銀盤に踊る銀(しろがね)   作:ブリザード

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第一章 第八話 才能の露呈

入園式から二週間が経って、習い事生活がようやく本格的に始まった。

 

両親が用意してくれたパンフレットを並べて俺と父さんと母さんで何度も相談した結果、まずは四つの習い事から始めることになった。

ピアノとスイミングと体操とお絵描きだ。

書道はもう少し字を書ける歳になってから、ということで保留。

 

「いっぺんに全部はじめると、せりなが大変だからね」

 

母さんは指折り数えながらそう言った。

編み物のかごの脇に、五枚のパンフレットが綺麗に重ねて置いてある。

そのうちの一枚、書道のところだけが、テーブルの隅にちょこんと寄せられていた。

 

「うん、せりながんばる」

「がんばらなくていいの。たのしんでくればいいの」

 

母さんは俺の両頬を両手で挟むようにそっと包んだ。

ぬくもりが、頬から目の奥のほうまで届いた。

半年前はこの手の指の関節がごりごりに痩せていたのを覚えている。

今はちゃんとふっくらしている。

それだけで、もう十分にありがたい話だった。

 

 

 

月曜の夕方。

最初に向かったのは、近所のこども音楽教室だった。

 

歩いて十五分の住宅街のなかにある、二階建ての小さな建物。

一階が教室で、二階は先生のお宅らしい。

玄関のチャイムを鳴らすと、四十代半ばくらいの優しそうな女性が出てきてくれた。

 

「はじめまして、瀬理奈ちゃん。湯浅と申します」

「はじめまして、たちばなせりな、よんさいです」

「あらまぁ、ご挨拶、上手ねぇ」

 

湯浅先生は、丸眼鏡の奥でにっこりと笑った。

肩までの黒髪を後ろで一つにくくっていて、淡いベージュのカーディガンを羽織っている。

玄関先でちらりと見えた居間には、グランドピアノが一台、どんと鎮座していた。

 

でかい。

四歳児の身長からすると、もはや楽器というよりは家具のサイズ感だ。

俺はちょっとだけ気圧されながら、母さんの手を引いて教室に通された。

 

「今日は体験ね。瀬理奈ちゃん、ピアノを弾いたことはあるかしら?」

「ない、です」

「そう。じゃあ、まずはお椅子に座って、鍵盤を触ってみましょうか」

 

湯浅先生は、グランドピアノの前の、小さい子供用の補助ペダルがついた椅子に俺を座らせてくれた。

お尻の下の革張りの感触が、ちょっとひんやりとしていた。

鍵盤に向かって、両手を、おそるおそるのせる。

 

白くて、つるりとして、思っていたよりずっと冷たい。

 

「真ん中のこの鍵盤がね、ドのおとよ」

「ど」

「うん、ド。押してみて」

 

俺は人差し指で、ぽん、と押した。

ふくよかな音がピアノの腹のなかで一度ふくらんで、それから部屋全体にゆっくり広がった。

四歳児の耳には、まだ音と空気が混ざりあう前の、原初の振動みたいに聞こえた。

 

「……あっ」

「ね、いい音でしょう」

「うん」

 

俺は思わず、声を漏らしてしまった。

これは演技じゃない。

転生前のおじさんとしても、ちゃんとグランドピアノの音をすぐそばで聴くのははじめてだった。

 

そんな俺に微笑むと、湯浅先生は俺の隣に小さな丸椅子を持ってきて座った。

 

「じゃあね、せんせいがドレミファソ、って弾くから。瀬理奈ちゃんは、同じところをおなじゆびで押してみてね」

「はい!」

 

湯浅先生は自分の右手でドレミファソ、と、ゆっくり弾いてみせた。

そして俺の右手をそっと取って、親指、人差し指、中指、薬指、小指を、ひとつずつ鍵盤の上にのせてくれた。

 

「瀬理奈ちゃん、いけるかしら?」

「いける、と、おもう」

 

俺は、おそるおそる、親指から順番に押していった。

ド、レ、ミ、ファ、ソ。

五つの音が、ぽつぽつと、部屋に並んだ。

 

これくらいなら、別に難しくはないかな。

というか、これくらいなら四歳児の指でも、まあ押せる。

俺は、ちょっとほっとした。

 

