イロハさんが戦車に詳しかったらいいなって……
「えぇ……直すのに時間かかるんですか?」
言った瞬間に、後悔した。
万魔殿の戦車長たるこの私が、整備士の前で情けない声を上げてしまった。なんとも締まらない。普段の私ならこういう局面でも表情一つ変えず、「では代替案を検討しましょう」と言えるはずだった。今日に限ってそれができなかったのは、疲労と焦りと、もうひとつ、口には出せない理由があったからだ。
ここはゲヘナ学園附属の機甲整備廠――正式名称を「万魔殿・風紀委員会共同機甲整備廠、第一整備棟管理区画」という、読み上げるだけでうんざりするほど長い名前を持つ施設の一角である。
その場所の雰囲気を説明しようとすると、どうしても嗅覚と聴覚に頼ることになる。視覚的には無骨なコンクリートと鉄骨の空間でしかないが、そこに充満する機械油と重油の混じった工業的な匂い、断続的に響くグラインダーの金属音、ガスバーナーの青白い火が鉄板を舐める高周波の鳴き声、ハンマーが装甲板を叩く乾いた衝撃音、そして頭上を行き来する天井クレーンのモーターが軋む規則的な唸り……それらすべてが合わさって、この場所を単なる修理工場とは一線を画す独特の世界として成立させていた。
整備棟の天井は二十メートルはあろうかという高さで、そこから無数の作業灯が吊り下げられ、人工的な白昼をコンクリートの床に投射している。床は機械油と研磨剤と何かの燃料の染みが幾重にも重なり合い、もはや何色だったのかを問うこと自体が無意味な状態になっていた。床面のあちこちに排水溝が走り、そこへ向かってわずかな勾配がついていた。整備台はスロープ式とピット式の二種があり、大型の戦車はスロープの上に乗り上げて下部に作業員が潜れるようになっている。
ここには、ゲヘナ学園の機甲部門を支える生きた頭脳と筋肉が集まっていた。
工場部の整備士たちである。
彼女たちは校内でも特殊な位置づけにある。万魔殿の戦闘力も、風紀委員会の機動力も、突き詰めれば彼女たちの技術と献身によって支えられている。銃は弾がなければただの鉄の棒だが、戦車はエンジンが動かなければただの鉄の棺桶だ。戦場での勝敗を決するのは車長の判断や乗員の技量ばかりではなく、出撃前にしっかりと整備を施し、帰投後に車体の状態を素早く評価し、次の出撃に間に合わせるだけの修理を完了させる整備士の能力に等しく依拠している。
その現実を最も肌で知っているのが、私の目の前に立つ生徒だった。
笹原クルミ。
ゲヘナ工場部所属、万魔殿の機甲部隊担当整備士。油染みのついた作業着のつなぎは何度洗っても落ちない染みが随所にあり、それ自体がこの子のキャリアの長さを物語っていた。作業効率を優先してか、ウエスは腰のポケットに差し込んであり、手首には使いこんだ革の作業手袋が巻かれていた。工具類はバインダーに挟んだ点検表と共に手元にある。
私が情けない声を上げた瞬間、クルミの表情が少しだけ変わった。
驚きではない。予測していた、という表情だ。
それはそうだろう、と私は思う。ここに持ち込まれた車両の状態を診て、オーナーが落胆しない方が珍しい。クルミはきっと今日も今日とて、複数の「診断結果の宣告」を経験してきた後なのだろう。
「申し訳ないっスよ〜……」
クルミはそう言いながら、手元のクリップボードに目を落とした。その仕草は形式的な謝罪ではなく、これから言うことの重さを整理する時間でもあるように見えた。
「こっちも今できる最善の手は尽くしたんっスよ。連絡もらってすぐに診断に入って、ざっと見るだけじゃなくて分解点検できる範囲はやったんっスけれど……正直に言うと、これは相当しんどいっスね。」
「ですが……いえ、虎丸の修理はどれくらいかかるんですか?」
私は反論しかけて、やめた。言ったところでどうにかなるわけではない。
「そうッスねぇ……順番に言いますッスよ。まず一番大きな問題は、クラッチとトランスミッションっス。」
クルミは点検表を裏返し、手書きで書き込まれた図を私に向けた。
「演習中に丘陵の稜線から相当なスピードで飛び出したじゃないっスか。あの着地の衝撃なんっスけれど……戦闘重量でいうとほぼ六十トン近い車体が、傾斜を駆け下りた速度のまま斜面から飛び出して、その全重量で地面に叩きつけられたわけっス。あの着地の瞬間にかかった衝撃荷重がどれだけか、わかります?」
「わかりますが、だからこそ……」
「まあそうっスよね。」
クルミは私の言いたいことを察したらしく、穏やかに先を続けた。
「ティーガーⅠのトランスミッションはマイバッハ製のOLVAR……正式名称はOG 40-12-16っていう、油圧プリセレクター式のセミオートマチック変速機っス。前進八速、後進四速の構成で、ギア選択はレバー操作に連動した油圧回路で自動的に行われる……設計としてはかなり洗練されてるんっスよ。でもこいつ、動力経路的に弱点があって、急激な衝撃荷重が入ると油圧システムの各バルブと、歯車噛み合い部分に一点集中で負荷がかかるんっス。」
「…端的に。」
「クラッチが逝きました、変速機もおそらく内部損傷ありっス。」
私は少し息を吸った。
「クラッチはヘンシェル製L600C操向変速機と一体で機能してる湿式多板クラッチっスけれど……多板の摩擦材が逝くと、動力伝達どころか操向もできなくなるっス。変速機の内部については分解しないと詳細はわからないっスけれど、外から触った感触と異音の出方からして、すくなくとも一か所以上の歯車が損傷してると思った方がいいっスね。」
「……そして足回りの汚損。」
「正解っス。ティーガーⅠの転輪は独特の千鳥配置、つまり車体前から後ろにかけて複数列で重ね合わさるように並んでるんっスよ。片側で縦に最大四列まで重なってるやつがあるっス。接地圧を分散させるための設計なんっスけれど、悪路走行で隙間に泥とか小石、植物の破片なんかが入り込むと、この多重構造がかえって仇になって、詰まりを取り出しにくくなるっス。今回の演習、結構な悪路を突っ込んでましたよね?」
「……はい。」
「目視確認した限りでも、内側の転輪と外側の転輪の間に相当な量の泥と砂利が噛んでるっス。放っておくと転輪を傷めたり、履帯の噛み込み不良を起こすッスから、全部こそげて掃除しなきゃいけないんっスよ。片側だけで転輪が最大八輪、それが千鳥で重なってるッスから、内側まで全部アクセスするとなると……まず外側の転輪を全部外して、それから内側に手を入れる。左右合わせると、一輪一輪のボルト締め直しを含めて下手したら半日仕事っス。」
「……む。」
「さらに。」
クルミは点検表の別の箇所を指さした。
「エンジンっス。後部に積んだマイバッハ HL230 P45……V型十二気筒、排気量二万三千cc、最大出力七百馬力のやつっスね。こいつは液冷式なんッスけれど、あれだけの急機動と悪路走行でエンジン高回転を維持し続けたッスから、診断したときにはオーバーヒートの寸前だったっス。」
「……どのくらい?」
「冷却水の温度を測定したら……あと一〇分から一五分走り続けてたら、オーバーヒートでエンジンが止まってた可能性があるっス。エンジンルーム内に熱こもりが発生してたっス。」
私は目を閉じた。一〇分だったかもしれない、という事実は、知ると知らないとでは大違いだ。
「人間に例えるならどういう状態ですか?」
「ほぼ死人が救急搬送されてきた感じっス。しかも外科と内科と整形外科を同時にやらなきゃいけない状態で、なんならICUに入れたほうがいいかもしれないレベルっスよ。」
「……解剖的には?」
