銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第一章 第三話 告白

部屋の中の空気が、俺の動きにつられて、ほんの少しだけ、動いた。

 

園長先生は、軽く目を見開いて、こちらを見ている。

最初と二組目の夫婦は、「あら」というような顔で、俺の進む方向を目で追っている。

そして、橘家の夫婦は――。

 

ただ、立ち尽くしたまま、俺が近づいてくるのを、じっと、見ていた。

 

俺は、二人の足元、その一歩手前で立ち止まった。

見上げた先には、痩せた父さんの顔と、頬の削げ落ちた母さんの顔。

近くで見ると、その「老け込み方」は、さらにはっきりと分かった。

父さんのスーツの肩には、わずかにフケが落ちている。

母さんの首には、隠しきれていない泣き腫らした跡があった。

 

胸が、また、ぎゅっと締めつけられる。

 

だが、泣くな、と自分に言い聞かせた。

ここで泣いたら、何のために歩いてきたのか、分からなくなる。

 

俺は、深呼吸をひとつして、それから、にこっと笑った。

 

「こんにちはぁ」

 

舌足らずな、三歳児の挨拶。

我ながら、よくできているとは思う。

 

「……あ、こんにちは」

 

最初に返事をくれたのは、父さんの方だった。

ぎこちなく、口の端を持ち上げる、というよりは、無理矢理に動かす、というような笑い方だった。

それでも、彼は、ちゃんと俺の目線まで腰を屈めてくれた。

 

「お名前は、なんていうのかな?」

「せりなです」

「せりなちゃん。可愛いお名前だね」

「ありがとお」

 

俺は、もう一度、にっこり笑った。

父さんが、わずかに、本当にわずかに、目を細める。

その目尻に、見覚えのある皺の形が、確かに刻まれていた。

ああ、間違いない、と俺は思った。

俺の、父さんだ。

 

「あなたは、おなまえ、なんていうの?」

「……うん?」

「おじさんの、おなまえ」

「ああ、僕は、橘っていうんだよ」

「たちばな」

 

俺は、その名前を、口の中で繰り返した。

たちばな。

俺の、もう一つの名前。

俺が、ほんの三年前まで、自分のものとして名乗っていた、苗字。

 

「橘秀樹って、いうんだ。よろしくね、せりなちゃん」

「よろしくおねがいしますぅ」

 

俺は、丁寧に、ぺこりと頭を下げた。

父さんが、ふ、と短く息を吐く。

それは、苦笑にも、嘆息にも、聞こえる音だった。

 

「お母さんの方は、ね、橘佳代子っていうのよ」

 

父さんが、横に立っている母さんを、軽く促すように見上げる。

母さんは、はっとしたように、慌てて口を開いた。

 

「……あ、ごめんなさいね。佳代子です」

「かよこ、おばちゃん?」

「うふふ、ええ、そう、佳代子おばちゃんで、いいわよ」

 

母さんは、初めて、わずかに笑った。

それは、本当に、わずかな笑みだった。

だが、それでも、さっきまでの「畳の縁ばかり見ていた人」とは、全然違う顔だった。

 

俺は、その笑顔を見て、心の底から、ほっとした。

 

ほっとして――それから、もう、止まらなくなった。

 

「かよこおばちゃんは、げんきがないね?」

「……え?」

「ひできおじさんも、げんきがないね?」

「……」

 

二人とも、ぎょっとしたように、俺を見下ろした。

近くにいた園長先生も、慌てて口を挟もうとした。

 

「あ、せりなちゃん、それはちょっと……」

「いいの」

 

母さんが、ぽつりと、園長先生の声を遮った。

 

「……いいんですよ、先生。あの、構いません」

 

それから、母さんは、すっと膝を折って、俺と同じ目線まで腰を下ろした。

父さんも、それに倣う。

二人の顔が、今度はもっと近くに、俺の正面に並んだ。

 

「せりなちゃんは、不思議なことを言うのねぇ」

「ふしぎぃ?」

「うん。おばちゃん、元気がないって、なんで分かったの?」

「えっとぉ、あのねぇ」

 

俺は、考えるふりをして、首を傾げた。

本当はもう、答えは決まっていた。

 

「かよこおばちゃんの、おめめがね、ないてるみたいなの」

「……」

「ひできおじさんも、おかおがね、いたそうなの」

 

母さんが、ぎゅっと、唇を噛んだ。

父さんは、目を、ぱちぱちと瞬かせていた。

二人とも、しばらく、何も言わなかった。

 

