銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
階段を下りきると、玄関の三和土に、愛奈と明彦が、ちょうど靴を脱いでいるところだった。
「あ、せりなちゃん」
母さんが、振り向いて俺の名前を呼んだ。
普段より、声の調子が、ほんの半段だけ高い。
緊張しているのだ。
「こんにちは、せりなさん。はじめまして」
俺の名前を呼んだのは、愛奈だった。
その声を俺は、たぶん、二〇年ぶりに聴いた。
歳をとった、と思った。
俺と過ごしていた頃の声は、もう少しだけ柔らかかった。
いまの声には、若かった頃にはなかった「重さ」が乗っている。
ひとりで子供を育ててきた人間の声だ、と、俺は本能的に理解した。
「はじめまして、たちばなせりな、です」
俺は頭を下げた。
ぺこり、と、なるべく深く。
「えっと、よんさい、です」
「あら、もうそんなにしっかりご挨拶ができるのね」
愛奈はふっと笑った。
笑ったが、その目の奥にある「観察」の温度は、笑顔とまるで連動していなかった。
ーー怖い、と思った。
正直に言って、俺はいま、けっこう怖がっている。
愛奈の頭の良さは、結婚していた六年間で、嫌というほど思い知っている。
彼女は人の話を聞きながら、その人の手の置き方、視線の動き、声の震えを、同時に何個も観測する。
ひとつだけでも嘘をつけば、彼女はだいたいそれを見抜く。
そういう人に、これから世界一信じてもらいにくい話をしようとしている。
「あきちゃん、ご挨拶は?」
愛奈が、自分の足の影に隠れていた明彦の背中を、軽く押した。
「……はじめまして」
明彦は、ほとんど聞き取れないくらいの小さな声でそう言って、すぐに愛奈のスカートに顔を埋めた。
人見知り、というやつだ。
これはたぶん愛奈の血だな、と俺は思った。
愛奈も、初対面の人にはたいてい一拍、人見知りを発揮する人だった。
「はじめまして、あきひこくん」
少しだけ屈んで、俺は自分の目線を明彦の目線に近づけた。
「……あ」
明彦が、愛奈のスカートからほんの少しだけ顔を出した。
俺の銀色の髪と、青い目を、まじまじと見ている。
「おにんぎょうみたい」
ぽつりと、明彦が言った。
その一言で俺の中の何かが、ひゅう、と細く震えた。
そうか。
お前から見たら、俺は、お人形に見えるのか。
そりゃそうだよな。
銀髪碧眼の三歳児なんて、二〇一一年の日本では、ほぼお人形枠だ。
「えへへ、ありがとう」
俺は、にこ、と笑ってみせた。
頬の筋肉の動きを、慎重にコントロールしながら。
「あきひこくんも、かっこいいよ。おにんぎょうじゃなくて、ほんとのおとこのこっぽくて」
「……どっちもにんぎょうじゃん」
明彦が、愛奈の手をきゅっと握って、すこし顔を逸らした。
照れているらしい。
頭の悪い子じゃないな、と、俺はそこで判断した。
三歳児にしてはまずまずの反射が返ってきた。
これは、愛奈の遺伝が出ているのか、それとも――俺の遺伝なのか。
俺の遺伝だとしたら、ちょっと、嬉しい。
「あらあら、せりなちゃんも明彦くんも、おりこうさんね」
母さんが、つとめて柔らかい声で、その場の空気を作り直した。
「とりあえず、リビングへどうぞ。お茶を入れますから」
「お邪魔します」
愛奈はそう言って、靴を綺麗に揃え、明彦を片手で持ち上げると、廊下の奥へと歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は深く、ひそかに、息を吐いた。
第一関門は、たぶん突破した。
あとは、本題だ。
リビングのテーブルには、客用の白い湯呑が二つ。
それと、明彦と俺のための、林檎ジュースが入った小さなコップが、ふたつ。
愛奈と明彦が、テーブルの長辺の片側に並んで座り、向かいに父さんと母さんが座った。
俺は、その間――テーブルの短辺、母さんの隣の椅子に、ちょこんと腰を下ろした。
愛奈の視線が、俺をしばらく追って、それから父さんに移った。
「……それで、お義父さん」
愛奈は湯呑には手をつけずに、両手を膝の上で組んだ。
「いきなりお呼びだてしてしまって申し訳ありません。でも私、どうしてもお話を伺いたかったんです」
