銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第一章 第七話 前回り

入園式から一週間が過ぎた。

 

幼稚園での生活は、思っていたよりもずっと平穏に始まった。

山本先生は本当にいい先生で、俺の見た目を「特別扱い」することも、「逆に無視して扱い」することもしなかった。

ちゃんと、橘瀬理奈という四歳の女の子として扱ってくれた。

それだけで、もう十分にありがたかった。

 

ばら組のクラスメイトたちは、最初の二、三日こそ、俺の銀色の髪に集まったが、それもすぐに飽きてくれた。

四歳児の興味の持続時間は、本当に短い。

ありがたいことだ、と思った。

 

俺はできるだけ、目立たないように振る舞った。

四歳児として、無理のない範囲で。

他の子と同じくらいに、すべり台に登り、同じくらいにお絵描きをし、同じくらいに給食を食べた。

 

……ただ、それでも。

時々俺の体は、勝手にぼろを出した。

 

たとえば自由遊びの時間。

園庭の隅でばら組の男の子の一人が転んで足首をひねった。

泣き出すまでに間があった。

痛みが神経を伝って脳に届くまでのコンマ数秒。

 

その「間」の方を、俺は先に聞き取ってしまった。

彼の足首の骨と腱が、不自然な角度に伸びるわずかな摩擦音。

それから、彼の喉が悲鳴を上げるために息を吸う音。

 

俺はもう、走り出していた。

彼が泣き始める前に。

 

「せんせい、ゆうとくんが、こけたぁー」

 

俺は、山本先生に大声で叫んだ。

そして、ゆうとくんの足首を自分の小さな手で、そっと押さえた。

……ねんざ、だと思った。

ひどくはない。

でも、しばらくは動かしたらダメだ。

 

「あれ、せりなちゃん、よく気付いたね」

 

山本先生がぱたぱたと駆けてきて、ゆうとくんの足首を診た。

俺は慌てて、自分の手を引っ込めた。

 

「うん、おとが、したのぉ」

「音?」

「うん、ぎゅるっておとが、したの」

 

俺はできるだけ、四歳児らしくふわふわと答えた。

山本先生はちょっと首を傾げたが、それ以上は突っ込んでこなかった。

……うん、これくらいはたぶんセーフだ。

 

しかし、こういう小さな「ぼろ」は、これからもいっぱい出してしまうんだろうな、と俺は思った。

俺の体は人間の限界レベルの感覚を、初期装備で積んでいる。

それを全部隠し切るのは、たぶん不可能だ。

 

……まあ、しょうがない。

これも転生のおまけ、というやつだろう。

神様か誰かがつけてくれた、よく分からないオプションサービス。

 

 

 

そんな、ある日のお昼休み。

俺は園庭の隅っこの鉄棒で、ぼんやりと休んでいた。

明彦は、男の子たちと砂場でなにやら砂山を作っている。

ちらちらとこちらに視線を寄こしてくれるのは、たぶん俺の様子を気にしてくれているからだ。

……うん、いい子だ、相変わらず。

 

「せりなちゃーん」

 

ふと、後ろからばら組の女の子に、呼びかけられた。

振り向くと三人ほどの女の子が、こちらをにこにこと見ている。

リーダー格は、たぶん髪を二つ結びにしたはるかちゃんだ。

 

「ねえねえ、せりなちゃんって、てつぼうできる?」

「てつぼう?」

「うん。みやびちゃんがね、まえまわりできるんだって。せりなちゃんもできる?」

 

俺は、ふむ、と思った。

……前まわり。

やばい、四歳児の前まわりの平均的なレベルが、どれくらいなのかはよく知らない。

 

しかし、自分の身体の運動神経が、人並み外れているのは、もうとっくのとうに自覚していた。

家でこっそり、トランポリンの代わりに二段ベッドの下段で跳ねたり、廊下で逆立ち歩きをしたりしているのを、母さんに目撃されては目を丸くされていた。

……うーん、たぶん、前まわりくらいは余裕でできる。

 

