銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
氷の上へすべり出すと、世界の音がいつものようにすっと遠ざかった。
五月の夕暮れの淡い光が、誰もいないリンクをやわらかく照らしている。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、いまはもう私の刃が氷を削る音だけがあった。
私はリンクの中央まで進んで、ゆっくりと息をひとつ吐いた。
フェンスのすぐ向こうでは、川崎ゆめさんが食い入るように私を見つめている。
その隣ではゆめさんのお父さんと永田さんが、まだ困った顔のまま立ち尽くしていた。
リンクサイドの九条さんだけが、いつもの調子で腕を組みながらじっと私を見ている。
「九条さん、お願いします」
「ああ、わかった」
私が声をかけると、九条さんは短くうなずいてCDプレイヤーに手を伸ばした。
年季の入った銀色の機械から、聴き慣れたピアノの旋律が静かに流れ出す。
家のアップライトピアノで何度となく撫でてきた、あの曲だった。
最初の一音が氷の上に落ちた。
私は前を向き、エッジを傾けて、ゆっくりと氷を蹴り出した。
ステップを踏み、ターンを切って、決められた順に身体を運んでいく。
ずっと磨いてきたぶん、その一つ一つに危なげはないと自分でも分かってはいた。
曲のせり上がりに合わせて、私は前を向いたまま氷を蹴る。
一回転、二回転、三回転——そして、もう半分。
雪がひとひら積もるみたいに、ブレードが音もなく氷へ降りた。
着氷は文句のつけようもないくらい、きれいに決まった。
跳ぶ高さも、回る速さも、半年前とは比べものにならない。
技術だけを並べるなら、いまの私の滑りはたしかに冴えている。
——けれど、それだけだった。
私の耳は、頼んでもいないのに、フェンスの向こうの気配まで拾ってしまう。
リンクに飛び込んできたときの、ゆめさんのあの弾むような息づかいが。
いつのまにか、すっと静かになりをひそめていくのが分かった。
きっと、がっかりさせているのだろうな。
あの夜の滑りを、もう一度この目で見たい——そうまで言ってここまで来た人なのだ。
それなのに私は、上手なだけの空っぽな技をただ並べているにすぎなかった。
スイッチが切り替わったみたいだ、とは永田さんにもよく言われる。
氷に乗った瞬間、まるで別人になる、と。
たしかに私の身体は、いつもどおり滑らかに勝手によく動いてくれている。
でも、それだけなのだ。
あの夜、最初の一音で手綱ごと自分を手放したあの感覚は。
いくら同じ曲を流しても、いっこうに訪れてはくれなかった。
跳べて、回れて、舞える。
それなのに、いちばん肝心な「あれ」だけがずっと顔を出さないのだ。
仕方がない、と胸のうちでつぶやいて、私は次のステップへ入っていった。
今日もまた、上手なだけの滑りで終わるのだろう、終わってしまうのだろう。
ゆめさんには悪いけれど、これが、いまの私のぜんぶなのだから。
そう思った、そのときだった。
曲が、中盤のいちばん静かな一節にさしかかった。
ピアノの右手が、ふっと息をひそめるように、高い音をひとつ置く。
その一音が、私の胸の奥の、思いがけないところにひっそりと触れた。
誰かが、いまここで私の滑りだけを見ている。
ありがたがるのでも、気の毒がるのでもなく。
ただ、もう一度見たくて見たくてたまらないという、まっすぐな目で。
その視線のことを思った瞬間、胸の奥で、ちいさな火が揺れた。
——あ。
気づいたときには、もう遅かった。
旋律が、するりと、私の身体のなかへ流れ込んでくる。
さっきまで外から聞こえていたはずのピアノが、いつのまにか私のなかで鳴っていた。
ステップは、旋律の言葉になった。
