銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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ふたつの姉弟
第四章 第一話 銀盤に吹く新しい風


桜はとうに散ってしまい、葉緑が日に日にまぶしくなる季節になりつつあった

 

おばあちゃんの四十九日の法要をつつがなく済ませたあと、私は小学三年生に進級していた。

あの師走の終わりから、気づけばもう、半年近くが過ぎようとしている。

凍えるほど冷たかった大阪の風も、いまごろはやわらかな春の色に変わっているのだろう。

 

真新しい教室の匂いにも、ひと月が経って私はすっかり馴染んでしまっていた。

窓の外では新緑の若葉が、朝の光を受けて、つやつやと揺れている。

去年とおなじように、進級した私のクラスには、見慣れた顔ぶれがちゃんと揃っていた。

 

「瀬理奈ちゃん、おはよう。今年もとなりの席だね」

「佑香ちゃん、おはよう」

 

朝の教室に入ると、佑香ちゃんがぱっと顔を上げて手を振った。

肩までの黒髪を、今年もきっちり二つに結んでいる。

進級してまた私のとなりになれたのがよほど嬉しかったらしい。

 

「瀬理奈ちゃんっ、おはよう! きのうのテレビ、わたしも見たよ~」

 

少し遅れて、ひかりちゃんが元気よく教室に駆け込んできた。

ピンクの手提げ袋を揺らして、相変わらず私のまわりをくるくると表情を変えながら飛び回っている。

裏も表もない、見ているこっちまで明るくなるような子なのは今年も変わらなかった。

 

「ひかりちゃん、声が大きいよ?」

「あ、ごめんごめん、佑香ちゃん。でも本当にすごくきれいだったんだもん!」

「瀬理奈お姉ちゃん、おはよう」

「明彦くんも、おはよう」

 

最後に、明彦が少し遅れて教室に入ってきた。

私と目が合うと、ほっとしたようにちいさく笑った。

去年とおなじ顔ぶれが、今年もまた、私のまわりに揃っている。

たったそれだけのことが、大事な人を喪った私には嬉しかった。

 

「瀬理奈ちゃん。わたし、最近ずっと思うんだけどね」

「なに、佑香ちゃん?」

「瀬理奈ちゃんが自分のこと『私』って言うの、わたしはけっこう好きだよ」

 

その何気ないひと言に、私はほんの少しだけくすぐったくなった。

 

そういえば、と思う。

全日本ジュニアのあの朝から、その一文字はすっかり私の舌に馴染んでしまっていた。

前はたしか、自分のことを「瀬理奈ね」なんて呼んでいたはずだった。

 

「前は『瀬理奈ね』って言ってたのに、なんだか急にお姉さんになったみたいで」

「……そうかな?」

「うん。ちょっとさびしいけど、でもかっこいいなって思うの」

 

佑香ちゃんは、そう言ってにこっと笑った。

思えば長い付き合いだから、この「私」という一文字の重さも、どこかで感じ取っているのかもしれない。

 

そう。

 

おばあちゃんがいなくなって、

私の胸には、いまもまだ、ぽっかりと穴がひとつ空いたままだった。

 

その穴のふちは、不思議とあたたかい。

おばあちゃんは、あの人は私の晴れ姿を見て、笑って逝ってくれたのだから。

それでも半年が経ったいまになって、私はべつの戸惑いに、静かに飲み込まれはじめていた。

 

「瀬理奈ちゃん、今日もスケートの練習でしょ。がんばってね」

「うん。ありがとう、佑香ちゃん」

「あ、わたしの心はね。ほかの場所に居ても今日もちゃんとリンクに飛んでいくから」

「もう、心ここにあらずだと、佑香ちゃんが危ないよ」

 

小学三年になって佑香ちゃんもひかりちゃんも、私を見ているだけではなく自分でしたいことを別に始めたのだ。

それは、昨年大会には来れなかったひかりちゃんの、とっておきの言い回しだった。

言葉はすっかりお姉さんになった言い方だったけれど、その中身は初めて会った頃のままだ。

私はその言葉にふと笑って、教室の窓の外の若葉を見上げた。

 

