銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第一章 第六話 入園

二〇一二年、四月。

俺の二度目の人生ではじめての「入園式」というやつが、もう目の前まで迫っていた。

 

橘家の二階、もともと俺のものだった部屋の鏡の前で、新調された服に身を包んでじっと自分の姿を眺めている。

丈の短い園児服は、たぶん成長を見越して大きめに仕立てられていた。

肩のところがちょっとだけ余っているのだけれど、銀色の髪がその紺色の生地に映えてなんとも妙な絵面になっている。

 

「せりな、リボン、ちょっと曲がってるよ」

 

階段の下から、母さんの声がする。

部屋の鏡の前に戻って首を捻り、俺は胸元に下がった臙脂色のリボンの傾きを直した。

四歳児の指の感覚としては、これがけっこう難しい作業だった。

 

「これでいい?」

 

俺は階段の上からちょっと首を傾げてみせる。

これは、もはや反射に近い動作だった。

首を傾げると、大人はだいたい褒めてくれる。

 

「うん、似合うよせりな」

 

母さんの声には、明らかな張りがあった。

正直なところ、過剰なくらいだ。

半年前、削げ落ちた頬で畳の縁ばかり見ていた人と同じ人物だとは、いまの母さんをはじめて見た人間には、たぶん信じてもらえないだろう。

 

俺はその声を背中で受け止めながら、もう一度鏡を見た。

銀色の髪、青い瞳、ほのかに上気した頬、紺の制服、赤いリボン。

 

……これは、本当に俺なんだろうか。

転生前の俺が今の自分を見たら、たぶん一日中正座させて説教したいレベルだろう。

おじさんの自意識が、四歳児の女の子の姿を外側から眺めて、勝手に絶句する。

 

しかし、もう諦めも板についてきた。

このスペックの身体に入って、もう四年だ。

そろそろ、観念して「銀髪碧眼の女の子」をやる覚悟も決まってきたところだ。

 

俺は鏡の中の自分に、にっこりと笑いかけてみる。

……笑顔の精度が、自分でもどうかしてると思うくらいに、いい。

覚悟とか言っておきながらなんだけど、我ながら気色悪かった。

 

 

 

階段を降りると、リビングの掃き出し窓いっぱいに四月の青空が広がっていた。

 

桜はもう散り始めている。

庭の隅の小さな桜の枝から、薄桃色の花びらがふわりふわりと落ちて、芝生の上にぽつぽつと模様を描いていた。

 

「おはようございます」

 

俺はリビングに降り立って、テーブルの前で身支度を整えている父さんに、ぺこりと頭を下げた。

父さんはまだネクタイの結び目を整えていて、その横顔は若い頃の精悍さがほんの少しだけ戻ってきていた。

俺と再会してから半年、父さんも母さんも、最初に施設で会ったときよりも明らかに若返っている。

それだけで胸が熱くなる。

 

「おはよう、瀬理奈。よく似合ってるよ」

 

父さんが目尻を下げた。

俺は、その顔を見るのが、たまらなく好きだった。

転生前の最後の数ヶ月、忙しさにかまけてちゃんと父さんと話す時間を取らなかったことを、いまさらながらでは後悔している。

 

「ぱぱ、わたしのカバンはもうある?」

「ああ、玄関に置いてあるよ」

「うん、ありがと」

 

俺はちょこちょこと玄関へ向かって、新品の通園用のカバンを覗き込んだ。

中には、すでに連絡帳とハンカチが入ってる、それから――小さなぬいぐるみが一つ。

これは、たぶん母さんが入れたものだ。

ハンカチに添えるように、ちょこんと座らされている、小さな白うさぎ。

 

「これ、ままが?」

「あ、見つかっちゃった」

 

リビングからやってきた母さんがちょっと照れたように笑った。

胸の前で両手をぎゅっと握り合わせて、まるで自分が遠足に行く子供みたいな顔をしている。

 

「ほらね、はじめての日って不安でしょう? お友達がお腹に入ってるみたいで、安心するかなって」

 