「じょうずよ、せりなちゃん。じゃあ、つぎはね、ソファミレド、おさげてきましょう」

「うん」

 

今度は小指からソファミレド、と押していった。

これも、まあ、なんとかできた。

 

なるほど……ピアノってのは、こういうもんなのか。

拍子抜けするくらい、最初は単純な作業だった。

 

「じゃあね、今度は両手でやってみましょうか」

 

湯浅先生はにこにこと笑いながら、俺の左手を取って別の鍵盤の上にのせてくれた。

右手はドの音、左手はそれより一オクターブ低いドの音。

 

「右手と左手で、いっしょにドレミファソ、しましょう」

「いっしょに?」

「うん、いっしょによ」

 

俺は、首を傾げてちょっと考えた。

うーん、転生前の友人がドラムでやってたみたいな、右手と左手で完全に別の動きをするわけじゃない。

同じテンポで、似たような動きを、両手で同時にするだけだ。

左と右で押す順番を変えるだけ。

 

うん、たぶんできる。

 

俺は、ちょっと息を吸ってから、息を軽く整えた。

そして、両手の指を、同時に押し下げた。

 

ド。

 

低いドと、高いド。

二つの音が空気のなかで重なって、ふくらんで、部屋の隅の方で溶けた。

 

それから、レ、ミ、ファ、ソ。

 

止まることなく鍵盤の上の指が動き、同じテンポで押していく。

湯浅先生は何かを言いかけて、口を開けたまま止まった。

 

……ん?

 

俺は自分の両手から、湯浅先生の方へ視線を移した。

湯浅先生は、ぱちぱちと瞬きを数回していた。

 

「……瀬理奈ちゃん、ほんとにピアノははじめて?」

「はい。はじめて、です」

「お家にも、楽器は、なくて?」

「はい」

 

ない。

うちにはピアノもないし、エレクトーンとかもない。

俺の知る限り、今の橘家で音を出すものといえばテレビと、母さんがときどき口ずさむ鼻歌くらいだ。

 

そんな俺の回答を聞いて、湯浅先生はもう一度、ゆっくりと首を傾げた。

 

「あのね、瀬理奈ちゃん」

「はぁい」

「今のはね、ふつうだと最初の体験では、けっこう難しいの」

 

……ほう。

 

俺は内心でちょっとだけ構えた。

まさか、また、目立つようなことをしたのか。

 

「右手だけでも難しいんですよ。それを最初から両手でね、同じテンポでぴったり揃えちゃうのは」

「……そう、なの?」

「うん。ふつうはね、片手ずつ覚えて、それから両手を合わせる練習をするの」

 

湯浅先生は、自分の両手を、開いたり閉じたりして見せた。

人差し指と中指を、別々に動かすのが、子供にはなかなか難しいのだという。

四歳児の脳は、両手の指を独立に動かす配線が、まだ十分にできあがっていない。

 

ああ、そういうことか。

内心で、ちょっとまずいぞ、と思った。

 

俺の場合、両手を別々に動かそうとしているわけじゃない。

ただ、似たような動きを、両手で同時にしているだけだ。

そこには特別難しいことをしている自覚なんてまったくなかった。

 

しかし四歳児の標準では、その「同じ動きを同時に」というのが、すでにけっこう難しいらしい。

 

やばいな……これはまたしまったというやつだ。

 

俺はちょっと困った顔を作って、母さんの方をちらりと振り返った。

母さんは、教室の隅っこの椅子に座って、こちらをにこにこと見ている。

湯浅先生の言葉の意味を、たぶんちゃんと咀嚼している顔だった。

 

「お家でおかあさまと、お歌をよく歌いますか?」

「うん、ねるまえとかにいっしょにうたう」

「ふぅん。リズムいいのね。たぶんね、瀬理奈ちゃんは耳がねいいんだと思うわ」

 

湯浅先生はにこりと笑った。

うん、この先生も、いい先生だ。

「突出してる」と決めつけずに、「いい耳」というやわらかい言い方をしてくれる。

 

「もうひとつやってみましょうか。せんせいがこれから弾く音を、瀬理奈ちゃんはおなじように弾いてみて」

「うん」

 

