蝉時雨が、遠く聞こえる。
むせ返るような暑さの中、額から滲んだ汗は彼女の涙と混ざり合う。
「……なんか……」
か細く、夏の喧騒にかき消されそうなほど、淡い声だった。
「お前、なんか……!」
ぎりり。と、僕の首を掴む手に強く力が加わる。微かにある喉の隙間から空気が漏れ出る音がした。
「お前なんか産まなければよかった……っ!」
朝、カーテンの隙間から溢れる光で目が覚めた。重い瞼をこじ開け、近くにあった時計に手を伸ばす。時刻は午前七時前。いつも通りの起床だ。
薄く伸びをしてから洗面台へ向かい、歯を磨く。軽快な音と爽やかな香りが少しだけ眠気を飛ばしてくれて、洗顔と、軽く身支度を整えてキッチンへ。焦げついたフライパンや取手の取れた薬缶を押し除けて、割引になった惣菜パンを引っ掴む。包装を破いて水と共に胃の中に流し込めば、とっ散らかった部屋を縦横に探し周り、必要な物を鞄に詰め込んだ。
「行ってきます」
返事はない。理解した上で誰に言うわけでもなく、そう告げて学校へ向かった。
朝とは言え、同じく登校中の学生や通勤中の社会人など、街は小さな喧騒で溢れている。夏場ともなれば、蝉の声がコーラスを奏でていて、そんな登校中の風景が僕は嫌いじゃなかった。
学校に着くや否や、誰かと話すこともなく、自分の席に座りイヤホンで耳を塞ぐ。伸びた線の先、真っ暗な画面のウォークマンを起動して、プレイリストを再生する。何十回、何百回と聴いた曲を飽きもせず、また今日も流した。
それからホームルームが始まって、授業を受けて、昼休みになればまたイヤホンで耳を塞いで。人目のつかない校舎裏、冷たいコンクリートの上に座ってパンを食べながら空を眺める。
昔から、他者との関わりが苦手だった。
距離の詰め方も、声の掛け方も、何一つわからなくて。わからないなりに頑張ろうとした結果、空回りして。あの時の周囲の冷めた目が僕を雁字搦めにする。
周囲には大勢の人間がいて、手を伸ばせば簡単に届く距離だった。なのに、見えない壁に阻まれるように、彼らに手が届かない。
一人には慣れていた。けれど、一人で生きたいわけじゃなかった。
父はいない。生きているのか死んでいるのかさえわからない。母は、ずっと家にいなくて、僕の寝ている間に毎日千円札を一枚置いて消えていく。もうしばらく、顔も合わせていない。そんなんだから、友達もおらず、ただ無心で日々をやり過ごす。死んだように生きている、そんな生活を送っていた。
なんて、つまらない思考を唾棄して、僕は音楽に耳を傾けた。
歌はいい。言葉を持たない僕の代わりに、誰かが音に乗せて、僕の心を歌ってくれている。
けれど、穏やかな時間はあっという間に過ぎ去って。予鈴が鳴る。時間を確認すれば、昼休みはもう終わり。僕はため息をひとつ残して、重い足取りで教室へ戻った。
それから、午後の授業を終わらせて気がつけば下校時刻。まだ日は沈み切ってなくて、部活動に勤しむ奴らを尻目に、帰路へと着いた。途中スーパーに寄って、割引になった弁当と明日の朝食用にとパンを買う。店を出れば茜色の空に黒が滲んで、そういや昨日は洗濯し忘れてたな、なんて思いながら帰宅する。
「ただいま」
返事はない。それでも、昔の癖が抜けないように、動作の一つとして処理する。
靴を脱ぎ、制服を着替え、さっき買った弁当を食べて風呂に入る。歯磨きをし、洗濯も済ませ、皺だらけになった本を読みながら、意識を手放す。
それが、僕の変わらない日常だった。
ある日、久しぶりに母と顔を合わせた。帰宅して家に入ると、散らかった部屋の中央に乱れた姿で呆然と座り込んでいた。言葉が出なかった。居るなんて思ってなかったし、もう、話し方も忘れてしまったから。なんて声をかけるべきなんだろう、と。立ち竦む僕に母は気づいて──床に押し倒された。
「……なんか……っ」
ギリリ、と。細い手が僕の首を強く握る。呼吸ができない。苦しい。
「お前、なんか……!」
ぽつり、と。僕の顔に液体が滴り落ちる。それが涙だと気づくのに、時間はかからなかった。
