銀盤に踊る銀(しろがね) 作:ブリザード
入園式から一週間が過ぎた。
幼稚園での生活は、思っていたよりもずっと平穏に始まった。
山本先生は本当にいい先生で、俺の見た目を「特別扱い」することも、「逆に無視して扱い」することもしなかった。
ちゃんと、橘瀬理奈という四歳の女の子として扱ってくれた。
それだけで、もう十分にありがたかった。
ばら組のクラスメイトたちは、最初の二、三日こそ、俺の銀色の髪に集まったが、それもすぐに飽きてくれた。
四歳児の興味の持続時間は、本当に短い。
ありがたいことだ、と思った。
俺はできるだけ、目立たないように振る舞った。
四歳児として、無理のない範囲で。
他の子と同じくらいに、すべり台に登り、同じくらいにお絵描きをし、同じくらいに給食を食べた。
……ただ、それでも。
時々俺の体は、勝手にぼろを出した。
たとえば自由遊びの時間。
園庭の隅でばら組の男の子の一人が転んで足首をひねった。
泣き出すまでに間があった。
痛みが神経を伝って脳に届くまでのコンマ数秒。
その「間」の方を、俺は先に聞き取ってしまった。
彼の足首の骨と腱が、不自然な角度に伸びるわずかな摩擦音。
それから、彼の喉が悲鳴を上げるために息を吸う音。
俺はもう、走り出していた。
彼が泣き始める前に。
「せんせい、ゆうとくんが、こけたぁー」
俺は、山本先生に大声で叫んだ。
そして、ゆうとくんの足首を自分の小さな手で、そっと押さえた。
……ねんざ、だと思った。
ひどくはない。
でも、しばらくは動かしたらダメだ。
「あれ、せりなちゃん、よく気付いたね」
山本先生がぱたぱたと駆けてきて、ゆうとくんの足首を診た。
俺は慌てて、自分の手を引っ込めた。
「うん、おとが、したのぉ」
「音?」
「うん、ぎゅるっておとが、したの」
俺はできるだけ、四歳児らしくふわふわと答えた。
山本先生はちょっと首を傾げたが、それ以上は突っ込んでこなかった。
……うん、これくらいはたぶんセーフだ。
しかし、こういう小さな「ぼろ」は、これからもいっぱい出してしまうんだろうな、と俺は思った。
俺の体は人間の限界レベルの感覚を、初期装備で積んでいる。
それを全部隠し切るのは、たぶん不可能だ。
……まあ、しょうがない。
これも転生のおまけ、というやつだろう。
神様か誰かがつけてくれた、よく分からないオプションサービス。
そんな、ある日のお昼休み。
俺は園庭の隅っこの鉄棒で、ぼんやりと休んでいた。
明彦は、男の子たちと砂場でなにやら砂山を作っている。
ちらちらとこちらに視線を寄こしてくれるのは、たぶん俺の様子を気にしてくれているからだ。
……うん、いい子だ、相変わらず。
「せりなちゃーん」
ふと、後ろからばら組の女の子に、呼びかけられた。
振り向くと三人ほどの女の子が、こちらをにこにこと見ている。
リーダー格は、たぶん髪を二つ結びにしたはるかちゃんだ。
「ねえねえ、せりなちゃんって、てつぼうできる?」
「てつぼう?」
「うん。みやびちゃんがね、まえまわりできるんだって。せりなちゃんもできる?」
俺は、ふむ、と思った。
……前まわり。
やばい、四歳児の前まわりの平均的なレベルが、どれくらいなのかはよく知らない。
しかし、自分の身体の運動神経が、人並み外れているのは、もうとっくのとうに自覚していた。
家でこっそり、トランポリンの代わりに二段ベッドの下段で跳ねたり、廊下で逆立ち歩きをしたりしているのを、母さんに目撃されては目を丸くされていた。
……うーん、たぶん、前まわりくらいは余裕でできる。
「うん、たぶん、できるよ」
俺は、すっと鉄棒に手をかけた。
四歳児の身長は、まだ、九十五センチちょっと。
低めの鉄棒でも、手を伸ばさないと届かない。
軽く、ぴょん、と跳んで、鉄棒に両手で掴まった。
そこから上半身をぐっと持ち上げる。
腹が鉄棒の高さに、来るくらいまで。
そして、ゆっくりと上体を前に倒す。
くるり、と世界がひっくり返る。
銀色の髪が、ふわり、と頬の横に流れた。
背中が反って、視界の中で空と園庭が入れ替わる。
そして――。
ぴたり、と両足が地面に降りた。
ほんの少しの土埃も、立てずに。
何事もなかったかのように、両手をぱっぱと払って、にっこりと女の子たちに笑いかけた。
「できたかな?」
しばらく沈黙があった。
はるかちゃんも、みやびちゃんも、もう一人の女の子も。
口をぽかんと開けたまま、俺を見ていた。
「……すごい」
最初に声を漏らしたのはみやびちゃんだった。
「……せりなちゃん、すごい」
「ありがと」
「もっかい、やって!」
「もっかい、もっかい!」
「いいよぉ」
俺はにこりと笑って、もう一度鉄棒にぴょんと飛びついた。
……これくらいで女の子たちは満足してくれるだろう。
そしてたぶんこれくらいなら、まだ「ちょっと運動神経のいい子」の範疇に収まるはずだ。
しかし、その俺の予想はすぐに外れた。
「……瀬理奈ちゃん、ちょっとー」
山本先生がいつのまにか鉄棒の脇に立っていた。
にこにこと笑っているが、その目には明らかに「ちょっと、これは」という驚きが滲んでいた。
「えへへ、はぁい」