「うん」
父さんは、湯呑をテーブルに戻して、姿勢を正した。
「むしろ、こちらこそひと月もご連絡せずに申し訳なかった。話さなければならないことがたくさんあった」
愛奈が、目を伏せた。
組んだ両手の指が、すこし強く絡んだのが、俺の位置から見えた。
「……すみません、最初にはっきり言わせてください」
愛奈は、顔を上げて、まっすぐに父さんと母さんを見た。
「私、怒っています」
直球だった。
俺は心の中で、おっ、と思わず唸った。
昔の愛奈なら、こういう局面で最初の弾は外して撃つことが多かった。
それがいきなり真ん中に投げ込んできた。
ひと月、考え抜いた末の決断なんだろう。
「明彦の父親――隆志さんが、亡くなってから、ちょうど三年半です」
愛奈の声が、わずかに揺れた。
「その間、お義父さんとお義母さんには本当にお世話になりました。明彦が産まれたときも、初宮参りのときもいつも気にかけてくださって、お祝いもなにもかも、本当に。私、お二人がいてくださらなかったら、たぶん明彦を育てる自信なんて、もてなかったと思います」
母さんが、ぐっと唇を噛んだ。
たぶん何か言いかけて、飲み込んだのだ。
「だからお義父さんお義母さんが、明彦を遠ざける方ではないことは、私、ちゃんとわかってます」
「うん」
「でも」
愛奈は、そこで一度、息を切った。
「ある日、お義父さんから電話がかかってきて、『施設の女の子を養女に迎えることになった』とだけ、ぽつんと言われて。それでおしまい。一ヶ月、なにも追加の説明がなくて」
愛奈の目元が、すこし赤くなっていた。
「私、その電話を切ったあと、ーー本当に、本当に、怖くなったんです」
「怖く」
母さんが、思わず繰り返した。
「はい。だって、わからないじゃないですか」
愛奈は、視線をテーブルの木目に落とした。
「お義父さんとお義母さんが、いきなり、見たこともない女の子を引き取った。隆志さんとも血の繋がりのない、海外の子みたいな顔立ちの、女の子を。そしてもう養子縁組まで進めて、橘の名字までつけた」
「……」
「私が、もし他人だったら、たぶん、こう考えると思います」
愛奈は、顔を上げた。
「『あの夫婦、亡くなった息子の代わりに、見栄えのいい子を後継ぎに据えるつもりだな』って」
母さんが、唇を震わせた。
父さんは、目を閉じて、こめかみのあたりを軽く押さえた。
「もちろん、私は、お義父さんお義母さんが、そんな下世話な理由でこんなことをする方ではないと、信じてます」
愛奈の声は、それでも、震えていた。
「でも、信じているからこそわからないんです。じゃあ、なぜ、なんですか」
愛奈の手が、湯呑をぎゅっと握った。
「なぜ明彦じゃ、ダメだったんですか」
その瞬間。
リビングの空気の温度が、はっきりと、一度か二度、下がった気がした。
愛奈の声には、責めるような響きはなかった。
むしろ、ものすごく抑えられていた。
だからこそ、その下に押し込められた感情の量が伝わってきた。
明彦が、自分の母親の声色の変化を察したのだろう。
ジュースのコップから口を離して、不安そうに愛奈の横顔を見上げた。
俺は、その明彦の小さな手を、テーブルの下からそっと、ちょんと突っついた。
「……」
明彦が、びっくりした顔で、俺を見た。
「だいじょぶ。ジュース、おいしいね」
俺は、ちいさく囁いた。
明彦はぱちぱちと瞬きをしてから、力を抜いた。
そして、またジュースのコップに口をつけた。
その小さな仕草を見ていた愛奈の視線が、俺の方に移った。
その目はーー鋭かった。
「……せりなさん」
愛奈が、俺の名前を、もう一度呼んだ。
「あなた、ほんとうは、いま何歳?」
「……三さい、です」
「ふぅん」
愛奈は、それ以上、追及はしなかった。
だが、その「ふぅん」のなかには、ものすごい量の含意が詰まっていた。
ーーああ、もう、勘付かれかけているな。
俺は内心で苦笑した。
やっぱり、この人は怖い。
こうなったら、もう、引き延ばしても仕方がない。
母さんが、ちらりと、父さんを見た。
父さんは、ゆっくりと頷いた。
そして父さんが、姿勢を正して口を開いた。
「愛奈さん。順番に話します」