…はぁ、そうきましたか。

俺はぬいぐるみを掌に乗せて、しばらく、それを見つめた。

 

…四歳児としては、たぶん、これはものすごく嬉しいプレゼントだ。

おじさん視点としても、これがどれだけの母さんの愛情の塊かなんてよくわかる。

そして、施設時代の俺だったら、こんなふうにカバンの中に何かを忍ばせてくれる人なんて、誰もいなかった。

 

「だいじにする」

 

できるだけ、ちゃんとした声で答えた。

舌足らずに語尾を伸ばさず、ただまっすぐに。

母さんが息を呑んだのが、聴覚で分かった。

 

「うん……うん」

 

母さんは何度か頷いた。

それで、それだけで十分だった。

 

 

 

予定通り、九時ちょうどに玄関のチャイムが鳴った。

 

愛奈と、明彦が、迎えにきたのだ。

俺と明彦は、ご近所――というか祖父母の家つながりで、同じ「清水幼稚園」に入ることになっていた。

寺がやっている二〇〇人の規模の幼稚園で、母さんと愛奈さんが「一緒に通わせたい」と相談して決めた場所だった。

 

「おはようございます! あいなおねえちゃん、あきひこくんっ!!」

 

玄関を開けて、ぴょこんと頭を下げた。

今日の俺は、めいっぱい、四歳児の元気な女の子だ。

ナチュラルにそう振る舞えるように、もう、訓練しすぎたとも言える。

 

愛奈は、紺色のスーツに薄いラベンダーのコサージュを胸につけていた。

最後に会ったときよりも、ほんの少しだけ頬がふっくらしている。

……これはいい変化だ。

あの初対面の頃の削げ落ちた頬に比べれば、ずいぶんと安心できる景色だった。

 

「おはよう、瀬理奈ちゃん……その制服、似合うわね」

 

愛奈はにこにこと俺を見下ろした。

その視線は、入園を祝う「ご近所のお姉さん」の視線として、完璧に作られている。

……うん、見事である。

半年前、リビングで号泣していた人とは、たぶん第三者にはわからない。

 

「ありがと。あきひこくんも、かっこいいよ!」

 

愛奈の後ろからおずおずと顔を出した明彦に、俺は声をかけた。

明彦は紺色のブレザーに、男児用の半ズボン姿。

栗色の柔らかい髪に、女の子顔負けの長いまつ毛。

ふっくらした頬に、小さな鼻。

 

……これが、俺の息子。

そう思うたびに、まだ、胸の真ん中がぎゅっとなる。

 

「……ありがと、せりなおねえちゃん」

 

明彦はもごもごと答えて、すぐに愛奈さんのスカートの裾を握った。

もう、四度目くらいの再会だった。

最初のときよりはずいぶん俺に慣れてきたが、それでも半分以上は人見知りを発動している。

 

その人見知りが転生前の愛奈によく似ていて、俺はその仕草を見るたびにこっそりと笑ってしまうのだった。

 

「あらあら、明彦も、もっと元気にご挨拶しなきゃ。せりなちゃん、元気でしょう?」

「うん、せりな、げんき」

 

俺は、ぴょんと一歩前に出て、自分の元気さをアピールした。

明彦は、その様子を、上目遣いに、ちらりと観察している。

 

「あきひこくん、きょうから、いっしょのようちえん、だね」

「……うん」

「いっしょに、おむかえまで、いてくれる?」

 

俺は、わざと、ちょっとだけ不安そうな顔を作ってみせた。

明彦の顔色が、ふっと、変わる。

お、いま、男の子のスイッチが入ったな。

 

「うん、いいよ。せりなおねえちゃんのこと、ぼくがまもってあげる」

 

明彦は、ぐっと胸を張った。

四歳児の胸は、まだまだ薄いが、その意思はちゃんと立派だった。

俺は、その小さな胸の張り方を見て、誇らしくてたまらなくなった。

 

「うわー、たのもしい。あきひこくん、つよーい」

「だよね?」

「ありがと、あきひこくん」

 

俺は、本当に心の底から、礼を言った。

愛奈の口元が、わずかに緩む。

背後で、母さんがハンカチを握りしめているのが、気配で分かった。

 

