銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
橘家に引き取られて、ひと月が経った。
季節は秋――の手前。
窓の外、橘家の小さな庭では、まだ青いままの楓が夕方の風にかすかに揺れている。
施設にいた頃から数えれば、人生で三度目の秋。
転生前の人生まで含めれば、三十回以上も経験してきたはずの「秋の入り口」だ。
それでも、この家から眺める秋は、なんというか――重さがちがう。
二階の、もともとは俺の部屋だった六畳間。
ベッドも机も、壁紙の薄い染みも、二〇年前のままだった。
だが、本棚の上の段に並んでいた小説や参考書は、今では絵本と着せ替え人形の箱に置き換わっている。
夫妻が、瀬理奈のために少しずつ揃えてくれたものだ。
「せりなー、ちょっとこっち来てくれるー?」
階下から、義母――いや、母さんの声がした。
口調は明るいけれど、声の奥にいつもより一段低い、緊張に似た固さが混ざっている。
これは、まずい話のときの声だ。
俺は本能的にそう感じ取った。
三歳児の聴覚としてはあり得ない感度なのだが、もう諦めて受け入れている。
「はーい、すぐいきまーす」
返事はもちろん、女の子らしく。
ぺたぺたと階段を下りていきながら、俺は内心で気を引き締めた。
リビングに入ると、母さんと、それから――父さんが、揃って俺を待っていた。
父さんは平日のこの時間、本来なら会社にいるはずだ。
わざわざ早退してきたらしい。
「ただいまかえりましたー」
朝、保育園の送り迎えで一度顔は合わせているのだが、それでも俺はそう挨拶した。
それは男だった頃の俺が、家に帰る父をいつもそう出迎えたかった――そんなくだらない未練の名残でもあった。
「おかえり、瀬理奈」
父さんは目尻に皺を寄せて笑ったが、その笑い方は心持ちぎこちない。
やっぱり、なにかある。
「あのね、瀬理奈」
母さんが、テーブルの向かいの椅子をぽんと叩いた。
そこに座れ、という合図だ。
俺は、三歳児には少々高すぎる椅子によじ登り、ちょこんと腰を据えた。
「うん、なぁに、ママ」
「実は、お話があるの。せりなにとって、ちょっと、大事なお話」
母さんは、両手を膝に置き直してから、ゆっくりと続けた。
「あのね。来週の日曜日にね。お客さんが、来るの」
「おきゃくさん?」
「うん。せりなにも会ってもらいたい人。――いえ、正確に言うとね」
母さんが一瞬、父さんと視線を交わした。
「来るのは、愛奈さん。そして、明彦」
その名前を口にした瞬間。
俺の胃の底が、すっと冷えた感覚があった。
愛奈。
明彦。
――愛奈、明彦。
ああ。
そうか。
そういうことか。
俺は、自分の顔の筋肉が固まらないように、ぐっと舌の付け根を噛んだ。
「あ、いの、お、ねえ……」
舌を噛みかけて、俺はそれをなんとか飲み下した。
三歳の口を借りて愛奈という名前を呼ぶことに、男だった頃の俺の感情がついていけない。
仕方がない、ここは戸惑った三歳児で押し切るしかない。
「あいなおねえちゃんって、だれ?」
「うん、せりなは初めて会う人だものね」
母さんがそっと俺の手を取った。
その手のひらが、いつもより微かに汗ばんでいる。
三歳児の手では母さんの手は包みきれず、俺の指は母さんの親指にようやく届くだけだ。
「愛奈さんはね。お兄ちゃん……あなたが知らない、橘家のお兄ちゃんね。そのお兄ちゃんが結婚してた人なの」
母さんは「お兄ちゃん」という単語を、ものすごく注意深く選んで使った。
俺の前世の名前――橘隆志――を、彼女はあの夜以来、ずっと「お兄ちゃん」と呼んでいる。
「あなたが転生する前のあなた」と言うのを、いまだに避けているらしい。
それが俺への気遣いなのか、それとも、彼女自身がまだその事実を「呼び慣れない」だけなのか。
俺は、たぶん後者だろうと思っている。
「明彦くんはね。そのお兄ちゃんと、愛奈さんの間に生まれた、坊や」
母さんが息を吐いた。
「ちょうど、せりなと同じ歳。三歳」
息子。
俺の、息子。
あの日、生まれる前にお別れすることになった、たったひとりの子。
名前すら、生まれてから決めるはずだった、あの子。
