あれから、僕は当てもなく彷徨い歩いた。
──誰かに会いたい。
何も知らぬ場所で目が覚めて、死すら許されていないとわかった今、世界に一人じゃないと思いたかった。
草原を、山岳を、砂漠を、海原を。人の痕跡を求めて、旅をした。受け止めきれない現実を前に、逃げ出していただけなのかもしれない。それでも、そうでもしなければ、僕は本当に独りになってしまいそうで。
ひとりの夜、見上げる宙は、ずっと遠くにあった。
どれほどの年月が経ったのか、時間の感覚はもはやまともに機能していない。そもそも、元から機能していないようなものだったが、そのうえで忘れてしまえるほどの時間が流れていた。
僕の見た目は何一つ変わっていない。老いすら手放してしまった僕は、まだ人間と呼べるのだろうか。そんなことを考えながら、今日も無駄に息をしていた。
それは、ひたすらに川沿いを歩いていた時のことだ。
生命を維持するために必要な水。人間も、生物である以上例外でなく。ならば、水辺を生活圏にしているのではないかと考えて、痕跡を探していた日のこと。
ふと見上げた空に、細い煙が立ち上っていた。
「──っ!」
気がつけば、僕は走っていた。
縺れそうになる足を前へ押し出して、草木を掻き分け煙の根本を目指した。胸が高鳴る。何年振りか、何十年経っていたか。孤独の中で目覚めてから、初めて会う人間。ようやくだ、ようやく人が──!
「あのッ──………っ!」
開けた視界の先。目に映るものは人の形をして人の姿をした紛れもない人だった。──なのに、違和感が僕の歩みを止める。
「──」
「──?」
彼らの纏う服は粗末な物だった。麻を編んだのか、見窄らしい布切れだった。
彼らが交わす言語も聞き取れない。節々に読み取れるモノはあるが、強い訛りのような言葉が僕の知る言語に変換されない。
そして視界の端に映る、土器、土偶、竪穴式の住居。かつて教科書で見た、昔の遺物。
僕の脳内に、ある仮説が立つ。
一つは、僕が目覚めるまでに一度文明が滅んでしまった可能性。
不老不死である僕は、母に一度殺されてから目覚めるまで、どれだけの時間があったのかわからない。単純に僕が眠っている間、世界は一度終末を迎えた可能性がある。
そしてもう一つは、僕が過去に来てしまった可能性。
彼らの服装から言語に至るまで、僕の知る縄文時代の暮らしに酷似している。僕が目覚めた場所の詳細は定かではないが、もし僕が死んだ場所と同じ場所で目覚めたとして、ここが日本だというのなら。人と全く出会えなくても不思議ではない。
現実離れした想像だった。けれど、自分という存在が現実とは程遠い場所に生きていた。
──僕は、過去に来てしまったのか。
嬉しいはずだ。ようやく、人に会えたんだ。嬉しくて、涙が出るはずなのに……僕の身体はずっと重く沈んでしまう。
膝から崩れた僕を、彼らは警戒しながらも近づいてくる。ああ、なんて言ってるのだろう。何か、心配してくれているのだろうか。わからない、わからないけれど、もうなんでもよかった。
僕は彼らを横切って、近くの海へと身を沈める。意味なんてない。そこに、救いはないと理解している。
ただ、今は。
熱を持った頭を、少しでも冷ましたかった。
それから、僕は彼らの村で共に暮らすことになった。
一際大きな家を建ててもらい、その中央に鎮座して、ただ無意味に空を眺める日々を送っていた。
彼らは僕に畏怖の感情を抱いている。それも当然だった。一度死んだ人間が、何事もなかったように息を吹き返したのだ。彼らからすれば、僕はもはや人ではない。神か、或いはそれに類する存在。
祈るように頭を垂れ、供物として食物を捧げられる。そんな光景は、もはや日常の一部となった。
だが、僕が求めているのはそんな暮らしではない。時代を遡れど、変わらず孤独だなんて。人に会えば、この寂しさを紛らわせると思った。寂しいなんて言葉では、言い表せないこの傷を。癒してくれると思っていたんだ。
更に、月日は流れる。
僕を村に招き入れ、崇め奉った彼らと世代が交代した頃。浜辺の月がよく見える場所で、僕は歌を歌っていた。
孤独な僕にとって、歌は救いだった。言葉の通じない彼らにも、この歌ならば届いてくれる気がして。朝も夜も、僕は何度だって歌った。かさぶたが剥がれるほど歌った。
そうして、何度目かの朝を迎えた頃に。
「──ねぇ!」
漣の音に乗って、言葉が届いた。
それは村の人間とは異なる言語──僕には馴染み深い、音の重なりだった。懐かしい。ともすれば、自分の幻聴だと思ってしまうほどに。
「お願い、聞いて!」
再び聞こえたそれは、悲痛の叫びだった。迷子になった幼子が、声を振り絞って助けを求めるような、そんな声だった。
僕は辺りを見回して声の主を探し、人影が見えないことを確認してようやく、それが足元にいた生物から発せられたのだと気付いた。
「お願いだから、私に気づいてよ……!」
「気づいたよ」
疑問が絶えなかった。なぜ、動物が喋れるのか。なぜ、その言語を使えるのか。なぜ、そんな悲しそうな声で叫ぶのか。わからなかったから、わかることだけを確かめて、安心させる言葉を吐いた。
「君だろ、今の声は」
「あっ……」