父さんの声は低かったが、揺らぎは一切なかった。
「いまから話すことは――たぶん信じてもらえません。聞き終わったあとに、頭がおかしくなったと思って、明彦を連れて二度とこの家に来ないと言ってくださっても構いません」
「お義父さん?」
「ただし、ひとつだけお願いがあります。話を全部、最後まで聞いてから判断してほしい。それだけ、お願いします」
愛奈の表情が、一瞬、こわばった。
彼女は、こういう「正式な前置き」が、何を意味するかを知っている人間だった。
「……はい。聞きます」
愛奈は、湯呑から手を離し、両手を膝に揃え直した。
リビングの時計の音だけが、こつ、こつ、こつ、と響いていた。
俺は、横で、ジュースを飲み終わったコップを両手で握りしめた。
コップの底に、林檎の繊維が、すこしだけ沈んでいる。
ーーさあ、ここからだ。
俺は、深く、息を吸った。
「愛奈さん」
父さんが、ゆっくりと切り出した。
「隆志が亡くなったのは、二〇〇八年の十二月十一日。深夜の帰宅途中の事故でした。これは、間違いないですね」
「……はい」
「隆志の意識が現場で途切れたのが午後十一時十二分。病院に搬送され医師が死亡を確認したのが、十一時四十八分。これも間違いないですね」
「ええ、そうです」
愛奈は、戸惑った表情で頷いた。
「何の確認なんだ」という顔をしている。
「そして、せりなが生まれたのは――」
父さんは、一度、母さんの方を見た。
母さんが、無言で頷いた。
「二〇〇八年の十二月十一日。生まれた病院の記録によれば、午前十一時五十分」
愛奈の眉が、わずかに動いた。
「……日付が同じ?」
「うん。同じ日。隆志が亡くなって二分後に生まれている」
愛奈は、しばらく沈黙した。
それから、ゆっくりと、首を傾げた。
「……それは、偶然ですよね」
「うん。普通は偶然です」
父さんは、ゆっくりと、頷いた。
「普通は、偶然です。私と母さんも、最初に瀬理奈を施設で見たときは何も気付かなかった。瀬理奈の生年月日を知ったときも『そういえば隆志が死んだ日と同じ日だ』と思っただけで、それ以上は考えませんでした」
「では、なぜ」
愛奈の声に、わずかに、鋭さが戻ってきた。
「順番に、話します」
父さんは湯呑に手を伸ばし、しかし口はつけずにテーブルに戻した。
「施設で一度会ったあと、瀬理奈をうちに連れて帰った日のことです。寝る前に瀬理奈が、私と母さんを呼びました。そして――こう、言ったんです」
父さんの声が、すこし、揺れた。
「『せりなは、ね、ふたりの、こどもだったの』と」
愛奈の表情が止まった。
文字どおり止まった。
呼吸も、まばたきも、テーブルの上に置いた指先も。
すべてが、コンマ数秒停止した。
それから、ゆっくりと彼女の目が俺の方を向いた。
俺は――そこで目を逸らさなかった。
逸らしてはいけないと思った。
ここで逸らしたら、男だった頃の俺ごと、嘘になってしまう気がした。
「……ふざけないでください」
愛奈の声は低かった。
怒鳴り声ではない。
むしろ、囁きに近い抑え込まれた声だった。
だからこそ、空気がぴしりと裂けた。
「お義父さん。お義母さん。私、なんでもいいから、ちゃんと理由を聞きたかっただけです。たとえ理由が『気の迷いで養子を取った』だったとしても、それを話してくれればいずれ納得しようと思っていました」
「うん」
「でも、これは、――これだけは、ないです」
愛奈の目に、薄く、涙が滲んでいた。
「亡くなった夫の名前を、三歳の女の子に使わせて、それで何かを説明したつもりになるのは――やめてください」
母さんが目を伏せた。
泣くのをぐっと堪えていた。
「予想どおりの反応です」
父さんが静かに頷いた。
「むしろ、その反応がない方がこちらが心配になるくらい、まっとうな反応です」
「……」
「だから、私と母さんは瀬理奈の言葉だけでは信じませんでした。あの夜、私たちは瀬理奈にいろんなことを訊いたんです」
父さんは、一度、目を閉じた。
「うちの祖母――隆志から見ればひいおばあちゃん――が晩年、左手の薬指の付け根にコブのような腫れを抱えていたこと。隆志はそれを『おばあちゃんのまめ』と呼んでいたこと。これは、家族でも私と母さんと隆志しか知らない話です」