俺は、その沈黙の中で、もうひとつ、決定的な台詞を、用意していた。

 

「あのね……」

「……うん」

「げんきだして」

「……」

「げんき、だして」

 

俺は、できる限りの、満面の笑みを作った。

そして、自分の小さな両手を、母さんの、しわの目立つ手の上に、そっと重ねた。

 

その瞬間。

 

母さんが、声を上げて泣き出した。

 

声を、というよりは、肺の奥から、何かが堪えきれずに溢れ出したような、そういう泣き方だった。

彼女は、片手で口を押さえて、もう片方の手で、俺の小さな手を、ぎゅっと、握りしめた。

父さんは、慌てて母さんの背中を支えながら、その自分の頬にも、一筋の涙を伝わせていた。

 

「……ごめんね、せりなちゃん、ごめんなさいね」

 

母さんは、しゃくりあげながら、何度も繰り返した。

 

「いきなり、こんな、ごめんね……」

 

俺は、答えなかった。

答えられなかった、というのが、正しい。

俺の方も、もう、自分の目から涙が、ぼろぼろと零れ落ちていることに、気付いていた。

顔は、それでも、必死に笑顔を保とうとしていた。

 

それが、最初の、再会だった。

俺と、橘家の両親の、三年越しの、再会だった。

 

 

 

その後の流れは、正直、俺の記憶からは、所々抜け落ちている。

 

園長先生が、慌てて職員を呼びに行ったこと。

母さんが、しばらく泣き続けて、その間ずっと、俺の手を離さなかったこと。

父さんが、何度も、深く、深く、頭を下げて、「すみません、すみません」と園長先生に謝っていたこと。

他の二組の夫婦が、気を遣って、早めに見学を切り上げて帰っていったこと。

 

そういう断片は、覚えている。

覚えているけれど、ひとつの流れとして、繋がっているわけではない。

俺の頭の中は、ずっと、ぐるぐると回り続けていた。

 

父さんと、母さんと、もう一度、会えた。

 

その事実が、頭の中の、それ以外の全ての考えを、押しのけていた。

 

落ち着いた頃には、もう、午後一時を過ぎていた。

俺は、応接室と呼ばれている、施設の中で一番きれいな部屋に、橘家の夫婦と、園長先生と、一緒に座っていた。

応接室といっても、ソファは古くて、座面のスプリングがところどころへたっている。

それでも、机の上には、ちゃんと茶菓子が並べられていた。

 

「……あの、本当に、いきなりすみませんでした」

 

母さんが、もう一度、頭を下げた。

目元はまだ赤かったが、ハンカチで何度も拭いたおかげか、涙はもう、止まっていた。

 

「いえ、こちらこそ、お見苦しいところを……」

 

園長先生が、にこやかに首を振る。

 

「お気持ちは、お察ししますよ。ご事情も、お伺いしておりますし」

 

事情。

俺は、その言葉に、内心で、ぴくりとした。

どうやら、園長先生は、この夫婦の事情を、ある程度知っているらしい。

それはそうか。

里親希望の夫婦は、ふつう、事前に役所や仲介機関にいろいろと書類を出している。

 

「息子さんを、亡くされて、もう、三年になられるんでしたかしら」

「……はい。三年と、一ヶ月になります」

 

父さんが、低い声で答えた。

 

「あの、事故で……」

 

母さんが、その後を継ごうとして、また、言葉に詰まった。

俺は、目を伏せて、湯呑みの中の麦茶を、じっと見つめていた。

胸の奥が、また、痛んだ。

 

「お辛い決断だったと思います」

「……はい」

「それで、里親に、と」

「私たちには、もう、自分たちの子供を、というのは、難しい年齢でして」

「……」

「ただ、家の中に、もう一度、子供の声を、聞きたかったんです」

 

父さんが、ぽつりぽつりと、話している。

母さんは、その隣で、ハンカチを膝の上で、ぎゅっと握りしめていた。

 

俺は、その光景を、横目で見ていた。

そして、心の中で、ひとつ、決めた。

 

「ひできおじさん」

 

俺は、湯呑みから顔を上げた。

 

「あ、なんだい、せりなちゃん」

「あのねぇ」

「うん」

「せりな、おうちにいきたい」

 

部屋の中の空気が、ぴたりと、止まった。

父さんも、母さんも、園長先生も、一斉に、俺を見た。

 