……うん、これくらいでいい。

本当は父親である俺の方が明彦のことを守りたいのだけれど、今日のところは息子にちょっとだけ譲ろう。

父親としての小さな満足は、四歳の身体の中で、こっそりと、噛みしめておけば、それでいい。

 

 

 

幼稚園までは、橘家の車に乗って十五分ほどの距離だった。

 

俺と明彦は後部座席のチャイルドシートに並んで座って、それぞれに新しい通園カバンを膝に抱えていた。

ハンドルを握る父さんが、ミラー越しにちらりと俺たちを見ては唇の端で笑う。

助手席の母さんは、もう何度か振り返って俺たちを盗み見ては、ハンカチで目元を押さえていた。

 

「ねぇ、せりなおねえちゃん」

 

ふいに隣の明彦が、小声で話しかけてきた。

 

「うん?」

「せりなおねえちゃん、やっぱりようちえん、こわくない?」

 

その問いかけにちょっと意表を突かれた。

明彦の声には、ほんの少しだけ震えが混じっていた。

……ああ、こいつ、緊張してたんだな。

 

「うーん、ちょっとだけ、こわいかな」

 

俺はわざとそう答えた。

本当は、二十二歳のとき就活の面接で外資のお偉いさんに鋭く突っ込まれたあのときよりは、ずっと気楽な気分だ。

でも、ここで「ぜんぜんこわくないよ」と言ったら、明彦はたぶん、もっと縮こまる。

 

「……だよね」

「ね。でもね、あきひこくんがいっしょだから、だいじょうぶ」

「……うん」

 

明彦はちっちゃな手で、自分のカバンの取っ手をぎゅっと握りしめた。

……俺の息子はものすごく真面目だ。

これは、たぶん愛奈譲りだろう。

 

隣に座っている小さな男の子の横顔を、こっそりと観察する。

緊張のせいか、ほんのり耳の先が赤い。

そして、その耳の形は、転生前の俺のものによく似ていた。

 

……ああ、本当にここにいるんだ。

もう何度目になるか分からない感慨をまた噛みしめて、自分の小さな手を、明彦の手の上に、そっと重ねた。

 

「……せりなおねえちゃん?」

「だいじょうぶだよ、あきひこくん」

 

四歳児の声でにっこりと笑った。

でも、込めた気持ちは、たぶんもっと年上のものだった。

 

「おねえちゃんが、ちゃんと、ずっと、いるからね」

 

明彦は目をぱちくりとさせて、それからこくりと頷いた。

小さな手の中で、俺の指がぎゅっと握り返された。

……うん、十分だ。

 

 

 

清水幼稚園は、町のはずれの小高い丘の上に建っていた。

 

寺の境内に隣接していて、園庭の隅にはちょっとした古い石灯籠が一基ぽつんと立っている。

建物は二階建てで、ベージュ色の外壁にまだ真新しい赤い屋根が乗っかっていた。

桜の木が園庭をぐるりと囲んでいて、その桜がちょうど今日のために散り際を取っておいてくれたみたいに、空からはらはらと花びらを落としている。

 

「うわぁ……」

 

俺は、車から降りた瞬間、思わず声を漏らした。

これは演技じゃない。

転生前にも、自分の幼稚園の入園式を写真でしか見たことのない俺にとって、こうやって生で「入園式の朝の幼稚園」というやつを見るのは、初めての経験だった。

 

「綺麗ね、桜」

 

愛奈が、隣でしみじみと呟いた。

明彦は、その隣でぐるぐると目を動かして、園庭のあちこちを観察している。

 

「あきひこくん、あれ、すべりだいだよ」

「うん」

「あっち、すなばだ」

「うん」

「あっちは、なんだろう?」

「……ぶらんこじゃない?」

 

明彦の応答は、まだほんの少しだけ硬い。

わざとはしゃいだ振りをして、俺は明彦の手を引いた。

そうすれば、明彦の緊張もすこしは紛れるはずだ。

 