愛奈の表情が、また止まった。
「隆志が高校三年の文化祭でクラスの劇でやった役。あれは『シンデレラ』で隆志は王子様役。ただし、衣装係のミスでマントが小さすぎて、最後の場面はほとんど首にスカーフを巻いているだけの王子様になった。これも、家族と当時のクラスメイトしか知りません」
「お義父さん……」
「隆志が中学二年の頃、母さんに隠れて、夜、コンビニで買ってきたえっちな漫画雑誌を布団の中で読んでいた。そのことが母さんにバレた日、隆志は『布団の中は治外法権だ』と言って譲らなかった。これも家族の話です」
愛奈が、震える指で湯呑のふちをなぞっていた。
「……それを、せりなさんが、知っていたと?」
「全部、知っていました」
父さんは、頷いた。
「ひとつやふたつなら偶然と言えるかもしれない。だが、私と母さんが思いつく『家族しか知らないエピソード』を、ぜんぶ瀬理奈は知っていた。私たちが言葉に出す前から知っていた」
愛奈の唇がわずかに震えた。
彼女の中で、何かがぐらりと揺れているのが、はっきりと見えた。
「……でも」
愛奈が、ようやく声を絞り出した。
「でも、それは誰かが教えれば覚えられることでしょう。隆志さんの古い友達か、親戚か、その誰かがせりなさんに教え込んだのだとしたら――」
「愛奈さん」
母さんが、はじめて口を挟んだ。
「隆志と私たちの間にしかない家族のエピソード。それをわざわざ三歳の他人の子に教え込んで、私たちを騙して何のメリットがあると思いますか」
「……」
「私たちの家には莫大な遺産があるわけでもありません。瀬理奈を後継ぎに据えて、誰かが何かを得るような構造ではありません」
母さんの声は、震えながらも確かだった。
「私たちは騙されていません。少なくとも、騙されていると考える理由がひとつもないんです」
愛奈は、しばらく、口を閉じていた。
論理的に詰められて、行き場をなくした目をしていた。
でもその目の奥には、まだはっきりとした「拒否」があった。
それが論理の問題ではなくて、感情の問題であることを俺は痛いほど理解した。
そりゃそうだ。
夫が三歳の女の子に「転生」しました、なんて話を、論理だけで呑み込めるはずがない。
「……愛奈さん」
父さんがもう一度ゆっくりと呼びかけた。
「ここから先は、私と母さんではなく――せりなとあなたが話をする時間にしようと思います」
「えっ」
はじかれたように顔を上げる愛奈。
「私たちが何を言っても、たぶんこれ以上はあなたを動かせません。だから私たちが知らないことをーー隆志とあなたしか知らないことを、せりなに答えてもらえばいいと思います」
「明彦は私たちが見ていますから。あちらの和室でおもちゃで遊ばせます」
「お義父さん、待ってください」
愛奈は半ば反射的に止めようとした。
でも、止める言葉が続かなかった。
たぶん彼女は内心で、もうずっと前から「ふたりで話す」ことを覚悟していたのだ。
母さんが明彦の前にかがみ込んだ。
「明彦くん。おばあちゃんとね、向こうのお部屋でちょっと遊んでようね」
「うん」
明彦はすこし不安そうに母親の方を振り返った。
「ママは、ここで、せりなおねえちゃんとお話してるから。すぐ、行くから」
努めて柔らかい声で、息子の頭を撫でた。
明彦はそれで安心したのか、ぴょこんと椅子から下り、母さんの差し出した手を握った。
ふたりと一人が、リビングの隣の和室へ入っていく。
ふすまが、すう、と閉まる。
リビングには、愛奈と俺だけが残された。
時計の秒針の音が、また、やけに大きく響き始めた。
愛奈は、しばらくの間、自分の湯呑をじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと、顔を上げた。
俺と、愛奈の目が、合った。
俺が三十歳の男だった頃、何百回、何千回と合わせた、あの目だ。
日々の挨拶、喧嘩、和解、笑い話、すべての場面で、俺がよく知っている目だ。
その目が、いま俺を、三歳の銀髪碧眼の女の子として見ている。
「……せりなさん」
低い声で俺を呼んだ。
「ふたりだけのときくらいは、――幼い喋り方、やめてもいいですよ」
俺は、息を止めた。
え?