「クラッチと変速機が外傷性損傷、転輪周りが骨折とすり傷、エンジンが高熱と過労の複合っス。どれか一つならまだしも、これが全部一度に来てるッスから。」
「最悪ですね。」
「イロハさんが言うのかそれ」
「…さて。どうにかなりませんか?」
私は感情を押し込め、現実的な話に切り替えた。整備士に愚痴を言い続けても、虎丸のトランスミッションは直らない。
「そンな魔法、持ってないっスよ。ミレニアムのマイスターじゃないんっすから。部品がすぐ手に入れば話も変わるんっスけれど……」
「部品が、手に入らない事情があるとか?」
「あるんっスよ、これが。」
クルミは少しだけ苦い顔をした。
「今回の演習、虎丸だけじゃなくて、似たような症状の同型車が五輌以上入庫してるっス。全部ティーガーⅠで、足回りかエンジン周りかトランスミッション関連のどれかが、一種類以上やられてる。しかも今日の朝、またあの愉快犯から予告が来たらしくて……爆破予告か生体兵器バラマキ予告か、どっちかは確認中らしいっスけれど、とにかく生産工場棟が風紀委員会の封鎖調査中なんっスよ。」
「……封鎖中。」
「そうっス。封鎖されたらパーツの生産もできないんっスよ。在庫に関しても、今月分はすでに別の修理に使っちゃってて……いつ封鎖が解けるかも、いつ生産が再開されるかもわからないっスね。修理の順番としては、虎丸さんは……正直に言うと、結構後ろのほうになるっス。申し訳ないっスけれど、今この瞬間に走れる状態にするのは、どう頑張っても無理っス。」
私はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
クルミも何も言わなかった。整備士と車両オーナーの間に、言葉の要らない沈黙が落ちた。
「……というか、イロハさン。」
先にクルミが口を開いた。
「万魔殿の戦車長殿が、なんでこンな無茶な真似を……?」
純粋な疑問、という声のトーンだった。責めているわけではない。むしろ、本当に疑問なのだろう。そしてその純粋さが、私には一番刺さる。
「うっ……。」
私は思わず呻いた。
この感触は、なんと表現すれば正確だろうか。正面から剣を向けられるより、無意識に投げられた石が急所に当たる方が、ずっと痛い。
しかし状況を説明する義務は、ある。
今回の演習は、万魔殿のティーガーⅠ大隊と、風紀委員会の天雨アコが指揮するⅣ号戦車D型大隊による定期的な戦術演習だった。
ここまでは通常通り、何も問題はない。万魔殿と風紀委員会は定期的にこういった演習を行っており、役割上敵対関係にあってもその中で双方の能力を維持・発展させる機会として機能していた。いつもなら私は万魔殿側の指揮官として参加し、適度なところで手を抜きながら五分五分の結果にうまくまとめるか、あるいはその日の気分と条件次第でどちらかが勝つかという、概ね予測可能な範囲の結果に収まる。
しかし今日だけは、根本的に違う条件があった。
シャーレの先生が、観戦に来ていたのである。
しかも私には事前に何の知らせもなかった。演習が始まってから、観戦スペースに先生の姿を見つけた私は即座に隣を確認し、そこにマコト先輩が胸を張って座っているのを見て、すべてを理解した。あの人が、私に黙って先生を招待したのだ。「どうだゲヘナの機甲はすごいだろう!」という、マコト先輩にとっては当然の、他の誰から見ても大げさ極まりない演出である。
問題は、その光景を見た瞬間に、私の中の何かがスイッチを入れてしまったことだった。
先生に、いいところを見せたい。
万魔殿の戦車長として、指揮官として、この演習で実力を示したい。
普段ならそういった感情は、「めんどくさい」という万能の言葉で処理できる。だが今日に限って、その処理が間に合わなかった。気づいたときには私は虎丸を急傾斜の丘陵頂上に向けており、アコの部隊を奇襲するべく稜線ギリギリまで加速していた。
発想は悪くなかったかもしれない、と今でも少し思う。アコは優秀な指揮官で、正面からの撃ち合いでは容易に凌駕できない。側面や後方への迂回奇襲は、理論上では有効な選択肢だった。
しかし理論と現実は違う。
戦闘重量ほぼ六十トンの鋼鉄の塊が、傾斜した稜線から高速で飛び出し、その全重量と速度を地面への衝撃として受け止めた。トランスミッションが悲鳴を上げた。クラッチが苦情を申し立てた。悪路を強引に突破する過程で転輪の間に泥と砂利が噛み込んだ。限界まで回し続けたエンジンが、冷却の追いつかない体温上昇の危機を訴え始めた。
最終的に、動きの鈍くなった虎丸はアコのⅣ号戦車大隊の集中砲火を受けて行動不能になった。
指揮官が真っ先に抜かれるとはなんとも。
演習の結果は万魔殿の完敗で、マコト先輩は絶句し、ヒナさんから丁寧に嫌味をいくつか受け取り、先生は何か言おうとして言葉を探していた。私はというと、先生と目を合わせることができなかったので、修理という名目で真っ先に戦場を離れた。
撤退とも言う。
「……なんとなく、いいところを見せようとして、つい。」
「あー……」
クルミが、何かを深く理解したという表情で「あー……」と言った。それ以上は何も言わなかった。その沈黙は、ある意味で何よりも雄弁だった。
「……どうにかなりませんか?」
私は現実的な問いに戻った。感情整理は後でいい。
「さっきも、言ったっスけど、そンな魔法、持ってないっスよ。ミレニアムのマイスターじゃないんっスから。」
クルミは苦笑しながら言い、それから少し思案する間を取った。
「あー……でも、そうっスねぇ。ちょいっと訳ありの珍しい代車なら、用意できるっスけど。」
「訳あり。」
「そうっス。」
「……どんな戦車ですか?」
「ちょっと前に、工場部のポルシェ一派って自称する車作りのうまいヤツらが、趣味と研究を兼ねて作り上げた試作戦車っス。なんでも、ガソリンエンジンで発電機を回して、その電気でモーターを動かすっていう、いわゆるガス・エレクトリック方式のハイブリッド戦車らしいんっスけれど……試走会でそのフォルムに魅了されて一部の人間に大人気になったんっスよ。でも信頼性がクッソ悪いし、現代っ子には……というか、ゲヘナ的な意味での日常業務に致命的な欠点があるもんで、パンデモニウムも風紀も使いたがらなくって、あの試走会以降は倉庫で埃かぶってるしろもんっス。」
私はその説明を聞きながら、頭の中で整理した。
ガス・エレクトリック方式。ガソリンエンジンで発電し、電力でモーターを駆動する。変速機が要らない、操向がスムーズになる。その代わり、エンジンの発電能力と冷却問題が発生する。通信機器への干渉も考えられる。
「……とりあえず案内してください。」
「アイアイっス。こちらっスよ〜。」
クルミは手元のクリップボードを近くにいた別の整備員に預け、私を先導して歩き始めた。
私はポケットに両手を突っ込み、その後についた。移動は面倒だが、代車を確保できる可能性があるなら動く価値はある。ここから万魔殿の本部まで徒歩で帰るよりも、どんな事情のある車両であれ、動ける戦車に乗る方が現実的だ。
整備廠の中を移動しながら、私はその光景を改めて眺めた。
何度来ても、慣れることがない。
ゲヘナ学園の機甲整備廠は、表向きの規模よりはるかに大きい施設だ。外から見れば単に巨大な建物がいくつか連なっているだけに見えるが、内側に入ると迷路のように整備棟が続いており、それぞれに専門の役割が割り当てられている。エンジン整備棟、足回り整備棟、砲塔・火砲整備棟、電装系整備棟、車体構造修理棟……それぞれが専用の工作機械と診断設備を持ち、それらが複合的に連携して大型機甲装備の維持を可能にしていた。