園庭には既にたくさんの親子が集まっていた。

新品の制服を着た子供たち、よそ行きの服を着たお父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。

カメラを構えた家族もちらほら見える。

皆、それぞれに、緊張と期待が半々の顔をしていた。

 

そして――。

俺たちがその園庭に足を踏み入れた瞬間、その空気がほんの少しだけ変わった。

 

最初は、近くの一組の母親がふっとこちらを見る。

次に、その隣の家族がちらりと視線を寄こす。

そうして、波紋のように、視線が俺の方へ集まってくる。

 

……はぁ、いつものやつだ。

俺は、心の中で軽く溜息をついた。

銀髪碧眼の四歳児なんていう生き物は、日本ではどれだけ経っても珍しいのだ。

いや、珍しいだけならいい。

俺の顔のつくりが、たぶん、相当に整っているのがよくない。

 

「……あの子、外国の子?」

「ううん、橘さんのところのお嬢さんよ。奥でスーツの方の」

「えっ? 橘さんって、たしか――」

 

ご近所さん同士のひそひそ声が、俺の耳には全部届く。

半年前にこの近所で養子縁組の手続きが始まって以来、橘家の周辺では、もう俺の存在は半ば公然の秘密になっていた。

今日が「秘密の女の子」のお披露目の日でもある、ということだ。

 

母さんがすっと俺の隣に来て、自分の体でわずかに視線を遮るような位置に立った。

さりげなく、しかし確実に。

これは、たぶん母さんなりの、過保護の表れだ。

 

「せりな、こっちこっち。受付しよう」

「はぁい」

 

俺は明彦の手を引いたまま、母さんの背中について歩いた。

明彦は、まわりの視線が俺に集まっているのに気付いて、ますます俺の手を握る力を強めている。

……ふむ、これは、いい兄貴っぷりだ。

……俺の方が、戸籍上は叔母だけど。

 

「あ、橘さーん。おはようございますー」

 

受付のテントの方から、明るい声が飛んできた。

振り向くと、若い、たぶん二十代半ばくらいの女性が手を振っている。

紺色のエプロンを着けて、胸に「やまもと」とプリントされたネームプレートを下げている。

 

「うちの娘の担任の、山本先生」

 

母さんが、小声で俺に教えてくれた。

 

「はじめましてー、せりなちゃんっ」

 

山本先生は、俺の前で、ぴょこんと膝を折って、目線を合わせてくれた。

……おっ、これは、いい先生だな。

ちゃんと、子供の目線まで降りてきてくれる人だ。

 

「はじめましてぇ、たちばなせりな、です。よんさい、です」

 

俺は、できるだけ、ちゃんと、ぺこりと頭を下げた。

 

「あらー、ご挨拶、上手ねぇ。せりなちゃん、これからよろしくね」

「はい、よろしくおねがいします」

 

山本先生は、ほんの一瞬、俺の銀色の髪と青い瞳に視線をやって、それからちゃんと目を合わせてくれた。

珍しがる視線ではなかった。

ただ、「目の前の女の子の顔をきちんと見る」という、それだけの視線だ。

……心底ありがたい。

俺は、こっそりと、心の中で頭を下げた。

 

「あきひこくんも、よろしくねっ」

「……よろしくおねがいします」

 

明彦は、消え入りそうな声で、ぺこりと頭を下げた。

山本先生は優しく笑って、明彦の頭をぽんぽんと撫でた。

 

 

 

入園式は園のお遊戯室で行われた。

 

板張りの広い部屋に、子供たちは前半分、保護者は後ろ半分、というふうに椅子がずらりと並べられている。

俺は、明彦と同じ「ばら組」に振り分けられていた。

組分けは事前に園と母さんたちが相談していたらしい。

俺と明彦を無理に同じ組にしてもらった、というよりは自然に同じ組に入れてもらえた、というのが正しい。

 

椅子に座って前を向くと、舞台の上に園長先生が立っていた。

五十代半ばくらいの、白髪まじりの男性。

お寺の住職さんでもあるそうで、灰色の作務衣の上から薄い緑の羽織を重ねている。

 