「ほんとうに、もし、せりなさんが隆志さんなら。三歳児のフリはいまいらないでしょう」
まっすぐに俺を見ていた。
「隆志さんは、嘘をつくのが下手な人だったから。三歳児を演じ続けるのも、たぶん、下手なはずです」
俺は、しばらく何も言えなかった。
愛奈はーー
たぶん自分でも気付かないうちに、もう半分信じはじめていた。
だから、こんな「テスト」をしかけてきている。
完全に拒否する人間は、「もし隆志さんなら」なんてそもそも口にしない。
唇を舐めた。
ジュースの甘さが、まだ少しだけ残っていた。
そしてーー一度、深く息を吸った。
吐いた。
それから、はじめて男の口調で、しゃべった。
「ーー久しぶり、愛奈」
声帯が三歳児のものなので、声色そのものは、当然女の子のままだ。
でも、口調と、声の置き方と、間の取り方は――男のものに戻した。
愛奈の肩が、ぴくり、と跳ねる。
そして。
彼女の目から、ぽろり、と涙が一粒落ちた。
それは頬を伝うことなく、テーブルの上にぽとりと落ちて、すぐに木目に吸い込まれた。
「……うそ」
愛奈の唇が、ほとんど声にならない声でそう言った。
「うそ、うそ、うそ……」
「愛奈」
俺はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「久しぶりーーごめん。三年間、ひとりで、明彦を産ませて、育てさせて、ごめん」
愛奈の顔が、くしゃりと歪んだ。
涙が、もう一粒、また一粒、テーブルに落ちた。
そしてーー
彼女は両手で顔を覆って、声を殺して泣き始めた。
そのまましばらく、リビングには愛奈の押し殺した嗚咽の音だけが、響いていた。
俺はその音をただじっと聞いていた。
何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
ただ一つだけ、わかったことがある。
ーー逃げないでよかった。
愛奈の涙が、ようやく、すこし収まってきた頃。
俺はテーブルの上のティッシュ箱を、両手で抱え上げて愛奈の前に押し出した。
三歳児の腕では、それだけでも結構な仕事だった。
「……ありがとう」
愛奈はかすれた声でそう言ってティッシュを二枚引き抜き、目元に押し当てた。
それから、しばらく深呼吸をしていた。
その間、何も言わずに俺は、椅子の上で待っていた。
愛奈が落ち着くまで待つ。
これは結婚していた頃から、俺が彼女に対して身につけた、ほとんど唯一の正解の振る舞いだった。
彼女は泣いている間に言葉をかけられるのを、何より嫌った。
だから、俺は待つ。
ティッシュ箱を、すぐ手の届くところに置いてやることだけが、男側の役割だった。
「……ほんとに、隆志さん、なんですね」
しばらくして、愛奈は洟をすすり上げながら、ぽつりと言った。
「うん」
「いま、ティッシュの箱を、私の方に向けて置き直したでしょう」
愛奈は、薄く笑った。
「角度まで合わせて」
「……それで判断するのか」
「いえ、判断はもうとっくに終わってます」
愛奈は、ティッシュをもう一枚抜いて鼻をかんだ。
「『久しぶり、愛奈』って言った瞬間に、私の中では、もう」
俺は、答えに窮した。
答えに窮して、口の中で、ジュースの缶の縁を舐めた。
ジュースは、もう、空になっていた。
「……ごめん」
もう一度繰り返した。
「ほんとうにごめん」
「隆志さんが謝ることじゃないでしょう」
愛奈は目尻に新しい涙を浮かべながら、首を振った。