「……お、おうち?」

「うん。ひできおじさんと、かよこおばちゃんのおうち」

「せりなちゃん……」

「だめぇ?」

 

俺は、首を、こてん、と傾げて見せた。

これは、計算した動作だ。

三歳児が、この角度で首を傾げると、たいていの大人は、もう、断れない。

 

「……あの、園長先生、それは、その」

 

父さんが、慌てて園長先生の方を見た。

園長先生は、困ったように、しかし、わずかに微笑んで、こう言った。

 

「ご縁、というのは、こういう形で生まれるものなのかもしれませんね」

「先生……」

「もちろん、正式な里親委託になるには、まだ、いろいろと手続きが必要ですよ。でも、お試しで、週末だけお預かりいただく、という形ならば」

 

園長先生は、そこで一度、言葉を切った。

 

「ご夫婦さえ、よろしければ」

 

母さんが、はっと、息を呑んだ。

それから、ゆっくりと、父さんの方を見た。

父さんも、母さんを見返した。

二人の目線が、空中で、絡まり合う。

何かを、無言で、確認しあっていた。

 

そして、二人は、同時に頷いた。

 

「……お預かり、させてください」

 

父さんの声には、もう、最初の時のような、ぎこちなさは、なかった。

 

「今夜から、もし、よろしければ」

「えっ、今夜ですか?」

 

園長先生が、思わず、語尾を上げる。

父さんは、深く頷いた。

 

「はい。せりなちゃんさえ、よければ、ですが」

 

俺は、にっこり笑って、ぴょこんと頷いた。

 

「いきたい!」

 

部屋の中に、ようやく、温かい笑い声が起きた。

母さんが、ハンカチで目元を押さえながら、何度も、何度も頷いていた。

 

その夜、俺は、橘家の車に乗っていた。

 

 

 

橘家は、二十三区の西の外れにある、二階建ての一軒家だった。

築年数は、たぶん二十年は経っているだろう。

俺の知っている、あの家だった。

 

車を降りた瞬間、俺の鼻に、懐かしい匂いが、ふわりと届いた。

庭の隅に植えられた金木犀の、微かに残った残り香。

玄関先の、雨上がりのコンクリートの匂い。

そして、家の中から漏れてくる、母さん特有の、煮物の出汁の匂い。

 

ああ、と、内心で呟いた。

帰ってきた、と。

本当に、帰ってきてしまった、と。

 

「せりなちゃん、寒くない?」

「だいじょうぶぅ」

 

母さんが、後部座席のチャイルドシートから、俺をそっと抱き上げてくれた。

施設から借りてきたチャイルドシートだ。

園長先生が、慌ててどこかから引っ張り出してきてくれた。

 

「お夕飯、何が食べたい?」

「えっとぉ」

 

俺は、考えるふりをしながら、ゆっくりと答えた。

本当はもう、最初から、答えは決まっていた。

 

「にくじゃがぁ」

「肉じゃが?」

「うんっ」

「……ふふ、いいわよ。お母さん、得意なのよ、肉じゃがは」

「やったぁ」

 

俺は、ぴょこんと、母さんの腕の中で跳ねるふりをした。

母さんが、ふ、と微笑む。

その微笑みは、今日初めて見た、母さんの「ちゃんとした母親の顔」だった。

 

肉じゃが、というのは、橘佳代子の十八番だ。

うちの実家に帰ると、ほぼ必ず食卓に並んでいた料理。

俺は、それを、もう一度、食べたかった。

 

それだけだった。

それだけの理由で、俺はその料理を選んだ。

 

 

 

家の中は、俺の記憶よりも、ずっと、片付きすぎていた。

 

リビングのテーブルの上には、新聞紙ひとつ落ちていない。

ソファのクッションは、四隅がきっちりと揃えられている。

台所の流し台は、ぴかぴかに磨かれていて、布巾もきれいに畳まれて、シンクの脇に置かれている。

 

これは、整理整頓ではない。

これは、「やることがなさすぎる人間が、無理矢理に手を動かしている」家の片付き方だ。

俺は、男だった頃に、独身寮で何度かそういう同僚の部屋を見たことがあった。

仕事を首になって、何もすることがなくて、ただ、ひたすら部屋を磨き続けていた、あの同僚の部屋。

それと、同じ匂いがした。

 

「せりなちゃん、テレビ、見ててもいいよ」

「うんっ」

 

俺は、ソファの上に、ちょこんと座った。

リビングのテレビは、まだブラウン管の、年季の入ったやつだった。

俺の記憶の中の、あのテレビだ。

父さんが、リモコンを取って、子供向けのアニメ番組のチャンネルを探してくれている。

 

