから。

スピーカーが鳴ろうと鳴るまいと、私の滑りには、何の関わりもなかったのだ。

 

「あれは、事故じゃなかったの」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、言葉を選びながら続けた。

 

「ある選手のお友達の女の子が、音響の機械のところへ駆け寄って。無理やり音を止めようとしたそうなの」

 

私は、息を呑んだ。

 

誰かが、わざと。

私の演技の途中で、音楽を止めようとした。

それがどういうことなのか、さすがの私にもすぐには飲み込めなかった。

 

「それで、いまその子のことが、ネットで大さわぎになっているの」

 

佑香ちゃんのお義母さんの指が、また画面の上を滑る。

そこに流れる言葉は、さっきまでの涙混じりのものとはまるで色が違っていた。

 

怒りだった。

 

許せない、卑怯者だ、二度と氷に立たせるな。

死にゆく祖母に捧げる最後の演技を、嫉妬で台無しにしようとするなんて、と。

ゆうべ私のために泣いてくれたやさしさが、いまは、まるで刃のように尖っていた。

 

「連盟も、これは見過ごせないと言っているわ」

 

佑香ちゃんのお義母さんが、静かに言った。

 

「試合の最中に他の選手の演技を妨害した。これはとても重い違反なの。下手をすればその子はもう二度と、試合に出られなくなるかもしれない」

 

二度と、試合に出られない。

 

その言葉が、私の胸に、ことりと重く落ちた。

私の頭に浮かんだのは、ゆうべ通路で私を見下ろした、あの背の高い女の子の顔だった。

ショートで転んだ私を笑っていた、あの子だった。

 

私は湯呑みを握ったまま、しばらく考え込んだ。

 

正直に言えば、あの子が私にしたことは悲しかった。

楽しく滑ろうと決めた私の音楽を、止めようとしたのだから。

けれど――その子の気持ちが、私には、なんとなく分かってしまうのだ。

 

だって私も、ゆうべの前の日。

焦って、力んで、無様に転んだばかりだったのだから。

 

あのとき私は、頭が真っ白になって、自分でも何をしているか分からなくなった。

人は追い詰められると、こんなにも簡単に、いつもの自分でいられなくなる。

あの子もきっと、わけの分からないものを見せられて、頭が真っ白になったのだ。

 

私は、顔を上げて、口を開いた。

 

「……佑香ちゃんのお義母さん」

「うん。なあに、瀬理奈ちゃん」

「その子のことをあんまりきつく罰しないでほしいように、連盟の方に伝えられないかな?」

 

佑香ちゃんのお義母さんが、おどろいたように目を見開いた。

愛奈も、湯呑みを口に運ぶ手を、ふと止める。

私は、自分の気持ちを、ひとつひとつ言葉にしていった。

 

「私は、前の日のショートで転んだの。すごく焦ってぜんぜんだめだったんだ。だからよく分かるの。人は焦ると、いつもの自分じゃなくなっちゃうんだって」

「うん」

「あの子もおんなじだったんだと思う。だから一回そうしちゃったのだとしても、二度と氷に立てないなんていやなのよ。あの子から完全にスケートを取り上げるのは、いやなの」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、しばらく何も言わなかった。

 

ただ、まじまじと私の顔を見つめている。

それから何かをこらえるように、口元をゆがめた。

その目のふちが、見る間にじわりと赤くなっていく。

 

「あなたって子はほんとうに。自分の晴れ舞台をめちゃくちゃにされかけたのに。それでもその子を庇うのね」

「だって。私も、焦って目の前が見えなくなって転んだんだもの」

「……うん、分かったわ。あなたの気持ちも連盟にちゃんとお伝えします」

 

その日、私のその願いも、世の中へと伝えられた。

 

妨害をされかけた本人が、その相手を厳しく罰しないでほしいと願い出た、と。

自分もショートで転んだから、焦る気持ちが分かる、と言った、と。

怒りに尖っていた言葉たちが、その報せでまた涙に溶けていったらしい。

 

「天使は、心まで天使だった」。

 

私の知らないところで、世界は何回も私のことで大さわぎになっていた。

けれど私はもうその騒ぎを、どこか遠いお祭りの音みたいに聞いていた。

 