「うん、たぶん、できるよ」

 

俺は、すっと鉄棒に手をかけた。

四歳児の身長は、まだ、九十五センチちょっと。

低めの鉄棒でも、手を伸ばさないと届かない。

軽く、ぴょん、と跳んで、鉄棒に両手で掴まった。

 

そこから上半身をぐっと持ち上げる。

腹が鉄棒の高さに、来るくらいまで。

そして、ゆっくりと上体を前に倒す。

くるり、と世界がひっくり返る。

銀色の髪が、ふわり、と頬の横に流れた。

背中が反って、視界の中で空と園庭が入れ替わる。

そして――。

 

ぴたり、と両足が地面に降りた。

ほんの少しの土埃も、立てずに。

何事もなかったかのように、両手をぱっぱと払って、にっこりと女の子たちに笑いかけた。

 

「できたかな?」

 

しばらく沈黙があった。

 

はるかちゃんも、みやびちゃんも、もう一人の女の子も。

口をぽかんと開けたまま、俺を見ていた。

 

「……すごい」

 

最初に声を漏らしたのはみやびちゃんだった。

 

「……せりなちゃん、すごい」

「ありがと」

「もっかい、やって!」

「もっかい、もっかい!」

「いいよぉ」

 

俺はにこりと笑って、もう一度鉄棒にぴょんと飛びついた。

……これくらいで女の子たちは満足してくれるだろう。

そしてたぶんこれくらいなら、まだ「ちょっと運動神経のいい子」の範疇に収まるはずだ。

 

しかし、その俺の予想はすぐに外れた。

 

「……瀬理奈ちゃん、ちょっとー」

 

山本先生がいつのまにか鉄棒の脇に立っていた。

にこにこと笑っているが、その目には明らかに「ちょっと、これは」という驚きが滲んでいた。

 

「えへへ、はぁい」

 

鉄棒から、ぴょんと降りた。

今度は、わざと少しよろけるふりをした。

……ちょっと、サービスしすぎたかもしれない。

 

「瀬理奈ちゃん、いま、何回目の前まわり?」

「えっとぉ、にかいめ、です」

「上手だね。お家で、練習してるの?」

「ううん、おうちではしてない。きょうはじめてやったの」

 

俺は、舌足らずに答えた。

……嘘ではない。

ただし家でこっそりもう少し変な体操をしているのは、別の話だ。

 

山本先生はしばらく俺の顔を見ていた。

……やばい、まずいかなと思った。

四歳児がはじめての鉄棒でいきなり前まわりを綺麗に決める、というのは、たぶん平均からはちょっと外れているのかもしれない。

……いや、ちょっとどころじゃないかもしれない。

 

「うーん、と、瀬理奈ちゃん?」

「はぁい?」

「先生、いまのを、お母さんに教えてもいいかな?」

「えっ」

 

俺は、ちょっと、表情を、固めた。

…うん、思っていたよりも、もうちょっと、目立っちゃったらしい。

 

「お母さんに、瀬理奈ちゃんがね、運動が得意なことを、教えてあげようかなって思って」

「えっとぉ……ちょっとだけはずかしい、です」

 

俺は頬を赤らめてみせた。

半分、本気で恥ずかしかった。

……うん、家でももう少し運動神経を抑えるべきだったかもしれない。

 

「うふふ、瀬理奈ちゃんが恥ずかしいなら内緒にしておくね。でもね、瀬理奈ちゃんがもしいっぱい体を動かしたいって思ったら、先生に教えてね」

「うんっ、ありがとお、せんせい」

 

俺は、ぴょこんとお辞儀をした。

山本先生はもう一度にっこりと笑って、ばら組の方に戻っていった。

 

……ふぅ、と俺は内心でため息をついた。

うん、これはちゃんと家で親と相談しないとダメだ。

俺の運動神経を、どこまで外に出していいのか。

そろそろ線引きを決めるべきタイミングが来ている。

 