 

学校が終わると、いつものように区民スケートクラブへと向かう。

 

川沿いの、あの古びたスケートクラブ。

色あせた看板も、年季の入った銀色のCDプレイヤーも、何ひとつ変わってはいない。

今日も愛奈が車で送ってくれて、明彦が見学のベンチに、ちょこんと腰かけている。

 

けれど今年のこのリンクには、ひとつだけ、大きく変わったことがあった。

リンクサイドに、紺色のダウンの永田さんと並んで。

黒いコートを着た、背の高いもうひとりの人が、立っているのだ。

 

九条英二さん。

去年の年の瀬に、たった一度だけ私を見にきてくれた、あの人だった。

ヨーロッパで長く選手を教えていたその人が、いまは海を越えて、この小さなリンクに立っている。

 

「来たか、橘」

「……こんにちは、九条さん」

「挨拶はいい。さっさと氷に乗れ」

 

相変わらず、余計な前置きはひとつもない。

七歳の――いや、もう八歳になった私を、この人は今年も一人前の選手として扱う。

腫れ物に触るような目で見られないことが、私にはやっぱり心地よかった。

 

氷に乗ると、九条さんはあの曲を流してくれた。

家のピアノで何千回となく撫でてきた、あの曲だ。

私は深く息を吸い込んで、ステップを踏みはじめた。

 

ターンを切って、エッジを刻み、そして跳ぶ。

身体は、自分でもおどろくほど軽かった。

あの全日本ジュニアの夜に跳んだ三回転半さえ、いまではもう、危なげなく氷へ降ろせる。

 

曲のせり上がりに合わせて、私は前を向いたまま、氷を蹴った。

一回転、二回転、三回転――そして、もう半分。

雪がひとひら積もるみたいに、ブレードが音もなく氷へ降りた。

 

着氷は文句のつけようもないくらい、きれいに決まった。

跳ぶ高さも回る速さも、半年前よりずっと安定しているはずだ。

技術だけを見れば、私の滑りはたしかに日に日に冴えわたっていた。

 

けれど――それだけ、だった。

 

あの夜、私を満たしていた音楽は。

最初の一音で、手綱ごと自分を手放した、あの感覚は。

いくら氷の上で曲を流しても訪れてくれなかった。

 

跳べる。

回れる。

きれいに滑り、舞い踊ることができる。

それなのにいちばん肝心な「あれ」だけが、ちっとも顔を出してくれないのだ。

九条さんの言う、あの、音に委ねる一瞬が。

 

理由は、自分でもなんとなく分かっていた。

 

私はもう、おばあちゃんのために滑ってはいない。

楽しそうな晴れ姿を見せたかった、あの人はもういないのだから。

今はもう借りを返そうと無理に力んでいたわけでもなかった。

その借りも、とっくに帳消しになっている。

 

おばあちゃんは最後に、私を縛るものを、ぜんぶ解いていってくれた。

これからは瀬理奈として、好きなように楽しんで生きてほしい――と。

それは、何より温かい、心が温まる贈りものだったはずだ。

 

でも。

肩の荷をぜんぶ下ろしたはずのその場所で、私はいま、静かに途方に暮れていた。

 

私は、何のために滑るんだろうか。

 

おばあちゃんのためでも、隆志の借りのためでもないのなら。

私はいったい、誰に、何を見せるために、この氷の上に立っているんだろう。

楽しいから滑る――頭ではそう決めたのに、その「楽しい」の在りかが、不意に分からなくなってしまったのだ。

 

葬儀の後、仏壇の前で私はひとつ約束をしてきた。

いつかおばあちゃんのための曲を作り、氷の上でそれを舞って天国のあの人に届けるのだと。

けれど、その曲は。

まだ、最初の一音すら、私の指から生まれてはこなかった。

 

最後のスピンをぴたりと止めて、私は決めのポーズをとる。

おさめることをやめた滑りにも慣れ、息は激しくはないが上がっている――でも余力がまだあることも私は理解している。

それはきっと、私がまだ、自分のぜんぶを出しきってはいない証だった。

 