現在稼働中の整備棟の多くは、大扉が開け放たれていた。
その向こうから、今日の戦利品ならぬ今日の修理品たちが見えた。
まず目に入ったのは、風紀委員会の主力戦車、Ⅳ号戦車D型だ。
全長は砲身込みで六メートル八十センチ、戦闘重量二十・三トン。主砲は短砲身の七・五センチKwK37 L/24を搭載しており、その短くて太い砲身がティーガーⅠと並ぶと可愛らしくすら見える。しかし風紀委員会の手に渡ったこれらのⅣ号D型は、風紀委員たちの機動力と組み合わさって、あのアコ指揮下では相当の脅威になる。設計自体は三十年代後半の産物とはいえ、整備が行き届いており、実際の演習でもきっちりと機能することは今日証明されたばかりだ。
今この瞬間、エンジンデッキの格子カバーが外されていた。
水冷十二気筒のマイバッハ HL120 TRMが剥き出しになっており、整備士がオイルフィルターの確認をしていた。演習で勝利した側の車両でも、予防整備は欠かさない。むしろ勝利した側こそ、次の演習に備えて完璧な状態を保つ義務がある。
隣の棟では三十八t軽戦車が二輌、横に並んで整備を受けていた。
チェコスロバキアのČKD社が設計し、ドイツが利用した軽戦車だ。重量九・七トン、最大装甲厚二十五ミリ、搭載砲は三十七ミリという軽量な車両で、現代の重装備と単純比較すれば圧倒的に見劣りするが、この車両が持つ意味は数字だけでは語れない。リベット打ちの外板、チェコ特有の設計思想が生んだクリスピーな形状の車体。まだ航空機が複葉機から単葉機に移行する時代に作られた戦車が、こうして整備され走れる状態に保たれているのは、それ自体が何らかの意志の産物だ。
一輌は左前の転輪を完全に外して交換中で、もう一輌は操縦室内の計器類の点検を受けていた。整備士が小型のトーチライトを手に、狭い操縦室に上半身を突っ込んでいる。
その先には、Sd Kfz 247装甲指揮車が一輌。
四輪駆動のオープントップ式装甲車で、車体上部は開放されており、そこに取り付けられた各種アンテナが今日も上を向いている。防護力は最小限で、装甲板は最大で八ミリという薄さだが、それは指揮用途に割り切ったトレードオフだ。機動性と通信能力を最大化するために、防御は最低限まで削ぎ落とされている。整備士がアンテナ基部の接続を確認しながら、何かをメモしていた。
万魔殿のフンメル自走砲が整備棟の奥に一輌、停まっていた。
フンメルとは「マルハナバチ」を意味するあだ名で、正式にはSd Kfz 165、一五センチ重野戦榴弾砲sFH18/1搭載自走砲という。三号戦車と四号戦車の部品を組み合わせた複合車台の上に、巨大な榴弾砲が座っている。全長は砲身込みで七メートル十七センチ、戦闘重量二十四トン。砲弾の有効射程は最大一万三千メートル近く、これ一輌で広い範囲の目標を砲撃できる。
今日は砲尾周りの洗浄と作動点検が行われており、整備士が二人がかりで砲腔の清掃棹を操作していた。砲を撃った後は必ず清掃が必要で、炸薬の残滓と金属粒子を丁寧に取り除かないと次弾の精度に影響する。地道な作業だ。
ヴィルベルヴィント対空戦車も隣の棟にいた。
四号戦車の車体に、フラクフィアリング38という四連装二十ミリ対空機関砲を乗せた対空戦車だ。砲塔はオープントップで、その中に四本の機関砲がぐるりと旋回できる状態で据え付けられている。空に向かって砲口を向けた状態のまま停車しており、今は機関砲の分解整備中で、部品が整備台の上に整然と並べられていた。射撃後の洗浄と給弾機構の点検、そしておそらく標準的な消耗品の交換が行われているのだろう。
Sd Kfz 250半装軌車が二輌、外の通路に並んでいた。
前輪二輪と後部の小型履帯で走行するハーフトラックで、軽装甲の下に通信機器や補給物資を積んで機動する用途に使われる。小型のわりには意外に用途が広い。今日は一輌が足回りの点検、もう一輌は無線機周りの調整を受けていた。
施設の外では、L4500大型トラックが補給物資を積んで一輌が通り過ぎていった。四・五トンの積載能力を持つ頑丈なトラックで、整備廠間の部品や資材の輸送に使われている。重そうな荷物を積んでいるのに、運転している生徒は慣れた様子でゆったりと操縦していた。
そのトラックをすり抜けるように、ケッテンクラートが素早く走っていった。
「バイクの前輪に半装軌の後部をくっつけました」という見た目を裏切らない、まさにそういう構造の小型車両で、正式名称はSd Kfz 2。一輪の前輪と後部の二本の小型履帯で走行する。操縦はバイクに近く、前輪の向きで進路を定めながら、履帯で駆動する。車体が小さいため、整備廠の狭い通路でも縦横無尽に動き回れる。今日も何か急ぎの用件があるのか、整備員がやや前のめりになった姿勢で駆り、角を曲がっていった。
より重い牽引が必要な場合に登場するのがSd Kfz 8重半装軌車だ。
十二トンの牽引能力を持つこの大型ハーフトラックは、動けなくなった重装備を引きずり出すための専用機材と言っていい。今日はフンメルを整備棟まで引き込む作業を終えたらしく、巨体をエンジン棟の端に停めてアイドリングを切ったところだった。
「忙しそうですね。」
私は周囲を眺めながら言った。
「んー? あぁ、まあそうっスね。」
クルミは少し考えてから言った。
「演習があったっていうのもあるっスけれど、うちはもともと多忙なんっスよ。万魔殿と風紀委員会の戦車と装甲車一式を担当してるじゃないっスか。さらに救急医学部の救急車とトラック、温泉開発部の掘削機と重機類まで受け持ってるっスから、基本的に稼働率一〇〇パーセントを下回ることがないんっスよね。」
「……そのわりに言い方が随分と淡々としてますね。」
「慣れましたっス。というか慣れないと体がもたないっス。」
整備士の慢性多忙、というのはゲヘナでも周知の事実だ。万魔殿はもちろん、風紀委員会も救急医学部も、それぞれ相応の予算を工場部に払っているし、温泉開発部に至っては重機使用料という形でしっかり費用を負担している。ゲヘナで最も安定した収益を上げているクラブを問われれば、工場部と答える者も多いはずだ。
「……いつもお世話になってます。」
「いえいえ! 万魔殿にはたくさん払ってもらってるっスし、遠慮なんてぜんぜんっス! それで……そろそろ着くっスよ。」
クルミの声のトーンが、わずかに変わった気がした。
気のせいではないと思う。整備廠の奥に進むにつれ、周囲の様子が変わっていた。
現役の整備棟から離れ、建物の隙間を縫うように進んでいくと、通路を行き交う整備員の数が減ってきた。外壁の塗装が古くなり、蔦が壁に這い上がっている場所もある。照明の設置間隔が広がり、昼間でも薄暗い。コンクリートには亀裂が入り、その隙間から雑草が伸びている。
そして施設全体の最も奥まった一角に、一棟だけ、際立って古い整備棟があった。
鉄骨造りの外壁は錆びついた鉄板で覆われており、経年劣化の赤茶色があちこちに滲んでいる。補修の跡が随所にあり、新しい鉄板が溶接で貼り合わされた部分と、元からある古い壁面が、色の違いで区別できた。大扉は分厚い鋼板製で、頑丈な南京錠がかかっていた。
……随分と、古い。
それでいて、なぜだろうか。
この建物の前に立つと、内側から何かが伝わってくるような感触があった。埃と機械油のにおいが、閉じられた扉の隙間から漏れてきていた。
「あの、ここは?」
「目的地っスよ。」
クルミは振り返り、軽い口調で言った。