佑香ちゃんのお義母さんは、てきぱきと残りの段取りを片づけてくれた。

私はまだ七歳の子供で、おばあちゃんを亡くしたばかりだ。

だから記者の人たちと直接会うことは、いっさいしなくていいのだとその人は言った。

 

「あなたは何も心配しなくていいの。ただ、おばあさまのところへいってらっしゃい」

 

佑香ちゃんのお義母さんは、そう言って私の肩にそっと手を置いた。

 

「お別れをちゃんとしてきてね。お仕事のことはぜんぶ私が引き受けるから」

「……ありがとうございます」

「お礼なんていいのよ。うちの佑香を、お友達にしてくれた恩返しだもの」

 

前も聞いた、その言葉だった。

こうして私を世間の喧騒から守る壁を、その人がぜんぶ引き受けてくれた。

 

おかげで私はカメラにも記者にも煩わされることなく、旅の支度をすることができた。

鞄に詰めたのは、黒いワンピースと、白いタイツ。

おばあちゃんに、お別れを言いにいくための、服だった。

 

 

翌朝まだ夜も明けきらないうちに、私たちは家を出た。

 

愛奈の車で東京駅まで送ってもらい、いちばんはやい新幹線に乗り込む。

明彦が眠そうに目をこすりながら、私の隣にちょこんと座った。

冬の朝の冷えきったホームの空気が、頬をきゅっと刺していった。

 

——この道は前にも通った。

 

ふと、ひと月ほど前のことが頭をよぎった。

おばあちゃんの病気を知らされて、まだ生きているあの人に会いにいったあの朝のこと。

あのときも私は、こうして夜明け前の新幹線に揺られていたのだ。

 

あのときの私は間に合うのかと、ただそれだけを念じていた。

でも、あの人はもう待ってはいない。

私が向かう先にいるのは、生きているおばあちゃんではなくその亡骸なのだ。

 

新幹線が動き出す前に、愛奈がホームの売店でおにぎりを買ってきてくれた。

ほんとうなら、ここで私は、あの茶色い包みの駅弁を探したのかもしれない。

牛肉のしぐれ煮の、地味だけれど、前世から旅のたびに食べてきた、あの駅弁。

でも、駅弁も、俺も、そして——おばあちゃんも。

いつのまにか静かに、終わりへと近づいていたのだ。

 

私はおにぎりを半分だけ食べて、窓の外を流れていく冬枯れの景色を、ぼんやりと眺めた。

 

青々としていた田んぼは、いまはすっかり茶色く枯れている。

半年も経たないうちに、世界はこんなにもその姿を変えてしまう。

明彦は、私の肩にこてんと頭を預けて、もう一度すうすうと眠ってしまっていた。

 

新大阪の駅に着いたのは、昼前のことだった。

ホームに降りると、乾いた冬の風が、ひゅうっと首筋を撫でていった。

私たちは電車を乗り継いで、おばあちゃんの住む、あの古い商店街のある町へと向かった。

 

おばあちゃんの家の前には、見慣れた顔が、いくつか立っていた。

 

黒い喪服を着た、父さんと母さん。

そして、おばあちゃんによく似た、大叔母さん。

私たちの姿を見つけると、母さんがふらりとこちらへ歩み寄ってきた。

 

「……瀬理奈」

 

母さんの声はかすれていた。

 

ここ数日の間、ずっと泣いていたのだろう。

その目は赤く腫れ頬はやつれひとまわり小さくなったように見えた。

看病で疲れ果てたその顔に、私は思わず駆け寄った。

 

「パパ、ママ、ただいま。私は来たよ」

「ああ瀬理奈、よく来たな。遠かっただろう」

「……ママ。私の代わりに、ずっとおばあちゃんのそばにいてくれたんだね。ありがとう」

 

——その瞬間。

 

母さんの動きが、ふと止まった。

私を抱きしめようと伸ばしかけた腕が、宙で、わずかにこわばる。

そして、おどろいたように見開かれた目が、まじまじと私の顔を見つめた。

 

「瀬理奈……いま、あなた」

 

母さんが、ぽつりと言った。

 

「いま、自分のこと、『瀬理奈』じゃなく『私』って、言ったの……?」

 

——あ。

 