鉄棒から、ぴょんと降りた。
今度は、わざと少しよろけるふりをした。
……ちょっと、サービスしすぎたかもしれない。
「瀬理奈ちゃん、いま、何回目の前まわり?」
「えっとぉ、にかいめ、です」
「上手だね。お家で、練習してるの?」
「ううん、おうちではしてない。きょうはじめてやったの」
俺は、舌足らずに答えた。
……嘘ではない。
ただし家でこっそりもう少し変な体操をしているのは、別の話だ。
山本先生はしばらく俺の顔を見ていた。
……やばい、まずいかなと思った。
四歳児がはじめての鉄棒でいきなり前まわりを綺麗に決める、というのは、たぶん平均からはちょっと外れているのかもしれない。
……いや、ちょっとどころじゃないかもしれない。
「うーん、と、瀬理奈ちゃん?」
「はぁい?」
「先生、いまのを、お母さんに教えてもいいかな?」
「えっ」
俺は、ちょっと、表情を、固めた。
…うん、思っていたよりも、もうちょっと、目立っちゃったらしい。
「お母さんに、瀬理奈ちゃんがね、運動が得意なことを、教えてあげようかなって思って」
「えっとぉ……ちょっとだけはずかしい、です」
俺は頬を赤らめてみせた。
半分、本気で恥ずかしかった。
……うん、家でももう少し運動神経を抑えるべきだったかもしれない。
「うふふ、瀬理奈ちゃんが恥ずかしいなら内緒にしておくね。でもね、瀬理奈ちゃんがもしいっぱい体を動かしたいって思ったら、先生に教えてね」
「うんっ、ありがとお、せんせい」
俺は、ぴょこんとお辞儀をした。
山本先生はもう一度にっこりと笑って、ばら組の方に戻っていった。
……ふぅ、と俺は内心でため息をついた。
うん、これはちゃんと家で親と相談しないとダメだ。
俺の運動神経を、どこまで外に出していいのか。
そろそろ線引きを決めるべきタイミングが来ている。
その夜。
俺は、晩御飯の後の団欒の時間に思い切って切り出した。
「ぱぱ、まま」
「うん?」
「あのね、ようちえんでてつぼうやったらね、せんせいにびっくりされちゃったの」
「鉄棒?」
父さんが湯呑みを置いて、こちらを見た。
母さんも編み物の手を止めて、顔を上げた。
「うん。まえまわりがじょうずだったみたいで」
わざと控えめに説明した。
ただ両親の表情を見るに、二人ともある程度は想像していたらしい。
「いつかは、来ると思ってた」という顔だった。
「瀬理奈は、家でも運動してたものね」
「……すこしだけね」
「あなた、廊下で逆立ち歩きしてたのを、こないだお父さんが目撃してたわよ」
「あっ」
やっべ。
完全にばれてた。
俺は、ちょっと頭を掻いた。
「別に怒ってるわけじゃないのよ。瀬理奈は瀬理奈でできることをやっていいの」
母さんは優しく笑った。
「ただ、瀬理奈の身体はたぶん普通の女の子よりも、ちょっと丈夫で強いの。それはお父さんもお母さんも、もうわかってる」
「うん」
「だからね、お父さんとお母さんで、相談したんだけど」
母さんは編み物を横に置いた。
そして父さんと視線を交わした。
父さんが、こくりと頷く。
「瀬理奈に本格的に習い事を、いくつかやってみてもらおうかなって、思ってるの」
「……ほんとに?」
ぱっと顔を上げた。
これは計算じゃない。
心の底からの嬉しさが表に出た。
「ほんとに。お父さんとお母さんで、いくつか候補を見つくろっておいたの」
母さんはテーブルの引き出しから、数枚のパンフレットを取り出した。
「これが近所のこども音楽教室。ピアノと声楽を教えてくれるところ」
「うん」
「こっちが市民プールの幼児スイミングスクール。週一回、土曜日の午前中ね」
「うん」
「これはちょっと遠いんだけど、本格的なこども体操教室。たぶん瀬理奈の身体には、合うんじゃないかなって思って」
「うん」
「あとはね、これはおまけだけど。お絵描きと書道のところもあるのよ」
母さんは五枚のパンフレットをテーブルの上にずらりと並べた。
俺はその五枚を、しばらくぽかんと見つめた。
…ぱぱとまま、本気だ。
入園式の日に「いろいろやりたい」って言ったのを、本気で受け取ってくれた。
そして本気で調べて、ここまで用意してくれた。
「ぜんぶ、やってもいいの?」
おそるおそる訊いた。
「いいよ」
父さんが頷いた。
「ただし瀬理奈、ひとつだけ約束してほしい」
「やくそく?」
「瀬理奈がつらくなったら、ちゃんとお父さんとお母さんに言うこと」
父さんはまっすぐに、俺を見ている。
「やりたいって思って始めるのはいい。でも続けるのがしんどくなったらやめていい。ちゃんと休んでいい。それを約束してくれるなら、お父さんはぜんぶ応援する」
「……うん」
俺は頷いた。
喉の奥がちょっとだけ熱くなった。
……前世の俺に対しても両親は、こんな会話を当時の俺にしようとしてくれたんだろうか。
たぶんしようとしてくれていたんだろう。
ただ、当時の俺がそれをちゃんと聞ける子供じゃなかっただけで。
「ありがとう、ぱぱ、まま」
俺はテーブルに両手をついて、ぺこりと頭を下げた。
四歳児としては、ちょっと不自然なくらい、丁寧なお辞儀になってしまった。
でも二人は何も言わなかった。
ただ優しく、俺の頭を撫でてくれた。