「卒業した工場部の先輩方と、暇を持て余した一部の現役部員が私費で整備・改造してる、非公開の整備棟っス。工場部の関係者以外、立ち入り禁止にしてる場所っスよ。今回は、いつもお世話になってる万魔殿のイロハさんだから特別に案内するっスよ?」
クルミは南京錠に向かって手慣れた動作で鍵を差し込んだ。鍵穴がわずかに錆びているらしく、少しだけ力が要ったが、施錠は解除された。クルミが肩で重い鋼板製の扉を押し開けると、蝶番が何十年分もの苦情を一度に申し立てるように、長く重い金属音を立てた。
内側から、複雑なにおいが流れ出した。
埃。古い機械油。錆びた金属。揮発しかけた溶剤。そしてその下に、かすかに……エンジンが最後に動いた時の、燃料の残り香。
戦車乗りでなければ、これは苦痛だろう。
しかし私にとっては、これは戦場の端に近い匂いだ。戦車に乗る前の整備棟に漂う空気に、これは似ている。
「……入ります。」
扉の内側に足を踏み入れた瞬間、私の視界は一変した。
縦にも横にも広い空間だった。天井は外壁の古さと裏腹に高く、二十メートル近い高さまである。天井近くに細長い採光窓がいくつか設けられており、ほこりで曇りながらも昼間の光を通していた。加えて随所に旧式の白熱灯が設置されており、それらが黄色みがかった光を床に落としていた。
そして、そこに彼らがいた。
採用されなかった戦車たち。計画の段階で終わった戦車たち。試作の一輌だけが作られて倉庫に眠り続けた戦車たち。そして正規の量産車両でありながら、あまりにも大幅な改造を施された結果、もはや原形をとどめない異形となった戦車たち。
全員が、整然と、しかしどこか野性的な迫力を持ちながら、そこに静かに立っていた。
私はまず入口から見渡し、一輌ずつ確認した。
最初に目に入ったのは、正面に鎮座する、奇怪な多砲塔の塊だった。
NbFz――ノイバウファールツォイク。「新しい車両」という意味のドイツ語を略したその名前は、この怪物の見た目にはまったく似合わない地味さだ。全長は六・六メートル、重量二十三・四トン。車体の上に大小の砲塔が複数乗っており、中央の主砲塔には七・五センチ砲と三・七センチ砲が並列に搭載され、前後には七・九ミリ機銃塔まで備えている。「動く要塞」をそのまま実現しようとした設計思想の産物で、一九三〇年代の多砲塔戦車流行の象徴的な失敗作だ。しかし失敗作と呼ぶのには語弊もある。当時の設計者たちが真剣に、現代の戦場における戦車の役割を模索した末の産物であり、その模索の過程がなければ後の設計思想の洗練もなかった。
目の前の一輌は、塗装が剥げている部分があるものの、全体として丁寧な保存状態にあった。砲塔のハッチは施錠されているが、油脂の補充は継続されているらしく、各部の蝶番や回転部が固着していない。エンジンも生きているのかもしれない。
その隣にVK 1602レオパルトがいた。
一九四〇年代初頭に計画された偵察戦車で、重量約二十一トン、傾斜した前面装甲と大径転輪が特徴的なフォルムをしている。パンター戦車に通じる設計哲学の萌芽が見られるとも言われており、実現していれば優秀な偵察戦車になったかもしれないとする評価もある。しかし生産コストとスペックの面でより軽量な車両に対する優位が明確でなかったこともあり、試作段階で計画は中止された。ここにある車両は復元または後年製作のものらしいが、細部の処理が丁寧で、傾斜した装甲板の溶接品質も高い。
VK 3002(DB)。
ダイムラー・ベンツが提出した重戦車――後にパンターとして量産されるVI号戦車の前身設計の、ダイムラー案だ。有名な「T-34の影響を受けた設計」で、傾斜装甲と大径転輪、後方配置エンジン、後方起動輪という配置がT-34に酷似していた。実際にはMAN社案がパンターとして採用されたが、ダイムラー案の方が数々の点で先進的だったという意見もある。後方起動輪は地形踏破性能を下げるという問題があり、それが採用を妨げた一因とも言われるが……ここにある車両は、その「後方起動輪」を含む原設計に忠実に再現されているようだった。
シュトゥーラー・エミール。
「頑固なエミール」と呼ばれる超重自走砲で、ポルシェ設計のVK 3001(H)車体に、十二・八センチ砲を搭載したものだ。全体重量は概算で六十五トンを超え、砲塔上面のハッチから見える長大な砲身は車体から大きく張り出している。実際に製造されたのはわずか二輌で、東部戦線で運用された記録が残っている。ここにある一輌は……実物ベースの復元なのか、精巧な複製なのか、私には判断がつかない。しかしエンジンデッキのハッチが僅かに開いており、内部に新しいグリスが充填されているのが窺えた。動かせる状態を維持しているのかもしれない。
ディッカー・マックス。「太っちょのマックス」という愛称のこの自走砲は、VK 3001の車体に十センチ砲を搭載した重歩兵砲支援車両の試作型だ。上部には半開放式の戦闘室があり、そこから砲身が前方に伸びている。装甲は薄く、直接砲火への対応は期待されていなかったが、長射程の高い直接射撃能力で敵の固定陣地や戦車に対処することを目的としていた。製造されたのは二輌で、東部戦線で試験的に使用された後の記録は少ない。
ホイシュレッケ――「バッタ」。
一〇・五センチ砲を搭載した自走砲で、最大の特徴は砲塔(砲架ごと)を車体から切り離して地面に降ろし、固定砲台として使用できる機能だ。戦場で車両が機動しながら支援砲撃を行う「自走砲」の役割と、陣地に据えた固定砲台の役割を一つの車両で担えるという発想は独創的だった。しかし切り離し・設置の手順が複雑すぎて実用性に問題があり、これも試作段階で終わった。ここにある車両は砲架を降ろした状態で展示されており、地面に据えられた砲が独立した砲台のように見えていた。
そして正規量産車両を改造した異形の群れ。
ティーガーⅠを底部だけ残して別の砲塔と上部戦闘室に換装したらしい一輌は、元が何であるか判別できないほど外観が変わっていた。Ⅳ号戦車の車体に巨大な増加装甲板を溶接した一輌は、元の車体幅より三十センチほど広くなっている。さらに奥には、車体を延長して搭乗員スペースを拡大した車両まであった。
「ここは……工場部の夢の墓場、ですか。それとも夢の実験場?」
私は思わず口に出した。
「両方っスね。」
クルミは珍しく即答した。
「採用されなかった夢が眠っている場所でもあるし、工場部の先輩たちが自分たちの技術と情熱を注いで復元したり改造したりしてる実験場でもあるっス。ここにある車両は全部、何らかの形で工場部の人間の「もし実現していたら」を体現してるっスよ。あ、こっちっスよ。」
クルミに促され、私は異形の機甲たちの間を縫って進んだ。
どの車両も、近くを通ると特有の存在感を発していた。止まっているにもかかわらず、静止していない。冷えたエンジンから微かな金属の収縮音が聞こえ、古い機械油の匂いが鼻腔を刺した。作業灯に照らされた装甲板の面が、光の角度によって表情を変えながら、こちらを見返しているようだった。
眠っているが、起こせばいつでも動ける。
俺たちを走らせてみろ。そういう無言の主張が、どの戦車からも伝わってくるような気がした。
「イロハさン、そんなに見惚れてると日が暮れるっスよ。代車、見ないんっスか?」
「……ごめんなさい。」
私は我に返り、クルミが立ち止まった場所に目を向けた。
その戦車は、最初の一瞥では、ティーガーⅠかと思った。
見た目の第一印象は、確かにティーガーⅠだった。