私は自分の口にした言葉にそこで初めて気づいた。

 

「私」。

 

全日本ジュニアのフリーの朝から、自分でもおどろくほどすとんと舌に馴染んでしまった、その一文字。

それは、これまでずっと使ってきた、「瀬理奈」ではなかった。

 

父さんと母さんは、私が橘隆志の生まれ変わりだと知っている。

この世でたった四人だけが知る、私の秘密。

それを、私は手放した。

 

母さんの目から、見る間に涙が盛り上がってくる。

何かを言おうとして、けれど言葉にならなくて、その唇がふるふると震えた。

父さんも、その隣でぐっと奥歯を噛みしめている。

 

「……おばあちゃんが」

 

私は二人を見上げて、静かに言った。

 

「最後に言ってくれたの。瀬理奈ちゃんは瀬理奈ちゃんやって。瀬理奈として楽しく生きてほしいって。だから私は——もう無理に隆志じゃなくてもいいんだって思えたんだ」

 

母さんがたまらず私を抱きしめた。

 

骨が軋むほど、強く、強く。

その肩が声を殺して、小刻みに震えている。

私はその腕のなかで、母さんの背中をそっと撫でた。

 

「……瀬理奈。おばあちゃんね」

 

母さんが、私の耳元で、ささやくように言った。

 

「最後にあなたのこと、隆志って呼んだのよ」

 

私はこくりとうなずいた。

 

そのことは、もう愛奈から聞いて知っていた。

けれど、その場にいた母さんの口から聞くと、また違う重みがあった。

テレビであのショートを見て、歯を食いしばって立ち上がる私の姿に、気づいたのだという。

 

あと半歩のところでいつも止まっていたおばあちゃんの手は、最後の最後でその半歩を踏み越えたのだ。

血のつながらないこの身体に宿った、孫の魂をちゃんと見つけ出して。

 

母さんは私を抱きしめたまま、しばらく何も言わなかった。

その胸のなかには、きっといろんな思いが渦巻いているのだろう。

 

亡くした息子のこと。

その息子の名を、義理の母がいま生きている私に向かって呼んだこと。

それは、簡単には言葉にできない複雑な何かであるはずだった。

 

けれど母さんは、それをいまは何も口にしなかった。

 

ただ私を抱きしめる腕に、ありったけの思いを込めて。

そして、最後にひとことだけ、こう言った。

 

「……おかえりなさい、瀬理奈。よく、帰ってきてくれたわね」

 

おかえりなさい。

 

その言葉が隆志にではなく、瀬理奈に向けられたものだということが、私には分かった。

母さんは、ちゃんと私を「瀬理奈」として、迎えてくれたのだ。

私はその胸のなかで、もう一度静かに泣いた。

 

 

 

おばあちゃんのお葬式は、その日の午後にしめやかに営まれた。

 

会場の正面には、おばあちゃんの大きな写真が、白い花に囲まれて飾られていた。

あの薄紫のカーディガンを着て、ふっくらと笑っている写真だった。

病気になる前の、いちばん元気だったころの笑顔だった。

 

——ああ。

 

私は、その遺影を見上げて、思わず息を呑んだ。

 

それは氷の上のフェンスの向こうに立っていた、あのおばあちゃんとそっくり同じ顔だったのだ。

やわらかい笑い皺。

ふっくらとした頬。

最後にもう一度だけ、私に会いに来てくれたときのあの顔だった。

 

お坊さんの読むお経が、低く、静かに、会場に流れていく。

 

参列してくれた人は、思っていたよりも、ずっと多かった。

ご近所のおばあさんたち。お茶飲み仲間だったという人たち。

みんな口々に、関西の言葉で、おばあちゃんのことを話していた。

 

「あんたが、瀬理奈ちゃんかいな」

 

ひとりのおばあさんが私のそばへ来て、しわしわの手で私の手を握った。

 

「ようテレビで見とったで。孫やいうていっつも自慢しとったわ。来てくれておおきにな」

「……ありがとうございます」

「あの子も喜んどるわ。ほんまに別嬪さんやなぁ」

 

おばあちゃんは、私が思っていたよりもずっとたくさんの人に愛されていた。

 