リンクサイドの九条さんは、腕を組んだまま、何も言わなかった。

ただその鋭い目で、氷の上の私を、じっと見つめている。

紺色のダウンの永田さんも、その隣で、ひとつちいさく息をついただけだった。

 

 

 

 

――氷の外から、永田は、その小さな背中をじっと見つめていた。

 

技術だけならもう文句のつけようがない、ノービスの嵐と言われるのは当然だ。

跳ぶ高さも、回る速さも、半年前とは比べ物にならないほど伸びている。

でも、それでもあの夜の滑りには、まだ遠く届いていなかった。

 

理由など、永田にも痛いほど分かっていた。

だからこそ、その記憶へと永田の思いはそっと立ち返っていく。

 

あの晩。

 

全日本ジュニアの、フリーの夜のことだった。

 

すべてが終わって、瀬理奈も帰宅した後、永田は誰もいなくなった控えの隅で、まだ呆然と立ち尽くしていた。

七歳の女の子が、音もなく三回転半を跳び、静かに降ろした。

スピーカーの音が途切れたことに、満員の客席の誰ひとり、気づきもしなかった。

少女そのものが、音楽だった。

 

あんなものを、あんな滑りを、永田は生まれて初めて見たのだ。

 

手のなかには、瀬理奈から受け取った水色のお守りが、まだぎゅっと握りしめられたままだった。

指の震えは、身体の震えは、いつまで経ってもいっこうに止まらなかった。

 

そのときだった。

上着のポケットのなかで、携帯電話がぶるりと震えた。

 

画面に表示された名前を見て、永田はふふっと笑ってしまった。

こんな夜の、こんな時間に。

海の向こうから電話をよこす男など、あいつのほかにいるはずもなかった。

 

「……もしもし、九条だよな?」

『永田か。おい、見たぞ。あいつが滑るのを見た、凄まじい。本当にすさまじかった』

 

電話の向こうの声は、いつもの九条のものではなかった。

低く、よく通るその声が、めずらしく、わずかに上ずっている。

多くの選手を教え、何事にも動じないはずのあの男が、僅か七歳の女の子の滑りひとつに、まるで子供のように興奮していた。

 

『あれはなんだ? 永田、いったいお前、あの子に何を教えたんだ』

「いや。俺は、何も教えちゃいないさ」

『何も……だと?』

 

永田は、誰もいないリンクのほうへ目をやった。

ついさっきまで、あの子が音楽になって舞っていた、その場所だ。

 

「俺がしたのは、お前を呼んだことだけだ。ブレーキを捨てさせたのはお前なんだよ、九条」

『……ふん』

「あの子は、自分ひとりであの滑りの蓋を開けたんだ。誰の手も借りずに……は違うかもしれないけど、ひとりでな」

『そうか……』

 

電話の向こうで、九条が長く息を吐くのが分かった。

 

『永田。前に俺は言ったよな』

「ああ」

『本当にブレーキを捨てる気になったら、連絡しろと』

 

永田の胸が、とくりと小さく高鳴った。

あの年の瀬の朝、別れ際に九条が残していった、あの言葉。

それを、今この男は自分から持ち出してきたのだ、ならば理由など言うまでもない。

 

『あの子はもう、捨てた。扉を開けた、連絡を待つまでもない』

「九条、お前……」

『俺が行く。あの子は俺が見る、今すぐにでも』

 

永田は、受話器を握る手に思わず力を込めた。

 

向こうには、長年かけて築いてきた拠点がある。

手塩にかけて育てている選手たちがいる。

それを、この男は、たった一人の女の子のために放り出そうというのか。

 

「いいのか? 向こうの教え子たちだっているだろう?」

『もちろん後事は尽くす、知り合いに頼むつもりだ。あいつらなら、もう一人で立てる頃合いだ』

「……そうか、ありがとう」

 

九条の声は、もう、いつもの落ち着きを取り戻していた。

けれどその奥には隠しきれない熱がまだ燻っている。

 