恐らくウミウシ──?っぽい生物を両手で優しく包み込んで、眼前へ掲げる。その小さな目と、視線を合わせるように。
「──っ!」
本当は、会話が通じる相手に出会って、泣きたいほど嬉しかった。それが助けを求める声だとしても、僕は喜ばずにはいられなかった。いっぱい、話したいことがある。自分一人じゃとてもじゃないが抱え切れないほどの孤独を、誰かと分かち合いたくて。
でも、堰を切ったように溢れ出るこの子の涙を、先に止めたかった。
それから、彼女は一頻り泣いたあと、嗚咽混じりに言葉を紡いでいった。
「わたしは、かぐや……ちょっと長くなるけど、聞いてくれる?」
ずっと昔──或いは、今よりずっと未来のこと。
月の仕事を放って憧れの地球に来た彼女は、大切な人と出会い、かけがえのない毎日を過ごしていた。そんな中、月からお迎えが来ることになって、それを仕方ないと受け入れていたけれど。地球で出会った人たちが協力して追い払おうとしてくれて……だけどもやっぱりどうしようもなくて。結局月に帰った、その後のこと。
社畜となった自分の元に地球から聴こえてきた、自分のための歌。それを聴いて嬉しくなって、もう一度地球へ戻ろうと仕事をすぐに片付け、身代わりを用意し、準備を整えた。だけど、地球の時間は何十年と経っていて、大遅刻になってしまう。そこで月のテクノロジーで時間を超えて過去の地球に戻ろうとした。でも、その途中で隕石と衝突し、舟は致命的な損傷を受け、タイムトラベルに失敗。そうして辿り着いたのがここ──月に帰った時よりも遥か昔だった。
声も持たず、肉体もなく、思念体の彼女は今日まで独りで過ごしてきた。
「……ずっと、ずっと一人で!……寂しかった!もう、一生このままなんだって……!」
小さな体を震わせて、彼女は再び泣いた。今、話してもらったことが全てではないだろう。どれだけの絶望を味わい、どれだけの孤独を抱えたのか。それは彼女にしかわからないことを、僕はわかっていた。
「……僕も、同じだ」
「……え?」
今度は僕が話をした。
母に殺されて、気づいたらここにいたこと。
なぜか不老不死となって、死ねなくなったこと。
長い年月を一人で過ごして、ようやく最近人間を見つけたこと。
でも彼らとは言葉が通じなくて、孤独感に苛まれていたこと。
「……そっか。そうなんだ。私達、おんなじだ……」
僕の話を聞き終えて、彼女は噛み締めるように呟いた。
お互い、孤独に過ごした時間が長かった。老いることも死ぬことも許されず、意味もなく世界に存在し続けて。無数の傷はかさぶたとなって残った。だから、同じ痛みを抱えてる者同士、この広い世界で出会えたのは奇跡に等しいだろう。
「ねぇ、名前は?」
「……カナタ。名字は、覚えてない」
「そっか……カナタは、強いんだね」
「強くなんかないよ。……君に出会った時、本当は泣きそうだったんだ」
「えぇ〜?ほんと〜にぃ?」
「本当に」
それから僕らは、話を続けた。
「そんでさ、もうパニック!私の体は!?ってなって!」
「うん」
「誰だよこの舟設計したやつ!……って思ったら私だった」
「あはは」
かさぶたになった傷跡を癒すように。
「人だ!って思ってさ、近づくだろ?」
「近づくね〜」
「なんて言われたと思う?」
「うーん、敵襲だー!とか?」
「それがね──なんて言ってるのかわかんなかった」
「ぷっ!あはは!」
心を覆う薄氷を溶かすように。
「歌が聞こえてさ、私も、心の中で歌ってたから……幻聴かと思ったんだけど」
「僕も、話しかけられて幻聴だと思ったよ」
「……やっぱり誰かと話せるっていいねぇ」
「ほんとにね」
最後に言葉を交わしてから幾年もの歳月を経て。僕らはとりとめもない会話を、一言一句噛み締めた。
心地良かった。誰かとの他愛もない会話が。時間なんていくらでもある。今はただ、この喜びを分かち合っていたい。
やがて、夜の帳が下りて空へ月が昇る。
数時間ぶりの静寂が訪れた。けれど、今までのような寂しさは感じない。何か考えるように瞼を閉じていたかぐやは、徐に口を開いた。
「……私、さ。何度も死にたいって思ったの」
「うん」
「ひとりぼっちが寂しくって。どんなに強がっても、やっぱり、ひとりは嫌でさ」
「……ああ」
「こうして、誰かと居られるの、いいなぁって思った」
ウミウシの体を通して、膝を抱えて蹲っている少女の姿が見えた──気がする。
「ずっと……一緒に、いてもいい?」
潤んだ瞳の奥。不安が滲んでいる。断られたらどうしよう、と思っているのだろうか。
これから僕らは、途方もない時間を生きていく。幾重もの出会いを経て、孤独を強いられる。孤独は何よりも耐え難い苦痛だ。耐えられないから、かぐやはそんな提案をしたのだ。たとえ、履行されることのない約束であっても。この募った痛みが少しでも癒せるのならと。気休めでもいいから答えを求めているのだ。
ならば、僕の返事は決まっている。
「ああ、ずっと一緒だ」
叶えられるかもわからない願いを、叶えたいと思う傲慢さを。言葉にして吐き出した僕は、間違いだと思わなかった。
「……約束だよ」
そのおかげで、彼女の涙は止まったのだから。
かぐや(ウミウシのすがた)ってどこまで発話できるんだろうなと思った今日この頃。