そしてそのたくさんの人に、私のことを自慢して回っていたのだ。

近所中に、また自慢してまわらなあかんなぁ。

電話の向こうのあの言葉は、ちっとも冗談なんかじゃなかったのだ。

 

やがて、最後のお別れの時間が来た。

 

おばあちゃんの眠る棺の中に、みんなが一輪ずつ白い花を手向けていく。

私も母さんに支えられて、その棺のそばへと進んだ。

そして、そっと中をのぞき込んだ。

 

おばあちゃんは眠っていた。

 

ほんとうにただ眠っているみたいにおだやかな顔だった。

病室で見たあの苦しそうな浅い息は、もうどこにもない。

痩せて骨ばってはいたけれど、その口元にはかすかに笑みさえ浮かんでいるように見えた。

 

——楽しかったかい、瀬理奈ちゃん。

 

最後にそう訊いてくれた声が耳の奥でよみがえる。

 

私は握りしめていた白い花を、おばあちゃんの胸元へそっと添えた。

それから骨ばったその手に、私の手をもう一度だけ重ねた。

病室で握ったときよりも、その手はずっと冷たくなっていた。

 

それでも、私は泣かなかった。

 

ここで泣いたら、おばあちゃんを困らせてしまう気がしたから。

あの人がいっとう好きだったのは、楽しそうに笑う私だったから。

私はぐっと涙をこらえて、おばあちゃんの耳元へそっと顔を寄せた。

 

「おばあちゃん。来てくれてありがとう。私の滑りを見ててくれてありがとう。ちゃんと楽しく滑れたよ。だから——もう、心配しないでね」

 

私のささやきは、きっと人の耳には届かない。

 

それでもおばあちゃんには、ちゃんと届いた気がした。

私は顔を上げて、最後ににっこりと笑ってみせた。

棺の蓋が静かに閉じられて、あのやわらかい笑顔が白い花の向こうへゆっくりと隠れていった。

 

 

すべてが終わって、私たちはおばあちゃんの家へと戻った。

 

がらんとした家のなかは、しんと静まりかえっていた。

ついこの前まで、ここにあの人の気配があったはずだった。

薄紫のカーディガン。漬けものの匂い。関西弁のやわらかい声。

 

それがもう、どこにもないのだということが、この家の静けさにはっきりと刻まれていた。

 

奥の和室に小さな仏壇があった。

その中には、二枚の写真が並んでいる。

ひとつは、若いころのおじいさんの写真。

そしてその隣に——若いままの橘隆志の写真があった。

 

その二枚の前に、いま新しい遺影がそっと置かれていた。

 

薄紫のカーディガンを着て、ふっくらと笑うおばあちゃんだった。

おじいさんと、隆志と、おばあちゃん。

三人の笑顔が小さな仏壇のなかに、寄り添うように並んでいる。

 

「……瀬理奈。少し、二人にしてやろうか?」

 

ふと父さんが、私の肩にそっと手を置いて言った。

 

私が見上げると、父さんは何も言わずに小さくうなずいた。

そして、母さんと愛奈と明彦をうながして、静かに部屋を出ていく。

父さんはきっと分かっていたのだ。私があの人に報告したいことがあることを。

 

和室には、私と、仏壇の三人だけが残された。

 

私は、仏壇の前にちょこんと正座した。

おりんを、ちーん、と一度だけ鳴らす。

澄んだその音が静かな和室に、長い余韻を引いて消えていった。

 

「……おばあちゃん」

 

私は遺影の笑顔を見上げて、口を開いた。

 

「全日本ジュニア、フリーまでちゃんと滑ってきたよ。私、いままでで、いちばん楽しく滑れたんだ」

 

写真のなかのおばあちゃんは、ただ、にこにこと笑っている。

 

「点数は、一番じゃなかったんけどいいんだ。おばあちゃんが楽しそうにしてるのが一番だって、言ってくれたから。だから私、ちゃんと私の一番のことを、できたんだよね?」

 

返事はない。

 

それでも不思議と、声が届いている気がした。

真夜中の静けさのなかでなら、なんや声が届く気がするんよ。

いつか、おばあちゃん自身がそう言っていたような、そんな気がした。

 

私は続いて、おばあちゃんの遺影のとなりの隆志の写真へと、目を移した。

 