「明彦」というのは、結局、愛奈ひとりで決めた名前なのだろう。
「明」の字は、たしか、俺の祖父の名前から取ろうと、生前、愛奈と話していた。
父さんと母さんが、それを覚えていてくれて、愛奈と一緒に名付け会議をしたのか。
あるいは、愛奈がひとりで、その「隆志との会話」を覚えていて、つけてくれた名前なのか。
訊いていいことなのかどうか、俺には分からない。
「……そっか。あいなさんとあきひこくん、ね」
俺は、にこ、と笑ってみせた。
我ながら、よくできた笑顔だと思う。
頬が震えそうになるのを、舌の力で押さえつけているのに、誰も気付かない。
母さんは、その笑顔をどう受け取ったのか。
ほんの一瞬、泣きそうな目をした。
「……瀬理奈」
父さんが、はじめて口を開いた。
喉に何かが引っかかっているような、低い声だった。
「愛奈さんはね。怒っているんだ」
「おこってる?」
「ああ。私たち――父さんと母さんに対してね」
父さんは、一度、深く深く息を吸って、それから言葉を続けた。
「どうして自分や明彦に何の相談もなく、この子……瀬理奈を引き取ってしまったのか、と」
ああ、そうか。
ようやく、状況が呑み込めてきた。
考えてみれば、当たり前のことだ。
俺が前世で死んだ後、橘家には父さんと母さんがいて、愛奈がいて、明彦がいる。
父さんと母さんからすれば、たしかに愛奈は「血の繋がらない他人」かもしれないけれど。
でも、明彦は「血を分けた孫」だ。
その明彦という孫を差し置いて、見知らぬ施設の女の子を、急に引き取る。
それも、瀬理奈に橘の名字を与えて、養子縁組まで進めた。
事情を知らない人間からすれば、「老夫婦が後継ぎを別に決めようとしている」とすら見える話だろう。
愛奈の立場で考えれば、不安と不信は当然だ。
むしろ、ひと月もの間、何も言わずに事態の推移を見ていただけ、まだ我慢強い方だと思う。
「あいなさんは、せりなに、あいたいって、いってるの?」
俺は慎重に問うた。
「会いたい」じゃないんじゃないか、という嫌な予感がある。
「いや、そうじゃないの」
母さんが、ゆっくりと首を振った。
「『どうしてあの子なのか、説明してほしい』って。それを、せりなのいる場所で、せりなを見ながら、聞きたいって」
うん。
やっぱり、そういう話か。
「愛奈さんから見たら、これは『あの子(明彦)を後継ぎから外して別の子を立てるための布石なのではないか』っていう、不安があるんだと思う」
父さんが、目を伏せた。
「もちろん、私と母さんには、そんなつもりは絶対ない。明彦だって、私たちの大事な、たったひとりの孫だ。瀬理奈を引き取ることで、明彦への愛情が減るなんてことはあり得ない」
「でも、それは、私たちが思っているだけで」
母さんが、引き取って続ける。
「愛奈さんから見たら、説明にならないのよね。突然見知らぬ、しかも――銀髪の、外国の子みたいに見える女の子を養女にして、明彦と同じ家の名前を持たせて。理由がわからないんだもの。怒るのも当たり前。むしろ、ここまで黙っていてくれたのは、愛奈さんなりに、こちらに配慮してくれていたんだと思う」
そうだろうな、と俺は心の中で頷いた。
愛奈は、頭がいい。
俺はそれを誰よりも知っている。
頭がよく、そして、行動が早い人間だ。
怒鳴り込んでこなかったということは、そのぶん、内側で時間をかけて考え込んでいたということになる。
そして、その「考え込み」を経た末に出てきた要求が、
ーー実物を、見せろ。
これは、相当に腹を括った要求だ。
「あいなさんが、おうちに、いらっしゃるってこと?」
「うん。来週の日曜日に。明彦も連れてね」
「……そうなの」
俺は、目を伏せた。
状況を整理する時間が、ほんの少しだけ欲しかった。
頭の中で、いろんな計算が走った。
選択肢としては、たぶん、三つある。
ひとつ。
愛奈に、表向きの理由――たとえば「施設で目をつけて気に入った」「夫婦の気まぐれだ」とでも答えて、嘘で取り繕う道。
これは、たぶん、長期的にはじわじわとボロが出る。
父さんと母さんが、瀬理奈に対して、明らかに「ただの孤児」ではない態度を取り続けてしまうから。