「新入園児のみなさん、ご入園、おめでとうございます」

 

園長先生の声は、思っていたよりもずっとよく通った。

子供たちは、おとなしく前を向いて、ちょこんと両手を膝の上に置いていた。

俺の隣の明彦も、ちゃんとその姿勢を真似している。

 

「みなさんはこれから三年間、このようちえんで、たくさんのおともだちと、いっしょにすごします」

 

園長先生は、ゆっくりと、ひとことひとこと噛んで含めるように、話してくれた。

子供向けの話し方を、たぶん、何十年もやってきている人の話し方だ。

俺は、内心で感心した。

 

「みなさんはまだちいさい。けれども、ひとはちいさいおおきいで、わかれてるわけじゃないんですよ。みなさんのこころのたねは、もうみなさんのなかにあります」

「こころの、たね?」

 

明彦が、隣で、ぽつりと、繰り返した。

 

「そう、こころのたね。これからみなさんは、たくさんのことをおぼえて、たくさんのたねをそだてていきます。せんせいたちはそのおてつだいをします」

 

園長先生はにこりと笑った。

笑った皺の入り方が、なんだかどこか施設の園長先生にも似ていて、俺はちょっとだけ懐かしくなった。

 

その後、新入園児の名前が一人ずつ呼ばれて、それぞれが「はーい」と返事をする、という時間があった。

 

「あおぞらゆうたくん」

「はーい」

「あさのみさきちゃん」

「はぁい」

 

俺の心臓がちょっとだけ早くなる。

たかが、返事ひとつだ。

そう……たかが返事ひとつだが、俺はその返事に「橘の娘」としての自分を、ちゃんと乗せたかった。

 

「たちばなあきひこくん」

「はい」

 

明彦の返事は、思っていたよりもはきはきと、かつしっかりしていた。

内心でよく言ったと頷いた。

愛奈の方をこっそり見やる。

彼女は両手を口元に当てて目を潤ませていた。

……今のはたぶん明彦が母親に見せた、ちょっとした晴れ姿だ。

 

「たちばなせりなちゃん」

「はぁいっ」

 

できるだけ可愛らしく。

ぴょこんと片手を挙げて、俺は返事をした。

山本先生が、舞台の脇からぱちぱちと拍手をしてくれた。

他の保護者からも、ぱらぱらと拍手が起きる。

 

……うん、まずまずだ。

俺は、ちょっとだけほっとした。

 

 

 

入園式が終わって、初日は早めの解散になった。

 

園庭で家族ごとに記念写真を撮ったり、お弁当を広げたり、それぞれの一日のスタートを楽しんでいる。

桜の花びらが、変わらず、ちらちらと舞っていた。

ぱしゃりと、母さんが俺たちを撮る。

ぱしゃり、ぱしゃり、と、愛奈が、母さんと一緒にカメラを構える。

 

「せりなー、もうちょっと、こっちー」

「うん」

「あきひこも、おねえちゃんと、もうちょっと近くー」

「……うん」

 

写真の中の俺と明彦は、ちょっとぎこちなく、しかししっかりと手を繋いでいた。

銀髪と栗毛、紺のブレザーが二着、赤いリボンがひとつ。

桜の花びらが、二人の頭の上にふわりと落ちる。

 

……悪くない写真になるんじゃないか、と思った。

たぶん、これは橘家のリビングのテレビ台の上で、向こう何十年も飾られることになる一枚だ。

 

「せりな、ちょっとこっち来てくれる?」

 

ふいに父さんが、俺を呼んだ。

父さんと愛奈さんは、園庭の隅っこの方でなにやら話していたところだった。

俺は明彦の手をいったん母さんに預けて、ぱたぱたと父さんの方へ駆け寄った。

 

「なぁに、ぱぱ?」

「うん。あのね、瀬理奈。父さんと愛奈さんでちょっと話してたんだけど」

 

父さんは、屈み込んで、俺と目線を合わせた。

俺の銀色の前髪を、軽く、撫でつけてくれる。

 

「瀬理奈はこれから、やってみたい習い事って、なにかある?」

「ならいごと?」

 