「事故に遭ったのは、隆志さんが望んだことじゃない。生まれてきた場所が私の家じゃなかったのも、隆志さんが選んだことじゃない」
「……」
「謝るとしたら、私の方です」
愛奈はテーブルに視線を落とした。
「隆志さんがいなくなって三年。私ーー隆志さんのことを忘れた日も、たくさんあったんです」
「それは」
「それでいいんだよ」と言いかけて、俺はその言葉を飲み込んだ。
それを言うのは、たぶん俺の役割ではない。
「忘れていいと、たぶん隆志さんは言ってくれるんでしょうけど」
口の端だけで、すこし笑う愛奈。
「忘れていた自分が、こうやって隆志さんに再会して申し訳ない気持ちになるなんて――都合がよすぎる話だよなって、いま自分で思ってます」
「都合よくないよ」
俺は、首を振った。
「忘れない方がたぶんまずかった。明彦を育てるのにずっと俺のことを覚えていたら、愛奈の心がもたない」
愛奈は何も答えずに、ティッシュをぎゅっと握った。
しばらく、沈黙が降りた。
時計の秒針の音と、隣の和室から漏れてくる、明彦と母さんの小さな笑い声。
それだけが、リビングの空気をかろうじて満たしていた。
「……ひとつ、聞いていいですか」
愛奈が、顔を上げた。
「うん」
「いまの隆志さんはーーいえ、せりなさんは、橘家の養女としてこれから生きていくんですよね」
「うん。そのつもり」
「明彦と――兄妹として、ですか」
そこで愛奈の声が、ほんの少しだけ揺れた。
俺はゆっくりと首を振った。
「戸籍上はたぶんそうなる。父さんと母さんが俺を養女にした以上、明彦から見たら瀬理奈は『叔母』にあたるはずだ。歳は同じだけど」
「叔母」
愛奈はその単語を繰り返して、複雑そうな顔をした。
「俺は、明彦に自分のことを話すつもりは、ない」
はっきりとそう言った。
愛奈の目が、まっすぐに俺を見た。
「絶対に、ですか?」
「絶対に」
俺は、繰り返した。
「明彦は自分の父親を、写真と愛奈の話と母さんと父さんの話のなかでだけ、知っている。それは明彦のなかで、ひとつの『お父さん像』として完成しつつあるはずだ」
「……はい」
「そこに銀髪の三歳の女の子が来て、『お父さんは俺だよ』なんて言ったら、明彦のお父さん像はたぶん、壊れる」
「ええ」
「明彦には、お父さんはいないままでいい。そして、いつか大人になって、自分で家族を作るときに、自分が知らないお父さんのことを、想像でもいいから、いっぱい考えて、納得していけばいい」
「……そうですね」
愛奈は、目を伏せた。
「明彦に――今の、ぐちゃぐちゃの真実をぶつけるのは酷ですね」
「うん」
「明彦からお父さんを奪うだけじゃなくて、これからお父さんを『想像する自由』まで奪うことになる」
愛奈は、ふっと、息を吐いた。
「わかりました。私からも明彦には言いませんーー隆志さんと、お義父さんお義母さんと、私の四人だけの秘密にします」
「うん」
「でも、その代わり」
愛奈は目を上げた。
「私には、これからも隆志さんに――瀬理奈さんに会わせてください」
「もちろん」
俺は、頷いた。
「俺の方こそお願いしたい。明彦にたくさん会わせて欲しい」
「……はい」
「俺は、もう明彦の父親としては、何もしてやれない。これからの明彦の人生に、父親として一度たりとも顔を出せない。でも――『歳の同じ親戚の女の子』としてなら、明彦の人生にすこしだけ寄り添わせてもらえる」
俺は、自分でもびっくりするくらい、すらすらとその言葉を口にしていた。
たぶん、夜中にメモ帳を走らせていたときから、ずっと自分の腹のなかで温めていた言葉だった。