ふたつ。
何も話さずに、感情論で押し切る道。
「孤児の子を引き取りたかった、それだけだ。明彦のことは何も変えない」と頑なに言い張る。
これも、たぶん、愛奈には通用しない。
彼女は、感情論ではぐらかされるのを一番嫌うタイプの人間だった。
そして、みっつ。
全部、話す。
俺は、唇を結んだ。
選択肢三――「全部を話す」。
これは、要するに、愛奈に「あなたの夫だった人が、この三歳の女の子の中にいます」と打ち明けるということだ。
普通に考えれば、頭がおかしい話だ。
信じてもらえる確率の方が、ずっとずっと低い。
でも。
父さんと母さんは信じてくれた。
それは、俺と橘家三十年分の記憶の擦り合わせがあったから。
その経験を、愛奈相手にもう一度やればーー
可能性は、ゼロじゃない。
ゼロじゃないけれど。
俺の心の中の、ある一点が、ずきりと痛んだ。
愛奈に、知らせていいんだろうか。
あの日、俺の代わりに残って、明彦をひとりで産んで、ひとりで育ててきた愛奈に。
「実は俺はここにいるよ」なんて、そんな話を、知らせていいのだろうか。
知らせなかったら知らせなかったで、彼女はずっと「夫はいない」と思って生きていく。
知らせれば、彼女の中で、止まっていた時間が動いてしまう。
どっちが、愛奈にとっての残酷なのか。
俺には、まだ判断がつかなかった。
「……せりな」
母さんが、俺の沈黙を、おそらく「困惑」と受け取った。
「ごめんね、ちょっと大人の話、難しいわよね」
「ううん、だいじょうぶ」
俺は、首を振った。
「あいなさんと、あきひこくん、おうちにきてくれるなら、わたし、ちゃんとごあいさつしたい」
「……うん。うん、ありがとう」
母さんが、ほっとしたように、俺の頭をそっと撫でた。
銀色の、長く伸びてきた髪が、母さんの指の間をするすると滑っていく。
父さんが、姿勢を正した。
彼が、こうやって「正式な話」のときの姿勢を取るのを、俺は何度も見たことがある。
「父さんと母さんはね。愛奈さんに、――事実を話そうと思っているんだ」
「じじつ?」
「うん。せりなのこと、本当のことを話す」
リビングが、しんと静まった。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
カチ、カチ、カチ、と、世界の境目を確かめるように。
「もちろん、信じてもらえない可能性の方が、たぶん、ずっと高い」
父さんは、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を選んでいた。
「『なんてことを言うんだ、頭がおかしくなったんじゃないか』と、なじられるかもしれない。明彦を抱えて、もう二度とこの家には来ないと、絶交を言い渡されるかもしれない」
「でも、ね」
母さんが、父さんの言葉を引き取って、優しい声で続けた。
「私たちが嘘をつき続けるのは、――愛奈さんに対しても、明彦に対しても、それから、せりな、あなたに対しても、ものすごく失礼なことだと思うのよ」
母さんの目が、まっすぐに俺を見た。
「だから、ちゃんと話そうと、お父さんと話し合ったの。せりなに、まずは断ってからにしたかった。せりなが、嫌だと言うなら、別の言い訳を一緒に考えるつもりだったから」
俺は、しばらく黙っていた。
天井を見上げる。
裸電球のシェードの埃が、夕暮れの光に薄く照らされていた。
愛奈。
あの人に、もう一度会える。
会ってどうするのか。
それは、まだ、自分の中で言葉にならない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
逃げるのは、もう、やめたい。
「……うん」
俺は、目を上げた。
「わたしも、ぱぱとままと、おんなじにしたい。ほんとうのこと、はなしたい」
声は、ちゃんと、三歳の女の子のものとして出た。
でも、そこに込めた決意は、たぶん、男だった頃の俺のものだった。
「あいなさんに、うそをつくのは、わたしも、いやだから」
父さんが、目を細めた。
母さんは、もう、はっきりと泣きそうな顔になっていた。
「……ありがとう、瀬理奈」