俺は、わざと、首をこてんと傾げた。

これは計算した動作ではあるが、内心は結構本気で考えていた。

 

…来てしまった、と思った。

このタイミングを、俺はずっと待っていたんだ。

 

転生前の俺、橘隆志は、子供のころろくな習い事をしていなかった。

両親はやらせる気は十分にあったらしいのだが、当時の俺が悉く嫌がったのだ。

「なんで放課後まで勉強みたいなことしなきゃならんのだ」

そんな子供だった。

 

そのツケが回ってきたのは、社会人になってからだった。

取引先の常務がふらりとピアノを弾くのを見たとき。

同期の佐藤が当たり前みたいに英語で電話会議を仕切るのを見たとき。

妻の愛奈の父親が、孫が出来たら水泳と書道を教えたい、と笑っていたとき。

 

そのたびに、俺は、ちょっとずつ、しまった、と思った。

「もっと、子供のころに、いろいろやっておけばよかった」

誰でも一度は通る、そういう類の、ありふれた後悔。

けれどもそれは、過ぎ去った時間のなかでは、取り戻しようのない後悔でもあった。

 

そのはずだったのだ。

 

「いろいろ、やってみたい!」

 

俺は、目をぱぁっと輝かせて、父さんを見上げた。

これは、半分は計算した「四歳児の顔」。

そして、もう半分は、本気の、心からの叫びだった。

 

「いろいろ?」

 

父さんが、ちょっと驚いたように、目を見開いた。

 

「うん、いろいろ。ピアノもやってみたいし、おうたも、おどりも、おえかきも、おはなしの、おべんきょうも、おみずのなかでおよぐのも、おうちのそとで、はしったりするのも、ぜんぶ、やってみたい!」

 

俺は自分の中で押さえていたものが、ちょっと決壊するのを感じた。

四歳児の身体は、感情の制御が、まだ上手くいかない。

おじさん時代の理性である程度抑え込んでいるつもりでも、ふとした拍子にこうやって堰を切ってしまう。

 

それでも、その「いろいろ」を口にしてしまった。

ぜんぶやりたい。

取り戻したい。

 

そのとき、後ろから笑い声が聞こえた。

 

「あらまぁ」

 

愛奈だった。

彼女は俺の真後ろに、いつの間にか立っていた。

口元には優しい笑みが浮かんでいる。

……ちょっとその目だけが、いつもより深い色をしていた。

 

「ずいぶん欲ばりさんね、瀬理奈ちゃん」

「あ、ごめんなさい」

 

俺は慌てて、ちょっと肩をすくめた。

 

「いいのよ。それくらいでいいの」

 

愛奈は屈み込んで、俺の頬を撫でた。

痩せていた手が、半年で少しだけふっくらしている。

その手の感触を、俺はちょっとだけ、目を細めて味わった。

 

「やりたいこと、ちゃんとお父さんとお母さんに言える子。それはね、すごくいいことよ」

「うん」

「お金とか、時間とか、いろんなことがもちろんあるけれど。やりたいって思ったときにやりたいって、ちゃんと言える子の方が、たぶん人生はたのしいから」

 

愛奈はそう言って、父さんの方を見た。

父さんは何かを言いかけて、ちょっとだけ口ごもった。

それから、目尻を軽くこすった。

 

……ああ、また、しまった。

父さんと愛奈は、たぶん今の俺の言葉のなかに「橘秀人があの世に置いてきた後悔」を、ちゃんと聞き取った。

そういう気の利く人たちだから、俺はこの人たちが好きなのだ。

 

「分かった、瀬理奈」

 

父さんはもう一度ちゃんと姿勢を整えて、俺の頭にぽんと手を置いた。

 

「父さんと母さん、それから愛奈さんとも相談して、瀬理奈がやってみたいこと、できるだけちゃんと用意してあげるよ」

「……ほんとに?」

「ほんとに。父さん、嘘は、つかない」

 

俺は、ぱっと笑顔になった。

これも半分は計算、半分は本気の満面の笑顔。

 