『永田、俺はな。世界中のどこを探したってあんな滑りは見られんと思っていた。橘のあの滑りはフィギュアと言う常識を、限界を超えた領域にすら差し掛かっている』

「うん」

『それが極東の小さなリンクから出てきたんだ――行く先を見届けずになど、死ねるものかよ』

 

その言葉に、永田は声を出さずに笑った。

腫れ物に触るどころか、この男はあの子を全力で育てる気でいる。

それは永田がずっと待ち望んでいた、何よりの報せだった。

 

 

翌日、九条は再度電話をかけてきた。

 

『……ニュースで見た。あの子の祖母のことも』

「ああ」

『そういうことだったんだな。あの最後の、ひとつぶの涙ってのは』

 

九条の声が、ほんのわずか低くなった。

あの夜の奇跡の裏で、ひとりの人がこの世を去ったことを。

この男もまた、遠い空の下でちゃんと受け止めていたのだ。

 

『橘はしばらくつらいだろうな』

「……ああ。そうだろうな」

『まあいいさ。とにかく、俺は後事と準備が付きしだい行く。話はそれからだ』

 

そうして電話は、ぷつりと切れた。

 

冷たいリンクの横で、永田はしばらく携帯電話を見つめていた。

それからもう一度、手のなかのお守りをぎゅっと握りしめる。

あの子のこれからに心強い味方がひとり、海の向こうから駆けつけてくる。

 

 

九条が本当に海を渡ってきたのは、それからほどなくのことだった。

 

ヨーロッパの拠点を、信頼できる知り合いにそっくりそのまま託して。

この男は身ひとつで日本へと舞い戻ってきたのだ。

 

来日して間もないある晩、永田は九条を古い居酒屋へと誘った。

 

すすけた暖簾をくぐった奥の小上がりで、二人は差し向かいに腰を据えた。

冷えた瓶ビールを酌み交わすのは、いったい何年ぶりのことだったろうか。

若い頃に同じ氷の上で汗を流した古い間柄の二人だった。

 

「しかし、驚いたよ。お前が本当にここまで早く来るとはな」

「言っただろう。俺が行くと」

「ああ。けれども向こうの拠点まで畳んでくるとは思っていなかった」

 

九条は、手酌でぐいと杯をあおると鼻を鳴らした。

 

「畳んじゃいない。知り合いに預けてきただけだ」

「同じようなものだろう」

「……まあいいさ、どうせ向こうも潮時だったんだよ。こうなってしまったからには」

 

永田は手のなかの杯を、ゆっくりと回した。

そのなかで揺れる琥珀色を見つめながら、ひとつ息を吐く。

 

「九条、あの子のことはこれからお前に任せる」

「確認するが、本当にそれでいいんだな、永田」

「そうだな、俺にはあの子をてっぺんまで連れていく手腕がない。それは、とっくのとうに分かっていたことだ」

 

口にすると、胸の奥が、少しだけ疼いた。

 

自分が見つけた原石を、自分の手で磨ききれない。

それを認めるのは、指導者としてやはり寂しいことだった。

それでも、あの子の翼を、自分のところで籠に閉じ込めて折るわけにはいかなかったのだ。

 

「だが、九条。ひとつだけ頼みがあるんだ」

「なんだ、言ってみろ」

「あの子を、勝ち負けだけの道具にだけは、しないでやってくれ」

 

九条は杯を置いて、永田の顔をじっと見た。

 

「あの子の滑りはな、勝つためだけのものじゃない。誰かに何かを届けるためのものなんだ」

「……」

「それだけはお前のところでも、どうか忘れさせないでやってくれ」

 

しばしの沈黙のあと、九条はふっと口の端をゆるめた。

それから手酌でもう一杯注ぐと、その杯を永田の杯にこつんと当てる。

 

「心配するな。橘の根っこを叩き折るような野暮はしやしないさ」

「……そうか、安心したよ」

「お前が拾った原石なんだ。世界一の宝石に磨いて、お前に見せてやるよ」

 

その不器用な言い回しに、永田は思わず噴き出してしまった。

 

世界一の宝石。

あの男が、九条が、そこまで言うのだ。

ならばもう、何の心配もいらなかった。

 