そんな父さんの背中を、俺はソファの上から、じっと見ていた。

スーツの背中。

丸まり始めた肩。

半分以上、白くなった髪。

俺の知っている父さんは、もっと、背筋がぴんとしていた。

 

胸の奥が、また、痛んだ。

俺の死は、この家から、たくさんのものを、削り取っていったのだ。

 

「あった。これでいいかな、せりなちゃん」

「うん、これでいい」

「ふふ、お利口さんだね」

 

父さんが、にこっと笑ってくれた。

俺は、にっこり笑い返した。

 

 

 

夕飯は、肉じゃがと、白いご飯と、味噌汁と、それから、ほうれん草のおひたしだった。

俺は、肉じゃがの一口目を、ゆっくりと、噛みしめた。

 

醤油と、みりんと、出汁と、それからわずかな砂糖。

肉は、薄切りの牛肉。

じゃがいもは、煮崩れる手前で、ぎりぎり止めてある。

 

俺の知っている、佳代子の肉じゃがの味だった。

 

「お、おいしぃ……」

 

俺は、思わず、声を漏らした。

母さんが、ぱっと顔を上げて、俺の方を見る。

 

「あら、よかった。お口に合った?」

「うんっ、おいしぃ」

「もっと食べる?」

「たべるっ」

 

母さんの顔が、見る見るうちに、ほころんでいった。

父さんも、その横で、優しい目で、母さんと俺の様子を、交互に見ていた。

 

俺は、ぱくぱくと、肉じゃがを口に運んだ。

三歳児の小さな口だ。

ひとくちが、本当に小さい。

それでも、味は、ちゃんと、舌の上で広がった。

じゃがいもの、ほろりと崩れる感触。

甘辛い煮汁が、舌の奥に広がる感じ。

 

涙が、出そうになった。

出そうになって、慌てて飲み込んだ。

食卓で泣き出したら、また、母さんが慌てる。

それは、今夜は、避けたかった。

 

俺は、もうひとくち、肉じゃがを口に入れた。

ゆっくりと、噛みしめた。

そして、心の中で、決意を、もう一度、確認した。

 

今夜、言おう、と。

 

このまま黙っていても、よかったのかもしれない。

誰も傷つかない、平穏な、選択肢として。

ただ、目の前のこの「老け込んだ両親」を見ていると、俺は、どうしても、黙っていることが、できなかった。

 

俺が、生きている。

形は違うけれど、俺は、生きている。

そのことを、この二人に、伝えたかった。

 

たとえそれが、信じてもらえないことだったとしても。

 

 

 

お風呂を済ませて、寝間着に着替えた頃には、もう、夜の九時を回っていた。

 

寝間着は、新品だった。

施設から来ることが急に決まったので、たぶん、父さんが慌てて、近所の量販店で買ってきてくれたのだろう。

ピンク色の、ふわふわとした素材の寝間着。

俺の中身の三十三歳の男としては、もう、何も言うまい、と決めていた。

かわいい寝間着を着せられて喜ぶ三歳児を、俺は、ちゃんと、演じてみせた。

 

「せりなちゃん、寝る前にね、お布団のお部屋に行こうか」

「うんっ」

 

母さんが、俺の手を引いて、二階へと案内してくれた。

階段を上がる足音を、俺は、よく覚えていた。

俺が、二十二歳まで、毎日上り下りしていた、あの階段の音。

五段目が、わずかに軋む。

七段目は、わずかに沈む。

全部、覚えていた。

 

二階の、廊下の突き当たり。

そこに、案内された。

 

母さんが、ふすまを、すっと開ける。

 

「ここがね、今夜、せりなちゃんに、使ってもらおうと思って」

 

俺は、その部屋の前で、足を止めた。

 

それは、俺の、部屋だった。

俺が、生まれてから、二十二歳で家を出るまで、ずっと使っていた、部屋。

本棚は、もうない。

机も、もうない。

代わりに、新品の、子供用のお布団が、一組、敷かれていた。

 

だが、壁の色も、天井の木目も、窓の外の景色も、全部、俺の知っているものだった。

 

「……」

 

俺は、しばらく、その部屋を、ただ、見つめていた。

 

「……せりなちゃん?」

「あっ、ううん、なんでもなぁい」

 

俺は、慌てて、にっこり笑ってみせた。

母さんは、不思議そうに、俺の顔を覗き込んだ。

 