ターンは、旋律の吐息になった。
家の鍵盤で何度も撫でてきたこの曲が、いま、私という楽器を選んで鳴りはじめている。
回っているのでは、なかった。
私のまわりで、旋律そのものが、ゆっくりと渦を巻いている。
エッジが氷を撫でるささやきは弦の歌になり、ブレードが氷を刻む響きは、鍵盤の連なりになった。
ああ、これだ。
これを、私はずっと探していたのだ。
半年のあいだ、どれだけ手を伸ばしても掴めなかった、あの感覚。
身体が、まるごと音楽になっていく。
その渦の、いちばん深い中心で。
私は、なにかとても大事なものに、手が届きかけていた。
おばあちゃんのためでも、隆志の借りのためでもない。
それでも私が、この氷の上に立っていたいと願う、ほんとうの理由。
その在り処が、もう、すぐそこに——
「——すごいっ!!」
ふいにその声が、誰もいないリンクいっぱいに響き渡った。
ぱぁん、と、張りつめていた何かが、はじけて消えた。
私のなかで渦を巻いていた旋律が、糸の切れた凧みたいに、ふっと遠ざかる。
さっきまで自分の内側で鳴っていたはずの曲が、また、ただのスピーカーの音に戻っていた。
気づけば私は、リンクの真ん中で、ぽつんと立ち尽くしていた。
声の主は言うまでもなかった。
フェンスにしがみつくようにして、ゆめさんが両手を高く突き上げている。
その目に、いっぱいの涙までためながら。
「すごい、すごいよ! いまの見た!? ねえお父さん、いまの見た!?」
「あ、ああ……見て、いたが」
ゆめさんの隣で、お父さんが気圧されたようにうなずいている。
リンクサイドの永田さんは口を半分開けたまま、はっと我に返ったところだった。
その顔には、ありありと、惜しいという色が浮かんでいる。
「あぁ……もう少し、ほんの少しだったのに」
永田さんが、こらえきれず小さくそう漏らした。
そうだ。
ほんの少し、ほんの少しだけ、私は何かに手が届きかけていた。
それなのに——その指先は、いままた、空をつかんでしまっていた。
リンクサイドで、九条さんがふっと短く息を吐いた。
「永田。そう惜しがるな」
「……だが、九条」
「外から無理にくべた火じゃない。あいつが自分でちいさく灯した火だ」
九条さんは腕を組んだまま氷の上の私を見ている。
その鋭い目には、いつもの厳しさはなくて。
ただ、何か満ち足りたものが静かに灯っていた。
「この一月、うんともすんとも言わなかった種だ。それが、ほんの一瞬でも芽を出した」
「……ああ」
「上等じゃないか。意志の炎ってのはな、いっぺん消えかけても、こうしてまたひとりでに灯るものなのさ」
私は一つ息を吐いて、リンクサイドのほうへと滑り寄った。
ゆめさんはまだ頬を上気させて私を見ている、その目尻に光るものをてのひらで拭いながら。
「ねえねえ、いまのどうやったの!? 途中から急に空気が変わったよね!?」
「えっと……」
「あ、もしかして」
ゆめさんはそこで急にぴたりと止まって、自分の口をぱっと両手でふさいだ。
「わたし、また何か、やっちゃったかな……?」
その、いまさらすぎる問いかけに、私は思わずこてんと首をかしげてしまった。
「……いまさら、ですか?」
「うっ。だ、だって、あんまりすごかったから、つい声が出ちゃって!」
「あの……たぶん、ゆめさんが叫んだときに、わたしの集中、ぜんぶ飛んじゃいました」
私が正直に言うと、ゆめさんは「ひゃあ」と短く悲鳴をあげて、その場でぴょんと跳びはねた。
「ご、ごめんね!? わたし、ほんとそういうとこあって。感動すると、頭より先に口が動いちゃうの」
「……はい。なんだか、それは、よく分かりました」
思わずそう返すと、フェンスの外で永田さんがぷっと噴き出すのが聞こえた。
ゆめさんのお父さんはお父さんで深いため息をついて、額に手をあてている。