「未来の宝石に、乾杯」

「ああ、乾杯だ」

 

その晩、二人はずいぶんと遅くまで飲んだ。

昔話に花を咲かせ、あの子のこれからを語り合い、何度も杯を重ねた。

古い友のひとりが海を越えて帰ってきた夜は、ただ、温かかった。

 

 

――そうして九条はいま、この小さなリンクに立っている。

 

永田は、回想からそっと目を上げた。

氷の上のあの子は、相変わらず、危なげなく技を並べている。

 

技術は、文句なしだ。

それでも、あの音楽だけが、いっこうに戻ってこない。

 

理由は、永田にも、九条にも、痛いほど分かっていた。

 

あの子は、滑る理由を、ひとつ失くしたのだ。

晴れ姿を見せたい、あの優しいおばあさんを。

氷の上で音楽になるための、いちばん大きな火を、あの子はあの夜、喪ってしまった。

 

永田は、隣の九条を、ちらりとうかがった。

九条もまた、腕を組んだまま、氷の上の小さな影を見つめている。

その鋭い目には、いつものような厳しさは、なかった。

 

「……九条。どうする」

「どうもせん」

「いいのか。あの子の滑りから、いちばん大事なものが、抜けたままだぞ」

 

九条は、ふう、と短く息を吐いた。

 

「仕方がないさ。あれはな、叱って戻るもんじゃない」

「……ああ、そうだな」

「失くした火を、外から無理にくべてやることはできん。あの子が自分で、もう一度見つけるしかないんだ」

 

それはブレーキを捨てさせた男とは、思えない言葉だった。

 

攻めろ、手を伸ばせ、転んでも構わん。

あれほど激しく背中を押したこの男が、いまは、じっと待とうとしている。

無理にこじ開けようとすれば、いちばん大事なものまで、かえって壊れてしまうことを知っているのだ。

 

「いまはまだ、こいつに教えることなんざ、何もない」

「そっとしておく、ということか」

「ああ。土ってのはな、いっぺん乾かしてやらんと、次の種は根を張らんのさ」

 

永田は、その言葉に、ゆっくりとうなずいた。

 

二人の古い指導者は、それきり、何も言わなかった。

ただ並んで、氷の上の小さな背中を、静かに見守っていた。

あの子が、自分の足でもう一度立ち上がる、その日を辛抱強く待ちながら。

 

 

 

 

その日の練習が、終わりに近づいた頃だった。

 

私は氷から上がって、ベンチでブレードカバーをはめていた。

愛奈はその隣で文庫本を読んでいて、明彦は、私の滑りの感想を一生懸命に話している。

永田さんと九条さんは、リンクサイドで何やら静かに話し込んでいた。

 

いつもの、おだやかな夕方のはずだった。

 

そのときだった。

 

クラブの入口の扉が、ばあんっ、と勢いよく開け放たれた。

 

あまりの音に、私たちはいっせいにそちらを振り返った。

冷たい外の風といっしょに、ひとりの女の人が転がり込むように飛び込んでくる。

 

すらりと背の高い、若いお姉さんだった。

歳は、たぶん高校生か、それを少し過ぎたくらいだろうか。

肩で大きく息をしながら、その目を、きらきらと輝かせている。

 

お姉さんの視線が、リンクのなかをせわしなく走った。

そして――ベンチに座る私を見つけた瞬間。

その顔が、ぱあっと、花が咲くようにほころんだ。

 

「あっ、いた! 本物の銀の天使ちゃんだ!」

 

お姉さんは、そう叫ぶなり、まっすぐに私のほうへ駆け寄ってきた。

 

あまりに突然のことに、その場の誰もがぽかんと固まってしまった。

永田さんも、九条さんも。

文庫本を読んでいた愛奈までもが、めずらしく目を丸くしている。

 

明彦がはっと我に返って、私とお姉さんのあいだに、ぴょこんと割って入った。

 

「だ、誰? 瀬理奈お姉ちゃんに何の用?」

 

