朝靄が薄く差し込む部屋の中で、重く閉ざしていた瞼を薄らと開ける。蔀戸を挟み、庭の立木に小鳥が鈴生りになっていて、楽しそうに囀っていた。
ああ、朝か。
時計のない時代に、ぼんやりと滲む藍色を眺めていると、不意に布団がもぞりと揺れる。
「……」
小さな何かが布団の中を這い回る感覚。見なくてもわかる。こんなことするのは一人しかいない。
しばらくすると、胸元の辺りからひょっこりと顔が覗いた。
「おはようカナタ!」
朝日を浴びて反射する彼女の瞳が、キラキラと輝いている。
「……おはよ、かぐや」
その眩しさに再び閉じようとする瞼を無理やりこじ開けて、掠れた声で返すと、悪戯が成功した子どものようにかぐやは嬉しそうに笑った。
「今日はなにしよっか?」
「そうだな、まずは退いてくれ」
「ちぇ〜」
しぶしぶ、と言った様子でかぐやは布団から這い出ていく。それを見送って、ようやく起き上がれた僕は欠伸を挟んで庭へと移動すると、井戸から汲み上げた地下水を桶に張り、手で掬って顔にかけた。
「つべたっ!」
声を上げたのは僕ではなくかぐやだった。
隣を見れば桶に体を浮かべるウミウシ。ウミウシなのに冷たいと思うのか甚だ疑問だが、とりあえずスルーしておく。
それから、火を起こす隣で同じように息を吹き、湯を掻き混ぜる隣でくるくると回り。僕が何をするにもかぐやは着いてきた。
「なぁ、かぐや」
「ん〜?」
「……いや、なんでも」
「んー」
間延びした声で惚けてみせるかぐやにそれ以上は言及できず、睨めっこのように視線だけが交差する。
「……ん!」
先に痺れを切らしたのは彼女のようで、少し怒ったように語気を強めた。ん、としか喋っていないが、存外わかるものだ。
「……はいはい」
僕は観念して体を伸ばすかぐやを拾い上げ、そのまま肩に乗せた。
「よーし、レッツゴー!」
無邪気に騒ぐ彼女と、その重さには随分と慣れてしまって。僕は文句のひとつも出ずに苦笑を浮かべるだけだ。
こうして今日もまた、僕らの一日が始まった。
朝食を終えて、身支度を整えたあと。僕らは町へ向かった。
「落ちたら危ないぞ」
「へーきだよ」
肩に乗ったまま揺られるかぐやは、上機嫌そうに鼻歌を歌う。それが僕の眠気を誘って、大きなあくびが出た。
「眠そうだねカナタ」
「おかげさまでね」
なんて、皮肉もかぐやはどこ吹く風で、唇を尖らせて掠れた音を出す。下手くそな口笛だ。思わず、ぷっと声が漏れた。
「あっ、笑ったな〜!」
かぐやは拗ねるように首筋を叩いて、僕は礼儀として痛がる素振りを見せた。
そんな他愛のないやり取りを往来でしているものだから、人々の注目を集めてしまって。視線に気づいた僕らは、照れ臭くなった駆け足でその場を離れた。
町の中心から外れた広場に到着すると、かぐやはぱっと僕の肩から飛び降りた。ステージ、というにはあまりに質素だったが、彼女は木材の上に立つ。そして息を吸って、音を吐いた。
「──」
優しい音色が辺りを包む。
その歌声に釣られるように、広場の隅で遊んでいた子供達が一斉に駆け寄ってきた。
「──!」
音に乗った言葉を、小さな体が紡いでいく。歌詞の内容は子供達にはきっと伝わっていないだろうけど。歌い終えた彼女に向けられた拍手が、子供達の素直な感想だろう。僕も傍で、拍手を送る。
「よかったよ、かぐや」
「とーぜんっ!」
子供達に負けない眩しい笑顔でかぐやは応えてくれた。
それから、日が暮れるまで彼女は歌を歌った。一人、また一人と減っていく。それでも歌い続けて……最後の子供が帰ったところで、今日のライブは終了した。
「楽しかった!」
帰り道、僕の肩に戻った歌姫は、満足げな表情を浮かべていた。何もしていない僕も、どこか満ち足りた気持ちになる。
いつか、もっと大きな場所で聴いてみたい。なんて、思ったりして。
「カナタはどうだった?」
「楽しかったよ」
かぐやの問いに即答する。
僕が何かしたわけではないけれど、楽しそうに歌うかぐやを見ている時間が好きだった。
「そっか……うん。楽しかったねっ」
肩の上で、かぐやは嬉しそうに跳ねる。それを僕は落とさないように気をつけながら、また同じ言葉を繰り返した。
「カナタはさ、歌わないの?」
不意に問われて、少し逡巡する。
思えば、彼女の前で歌ったのはどれだけ前のことだったか。かぐやが歌を歌うようになってから、あまり自分で歌わなくなったな。せいぜい、天気の良い朝に口ずさむくらい。
「まぁ、人に聴かせるようなものじゃないから」
「えぇーっ」
「僕はかぐやの歌う姿を眺めているだけで十分だよ」
大袈裟に残念がってみせるかぐやにそう付け足すと、彼女は「そっか〜」と頬を綻ばせていた。なんというか、うん。ちょっとチョロいかな。
それからしばらく、僕らは二人で畦道を歩いた。
西の空は茜色に染まりきって、藍色の帷が少しずつ滲んでいく。通りに見える家家からは煙が立ち上っていて、夕餉の匂いが風に混ざっていた。
「明日は何しよっか?」
「また明日、考えればいいよ」
「それもそうだね〜」
なんて、軽い言葉を交わして、薄く伸びた影を辿るように帰路についた。
「ただいま」
「おかえりー」
意味のない僕の言葉を、かぐやが拾った。
「……一緒に帰ってきただろう」
「だって、返ってこないと寂しいじゃん?」
当たり前のようにそう言ってしまう彼女に、つい口許が緩んでしまった。
「かぐやがいると、毎日が退屈しないな」
そう言うと彼女は少しだけ目を瞬かせて、照れくさそうに笑った。
「えへへ〜、そうかなぁ?」
「そうだよ」
その様子を見ていると、胸の内があたたかくなった。
月並みな言葉ではあるけれど、かぐやは僕にとって太陽のようだった。一緒にいるだけで、明るくなれる気がした。
薄暗い部屋に明かりを灯して、僕は夕飯の準備を始める。
危ないから、とかぐやは降ろしたのだが、本人は少し不服そうにしていて、夕飯の準備をする僕の視界の端で縦横に動き回っていた。
鬱陶しいとは思わないが、よくもまぁ体力が有り余ってることだ。
そうして、味噌汁の味がばっちし決まった頃。いつのまにかかぐやの姿がないことに気が付いて、部屋の中を探す。ちゃぶ台の上、疲れていたのか、かぐやは寝息を立てて夢の中に旅立っていた。
「んぅ……かなたぁ……」
不意に名前を呼ばれて「かぐや?」と問うも、答えはない。どうやら寝言のようだった。
どんな夢を見ているのかはわからない。でも。どうか、幸せな夢であってほしい。そんなことを考えながら、僕は急いで食事を片して、布団を敷く。尚も起きる気配のないかぐやを慎重に運んだ。
「おやすみ、かぐや」
その声が届いても、届かなくても。また何度でも、同じ言葉をかけるから。
僕は彼女の体に布を被せて、蝋燭に揺らめく灯りを吹き消した。