湯浅先生は、俺から少し離れて、自分でピアノの前に座った。

そして、ゆっくりと、四つの音を、続けて弾いた。

ド、ミ、ソ、ド。

 

最後はちょっと高いド。

それから両手を膝の上に置いて、俺の方をにこにこと見ていた。

 

「同じところを、弾いてみて」

「うん」

 

俺は左手は使わず、右手の親指、中指、小指、それから人差し指をオクターブ上のドにかけて弾いた。

ド、ミ、ソ、ド。

 

四つの音が、湯浅先生のものと同じ高さで、同じテンポで並んだ。

 

うん、別に難しくはなかった。

聞こえた音が、頭の中でそのまま、鍵盤の位置に変換される。

それだけだった。

 

湯浅先生は、もう一度、ぱちぱちと、瞬きをした。

…あれ。

 

「……瀬理奈ちゃん、もしかして、絶対音感、あるのかしら」

「ぜったいおんかん?」

「うん、音を聞いただけで、どの音か当てられる耳のことよ」

 

俺は、首をこてんと傾げた。

待って……そんな自覚はなかった。

今の自分には、さっきの四つの音は、ちょうどピアノの真ん中のドと、その上のミと、その上のソ、もう一個上のド、というふうに頭の中ですでにラベルが貼られていた、それだけだ。

 

これはもしかして、けっこうまずいやつかもしれない。

 

「わかんない、です」

「あらあら、自分では、わからないわよね。当たりまえね」

 

湯浅先生は、ふふふ、と笑った。

そして母さんの方を、ちらりと見た。

 

「お母さま、瀬理奈ちゃんはね、たぶん、ちょっとだけ、特別な耳をお持ちかもしれません」

「あら、まぁ」

「うちでちゃんと教えさせていただけたら、嬉しいです」

 

母さんは教室の隅で両手を口元にあてて、目をちょっとうるませた。

ぎゃあ、またやってしまった。

俺は、両手をピアノの上に乗せたまま、内心で、はぁ、とため息をついた。

 

でも悪い気はしなかった。

ピアノの音は四歳児の耳にとって、ちゃんと心地よかった。

俺の指の動きが、その音を、自分の意思で出せている。

 

これはたぶん、楽しい習い事になる。

俺は、そう思った。

 

 

 

それから二日後の水曜日。

こんどは隣町の体操教室に、母さんと一緒に向かった。

 

電車でふた駅。

駅前の商店街を抜けた先の、こぢんまりとした体育館だった。

看板には「みなと体操クラブ」と書いてあって、ガラスドアの向こうに、青いマットと跳び箱と平均台と低めの吊り輪が並んでいる。

 

「うわぁ、ひろぉい」

 

俺は、思わず声を漏らした。

これも半分演技で、半分本気だった。

四歳児の体感的な広さで言えば、これはほとんど運動場サイズだ。

 

「はじめまして、橘さん。電話で連絡をくれたのはあなたですね」

 

そう声をかけてきたのは、四十代後半くらいのがっしりした男性だった。

紺色のジャージに、首から笛を下げている。

日に焼けた顔と太い首が、見るからに体育会系だった。

 

「はい、こんにちは。瀬理奈の母です」

「はじめまして、ぼくがここの代表の宮川です」

 

宮川コーチはしゃがんで、俺と目を合わせてくれた。

笑うと、目尻にぎゅっと皺が寄る、いい顔の人だった。

 

「瀬理奈ちゃん、よろしくね」

「よろしく、おねがいします」

 

ぺこりと、頭を下げた。

これも、もう何度目になるか、わからない挨拶だ。

四歳児の語彙でいかにちゃんと挨拶できるか、最近の俺はちょっと自分でも得意になってきていた。

 

「今日はまず、いろいろ体を動かしてみてもらおうかな。瀬理奈ちゃん、運動は好き?」

「うん、すき!」

「よし、いい返事だよ」

 

宮川コーチは、にっ、と笑った。

それから俺を青いマットの方へ、連れて行ってくれた。

 

「じゃあ、まずは走ってみようか。あっちの壁まで走って戻ってきて」

「はい!」

 

うーんと、二十メートルくらいか。

体育館の端から端まで。

 