けれどお姉さんは、明彦のことなどまるで目に入っていないようだった。

明彦の頭ごしに私の顔を、食い入るように覗き込んでくる。

その瞳には悪気なんてかけらもなくて、ただ、まっすぐな好奇心だけが渦巻いていた。

 

「ねえ、あなたがあの夜の子だよね? 全日本ジュニアの、フリーの!」

「えっと……」

「わたしね、あれをどうしてもこの目で見たくて来ちゃったの! ねえ、あれって本当のことなの?」

 

お姉さんのあまりの勢いに永田さんが慌てて駆けてくる。

そしてその後ろから、もうひとり――

 

息を切らしたおじさんが、申し訳なさそうにお姉さんを追いかけて飛び込んできた。

 

「こら、ゆめ! 待ちなさいと、あれほど言っただろう!」

 

そのおじさんは、おだやかそうな顔立ちをしていた。

歳は四十をいくつか過ぎたくらいだろうか。

ゆめ、と呼ばれたお姉さんの腕を、慌てた様子でやんわりと掴む。

 

「すみません、本当にすみません。うちの娘が、突然こんな……」

「お父さん、離してよー。せっかく、ここまで来たんだから」

「アポイントも何もなしに、いきなり押しかけて。失礼にもほどがあるだろう」

 

おじさんは私たちに向かって、何度も何度も頭を下げた。

 

その背中には、明らかに振り回されている人の疲れがにじんでいた。

どうやらこのお姉さんに引きずられてここまで連れてこられたものらしい。

それでも娘を邪険にできないあたりに、人のよさそうな気配がにじみ出ている。

 

けれどお姉さんのほうは、お父さんに腕を掴まれてもなお、まるでめげていなかった。

 

「だってお父さん。わたし、ずっと見たかったんだから」

「ゆめ」

「あの夜のことが、知りたくてたまらなかったの」

 

私が、ぽかんとしていると。

リンクサイドの九条さんが、ふと、その目を細めた。

 

「……お前。川崎ゆめ、だな」

 

お姉さんが、はっと九条さんのほうを振り向いた。

 

「えっ。わたしのこと、知ってるんですか?」

「当たり前だ。今シーズンにシニアに上がったばかりの選手の顔くらい、覚えているさ」

「うわあ、九条コーチに覚えてもらえてるなんて、光栄です!」

 

九条さんは、その人を、川崎ゆめ、と呼んだ。

どうやらこのお姉さんも、氷の上で戦う選手のひとりらしかった。

それも、ずっと年上の――シニアという、大人の舞台に立つ人だ。

 

「わたし、今年からシニアに上がったんですね。だから……」

 

お姉さんの声が、ふいに、しゅんとしぼんだ。

 

「あの全日本ジュニアのフリー、生では見られなかったんです」

「……」

「あとから映像で見て。でも信じられなくて。音が止まったのに誰も気づかなかったなんて、そんなことあるわけないって」

 

お姉さんは、そこでまた私のほうへぐいと身を乗り出した。

 

「ねえ、本当なの? あれって本当に起きたことなの?」

「え、えっと……」

「だっておかしいよ。音が消えたのに演技が続くなんて。映像のなかの人たちは、みんな、何ごともないみたいに見入ってて」

 

お姉さんの瞳には、ただ、まっすぐな驚きだけがあった。

 

疑っているのとも、責めているのとも違う。

ただ純粋に、わけが分からなくて、確かめたくてたまらない。

そんな子供みたいに正直な目を、その人はしていた。

 

「ゆめ、いいかげんにしなさい。橘さんが、困っていらっしゃるだろう」

「だって、お父さんだって気になるって言ってたじゃない」

「いや、それは……」

 

そのひと言に、おじさんが、ばつが悪そうに口ごもった。

 

どうやら、振り回されているように見えて。

このおじさん自身も、あの夜のことが、まったく気にならなかったわけではないらしい。

それを娘にあっさり暴露されて、おじさんは決まり悪そうに、咳払いをひとつした。

 

そのときだった。

ずっと様子をうかがっていた愛奈が、すっと立ち上がった。

 