「お布団、嫌いだった?」

「ううん、すきっ。すごく、すきっ」

 

俺は、ぴょこんと、部屋に入った。

お布団の脇に、ぺたんと座る。

シーツの匂いを、こっそりと嗅いだ。

洗剤の匂いがした。

父さんと、母さんが、慌てて、今日のために、新しいシーツを洗ってくれたのだろう。

 

胸が、また、ぎゅっと、締めつけられた。

 

母さんが、お布団のそばに座ってくれた。

父さんも、ふすまの向こうから、ひょこっと顔を出している。

 

「せりなちゃん、おねむになるまで、お話、しようか」

「うんっ」

「何の、お話、しようか」

 

母さんが、にこにこと、俺の頭を撫でてくれた。

撫でる手は、痩せていて、骨ばっていた。

三年前は、もっと、ふっくらしていた手だった。

 

俺は、その手を、じっと見ていた。

 

そして、もう、ここしかない、と思った。

 

「あのねぇ」

「うん」

「かよこ、おばちゃん」

「うん?」

「ひでき、おじさんも」

 

俺は、ふすまの向こうの父さんに、目を向けた。

父さんは、不思議そうに、こちらを見ている。

 

「ちょっと、おはなしがあるのぉ」

「お話?」

「うん。だいじな、おはなし」

 

俺は、できるだけ、ゆっくりと、息を吸った。

それから、ゆっくりと、息を吐いた。

心臓が、自分でも分かるくらい、はっきりと、鳴っていた。

 

「……あのねぇ」

「うん、なぁに、せりなちゃん」

「せりなはぁ」

「うん」

「せりなは、ね」

 

俺は、母さんの目を、まっすぐに、見た。

 

「ふたりの、こどもだったのぉ」

 

部屋の中の空気が、ぴたりと、止まった。

 

母さんの、撫でていた手が、止まる。

ふすまの向こうの父さんが、はっと、息を呑む。

 

「……せりなちゃん、それは、どういう……」

 

母さんの声は、もう、震えていた。

 

「あのねぇ」

 

俺は、もう、引き返せない、と思いながら、それでも、ゆっくりと、続けた。

 

「せりなはね、ほんとうはね、たかしっていう、おにいさんだったのぉ」

 

息を、する音が、消えた。

 

部屋の中の、誰一人として、息をしていなかった。

それは、たぶん、俺も、含めて、だった。

 

「……ええ?」

 

最初に、声を漏らしたのは、ふすまの向こうの、父さんだった。

 

「せりなちゃん、今、なんて……」

「たかし、って、いったのぉ」

 

俺は、もう一度、繰り返した。

 

「たちばな、たかし。それが、せりなの、まえのおなまえ」

 

母さんが、片手を、口元にあてた。

その手が、ぶるぶると、震えていた。

 

「……どこで、その名前を……」

「どこでも、ない」

 

俺は、首を、横に振った。

 

「だれも、おしえてない。せりなが、おぼえてるだけ」

 

二人は、しばらく、お互いの手を、握り合っていた。

そして、ゆっくりと、俺の方を、向き直った。

 

「せりなちゃん」

 

母さんが、ハンカチで、もう一度、目元を拭った。

 

「うん」

「あなたは、本当に」

「うん」

「うちの、たかしなのね」

「……たぶん、ね」

 

俺は、ゆっくりと、頷いた。

 

「あのね、せりなには、わからないことが、いっぱいあるのぉ。なんで、こうなったか、しらない。なんで、せりなが、おんなのこに、なったかも、しらない」

「……」

「でも、せりなのなかに、たかしの、おもいでが、ぜんぶ、あるのぉ」

 

俺は、自分の小さな手で、自分の胸を、ぽん、と叩いた。

 

「ここに、あるの」

 

母さんが、ぽたぽたと、涙を、畳の上に落としながら、何度も、頷いていた。

 

「……ごめんね」

「え?」

「ごめんね、たかし」

「……」

「お母さん、あなたが、しんじゃってから、ずっとね」

「うん」

「立ち直れなくて」

「……」

「あなたの、お嫁さんのことも、ちゃんと、支えてあげられなかった」

 

俺は、息を、呑んだ。

 

「……お嫁さんは」

「うん」

「お嫁さんは、げんき?」

 

俺は、おそるおそる、尋ねた。

胸の奥が、不安で、ぎゅっと、締めつけられていた。

 