どうやらこの人のこういうところは、いつものことらしかった。
おかしな話だった。
あんなに大事な瞬間を、横からあっさり壊されたというのに。
私の胸のなかには、不思議と、腹立たしさのかけらもなかったのだ。
それどころか。
半年のあいだ、ずっと心の底に沈んでいた、重たい靄が。
このまっすぐすぎる人のおかげで、また少し、薄くなった気さえしていた。
「ねえ、銀の天使ちゃん」
「いえ……瀬理奈でいいですよ」
「じゃあ瀬理奈ちゃん。あのね、わたしはこれでも一応選手なんだけどさ」
ゆめさんは、不意に少しだけ声のトーンを落とした。
さっきまでのはしゃぎようが嘘みたいに、その目がすっと静かになる。
氷の上で戦う人の目だ、と私はとっさに思った。
「正直に言うね。瀬理奈ちゃんの滑り、最初のほうは——確かに上手だなあ、とは思った。でも、それだけだったよ」
「……はい」
「だけど途中から急に怖くなったの。氷の上に底の知れない子がいるみたいで」
ゆめさんのその言葉に、私はどきりとした。
スイッチが切り替わる、とはよく言われる。
けれど、その向こう側に「底の知れない子」がいるだなんて。
そんなふうに言われたのは、たぶん初めてのことだった。
底の知れない子。
ゆめさんの言ったその子は、きっと半年前のあの夜に氷の上にいた子だ。
そして——いまの私が、どうしても、もう一度なりたいと願っている子でもあった。
けれど、おかしなことに。
その「底の知れない子」が誰なのか、ほんとうのところ、私自身がいちばん分かっていなかった。
さっきも、ほんの一瞬だけ手が届きかけたのに、その正体はまた靄の向こうへ逃げてしまったのだから。
私が黙りこんでいると、ゆめさんがぱっとまた顔を明るくした。
しんみりした空気は、この人にとってそう長くは続かないものらしい。
さっきの静かな選手の目は、もうどこかへ引っ込んでしまっていた。
「ねえねえ、瀬理奈ちゃん! わたし、決めた!」
「……はあ」
「もう一回。ううん、何回でも瀬理奈ちゃんの滑りを見たい!」
ゆめさんは身を乗り出して、きらきらと目を輝かせている。
その勢いにゆめさんのお父さんが、いやな予感がするとばかりに「ゆめ」と低く呼んだ。
けれどゆめさんは、もう止まらなかった。
「ねえ、いいこと思いついた!」
「ゆめ。おまえ、まさか」
「わたしも瀬理奈ちゃんたちと一緒にここで練習する! そうしたら、毎日だって瀬理奈ちゃんの滑りを見られるもんね!」
——その、あまりにあっけらかんとしたひと言で。
静かだったリンクの空気が、いっぺんに、ひっくり返った。
「いっ、一緒に練習!? ゆめ、おまえ、いったい何を言い出すんだ!」
まっさきに声をあげたのは、お父さんだった。
その顔は、見ているこっちが気の毒になるくらい青くなっている。
さっきまでの「困った付き添い」どころの騒ぎでは、もうなくなっていた。
「い、いやいや、川崎さん。それはさすがに、その」
永田さんまでが、紺色のダウンの袖を振りながらおろおろと割って入ってくる。
ふだんは落ち着いたこの人が、あきらかにうろたえていた。
ところがゆめさんときたら、その横で、もう完全に自分の世界に入りこんでいる。
「決めた決めた! 明日から毎日でも来ちゃう! あ、お弁当も作らなきゃ!」
「ゆめ! 勝手に話を進めるんじゃない!」
お父さんの悲鳴みたいな声も、もう耳には入っていないらしかった。
ベンチで見学していた明彦も、ぴょこんと立ち上がっていた。
私のそばへ小走りに駆け寄ってきて、その袖をきゅっと握る。
知らないお姉さんが急に毎日やってくるというのが、よほど不安だったらしい。
「瀬理奈お姉ちゃんの練習、邪魔しちゃだめだよ」
「あ……だ、大丈夫だよ、明彦くん」