父さんがそう言って、俺の頭を、ゆっくりと撫でた。
皺の刻まれた、ごつごつとした手のひら。
あの夜、初めて施設で会ったときよりも、心なしか、その手は温かかった。
その夜。
俺は寝つけなかった。
布団の中で何度も寝返りを打ち、結局、二時を回ったところで諦めた。
小さな身体は確かに眠気を訴えているのだけれど、頭の方が、どうしても落ち着いてくれない。
俺は枕元のスタンドライトを、いちばん弱い光に絞った。
父さんと母さんを起こさないように、足音を立てずに机までいき、引き出しからメモ帳と短い鉛筆を取り出す。
書こうと思ったのは、明日――いや、もう今日か――から日曜日までの、当日までの「準備」だった。
愛奈に何を伝えるか。
順序は。
どの記憶から提示すれば、信じてもらえる確率が一番上がるか。
新婚旅行で行ったハワイのこと。
俺たち以外、誰も知らないはずの会話。
ふたりだけの隠語、呼び合い方、笑い話。
そういうものを、いくつかリストアップしておく必要がある。
鉛筆を走らせる。
紙の上に、男だった頃の俺の筆跡がそのまま出る。
やや右上がりの、角張った字。
三歳の女の子が書ける字じゃない。
でも、不思議と、止められなかった。
書きながら、俺は、別のことも考えていた。
明彦のこと。
明彦は、いま、三歳だ。
俺と同じくらい、世界のことが分からない年頃。
俺の事情を、ぶつけていい相手ではない。
明彦は、父親を、知らない。
顔写真でしか、声でしか、知らない。
そんな子に、「実はおとうさんは、いまここにいる女の子だよ」なんて、伝えてはいけない。
それは、たぶん、絶対にやってはいけない。
俺は、メモ帳の隅に、強い力で「明彦には言わない」と書きつけた。
鉛筆の芯が折れて、紙に深い跡が残った。
愛奈にだけ。
あの人にだけ、話す。
そして、愛奈が、明彦にどう伝えるかは、――愛奈に、まかせる。
それが、たぶん、最低限の筋というものだ。
時計の針が、三時を回った。
俺は、ようやく、メモ帳を引き出しに戻した。
布団に戻って、目を閉じる。
窓の外で、コオロギの声が、まだ細く鳴いている。
秋の声だ、と思った。
そして、その晩。
俺は、夢を見た。
前世の、結婚式の朝の夢だった。
愛奈の白いドレスの裾を、廊下で踏みかけて、舅に怒られた。
そんな、どうでもいい記憶。
でも、目が覚めたとき、頬は濡れていた。
日曜日は、嫌になるくらいの好天だった。
朝の九時を回った頃、橘家の玄関先に、白い軽自動車が停まった。
タイヤの止まる音、エンジンを切る音、ドアが二つ続けて開く音、そして閉まる音。
俺は二階の窓のレースカーテンの隙間から、その一連の音と動きを聴き取っていた。
「……おっきい」
思わず、声が漏れた。
軽から降りてきた女性。
彼女は、俺の知っている愛奈よりも、ほんの少しだけ、痩せていた。
頬の輪郭がすっきりして、髪も、結婚した頃よりは少し短く切られている。
着ているのは、深い藍色のワンピース。
あれは、たしか、結婚二年目のときに俺がプレゼントした服に、似ている。
そのワンピースの裾を直しながら、彼女は屈み込み、後部座席から、小さな男の子を抱き上げた。
明彦。
抱き上げられた瞬間、明彦は嬉しそうに笑った。
ふっくらした頬。
軽く茶の入った柔らかい髪。
俺によく似た、目元。
そして、愛奈に似た、唇のかたち。
ーーああ。
俺の中の、男だった頃の俺が、無言で崩れた。
ここに、いたんだ。
ここに、ちゃんと、いたんだ。
あの日、俺が会えずに死んだ子が、いま、目の前で、母親の腕の中で笑っている。
「せりなー、お客さま、いらっしゃったわよー」
階下から、母さんの声がした。
そろそろ降りてこいよ、という合図だ。
本当はもう一拍だけ、二階の窓から眺めていたかった。
だが、ぐずぐずするわけにもいかない。
「はぁい、いまいきまーす」
俺は、女の子の声でちゃんと返事をして、ゆっくりと、慎重に、階段を下りた。
身体は三歳。
心は三十歳。
今からその二つを、ひとつのテーブルの上で、愛奈の前に並べて見せる。
人生で、たぶん、いちばん難しい時間が、もう、始まろうとしていた。