「明彦のそばにいさせてほしい。それだけでいい」
愛奈はしばらく俺の顔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい。喜んで」
そう言って、愛奈はもう一度ティッシュで目元を押さえた。
俺たちが話している間、隣の和室では明彦の笑い声がずっと続いていた。
父さんと母さんが、おそらくありったけのおもちゃと絵本を引っ張り出してきて、孫を全力で楽しませているのだろう。
「……お義父さんとお義母さんを、呼びましょうか」
愛奈が目元を整えながら、立ち上がりかけた。
「うん。だけどその前に」
俺は椅子の上でもぞもぞと座り直した。
「いい?」
「はい?」
「ーー一回だけ、ちゃんと抱きしめてもらえる?」
俺は上目遣いで愛奈を見た。
これはちょっとずるい言い方だ。
三歳の女の子の声で、こんなふうに言われたら、たぶん断れる人間はそんなにいない。
でもその「ずるさ」も込みで、いま俺はそれを愛奈に頼みたかった。
愛奈の目がすこし潤んだ。
「……はい」
愛奈は椅子から立ち上がってテーブルを回り込み、俺の前に屈み込んだ。
そして両手を俺の小さな背中に回した。
愛奈の腕は思っていたよりも細かった。
結婚していた頃、俺が知っていた愛奈の腕はもうすこしふっくらしていた。
この三年半で彼女はたぶん、ずいぶん痩せた。
その細い腕のなかで、目を強く閉じた。
愛奈の身体からはベビーパウダーと――明彦の匂いがした。
昔の愛奈の匂いとは、すこし違う。
ひとりで子供を育ててきた母親の、新しい匂い。
「ーーただいま」
愛奈の肩にちいさく額をつけた。
「うん」
愛奈は俺の銀色の髪を撫でた。
「おかえり、隆志さん」
その声を聞いた瞬間、俺は――もうぼろぼろと泣いた。
三歳児の身体の涙腺は、男だった頃の俺の制御をはるかに超えて簡単に決壊した。
俺は、しゃくり上げて、洟をすすって、愛奈のワンピースの肩の部分を見事に濡らしていった。
愛奈は何も言わずにずっと俺の背中をさすってくれた。
ーー帰ってきた、と思った。
橘家に引き取られた日、俺はすこし帰ってきた気がした。
父さんと母さんに、自分の正体を打ち明けた夜、俺はもう少し帰ってきた気がした。
そしていま――
愛奈の腕の中で、俺はようやく全部帰ってきた気が、した。
これでよかったのか、なんてもう考えない。
ここから、新しい人生をちゃんと生きていこう。
銀髪碧眼の、橘瀬理奈として。
そして、橘隆志だった記憶をこっそりと心の奥に隠し持ったまま――父さんと母さんと愛奈と明彦のそばで生きていこう。
しばらくして、ふすまの向こうからちいさな声がした。
「ママー、せりなおねえちゃーん、おはなしおわったー?」
明彦だった。
慌ててぐしぐしと両手で目を擦った。
愛奈も立ち上がって、ワンピースの裾を整えた。
「うん、おわったよー。明彦、入ってきていいよー」
ちょっとだけ、いつもより明るい声で愛奈が答えた。
ふすまが開く。
明彦が両手におもちゃの新幹線を二台抱えて立っていた。
「せりなおねえちゃん、これでいっしょにあそぼ」
明彦が新幹線を一台俺の方に差し出した。
俺は椅子から飛び降りて、ぺたぺたと明彦のところに駆け寄った。
「うん、あそぼ!!」
俺は女の子の声で嬉しそうに答えた。
新幹線を受け取った瞬間、明彦の小さな手が俺の手に触れた。
ほんの一瞬の子供同士のありふれた接触。
でも俺はそのほんの一瞬で、――自分の息子の体温をはじめて知った。