いや、正確に言えば「ティーガーⅠに似ている」だ。正面から見ると前面装甲の傾斜と厚みはよく似ており、クルップが設計した砲塔の基本形状も近い。砲塔上面中央に据えられたキューポラの形状も、ティーガーⅠの初期型に近いものだ。そして何より、砲塔から前方に伸びる砲身。五十六口径八・八センチ KwK 36砲――同じ砲が、同じような姿勢で前方を向いていた。
しかしそれだけに、違和感が際立った。
「……砲塔が随分と前ですね。」
私はすぐに気づき、車体の側面に回り込んで確認した。
ティーガーⅠは砲塔を車体のほぼ中央に据えており、前から見ると車体の真ん中よりわずかに後方に砲塔が位置している。しかしこの戦車は、砲塔が明確に前半部分に配置されていた。車体全体の重量バランスが前のめりで、後部が重い。エンジンデッキ側が嵩張っている印象がある。
「正解っス、鋭いっスね。」
クルミが説明を始めた。
「こいつの機関配置が特殊なんっスよ。普通の戦車はエンジンを後部に積んで、そこからカルダンシャフトで動力を車体前部の変速機と操向機構に送るっス。でもこいつは、ガス・エレクトリック方式……つまり、エンジンで発電機を回して、その電力で電気モーターを動かすっていう方式なもんで、変速機を車体前部に置く必要がないんっスよ。代わりに何が後部に入ってるかというと……」
「エンジン二基と発電機二基と電気モーター二基、全部後ろ。」
「そうっス! よくわかったっスね。」
「エンジンが後部に集中してるなら、変速機の要らない前部は軽くなる。砲塔を前に配置しても重量バランスが取れる、ということですよね。」
「理解が早いっスね。まさにそういうことっス。」
クルミは続けた。
「正式な構成を言うと、こいつの機関部には……ポルシェが開発した専用の空冷ガソリンエンジンが二基並んでるっス。排気量は各エンジンで大きく、十気筒の空冷エンジンっスよ。各エンジンが発電機を一基ずつ直結で回して直流電力を生成し、その電力が後部横置きの電気モーター二基それぞれに分配されるっス。左の発電ユニットが左のモーターを、右が右を独立して制御するっスよ。車体後部の半分がまるごとこの機関系統に占有されてるっス。」
私は砲塔の位置を改めて確認した。
なるほど。変速機を前部に置かないため、砲塔が前方に設置できた。そして車体後半がほぼ機関室になった結果、砲塔後部と機関室前端のクリアランスが限られ、砲塔を後方に向けた際に車体との干渉を避ける必要が生じる。これは乗降にも影響する。
「乗降はどこから?」
「ハッチは砲塔上面のキューポラハッチと装填手ハッチが主な出入り口っス。こいつ、試作段階で側面に設けられてたハッチが溶接で塞がれてるんっスよ。なので出入りは基本的に上から、砲塔を経由するしかないっス。操縦手も前方機銃手も、いったん砲塔の中を通って上に出るしかないっス。しかもっ!」
クルミが「しかもっ!」と妙な強調をした。
「砲塔を前方に向けたまま降りようとすると、砲塔内部の装填手シートと照準手シートが通路を塞ぐことになるっス。だから移動中や保管中は砲塔を後方に向けて、キューポラから出入りするのが正しいっスよ。試走会でそれを知らなかった人が、砲塔を前に向けたまま降りようとして詰まってたっスね。笑えない話っスけど。」
私はその情報を頭に入れた。乗降の際は砲塔を後ろへ。覚えた。
「サスペンションは?」
「縦置きトーションバー式っス。普通のトーションバーは車体の床下に横向きに通すっスけれど、こいつは車体側面に縦向きに配置してるっス。トーションバーと転輪を二枚セットで一ユニットにして、片側に三ユニット積んでるっス。だから片側六輪、合計十二輪の配置っスよ。縦置きにすることで車体全高を抑えて、床下にハッチも設けられる……ただ、バーが短くなる分だけバネの弾性が横置きよりかなり落ちるっス。大重量を繰り返し受け続けると劣化しやすいっス。ヤークトティーガーにも同型サスペンションが使われてるっスけれど、あっちでは走行中に低速の脈動振動が出たり、バーが折れたりした報告が出てるっスよ。」
「……エレファントにも使われていますよね。」
私はふと言った。ポルシェティーガーの車体の流用先として、フェルディナント重駆逐戦車――後のエレファント。その存在は、戦車史にある程度詳しければ知っている話だ。
「そうっス! 詳しいっスね。」
クルミが目を輝かせた。
「こいつが不採用になったあとも、製造が進んでいた車体がいくつも残ってたっスよ。その車体に七十一口径の八・八センチ長砲身砲を搭載した固定式の戦闘室を取り付けて、フェルディナント重駆逐戦車として生まれ変わらせたっス。サスペンションはそのまま流用で、エンジンは空冷から水冷に換装したっスね。フェルディナントはクルスク戦で活躍したっスけれど、このサスペンションの問題はエレファントに改称してからも抱え続けたっス。重量がさらに増えたから、転輪の消耗が早まったって記録があるっスよ。」
「なるほど。」
私は車体の外を一周しながら、細部を確認し続けた。
前面装甲は厚い。目視でも百ミリ前後はあると思われる垂直な装甲板が、前方を向いている。傾斜がほとんどない垂直装甲は、現代的な観点からは非効率に見えるかもしれないが、単純な厚みとしてこれだけあれば相当の防護力がある。
砲塔の形状は特徴的だった。クルップが設計した砲塔で、後のヘンシェル製ティーガーⅠの量産型砲塔にも基本形状が流用されたものだ。しかし試作型の砲塔は量産型と細部が異なる。最も目立つのは砲塔上面だった。中央部分に、縦長の突起が設けられている。
「砲塔の上のこの張り出しは?」
「砲俯角のクリアランスっス。砲を低く向けたとき、砲尾部分が砲塔内部のスペースと干渉しないよう、砲塔上面中央を盛り上げてクリアランスを取ってるっス。量産型では砲塔全体の高さを調整してこの突起をなくしたっスけれど、試作型はこの形なんっスよ。マニアにはこの突起が試作型の判別ポイントになってるっスね。俗称、モヒカンって呼ばれることもあるっス。」
モヒカン。確かに上から見れば、砲塔中央に縦筋が一本走っているように見える。
「砲塔の装甲構造も面白いっスよ。」
クルミが続けた。
「普通の砲塔は各面の装甲板を別々に作って組み合わせて溶接するんっスけれど、こいつの砲塔側面と後面は、一枚の厚い装甲板を曲げて一体成形してるっス。上から見ると馬蹄形、つまりU字形の継ぎ目のない構造になってるっス。接合部がない分だけ弱点がなくなるっスけれど、その代わり一枚の装甲板を曲げるという高難度の加工が必要で、生産性的には問題があったっス。」
私は砲塔の側面に手を当てた。曲面を描く装甲板。確かに接合部の段差がない。一枚板を曲げた、ということは、この丸みは単なる意匠ではなく製造上の必然だったわけだ。
「……名前は、なんていうんですか?」
「すっげーシンプルな名前っスよ。工場部のポルシェ派が作ったティーガー、だから"ポルシェティーガー"って呼んでるっス。正式識別名はVK 4501(P)っス。Vがフェルスフーフスファールツォイク……試験的な装輪・装軌車両、Kがクリークスファールツォイク……戦闘車両、四五が重量クラス四十五トン、〇一が同クラスの設計順序ナンバーで最初、Pがポルシェ設計っス。」
「……長い名前ですね。」
「略してポルシェティーガーっス。」
私はそっと、ポルシェティーガーの装甲板に手を当てた。
冷たい。
長く眠っていた機械の体温だ。人間の手のひらよりずっと低い温度で、金属特有の硬質な冷たさが手のひらに伝わった。
その冷たさの中に、しかし何かがあった。
ほかの異形戦車たちと同じように、この子も何かを持っていた。眠っているが、起こせる。静かにしているが、動ける。走らせてみろ、という無言の声。