俺は軽く息を整えて、駆け出した。

今度は目立たないぞ、抑えなきゃ、抑えなきゃ。

そう何度も自分に言い聞かせながら。

 

しかし四歳児のこの身体は、まだ自分の意思による制御を完全にきかせきれない。

気を抜くと地面の反発を、勝手に最大限に拾ってしまう。

それで二十メートルを、たぶん四秒くらいで走り抜けた筈。

そして向こうの壁にタッチして、くるりと髪を翻して回って、今度は戻ってきた。

 

これくらいなら、ぎりぎりセーフのはずだ。

 

宮川コーチの前で、俺はぴたりと止まった。

ほとんど息も切れていない。

 

宮川コーチは、ストップウォッチを片手に持っていた。

それをちらりと見て、それから俺の顔を見た。

そしてもう一度、ストップウォッチを見た。

 

「……瀬理奈ちゃん?」

「はぁい」

「もういっかい、走れるかな?」

「うん、はしれるよ」

 

こくり、と頷いた。

宮川コーチは、首からストップウォッチの紐を外して、もう一度計測の準備をした。

 

「よーい、どん」

 

俺は、また駆け出した。

今度は、さっきよりもほんの少しだけ、力を抜いた。

それでも四歳児の足は、勝手に勢いよく地面を蹴る。

 

戻ってきて、宮川コーチの前でぴたりと止まった。

宮川コーチは、ストップウォッチをじっと見ていた。

そして片方の眉をちょっとだけ上げた。

 

「…………瀬理奈ちゃん、いま何歳だっけ?」

「よんさい、です」

「四歳、ね」

「うん」

 

宮川コーチは、ふぅ、とひとつ息を吐いた。

それから、母さんの方をちらりと振り返った。

母さんは教室の入り口の長椅子に座って、こちらをにこにこと見ている。

 

……やばい、母さんの顔はもう完全に「またかお前」の顔だった。

この半年で、橘家の家族はすっかり俺の「ぼろ」に慣れてきていた。

 

「お母さん、ちょっといいですか」

「はい」

 

宮川コーチは、母さんと二言三言、何かを話していた。

しょうがないので俺は、青いマットの上にぺたりと座って、それを待った。

体育館の天井の梁が、頭の上でまっすぐに伸びている。

 

走るのは、抑えたつもりだったんだけどな。

それでも、ちょっと抑えが足りなかったか。

 

「瀬理奈ちゃん、ちょっとこっちおいで」

 

宮川コーチが、俺を呼んだ。

今度は、跳び箱の前だった。

三段の、子供用の小さな跳び箱だ。

 

「これは、跳んだこと、あるかな?」

「ううん、ないです」

「うん、じゃあね、まずせんせいがお手本やるから、見ていてね」

 

宮川コーチは助走をつけると、跳び箱の手前で、ぽん、と両足で踏みきった。

両手を跳び箱の上について、ぐいっと体を持ち上げて、両足を開いて、跳び箱をふわりと飛び越えた。

着地の足が、マットの上で、ぴたりと止まる。

 

なるほどね。

動きは見たまんまだ、シンプルに俺には見えた。

……たぶん。

 

「やってみる?」

「うん」

「最初は跳び越えなくていいよ。跳び箱の上にぴょんって座っちゃってもいいから」

 

宮川コーチは跳び箱のすぐ脇に立って、両手を軽く構えた。

万が一の補助が、すぐに入れられるようにだ。

さすがだ、子供を見慣れている人だなと、俺は思った。

 

「いきまぁす」

 

五メートルほど後ろに下がって、軽く助走をつけた。

そして跳び箱の手前で、ぽん、と両足で踏み切った。

 

ふわり、と視界が上がった。

さっき見たように、両手を跳び箱の角にしっかりとつく。

そのまま両足をぱっと開いて、腰を上に引き上げる。

 

跳び箱の上を、そんな俺の身体はふわりと滑った。

そして、マットの上にぴたり、と降りた。

ほんのわずかなよろけもなかった、起きないくらい、きれいに身体が動いた。

 

やべ。

 

やってしまった。

俺は降りた直後に、自分の動きの綺麗さに内心で頭を抱えた。

 