明彦は、まんまるな目で、ゆめさんをじっと見上げている。
その視線には、はっきりと「警戒」と書いてあった。
いちばん最初の観客を自任するこの子にとって、これは一大事なのだろう。
「ゆめ、こっちに来なさい! 本当に、本当に申し訳ありません!」
お父さんは、慌ててゆめさんの腕を引き寄せると、また深々と頭を下げた。
「練習に押しかけた上に今度は一緒に滑らせろだなんて。図々しいにもほどがあります」
「お父さん、痛いって。腕、引っぱらないでよ」
「おまえは少し黙っていなさい」
困りはてたお父さんの背中に、私はなんだか申し訳ない気持ちになった。
この人はさっきからずっと、娘さんのために頭を下げてばかりだ。
それでも娘を本気で叱れないあたりに、やっぱり人のよさがにじみ出ていた。
ところが、だった。
ずっと黙って見ていた九条さんが、ふいに口を開いたのだ。
「いや。べつに構わんさ」
その、思いがけないひと言に。
私も、永田さんも、川崎親子も、いっせいに九条さんを見た。
「く、九条さん?」
「ここは区民のリンクだろう。氷の上が空いてるなら、誰が滑ろうと文句はあるまい」
九条さんは相変わらず腕を組んだまま、こともなげに言ってのけた。
お父さんが信じられないという顔で、目をしばたたかせている。
普通なら、選手の練習に部外者を入れるなんて、断られて当たり前なのだ。
「で、ですが、ご迷惑では」
「迷惑かどうかは俺が決めることだ。あんたが気に病む必要はない」
九条さんは、そう言ってちらりと私のほうを見た。
その目がなにかを見透かすように、すっと細められる。
「橘。お前、さっき、ほんの一瞬だけだが火が戻っただろう」
「……はい」
「それはな、俺が一月教えても戻せなかったものだ」
九条さんの言葉に、私ははっとした。
そうだ。
さっきの、あの一瞬を。
旋律が私のなかで渦を巻いた、あの感覚を引き出したのは——九条さんでも、永田さんでもなかった。
ただ、まっすぐに私の滑りを見たがった、この人だった。
「乾いた土に種は根を張らん。だが、この騒がしいのが来てから、土が少し湿った」
九条さんがそう言って、ふっと口の端をゆるめる。
その言葉を聞いて、隣の永田さんがはっとしたように目をみはった。
「九条。お前、それを意図して」
「さあな。ただ無理にくべた火じゃない、というだけだ」
二人の古い指導者は、それきり、目だけで何かを語りあっていた。
私には分からない長い付き合いのなかでだけ通じあう、何かがあるようだった。
「橘」
「はい」
「しばらくは好きにやってみろ。なあに、悪いようにはならんさ」
九条さんはそれだけ言うと、また氷のほうへ目を戻してしまった。
まるで、もうこの話は終わりだ、とでもいうように。
その横顔にはめずらしく、ほんの少しだけ面白がるような色が浮かんでいた。
ゆめさんが、ぱっと顔を輝かせて、両手を握りしめた。
「ほんとに!? やった! ありがとうございます、九条コーチ!」
「礼はいらん。あらかじめ言っておくが、俺が見るのは橘だけだ。お前のことは知らんぞ」
「うん、それでいいんです! わたしは瀬理奈ちゃんの隣で滑れれば、それだけで!」
ゆめさんは、心の底から嬉しそうにその場でくるりと回ってみせた。
一方お父さんはまだ事の成り行きが飲み込めない様子で、ぽかんと突っ立っている。
そんなお父さんに、いつのまにかそばに来ていた愛奈が、くすりと笑いかけた。
「よかったですね、ゆめさんのお父さん。これで娘さんはご機嫌でしょう」
「は、はあ……お恥ずかしいやら、ありがたいやら」
「賑やかになるのはいいことですよ。このリンクは最近すこし静かすぎましたから」
愛奈の言葉に、お父さんは、毒気を抜かれたように頬をゆるめた。
ずっと張りつめていた肩の力が、ようやくほどけたらしい。