「……クルミさん、この戦車の鍵はどこですか?」
「おっ、乗るんっスか?」
クルミが少し嬉しそうに言った。
「代車にするにしても、試運転は必要でしょう。それに……何か注意点は?」
「今、鍵持ってくるっス!説明は鍵渡すときに!」
クルミが棟の隅に向かって駆け出した。
私は鍵が来るまでの間、もう少しこの戦車を観察することにした。
数分後、クルミが戻ってきた。
「はいっ、鍵っス。それと……これが一番大事なやつっスから、しっかり聞いてほしいっス。」
クルミは珍しく、少し真剣な表情で説明を始めた。
「まず発電能力の問題っス。こいつのエンジン……空冷のガソリンエンジンが二基あるっスけれど、こいつが発生させる電力には上限があるっス。平地での直進ならだいたい問題ないっスけれど、坂道、悪路、急な操向操作が続く状況では電力消費が発電量を超えて、失速する可能性があるっス。最悪の場合、電力が枯渇してその場で止まるっス。」
「……そうなったらエンジンをかけ直せばいいですか?」
「それが、そう単純でもないんっスよ。電力不足で止まると、今度は再始動のための電力確保に時間がかかるっス。坂の途中で止まったら最悪っスね。できるだけ平地で、急な操作は避けるのが基本っス。」
「了解です。次は?」
「エンジンのオーバーヒートっス。空冷エンジンは車体後部の密閉された機関室に収まってるっスから、冷却には限界があるっス。それなりの速度で走ってれば走行風が入るんっスけれど、低速走行や停止状態でのアイドリング長時間は、あっという間に温度が上がるっス。しかも空冷エンジンは砂埃や異物に敏感っスから、ゲヘナの市街地みたいに爆発の煙が漂ってるようなところは要注意っスよ。エンジン温度の計器を常に確認して、限界近くになったら迷わず一時停止して冷却してほしいっス。」
「空冷エンジンの限界温度は?」
「計器の赤帯が始まる手前、だいたい計器の七割くらいを目安にしてほしいっス。そこを超えたら即停止、エンジンデッキのルーバーを開けて自然冷却っス。」
「わかりました。次は?」
「これが……たぶん一番の問題なんっスよ。」
クルミは少し言いにくそうに、しかし明確に言った。
「電気モーターが動いている間、かなり強力な電磁波が発生するっス。電力制御系統から出る電磁ノイズが、車内の通信機器全部に干渉するっスよ。無線機、スマートフォン、データ端末……何もかも、使えなくなるっス。」
私は一瞬だけ反応を止めた。
「……スマートフォンも?」
「スマートフォンも、っス。電話もメールもネット接続もGPSも、全部駄目っス。乗ってる間は情報の孤島になるっスよ。それもあって、パンデモニウムも風紀も使いたがらなかったんっスよね。現代の戦場では通信が命綱っスから。電磁ノイズで無線が使えなくなる戦車なんて、指揮官が乗れないっス。」
私はその説明を聞きながら、静かに考えた。
……電話が来ない。
マコト先輩から、「イロハ! 今すぐ来い!」という呼び出しが来ない。
風紀委員会からのクレームの伝言が来ない。
アコからの「今日の演習の反省会を……」という連絡も来ない。
万魔殿の事務処理の緊急依頼も来ない。
「……ちなみに、走っている間は本当に何も届かないんですか?」
「そうっス。走ってる間は完全に遮断っス。」
「……それは案外、いいかもしれません。」
「……えっ?」
クルミが目を丸くした。
「合法的な連絡途絶期間、ということになりますね。」
「イロハさンのめんどくさがり、ここでも発揮されるんっスか……」
「めんどくさがりじゃないです。効率的な休憩の確保、です。」
「……まあ、そういうことにしておくっス。あとはですね……」
「まだありますか。」
「操向の際の急激な信地旋回は避けてほしいっス。電力の不均等配分で、左右のモーターと発電ユニットに過大な負荷がかかるッスから。ゆっくり、弧を描くように旋回するのが正解っス。ティーガーⅠみたいに最小旋回半径四メートルの鋭角旋回は無理だと思ってほしいっス。」
「わかりました。操向はゆっくりと。」
「基本的な操縦自体は、変速機がないぶんだけティーガーⅠより楽っスよ。左右の電力レバーを前後に動かすだけで速度と方向が変わる、完全な無段階制御っス。」
「鍵を。」
「はいっスよ! でも、また無茶しないでくださいよ……今一輌やらかしてる状態なんで……」
クルミが苦笑いを浮かべながら鍵を手渡した。
私はそれを受け取り、手のひらの中で重さを確かめた。古い金属製のシリンダーキーで、鍵穴の形は特殊だった。
「……試運転してきます。」
「気をつけてっス!」
乗り込む前に、私はもう一周した。
戦車長として、乗車前に車体を一周して状態を確認することは習慣であり、義務だ。虎丸でも毎回欠かさない。それがどんな車両であっても変わらない。
正面から見ると、前面装甲板の厚みが圧倒的だ。表面は平滑で、鋳造ではなく圧延鋼板の組み合わせで作られている。ティーガーⅠと同様、傾斜がほとんどない垂直構造だが、それを純粋な厚みで補う設計思想だ。
右側面に移ると、砲塔前置が改めて際立って見えた。ティーガーⅠと同じ位置から見比べれば、砲塔が二十センチ以上前方にある。砲塔リングの位置が、車体前端と中央の間くらいにあり、それより後方の車体上面がエンジンデッキとして広大なスペースを占めていた。
サスペンションを確認した。
片側三ユニット、各ユニットに転輪二枚で片側六輪、合計十二輪。転輪は大径ではなく中程度の直径で、ティーガーⅠの複雑な千鳥配置とは一線を画すシンプルな配列だ。縦置きトーションバーの端部が車体側面から突き出しているのが確認できた。
後部に移ると、エンジンデッキの広大なルーバーが目に入った。空冷エンジン二基の排熱を逃がすための開口部が、エンジンデッキ全体に広がっていた。エンジンデッキのハッチも複数設けられており、整備アクセスへの配慮が見えた。
後輪、つまり起動輪がエンジンデッキの後端にある。ガス・エレクトリック方式の結果として、電気モーターは車体後部に収まり、起動輪を後方から直接駆動する「後輪駆動」構造になっていた。ティーガーⅠは前部の変速機・操向機構経由で動力を前の起動輪に伝える方式だが、ポルシェティーガーはまったく逆の後方起動方式なのだ。
「……よし。」
私は深呼吸し、乗車を開始した。
砲塔は後方に向けてある状態を確認してから、フェンダーに足をかけて車体上面によじ登る。装甲板の縁が作業手袋越しでも硬く感じられた。車体上面からさらに砲塔上面に移り、装填手ハッチに手をかける。ハッチのロックを解除すると、思いのほか重い。ティーガーⅠのハッチも重いが、これも同等以上だ。
砲塔内部から漂うのは、密閉された金属と古い機械油のにおいだった。
内部は狭い。
砲塔の高さが車体基準で見ると圧倒的ではないため、内部スペースも限られている。装填手席、照準手席、車長席が配置されており、そこから砲塔リング内部の構造が下方に続いている。操縦手席と無線手席は車体前部にある。私は一人なのでそれらすべてを確認しながら操縦手席に収まった。
計器盤を確認した。
速度計。エンジン温度計。電力計。燃料計。各種スイッチ類。全体の配置はティーガーⅠと大きく異なる部分もあれば、共通する部分もある。最大の違いは、変速機操作系統がまったくないことだ。シフトレバーがない。変速のための操作系統がない。
代わりに、左右に一本ずつ、操向と速度制御を兼ねた電力制御レバーがある。これを前後に動かすことで、左右のモーターへの電力配分を独立して制御できる。両方同時に前に倒せば直進加速、片方だけ引けば旋回、両方中立で停止、後ろに倒せば後退……シンプルだが、慣れが要る。