 

 

その夜。

俺は、晩御飯の後の団欒の時間に思い切って切り出した。

 

「ぱぱ、まま」

「うん?」

「あのね、ようちえんでてつぼうやったらね、せんせいにびっくりされちゃったの」

「鉄棒?」

 

父さんが湯呑みを置いて、こちらを見た。

母さんも編み物の手を止めて、顔を上げた。

 

「うん。まえまわりがじょうずだったみたいで」

 

わざと控えめに説明した。

ただ両親の表情を見るに、二人ともある程度は想像していたらしい。

「いつかは、来ると思ってた」という顔だった。

 

「瀬理奈は、家でも運動してたものね」

「……すこしだけね」

「あなた、廊下で逆立ち歩きしてたのを、こないだお父さんが目撃してたわよ」

「あっ」

 

やっべ。

完全にばれてた。

俺は、ちょっと頭を掻いた。

 

「別に怒ってるわけじゃないのよ。瀬理奈は瀬理奈でできることをやっていいの」

 

母さんは優しく笑った。

 

「ただ、瀬理奈の身体はたぶん普通の女の子よりも、ちょっと丈夫で強いの。それはお父さんもお母さんも、もうわかってる」

「うん」

「だからね、お父さんとお母さんで、相談したんだけど」

 

母さんは編み物を横に置いた。

そして父さんと視線を交わした。

父さんが、こくりと頷く。

 

「瀬理奈に本格的に習い事を、いくつかやってみてもらおうかなって、思ってるの」

「……ほんとに?」

 

ぱっと顔を上げた。

これは計算じゃない。

心の底からの嬉しさが表に出た。

 

「ほんとに。お父さんとお母さんで、いくつか候補を見つくろっておいたの」

 

母さんはテーブルの引き出しから、数枚のパンフレットを取り出した。

 

「これが近所のこども音楽教室。ピアノと声楽を教えてくれるところ」

「うん」

「こっちが市民プールの幼児スイミングスクール。週一回、土曜日の午前中ね」

「うん」

「これはちょっと遠いんだけど、本格的なこども体操教室。たぶん瀬理奈の身体には、合うんじゃないかなって思って」

「うん」

「あとはね、これはおまけだけど。お絵描きと書道のところもあるのよ」

 

母さんは五枚のパンフレットをテーブルの上にずらりと並べた。

俺はその五枚を、しばらくぽかんと見つめた。

 

…ぱぱとまま、本気だ。

入園式の日に「いろいろやりたい」って言ったのを、本気で受け取ってくれた。

そして本気で調べて、ここまで用意してくれた。

 

「ぜんぶ、やってもいいの?」

 

おそるおそる訊いた。

 

「いいよ」

 

父さんが頷いた。

 

「ただし瀬理奈、ひとつだけ約束してほしい」

「やくそく?」

「瀬理奈がつらくなったら、ちゃんとお父さんとお母さんに言うこと」

 

父さんはまっすぐに、俺を見ている。

 

「やりたいって思って始めるのはいい。でも続けるのがしんどくなったらやめていい。ちゃんと休んでいい。それを約束してくれるなら、お父さんはぜんぶ応援する」

「……うん」

 

俺は頷いた。

喉の奥がちょっとだけ熱くなった。

 

……前世の俺に対しても両親は、こんな会話を当時の俺にしようとしてくれたんだろうか。

たぶんしようとしてくれていたんだろう。

ただ、当時の俺がそれをちゃんと聞ける子供じゃなかっただけで。

 

「ありがとう、ぱぱ、まま」

 

俺はテーブルに両手をついて、ぺこりと頭を下げた。

四歳児としては、ちょっと不自然なくらい、丁寧なお辞儀になってしまった。

でも二人は何も言わなかった。

ただ優しく、俺の頭を撫でてくれた。

 

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