「お前なんか、産まなきゃよかった……っ!!」
久しぶりに再開した母は泣いていた。僕の首を絞めながら、譫言のように言葉を繰り返して、泣いていた。化粧は崩れ、髪は乱れて、頬は痩せこけている。記憶の中に残る母の姿と乖離していた。でも、それが母だと理解できるのは、僕はこの人の子だからだろうか。
視界が揺らぐ。酸素の供給が絶たれている。母の顔がよく見えない。ずっと、孤独だった僕の胸中を占めた思いは、不思議と安心だった。首を絞められているはずなのに、今までよりもずっと、息をするのが楽だった。
「──■■■■、■■……」
母に首を絞められて、母の手の温もりを感じながら、息を引き取った僕は、間違いなく幸せだったんだ。
「……っ」
意識が浮上する。滲んだ視界が徐々に晴れていき、雲ひとつのない青空が僕を迎えた。
「ここ、は……」
体を起こして、辺りを見渡す。コンクリートで覆われた生活圏とは似ても似つかない、自然が豊かな場所だった。そんな場所で僕は一人、目を覚ました。
「……っ!」
混濁した意識の中、寸前の記憶が流れ込んでくる。
僕は、確かに母の手で殺されたはずだ。病室で目覚めるのなら、まだ理解できる。だが、見渡す限り人工物のないこの場所は、一体何処で、どうやって僕を此処まで運んだのだろう。死体を処理しようと海に投げ捨てて、潮の流れに乗って無人島に流れ着いた?だとしても傷一つなく、五体満足で流れ着くなど奇跡に等しいのではないか。
僕は確かめるように首筋に触れる。僕の命に触れた指の力も。皮膚に残った熱も。何ひとつ残っていない。
夢から醒めた気分だった。僕の願いは、白昼夢となって消えてしまった。変わってないのは、僕の孤独だけ。
「……はは」
乾いた笑いが溢れた。
あの時、僕は確かに満たされていた。最後に、母の温もりを感じたから。なのに、この仕打ちはあんまりじゃないのか。
「……ざけんなよ。こんなの、あんまりじゃないか……っ」
堰を切って溢れ出た想いは、涙となって流れ落ちる。
「なんで、なんで死なせてくれなかったんだよ……!なんで、生きてるんだよ!」
初めてだった。感情のままに叫ぶことなんて。でも、僕は答えが欲しかった。間違っていても、正解でも、誰かに答えて欲しかった。今はただ、誰かに話を聞いて欲しかった。
そのまま何分、何時間と時が過ぎただろうか。いつのまにか日が暮れて、夜の帳が世界に下りていく。
どれだけ耳を澄まそうと、聴こえるのは地球の鼓動だけ。声も、温もりも、何もない。世界に僕一人のような静けさに、僕は理解する。
──孤独は、何よりも耐え難い苦痛だ。
眼下、波が手招きをするように揺れている。此処から飛び込めば、水面との衝突によって意識を失い、そのまま溺れるかもしれない。──そうなればいいな、と身を屈め、勢いよく飛び込んだ。
落下中、思い返すのはあの時の母の顔。そう言えば最後、何か言っていた気がする。なんて言ってたんだっけ。ああ、ダメだ。思い出そうにも、もう目の前に、水、が……。
再び、意識が浮上する。今度は波打ち際に打ち上げられた魚のように横たわっていた。
死ねなかった。水面に叩きつけられたあと、海深くまでその身を沈めたというのに。目が覚めればいつものように、呼吸をしていた。僕の脳裏に嫌な四文字が掠める。まさか、そんなわけがない。あり得るわけがないんだ。
僕は再び崖の上に立つ。何かの間違いであってほしい。そう願って飛び降りた。痛みを感じる間もなく、僕の意識はフェードアウトする。そして三度目の目覚め。
肺に水は残っていない。身体にも、傷ひとつない。何度でも、同じ状態で目が覚める。
──死ねない。
不死身の体を手に入れて、一生死なずに生きていく。誰かが願い、誰かが望んだ妄想は、現実となって僕の身に降りかかった。
神様なんているのかもわからない。でも、僕は僕の身に起きた超常を、受け止めることができないから。だから、これらは全て神の悪戯だと、そう解釈して。
波の音だけが、耳の奥にこびりついていた。
ヤチヨに脳を焼かれてしまったため投稿。細々と書いていきます。