エンジン点火の手順を確認し、スイッチを入れた。
ブォォォン――。
低く、乾いた爆発音が断続的に鳴り始めた。
液冷のマイバッハ HL230とはまったく異なる音だ。空冷エンジンの音は直接的で、金属が燃焼に素直に応答する感触がある。湿気のない、乾いた爆発だ。一基目のエンジンが火を入れ、回転が安定してから二基目にも点火する。両エンジンの音が重なり合い、車体全体が低周波の振動に包まれた。
次の瞬間、別の音が加わった。
キーーーン。
電気モーターが回り始める音だ。エンジンの爆発音とはまったく質の違う、金属的で高周波の、澄み切った音だ。発電機から電力が供給され、モーターが回転を始めた瞬間の音だった。
ブォォォンとキーーーンが重なる。
ガソリンエンジンの野性的な低音に、電気モーターの清潔な高音が乗る。それは確かに不思議なハーモニーだった。どちらか一方だけでは生まれない音だ。
「……なかなか、個性的な音ですね。」
私は静かに呟いた。
---
数分後……。
ブォォォン、キーーーン。
「ふむ……これは、なかなかいいですね。」
ゲヘナの市街地の道路を、代車に乗りながら風を切る。
倉庫を出て整備廠の構内を出るまでの間に、すでに基本的な操縦感覚を掴んでいた。電力制御レバーの前後移動で速度と方向が変わる直感的な操縦系統は、ティーガーⅠのOLVAR変速機と操向機構の組み合わせとは根本的に異なる。
ティーガーⅠでは、速度を変えるにはOLVAR変速機のレバーで段を選択し、油圧回路が閉鎖または解放されてギアが切り替わり、それからアクセルを踏み込む。方向を変えるにはステアリングホイールを回して操向変速機の動力分配を変える。各ギアで設定された二通りの旋回半径(最小は一速で四メートル)の中から必要な旋回を選択し、さらに小さな旋回が必要ならブレーキを使う……という手順が必要になる。
煩雑ではないが、考えながら動かす必要はある。
しかしポルシェティーガーには、その複雑さがほぼない。
両方のレバーを同時に前に倒せば直進、倒す量で速度が決まる。左のレバーを引けば左の電力が落ちて左に曲がる、右を引けば右に曲がる。その量で旋回半径が変わる。後退は両レバーを後ろに倒す。以上。
「……シンプルすぎてかえって戸惑います。」
私は小声で言った。ティーガーⅠを長く乗ってきた身からすると、操縦系統がここまで少ないと、操作ミスをしている気がしてしまう。変速機操作、という精神的なアンカーが抜けた感覚だ。
だが体はすぐに慣れ始めていた。
市街地に出ると、ゲヘナの日常が広がっていた。
どこかで爆発音が聞こえる。ゲヘナでは通常営業だ。煙が三か所くらいから上がっているのが窓から見えたが、それも通常だ。制服を着た生徒たちが歩道で固まっており、ポルシェティーガーが通りかかると視線が集まった。
「あれ、ティーガーじゃないよな?」「砲塔の位置が変じゃない?」「なんか後ろが重そう」
そういう声が、開けたハッチから断片的に聞こえてくる。
私はキューポラから顔を出しながら走行を続けた。
通信遮断の効果は、市街地に出た直後に確認できた。
ポケットに入れたスマートフォンを確認すると、画面上部の電波インジケーターが圏外を示していた。GPSも機能していない。あらゆる通信機能がゼロになっていた。
電磁ノイズによる通信遮断。
これは確かに現代の戦闘において致命的な欠陥だ。無線が使えない指揮戦車は、命令を出せない。部下の状況を把握できない。支援を要請できない。現代戦の指揮官にとって、通信途絶は死に等しい。
しかし今この瞬間、私にとって通信途絶は……思いのほか快適だった。
マコト先輩から「イロハ! 演習の敗因について報告書を今すぐ……」という電話が来ない。
ヒナさんの部下から「今日の演習で物損が発生したとのことで……」という連絡が来ない。
先生から「イロハさん、さっきの演習のことなんですが……」という……それは少し話したかった気もするが、今は顔を合わせる準備ができていない。
「……静かです。」
私は思わず声に出した。
エンジンとモーターの音はある。風切り音もある。しかしそれは「世界」からの雑音であって、「万魔殿」からの雑音ではない。雑音の種類が変わったことで、まるで別の空間にいるような感覚があった。
ゲヘナの市街地を抜けて、少し開けた通りに出た。
速度を上げてみる。電力制御レバーを両方同時に奥まで倒す。モーターの唸りが上がり、エンジンの音量も増した。車体の振動が増え、縦置きトーションバーが路面の細かな凹凸を体に伝えてくる。横置きトーションバーのティーガーⅠよりも振動の固さが際立つ。しかしそれは不快というより、路面情報が直接伝わってくる正直さ、とも言えた。
速度計が三十キロを指した。
ティーガーⅠの最大路上速度は四十五キロ前後だから、それよりは遅い。しかし出力損失を考えれば、電気式の場合このくらいが実用的な巡航速度だろう。
丘に差し掛かった。
ゲヘナの市街地の外れにある緩やかな丘だ。高さは二十メートルほど、傾斜は緩いが、五十七トン超の車体を押し上げるには相応の出力が必要になる。
電力制御レバーを維持したまま登坂を開始する。
すぐにエンジン温度計が上昇し始めた。
クルミの言葉通りだ。坂道での負荷増大に伴い、エンジンの発熱量が増えた。空冷エンジンは走行風による冷却に依存している部分が大きいため、登坂中の低速走行は最も冷却効率が悪い条件になる。
私は慎重にレバーを少し絞り、速度を落として登坂した。
エンジン温度の上昇は続いたが、赤帯には達しなかった。頂上に達したとき、温度計は六十パーセントのあたりを指していた。クルミが言った「七割を目安に停止」には余裕がある。
「……なるほど。急がなければ、これは扱えます。」
下り坂に入った。
今度は逆に、モーターに逆起電力が生じる。電気モーターは回転方向と逆の力が加わったとき、発電機として機能する。つまり下り坂では、重力で加速しようとする車体がモーターを「回転させ」、それが電気を生み出して制動力として働く。ある種の回生ブレーキだ。
私はレバーを中立近くに保ち、下り坂の速度を自然な制動力に任せた。
……滑らか。
ティーガーⅠで下り坂を降りる際には、ディスクブレーキと操向変速機のブレーキを組み合わせて速度を制御するが、ポルシェティーガーの回生的な制動は、それより自然な感触だった。機械的な摩擦で止まるのではなく、電気的な抵抗で減速する。ブレーキを踏む動作なしに、速度がじんわりと制御される感覚だ。
(これは……良い。)
平地に戻ってから、私は旋回テストを行った。
まず緩やかな左旋回。左のレバーを少しだけ引いて右より電力を下げる。車体が左に弧を描いた。スムーズだ。弧の半径は大きいが、それは意図的に緩くしたからだ。
次に少し積極的な旋回。左レバーをほぼ中立まで引く。右の電力だけで左の履帯が引っ張られ、車体が左に鋭角で曲がり始めた。旋回半径は十メートルほどか。信地旋回ではないが、普通の交差点を曲がる程度なら余裕だ。
クルミが言った「信地旋回はしないように」というのを確認するため、わずかに実験してみた。左レバーを完全に後退方向まで引き、右レバーは前進方向のまま保つ。左モーターが逆転、右モーターが正転……という信地旋回の条件だ。
車体が動こうとして、電力計が大きく振れた。
左右のモーターに逆方向の大電力が必要になるため、発電機への要求が急増した結果だ。エンジン回転数も上がった。温度計が急上昇を始める。