若いままの橘隆志。

写真になると決まってしていた、ちょっと困ったような笑顔だった。

おばあちゃんは長いこと、この写真に向かって、死んだ孫に話しかけてきたのだという。

 

その孫がほんとうはすぐそばで、二度目の生を生きていたことも知らずに。

 

——けれどちゃんと気づいてくれた。

 

テレビの向こうで歯を食いしばる私を見て、おばあちゃんは見抜いてくれた。

隆志が、瀬理奈になって、帰ってきたことを。

あと半歩でいつも止まっていたあの手は、最後の最後でその半歩を踏み越えたのだ。

 

だから——おばあちゃんは隆志に会えなかったわけじゃない。

 

ちゃんと、会えたのだ。

生きている、この私のなかに。

死ぬ前のほんのわずかなあいだに、おばあちゃんはいなくなった孫ともう一度めぐり会えたのだ。

 

そう思うと、私の胸の奥がじんと熱くなった。

 

「ねえ、おばあちゃん。私はね、今日で隆志をやめ用と思うの」

 

やめる、というのは、少し違うのかもしれない。

 

隆志がいなくなるわけじゃない。

隆志は、いまも私の根っこにいる。

ただ私はもうその名前で自分を縛るのを、やめるのだ。

前世の後悔も、果たせなかった孝行も、ぜんぶここに置いていく。

 

「これからは橘瀬理奈として生きていくね。隆志の借りを返すためじゃなくて、私が楽しいから滑るの。それでいいって、おばあちゃんが言ってくれたから」

 

写真のなかのおばあちゃんが、うんうんと、うなずいてくれた気がした。

 

私の頬を、つうっと、ひとすじだけ涙が伝った。

 

けれど、それは悲しい涙ではなかった。

あったかくて、やわらかくて、しみじみと胸にしみる、そんな涙だった。

私は、その涙を拭おうともせずに、にっこりと笑った。

 

「これからも、私はいっぱい滑るよ。ピアノもいっぱい弾く。おばあちゃんが見えなくなっても」

 

私はそっと両手を合わせた。

 

そして心のなかで、ひとつだけ約束をした。

いつか、おばあちゃんのための曲を、ひとつ作ろう。

あの人がいっとう好きだった、楽しそうな私をその曲にぜんぶ込めて。

 

いつかそれを氷の上で舞って、天国のおばあちゃんに届けるんだ。

 

私はもう一度、おりんを鳴らして、深く頭を下げた。

 

ちーん、という澄んだ音が、和室に静かに響いていく。

顔を上げると障子越しの冬の西日が、仏壇の三人をやわらかく照らしていた。

三つの笑顔が、夕日のなかでほのかに金色に光っている。

 

さよならおばあちゃん。

 

私は心のなかで、そっと別れを告げた。

 

そしてそれは、おばあちゃんへの別れであると同時に。

――私の胸のなかにずっといた「橘隆志」という男への、静かな別れでもあった。

 

 

私はずっと、二つの人生を生きてきた。

 

可愛い女の子を演じ、内では三十歳の男のままでいる。

その二重の暮らしのいちばん芯にあったのが、橘隆志の「俺」という一人称での視点だった。

それを私はおばあちゃんに見送られて、そっと手放したのだ。

 

これからの私は、もう誰かの借りを返すための私では、ない。

 

橘瀬理奈として、自分が楽しいから、氷の上を舞う。

肩の荷を、ぜんぶあの夕日のなかへ置いていく。

七歳までの私の幼年期は——ここで、静かに終わったのだった。

 

障子の外で、冬の日がゆっくりと暮れていく。

 

仏壇の三人の笑顔を、最後にもう一度だけ見つめて私は立ち上がった。

襖の向こうでは、父さんたちが私を待っていてくれるはずだった。

そして、その先には——橘瀬理奈としての、新しい毎日が待っている。

 

私の、本当の物語は。

 

きっと、ここから始まるのだ。




めっちゃ物語の締め感が漂う3章完了ですが、俺たちの戦いはこれからだ!にはなりません。
もう少しお付き合いいただければと思います。


いや、このまま終わらせてもいいかなーとはちょっと考えたりもしました。
でもぷろろーぐまでは頑張る!w
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