──長い、夢を見ていた気がする。
朝、カーテンの隙間から溢れる光で目が覚めた。重い瞼をこじ開け、近くにあった時計に手を伸ばす。時刻は午前八時前。遅刻寸前だった。
「やばっ!」
慌ただしく洗面台へ向かい、シャカシャカと歯を磨く。丁寧に磨いてる時間なんてない。洗顔も水をかけるだけ、寝癖も水をかけるだけ。胃も水を流し込むだけだ。腹から鳴る音を無視して、とりあえずそこらにあった教科書を全て鞄に入れる。時間割など見ている暇はない。足早に玄関へ向かい、靴を履いた。
「行ってきます!」
返事を聞く間もなく家から飛び出る。そもそも、返してくれる相手なんていないんだけど。
この時間になると通勤中の人はだいぶ減って、代わりに主婦の人やお年寄りがちらほらと見え始めた。彼らの時間はゆったり流れてそうで、つられて遅くなる足取りを気合いでかっ飛ばす。
学校に着くや否や、怒られないように急ぎ足で教室へと向かった。まだだ、まだ間に合うはず……!そう思いドアを開けると、皆が一斉にこちらを見た。だがそれも一瞬のことで、彼らは何事もなかったように視線を戻す。なんとか間に合ったようだが、僕としてはアウトだ。視線を集めるのだけは嫌なんだ。机に力なく突っ伏すと、その後すぐに教師が来てホームルームを始めた。
なんやかんやで昼休み。
人目のつかない校舎裏へ逃げるように来て、階段に腰掛ける。今日は朝を抜いたせいで腹がぺこぺこだ。購買で買ったおにぎりを二つほど脇に置いて、ポケットから取り出したスマホにイヤホンを差し込んだ。
最近、ずっと聴いている歌がある。
僕はあまり知らないが、どうやら有名なライバーの曲らしく、クラスの連中の話題にも上がるほどだった。
歌はいい。歌は、言葉を持たない僕の代わりに、誰かが音に乗せて僕の心を歌ってくれる。
「おっ、こんなところにいた」
なんて。クサい台詞を浮かべては物思いに更けていると、不意に声をかけられた。
「……何か用かよ」
「なんつー言い方。せっかく会いに来てやったのに」
そう言って彼は無遠慮に僕の隣に腰掛けた。
俗世に疎くクラスの話題についていけない僕だったが、この曲のおかげで友達──と呼んでいいかはわからないけれど、他者との関わりができた。その最たる例がこいつである。何かと僕につきまとっては、僕の事情などお構いなしに無理やり引っ張って何処へなりと連れていく。今日もまた、放課後にカラオケに行く約束を取り付けられた。まぁとにかく、騒がしい奴である。
「んだよ、黙って」
「いーや、何も」
誤魔化すように息を吐いて、ひらひらと手を振った。それを「言いたいことがあるならはっきり言え!」と彼は僕の首に腕を回す。苦しくはなかったが僕が降参するまで離してくれそうになかったので、ギブギブ、と叩いてやれば、あっさりと腕を引っ込めた。
「……それで?なーにシリアスな顔してたんだ?」
「別に、何もないって」
そう返すも納得はしてもらえず、また首に手を回そうとする彼に、僕は両手を上げた。
「わかったわかった。言うからやめろ」
「ふっ、軟弱者め……」
訂正しよう。騒がしいだけじゃない、面倒な奴だ。
「くだらないことだよ。なんていうか……現実味がないんだ。夢心地っていうか、夢の中みたいな」
「何がだよ」
「今がだよ」
最近、ふとした時に思う。
今の自分はあまりにも恵まれすぎている。こうやって友達(?)ができて、充実した生活を送って。
一人でいる時間が減った。その分だけ、孤独感も減った。
一人には慣れていたし、一人の時間は好きだったけれど──今の方が、もっと好きだとハッキリと言える。
でも、そんな日々に晒されていると、不意に怖くなる。
本来の僕ならば、孤独に生きて孤独に死ぬ存在なんじゃないか。誰にも愛されることなく、世界から消えるべきなんじゃないか。そんなことを考えては、頭の中がぐるぐると回っている。