それを見て、私もなんだか胸のあたりがほっと温かくなった。
こうして、思いもよらないなりゆきで。
私たちの滑るリンクに、川崎ゆめさんという、にぎやかな風が吹き込むことになった。
あの夜から半年のあいだ、しんと静まりかえっていたこの場所に。
明彦はまだ、むうっと頬をふくらませていたけれど。
それでも私は、その新しい風が、まんざらでもないと思う自分に気づいていた。
その夜のことだった。
夕ごはんを終えて、お風呂もすませて。
両親はリビングでテレビを見ていて、家のなかはおだやかに静まっていた。
私はなんとなく、廊下のすみに置かれた、古いアップライトピアノの前に座っていた。
我が家にやってきて、もう四年あまりになるピアノだ。
おばあちゃんが操作を誤って、私を「銀の天使」にしてしまった、あの頃から。
ずっと、私の帰る場所であり続けてくれた、大切な鍵盤だった。
今日、氷の上で。
ほんの一瞬だけ、あの感覚が戻ってきた。
その火の名残みたいなものが、まだ、私の指先に、ぽうっと灯っている気がしたのだ。
——おばあちゃんのための曲を、作りたい。
葬儀のあと、仏壇の前で、私はそう誓った。
いつかおばあちゃんのための曲を作って、氷の上でそれを舞って。
天国のあの人に、いちばんの晴れ姿を、届けるのだと。
私は、そっと、鍵盤の上に指を置いた。
ぽろん、と。
ひとつ、音がこぼれた。
その音が、つぎの音を呼んで、ふっと、短い旋律が指から流れ出る。
それは、やわらかくて、あたたかい、ひとつのフレーズだった。
薄紫のカーディガンの、おばあちゃんの笑顔みたいな旋律だった。
我ながら、悪くない出だしだ、と思った。
このまま、続いてくれればいい。
あの人が、いつも私を見て、目を細めて笑ってくれたみたいに。
そう願いながら、私は、つぎの一音を探した。
けれど。
その旋律は、ほんの数小節でぷつりと途切れてしまった。
そのつづきが、どうしても出てこないのだ。
私はもう一度、べつの音を置いてみた。
すると、また新しいフレーズが指からこぼれてくる。
さっきとは違うけれど、これもまたきれいな旋律だった。
ふしぎなことだった。
きれいなフレーズは、いくらでも、指の先から湧いてくる。
それなのに、そのどれもが、たがいに手を繋いではくれないのだ。
ひとつ、またひとつ。
零れだしては、行き場をなくして、ぽつんと宙に消えていく。
ばらばらの音の粒が、暗い廊下に、いくつも散らばっていくだけだった。
私は、はたと、気づいてしまった。
きれいな音を並べることなら、この身体が、勝手にやってくれる。
けれど——その曲で、おばあちゃんに、何を伝えたいのか。
それを、私はまだ、ひとつも分かっていなかったのだ。
ありがとう、なのか。
ごめんね、なのか。
それとも、ただ、もう一度会いたい、なのか。
どれも本当のようで、どれも、ぴたりとは胸にはまらない。
伝えたいことが決まらないから、音は、行き先を見失ってしまう。
それは、氷の上で手が届かなかった、あの感覚と、よく似ていた。
「なんのために滑るのか」が分からないから、最後の一歩が踏み出せない。
「なにを伝えたいのか」が分からないから、フレーズが、一本に繋がらない。
きっと、二つは、同じ場所にあるのだ。
氷の上で探している答えと、この鍵盤の上で探している答えは。
たぶん根っこのところで、ひとつに繋がっている。
私は、鍵盤から、そっと指を離した。
膝の上で、両手を、きゅっと握る。
廊下の窓の外には、五月の夜空に、ほそい月がかかっていた。
——おばあちゃん。
私は、心のなかで、そっと呼びかけてみた。
けれど、その答えは、まだ、どこからも返ってはこなかった。
零れだしたフレーズの続きは、今夜も、私の指から生まれてはくれなかった。