母さんは、わずかに、口元を、ほころばせた。

 

「ええ、元気よ」

「……」

「あなたが、亡くなってから、一ヶ月後にね、ちゃんと、男の子を、産んだの」

「……っ」

「立派な、男の子よ。今、もう、三歳になってるの」

 

俺の中で、何かが、ゆっくりと、ほどけていく感覚があった。

 

息子は、生まれていた。

ちゃんと、生まれて、育っていた。

 

「げんき、なの?」

「うん、元気。すごく、元気な、男の子よ」

「……よかった」

 

俺は、ぽろぽろと、また、涙を流した。

今度の涙は、さっきまでとは、別の質のものだった。

止めようがなくて、それでいて、温かい涙だった。

 

「お嫁さんはね、あなたが、亡くなったあと、しばらくは、本当に、辛そうだった」

「……うん」

「でも、お腹の中に、あなたの忘れ形見が、いたから」

「……」

「あの子のために、ちゃんと、生きてくれた」

「……そっか」

「実家に戻って、今は、お父さんとお母さんと一緒に、その子を、育ててる」

「……」

「お母さんも、お父さんも、月に一度は、会いに行ってるのよ。あの子に」

 

父さんが、その横で、深く、頷いた。

 

「立派な、僕らの孫だよ」

「……」

「目元が、たかしに、そっくりでね」

 

俺は、もう、何も言えなかった。

ただ、ぽろぽろと、涙だけが、止まらなかった。

 

俺の息子は、生まれていた。

俺の妻は、ちゃんと、生きていた。

俺がいなくなった世界でも、二人は、ちゃんと、続きを、生きていてくれた。

それだけで、もう、十分だった。

 

「ごめん」

 

俺は、口の中で、ぽつりと、つぶやいた。

 

「ごめん、おとうさん、おかあさん」

「……」

「ごめん。せりな、もどってこられなかった。さきに、しんじゃってた」

「……っ」

「ごめんね、ほんとうに、ごめんね」

 

俺の口調は、もう、三歳児のものではなくなっていた。

語尾を伸ばすことも、忘れていた。

それでも、母さんは、何も、咎めなかった。

ただ、ぐいっと、両腕を伸ばして、俺を、ぎゅっと、抱きしめてくれた。

 

母さんの胸の中は、骨ばっていた。

痩せた腕の力は、それでも、しっかりと、俺を、包んでいた。

そして、温かかった。

 

俺が、男として生きていた頃には、もう、味わうことのなかった、母の抱擁の温かさ。

それが、今、確かに、俺を、包んでいた。

 

父さんも、二人の上から、ゆっくりと、両腕を回した。

痩せた背中の、その大きな腕が、俺と、母さんを、まとめて、抱きしめた。

 

「おかえり」

 

父さんが、ぽつりと、言った。

 

「おかえり、たかし」

「……」

「いや、せりな、か」

「……」

「どっちでも、いいよ。どっちでも、もう、いい」

 

俺は、二人の腕の中で、声を上げて、泣いた。

三歳児の体から、出るとは思えないくらいの、大きな、声で。

泣きながら、ようやく、思った。

 

ああ、俺は、ここに、帰ってきていいのだ、と。

形は、違っていても。

名前も、性別も、全部、違っていても。

俺は、ここに、帰ってきていいのだ、と。

 

そして、もうひとつ、思った。

あの世界には、ちゃんと、俺の続きが、残されていた。

妻と、息子。

二人が、二人で、ちゃんと、生きていてくれていた。

だから俺は、もう、この体で、この人生を、生きていける。

 

そう、思えた。

 

部屋の窓の外では、いつの間にか、霧雨が、降り始めていた。

窓ガラスに、細かい水滴が、ぽつぽつと、貼り付いていく。

その音を、俺の鋭敏な聴覚は、ちゃんと、拾っていた。

 

二〇十一年、十一月の、ある夜のこと。

俺の、新しい人生の、ほんの、ささやかな、けれど、決定的な、転換点だった。

 

その夜、俺は、母さんの腕の中で、眠った。

寝間着のピンク色が、母さんのワンピースに、ぴたりと、貼り付いていた。

父さんは、その横で、ずっと、母さんの肩に、手を置いていた。

 

夢を、見たかどうかは、覚えていない。

ただ、目覚めた時、俺の手は、母さんの手と、しっかりと、繋がれていた。

そして、母さんの目元には、もう、最初に会った時のような、絶望の影は、なかった。

 

それだけで、もう、十分だった。

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