「ありがとう、ぱぱっ」

「ふふ、よかったわね、瀬理奈ちゃん」

 

愛奈がにっこりと笑って、俺の頭をもう一度撫でた。

 

そのとき。

 

「せりなおねえちゃーん、なにしてんのー?」

 

園庭の向こうから、明彦の声がした。

振り向くと、明彦が母さんに手を引かれて、こっちに歩いてきていた。

栗色の髪に桜の花びらが一枚、ちょこんと乗っていた。

 

……うん、と俺は心の中でにやりと笑った。

明彦も、巻き込んでやろう。

転生前の俺と同じように、明彦が何もやらないままで子供時代を終えてしまったら、それはたぶん、また「俺と同じ後悔」を息子に背負わせることになる。

 

それだけは、絶対にいやだった。

 

「あきひこくーん、こっちこっちー」

 

俺は、明彦に向かって、手をぶんぶんと振った。

明彦は、母さんの手を引っ張って、ぱたぱたと駆け寄ってくる。

そのまわりを、桜の花びらがふわふわと舞っていた。

 

「なにのおはなしー?」

「あのねぇ、せりなね、いろんなならいごと、やってみたいの」

「ならいごと?」

 

明彦は、ぱちくりと瞬きをした。

うん、予想通りの反応だった。

転生前の俺も子供のころは「習い事」という単語に、こういう、よく分からない、と言うか、ちょっと面倒くさそうな顔をしたものだ。

 

「うん。ピアノとか、おすいえいとか、いろいろ」

「えー、なんでー?」

「えっとね。せりな、できることを、いっぱいふやしたいの」

 

俺は、明彦の顔をまっすぐに見て、答えた。

これは、本心からの言葉だった。

四歳児の語彙の中で、その本心を、できるだけちゃんと伝えたかった。

 

「ふやして、どうするの?」

「うふふ、わかんなぁい」

 

俺は、わざと、首をかしげた。

 

「でもね、しらないことをしらないままでおとなになるのって、なんかね、もったいないきがするの」

「ふぅん?」

 

明彦は、わかんないと首をかしげた。

確かに四歳児には、まだちょっと難しい話だ。

それでも、俺は続けた。

 

「あきひこくんは、なんか、やりたいことない?」

「うーん」

 

明彦は、しばらく考え込んだ。

栗色の前髪の下で、長いまつ毛がぱちぱちと動いている。

 

「……ない」

「ないかぁ」

「うん、ない」

 

明彦は、はっきりと首を振った。

これも転生前の俺によく似ていた。

……うん、お前は、ほんとに、俺の息子だな。

俺は、心の中で、ちょっとだけ、嘆いた。

 

「うふふ、明彦は、明彦でいいんだよ」

 

愛奈が、明彦の頭を優しく撫でた。

 

「明彦は無理しなくていいわ。せりなちゃんはいろいろやりたいのね」

「うんっ」

 

俺はぱっと頷いた。

そして明彦の方をちらりと見た。

 

「あきひこくん、もしも、せりながやってるならいごとに、めいちゃんもきょうみがあったらね」

「うん?」

「ちょっとだけ、ついてきてみて。それでたのしそうっておもったら、いっしょにやろう?」

 

俺は、にっこりと明彦に笑いかけた。

明彦は、しばらく俺の顔をじっと見ていた。

そして、ぽつりと、答えた。

 

「……いいよ」

「ほんと?」

「ほんと。せりなおねえちゃんがやるんなら、ぼくもやってみる」

「やった!」

 

俺は、わざとはしゃいで、ぴょんぴょんと跳ねてみせた。

 

……とりあえずはこれでいい。

無理に引っ張り込むつもりまでは、ない。

ただ、ちゃんと「見てみる」窓口だけ、開けておいてもらえれば、それで十分だ。

 

あとは自然に巻き込まれていく流れを、こっそりと作ってやればいい。

息子を自分の道に、強制的に乗せるつもりはない。

ただ、息子が「やってみたい」と思えるチャンスを、できるだけたくさん用意してやりたいんだ。

 

それが、俺が父親としてできる、ささやかな仕事のひとつだ。

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