「まあまあ。お父さん、そんなにご自分を責めないであげてください」

「いや、しかし……」

「お嬢さんが、これだけ夢中になるんですもの。さぞ毎日、ふり回されていらっしゃるでしょう」

 

愛奈は、いつもの落ち着いた声で、にこりと笑った。

 

その言葉に、おじさんは、毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。

ずっと張りつめていた緊張が、ふっとほどけたらしい。

それから苦笑まじりに、深いため息をひとつついた。

 

「……お恥ずかしいかぎりです。娘がこうと決めると、もう誰にも止められなくて」

「ふふ。それだけ、好きなものがあるんですね。うらやましいくらいですよ」

「そう言っていただけると、救われます」

 

ふだんの愛奈は、知らない大人にここまで愛想よくする人ではない。

それなのに今日は、この困り顔のおじさんに、ずいぶんやわらかな言葉をかけている。

それを少し不思議に思いながらも、私はその場の張りつめた空気がゆるんでいくのを感じていた。

 

そのあいだも、川崎ゆめさんは、私のことばかりを見ていた。

 

「……あの、川崎さん」

「ゆめでいいよ! ねえ、教えてよ。あの夜のこと」

「あれは……たぶん本当に起きたことです。音が止まったのも、たぶん本当だったと思う」

 

私がそう答えると、ゆめさんは両手を口に当てて、ひゅっと息を呑んだ。

 

「やっぱり! ねえ、どうやったの? どうしたら音が消えてもああやって滑り続けられるの?」

「えっと、それは……自分でもあの時の事はよく分からなくて」

「分からないの? あんなにすごいことをして?」

 

ゆめさんは、本気で疑問に思っているように見えた。

その様子に私は、思わず毒気を抜かれてしまった。

 

おかしな話だった。

半年前のあの夜、私は森澤花音の取り巻いていた人の挑発を、凪いだ心ですっと受け流したのだ。

毒気を抜いてみせたのは、あのときは、私のほうだったはずなのに。

 

それが今は、まるで逆だった。

このお姉さんの、まっすぐすぎて空回りするような勢いの前で。

私のなかに半年わだかまっていた、薄暗い靄のようなものが、ふっと吹き散らされていく。

 

この人は、私を「銀の天使」だなんて、ありがたがってはいなかった。

おばあちゃんを亡くしたかわいそうな子だと、腫れ物に触るのでもない。

ただ、もう一度あの滑りが見たくて見たくて、たまらないだけなのだ。

 

誰かが、こんなにもまっすぐに私の滑りを見たがっている。

 

それは、おばあちゃんがいなくなってから。

胸にぽっかりと穴が空いてから、私がずっと感じずにいた、何かだった。

靄の向こうのどこかで、ちいさな火が、ぽっと小さく灯った気がした。

 

「ねえ、銀の天使ちゃん。お願いがあるの」

 

ゆめさんが、ずいと、私の前に身を乗り出した。

 

「いまここで、滑って見せて。あの夜の滑りを、わたしに見せてほしいの」

「こら、ゆめ! 練習の邪魔をしておきながら何を言い出すんだ」

「川崎さん、それはさすがに……」

 

お父さんと永田さんが、慌ててゆめさんをたしなめる。

 

それでも私の足は。

気づけばもう、ひとりでに、氷のほうへと向きかけていた。

 

あの夜の滑りが、いまの私にできるのかは、分からない。

音楽そのものになるあの感覚は、あの夜からずっと戻ってきてはいないのだから。

それでも――この人の、まっすぐな目の前でなら。

 

リンクサイドの九条さんは、止めなかった。

腕を組んだまま、ただおもしろがるように、私を見つめている。

無理にやらせるでも、止めるでもなく、私が自分で踏み出すのを、静かに待っているのだ。

 

私は、ブレードカバーに、そっと手をかけた。

 

五月の夕暮れの光がリンクの氷を、淡く照らしていた。

色あせた看板の、見慣れたいつものリンクに。

今日は、これまでとは違う、新しい風が吹き込んでいる。

 

その風に背中をそっと押されるように。

私は、もう一度、氷の上へとすべり出していった。

 




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