宮川コーチはしばらく固まっていた。

構えていた両手もおろすのを忘れたまま。

笛が首からだらりと下がっていた。

 

「……お母さん」

「はい」

「もう一回跳ばせてもいいですか」

「どうぞ」

 

宮川コーチは、跳び箱をもう一段足した。

四段になった。

でも、うん、まあ、跳べるはずだと自分の身体は言っている。

 

「いける?」

「いける、と、おもう」

「無理しなくていいからね」

 

俺はもう一度助走をつけて、跳び箱の手前で踏み切った。

今度は、より高く跳ね上がった。

両手を跳び箱について、両足を開いてふわりと跳び越えた。

 

着地。

 

ぴたりと決まった。

 

体育館の中の空気が、ほんの少しだけ、しん、となった。

壁際で見ていた、他の教室の生徒のお母さんたち。

通りすがりの、別のコーチ。

みんながこちらを見ていた。

 

これはもう、けっこう目立ったな。

 

跳び箱の前で、にっこりと笑ってみせた。

四歳児の、にっこり笑顔だぞ。

それでちょっとは誤魔化せるはずなんだが。

 

「お母さん、お父さんはなにかスポーツを?」

「いえ、特には。学生時代に夫が少しテニスをやっていたくらいで」

「お母さんは?」

「私ですか? 私はまったく運動はしないんです」

 

宮川コーチはしばらく口をへの字に結んで考え込んでいた。

それから、ふっと笑った。

 

「これは、ちょっとした原石ですね」

「……うふふ」

 

母さんは教室の入り口の長椅子で、両手を口元にあててちょっと目を細めた。

母さんはもう慣れたものだった。

半年前なら、ここで号泣していたかもしれない。

 

「瀬理奈ちゃん、よかったら、ぜひうちで見させてください」

「はい。よろしくおねがいします」

 

俺は、ぺこりと頭を下げた。

…まあ、まあ、こんなところだろう。

これ以上は、もう、隠しても、しょうがない。

 

俺はその日家に帰ってから、自分の部屋でしばらく天井を眺めていた。

四歳児の身体の、まだふくふくとした白い手のひらを自分の顔の前にかざす。

 

これは、いったいなんなんだろうな。

 

転生前の俺、橘隆志は、ごく普通の運動神経の持ち主だった。

中学のときに陸上部の助っ人で短距離を走らされたことがあるくらいで、それも普通に速いね、と言われるレベルだった。

特別運動神経がよかったわけじゃない。

 

しかし、今の身体は明らかに何かが違う。

両手の指は、別々の動きを自然に覚える。

両足は踏み切るたびに、自分の意図よりもほんの少しだけ強く地面を押し返す。

 

そして五感は人間の限界の向こう側にはみ出している。

 

これは、たぶん俺の手柄なんかじゃない。

俺がもらった「身体」の、もともとの性能だ。

 

ピアノで両手が動いたのは、転生前の俺がピアノを弾けたから、じゃない。

跳び箱が跳べたのは、転生前の俺が体操をしてたから、じゃない。

ただ、この銀髪碧眼の、四歳の女の子の身体が、最初からそういう性能を持って生まれてきている。

 

それだけなんだ。

 

 

 

その夜、橘家の食卓はいつもよりちょっとだけ賑やかだった。

 

母さんは、夕飯のおかずをいつもより一品増やしていた。

鶏の唐揚げとほうれん草のお浸しと卵焼きと、それからお味噌汁。

俺の好物ばかりが、テーブルの上に並んでいた。

 

「瀬理奈、お疲れさま」

「おつかれぇ」

 

父さんが缶ビールを、こつんと俺の麦茶のコップに軽くぶつけた。

それから、ちょっと照れたように笑った。

 

「あなた、子供に乾杯はないでしょう」

「いいじゃないか、習い事の初週をちゃんと頑張ったんだから」

 

母さんは、ふふ、と笑いながら、俺の前に卵焼きの一切れを置いてくれた。

ちょっと甘めの、母さん特製の卵焼き。

四歳児の俺の好物の、上位ランキングに入っているやつだ。

 

「ぱぱ、まま、あのね」

「うん?」

「せりな、習い事、ぜんぶすごくたのしかった」

 