「お前──今頃中二病か?」
一頻り話を終えて、返ってきた言葉がそれだった。
こいつに話した僕が馬鹿だった。なんでこいつにこんなことを話してしまったんだと、後悔して頭を抱えた。
「うるせぇよ……」
「おっ、お前が悪態をつく姿とかレアじゃん。写真撮っとこー」
「ぶん殴るぞ」
拳を構えた僕に、スマホを取り出していた彼はごめんごめん!と軽く謝って、スマホをポケットに戻していた。その様子を見届けて、僕もようやく拳を下ろす。人生で初めて人をぶん殴るところだった。
そんな馬鹿みたいな応酬のあと、疲れた顔でため息を溢して空を見る。
「つうかさ、お前は深く考えすぎなんだよ」
同じく空を見上げて彼は、そんなことを言った。
「いいじゃないか、幸せだって」
「……」
「まあ、そう思えないから悩んでるんだろうけどな」
彼の言葉に僕は押し黙る。能天気で、無遠慮で、普段は人の心に裸足でずけずけと入り込んでくる奴だけど。それでも、僕は一緒にいて苦だと思ったことはない。憎めないとかじゃなくて、なんていうか、信頼してるんだと思う。
「で、お前何聴いてんの?」
「今更かよ。つうか今かよ」
なんでこのタイミングで話切り替えられんの?しかも割とどうでもいいようなことに。やっぱりこいつの相手をしていると辟易としてくる。
「いいから教えろよ、俺も聴くから」
彼は再びスマホを取り出すと、音楽アプリを開く。検索欄のところに指を添えて、僕の返答を待っていた。
わざわざ訊かなくても、わかってるだろうに。
「月見ヤチヨのremember」
「お前ほんと好きだよなぁ」
やっぱりわかりきっていたような反応に、僕はため息をひとつ溢した。こんな無駄なやりとりも少しだけ意味があるのかな、なんて考えては、やっぱりあるわけないなと思い直す。
彼はすぐに検索をかけて、その曲を再生した。普段はうるさいくせに、曲を聴いてる間は随分と静かなもので、僕も僕でその曲に聴き入っていた。
「大切な──メロディは──流れてるよ──あなたのハートに──」
僕らの間を通り過ぎていく歌声に耳を傾けて、歌詞を口遊みながら空を見上げた。白い月が、真昼の空に浮かんでいる。それが儚くて寂しげで、不思議と何かが込み上げてきた。
「えぇ……なんで泣いてんのお前」
曲が終わると、隣で一緒に聴いていた彼はドン引きしていた。
「うるせぇやい……」
僕も僕で引いている。なんで泣いてるんだ、僕は。
「まぁ、泣くほど心に響く曲なんてそうそう出会えない。良かったじゃないか」
「カメラ向けながらかっこいいこと言うなよ……」
泣きながらに軽く小突いてやれば、彼は「いてぇー」なんて笑いながら痛がる素振りを見せる。その様子に自然と笑みが溢れて、二人して笑い合った。
気がつけば涙はとっくに乾いていて、短く吐いた息が空に消えていく。僕の心も空に浮かびそうなほど、軽くなっていた。
「そろそろ戻ろうぜ」
彼は立ち上がると、校舎の方を指さして振り向いた。ちょうどよく、予鈴が鳴る。
「ああ」
僕もまた立ち上がって、彼の後ろをついていこうとして──瞬間、突風が視界を奪う。
次、目を開けた時。全てが夢だった──なんてことはなく、待ちぼうけた彼が遠くで「何してんだよー」と叫んでいた。
僕は駆け足で隣に行き、そのまま並んで歩く。こうしていると、昔の自分がいかに他人に背を向けて、下を向いて生きてきたのかがよくわかる。
本来ならば、僕の人生は他人と交わることはなかった。孤独に生きるだけの人生から救ってくれたのは、この曲を届けてくれた月見ヤチヨのおかげだ。
だから今日もまた、僕は同じ言葉を吐き捨てた。
「やっぱりヤチヨは神だな」
「なんだ急に、やっぱり中二病か?」
「違うって」
めでたしめでたし
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