俺は卵焼きを、もぐもぐと噛みながら、そう伝えた。

父さんと、母さんの、視線が揃って俺の方を見た。

そして二人とも、ちょっと目を潤ませた。

 

またやってしまった。

最近の橘家の食卓は、こうやってしょっちゅう湿っぽくなる。

 

「そう、よかったわね」

「うん」

「先生方からはね、瀬理奈はとっても筋がいい、ってお話をいただいたの」

「ふぅん」

 

俺はできるだけ、ふぅん、となんでもないように応じた。

卵焼きの、甘さが、舌の上で、ふわりと、広がる。

 

「ピアノの湯浅先生はね、瀬理奈には、絶対音感があるかもしれないっておっしゃってたわ」

「うん」

「体操の宮川コーチも、すごく楽しみだって、ぜひ続けて見させてください、って」

「うん」

「スイミングの宇野コーチもね、すごい肺活量だってびっくりしてらしたの」

 

母さんはそれぞれの先生の名前を、一人ずつ、ちゃんと思い出しながら教えてくれた。

ひとつひとつ、大事に、宝物の名前を呼ぶみたいに。

 

俺はそれを聞きながら、ちょっとだけ胸がくすぐったかった。

褒められて嬉しくないわけじゃない。

ただ、これは俺の手柄じゃない、ということを知っているから、なんだか面映ゆかった。

 

「あのね、ぱぱ、まま」

「うん?」

「せりな、おもうんだけど」

「うん」

 

俺は、お箸を、ちょっと、置いた。

そして、自分の両手のひらを、テーブルの上で、開いてみせた。

四歳児の、まだ、骨も柔らかい、白い手のひらだ。

 

「せりなのね、からだはたぶんね、ちょっとすごいみたい」

「うん」

「でもね、それはせりなががんばってるからじゃないの」

「うん」

「うまれたときから、もうそうだったの」

 

ちょっと舌足らずではあるけど、できるだけちゃんと伝えようとした。

これは伝えておかないといけない、と思った。

父さんと母さんに、勘違いをしてほしくなかった。

 

「だから、おにいちゃんとかが、しっとしないように」

「お兄ちゃん?」

「あ、ちがった。あきひこくん、とか」

 

慌てて言い直した。

うっかり、心の中の呼び方が出てしまった。

ここは絶対に間違えてはいけないところだ。

 

父さんと母さんは、しばらくお互いの顔を見合わせた。

それから母さんが、そっと俺の頭に手を置いた。

 

「瀬理奈は優しいわね」

「……そんなこと、ないよ」

「ううん、優しいわよ。せりなはちゃんと明彦くんのこと心配してあげるんだもの」

 

母さんの手は、あったかかった。

銀色の髪の上で、ゆっくりと何度も何度も撫でられる。

俺は、ちょっとだけ目を細めた。

 

「でもね、瀬理奈」

「うん」

「明彦くんは、たぶん嫉妬する子じゃないわ。お母さん、そう思うの」

 

母さんは、はっきりとそう言った。

父さんもその横で、こくりと頷いた。

 

「あの子はね、自分の好きなものをちゃんと持ってる子よ。瀬理奈と自分を比べたりする子じゃないの」

「……そう、かなぁ」

「うん。お母さん、明彦くんと話してていつもそう思うわ。あの子は瀬理奈のことを、ほんとにお姉ちゃんとして慕ってくれてる」

 

俺は、ちょっと目を伏せた。

そうなんだ。

なら、いいんだけど。

 

転生前の俺であった橘隆志は、誰かと自分を比べることがけっこう多かった気がする。

同期の佐藤に、なんとなくピリッとしてしまったり。

取引先の常務のピアノに、ちくりと、しまったと思ったり。

 

その癖はたぶん息子の明彦にも、そのまま引き継がれているんじゃないか。

そう、勝手に思い込んでいた。

 

でも母さんは、はっきりと違うと言ってくれた。

そして母さんの言葉はたぶん正しい。

俺よりも母さんの方が、いまの明彦の素のところをよく見ている。

 

「うん。ありがとう、まま」

「うん」

 

俺はちょっとだけ、頷いた。

そして、もう一度卵焼きを一切れ、口に運んだ。

甘さがまた舌の上で、ふわりと広がった。

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