「……やめます。」
私はすぐにレバーを戻した。五秒未満の実験だったが、エンジン温度が目に見えて上がった。信地旋回が禁止な理由がよくわかった。電力系統に過大な負担がかかる。
走行を続けながら、私はポルシェティーガーという戦車について考えていた。
この設計思想は間違っていない。
電気モーターによる無段階制御は、機械式変速機よりも理論上優れている。左右独立制御で無段階の旋回半径が実現でき、変速機のトラブルも発生しない。フェルディナントを運用した部隊も、変速機関連のトラブルが少なくなったと評価している。ポルシェ博士の方向性は、少なくとも部分的には正しかった。
問題は「技術が理想に追いついていなかった」という、ただそれだけだ。
空冷エンジンの発熱と冷却。発電量の限界。電磁ノイズ。縦置きトーションバーの耐久性。これらが一つずつ解決されていけば……もしかしたら、ポルシェティーガーは量産型のティーガーⅠよりも優れた戦車になっていたかもしれない。
「……採用されなかった理由はわかります。でも、その発想が間違っていたわけじゃないですよ。」
私はポルシェティーガーに向かって、誰にも聞こえない声で言った。
通信が遮断されているので、返事は来ない。エンジンとモーターの音だけが、答えのように響いていた。
市街地を一周して、整備廠への帰路についた。
帰り道、私は思った。
虎丸の修理はまだ時間がかかる。その間、ポルシェティーガーを代車として使うことになる。電磁ノイズで通信機器が使えないという欠点は欠点として、それへの対処法を考えればいい。整備廠に戻るたびにスマートフォンで確認する、という運用にすれば、少なくとも完全な孤立にはならない。
それよりも気になるのは、あの異形の整備棟の中にいた他の面々だ。
NbFzの多砲塔は、砲塔旋回時の重量移動がどう操縦に影響するのか。レオパルト試作型の偵察車両としての機動性は実際どれほどか。VK 3002(DB)の後方起動輪は、実際の操縦フィーリングにどう影響するのか。シュトゥーラー・エミールのあの超長砲身を実際に発射したら車体にどれほどの反動がかかるのか。
(今度は、何に乗せてもらいましょうか……。)
虎丸の修理の順番はかなり後ろのほうらしい。その間、選択肢はある。
整備廠に向かいながら、私は少しだけ、今日の演習の失態を引きずるより、次の一手を考える方向に気持ちが向き始めていた。
ポルシェティーガーのエンジンとモーターが、その変わらないハーモニーで答えるように鳴り続けた。
ゲヘナの空に、重くて甘い鉄の音が溶けていった。
イロハさんの衣装違いみたいな感じでトンデモ戦車に乗ってくるのを夢見てます。
ちなみに作者が好きな戦車はP40です。
---
補遺その一 VK 4501(P)ポルシェティーガー 技術詳解
〔基本諸元〕
- 正式名称:VK 4501 (P)、またはPanzerkampfwagen VI Tiger (P)。俗称ポルシェティーガー
- 全長(砲身含む):9.34メートル、車体長:6.7メートル
- 全幅:3.14メートル
- 全高:2.8メートル
- 戦闘重量:57〜59トン(搭乗員・弾薬・燃料の搭載状況で変動)
〔機関・駆動系〕
最大の特徴は「ガス・エレクトリック方式(Gas-Electric Drive)」と呼ばれる独自の電気式駆動システムである。フェルディナント・ポルシェ博士はVK 3001(後の試作ラインの前身)の段階からすでに「電動モーターによる駆動は機械式変速機より加速性と操向性に優れる」という持論を展開しており、本車の設計にその思想を全面的に適用した。
具体的な構成は以下の通り:
車体中央後部に、ポルシェ設計の空冷ガソリンエンジン二基を並列配置。各エンジンは直結された直流発電機を駆動し、電気を生成する。生成された電力は、車体最後部に横置きされた駆動用電気モーター二基(左右独立)それぞれに分配される。左モーターが左履帯、右モーターが右履帯を直接駆動する後輪駆動方式だ。
この方式の利点は明確だ。変速機が不要なため変速機由来のトラブルが発生しない。電力の流量を制御するだけで無段階の速度変化と旋回が可能になる。左右のモーターを独立制御するため、理論上は任意の旋回半径が実現できる。後輪駆動のため、車体前部に変速機を置く必要がなく、砲塔を前寄りに配置できる。
しかし現実の問題は山積していた。重量五十七トン超の車体を動かすには膨大な電力が必要で、空冷エンジンの発電能力がそれを賄いきれないケースが頻発した。空冷エンジンは密閉された機関室での長時間運転に適さず、オーバーヒートが繰り返し発生した。電力制御系統から発生する電磁ノイズが車内の無線通信機器に致命的な干渉を与えた。そして信地旋回を行うと左右のモーターに逆方向の大電流が必要になり、それが発電機と電力ケーブルに過大な負荷をかけた。
競合試験(1942年4月20日、チョビヒゲの山荘前での直進走行試験)では、ポルシェティーガーは信地旋回を試みた際に地面に深くめり込んだ。同年7月27日のクンマースドルフでの比較テストでも要求項目を満たせず、ヘンシェル設計のVK 4501(H)が量産型ティーガーⅠとして採用された。
〔懸架方式〕
縦置き外装式ボギートーションバー。通常の戦車では車体床下に横向きにトーションバーを通すが、本車は車体側面の外装部に縦方向でトーションバーを配置し、転輪二枚をひとつのユニットとしてまとめた「揺動台車式」を採用した。片側三ユニット(計六輪)×両側で合計十二輪。
省スペース効果と床下ハッチ設置の可能性、製造工程の簡素化という利点がある一方、バーが短くなる分だけ弾性が乏しく、繰り返し加重への耐久性が横置きに劣る。この問題は後継のエレファント重駆逐戦車でも解消されず、さらに重量が増えたことで転輪部品の消耗が加速した。
〔砲塔〕
クルップ社が設計した砲塔は、側面と後面が一枚の装甲板を曲げて一体成形した「馬蹄形(U字形)構造」を採用。接合部のない構造は弾道学的に有利だが、一枚の厚い装甲板を大きく曲げる加工は生産性の観点から課題があった。量産型ティーガーⅠの砲塔も基本形状はこの設計を継承しているが、量産化に際して各部が改修された。
試作型砲塔上面の特徴的な縦長突起は「モヒカン」と俗称され、砲を俯角方向に向けた際に砲尾が砲塔内部に干渉しないようクリアランスを設けたものだ。量産型では砲塔全体の高さを調整してこの突起を廃した。
搭載砲は八・八センチKwK 36 L/56(五十六口径)で、ティーガーⅠ量産型と同一。
〔乗降〕
試作段階で側面脱出ハッチが溶接によって閉塞された。このため、操縦手・無線手も含むすべての乗員は砲塔ハッチ(キューポラないし装填手ハッチ)経由でのみ乗降できる。砲塔を前方に向けた状態では砲塔内部のシートが通路を塞ぐため、移動中・保管時は砲塔を後方に向けることが運用上の慣例となっていた。
---
補遺その二 ティーガーⅠ(ヘンシェル設計)の機関・駆動系 比較のために
競合試験でポルシェティーガーを退けたヘンシェル設計のティーガーⅠは、正反対の設計哲学を持つ。
機関はマイバッハHL 210 TRM P45(初期型、V型十二気筒液冷、排気量21,353cc、最大出力650馬力)、後期型(250輌目以降)ではHL 230 P45(排気量23,095cc、最大出力700馬力)に換装された。
動力伝達経路は、後部エンジン→床下カルダンシャフト→前部のマイバッハOLVAR OG 40-12-16主変速機(前進八速、後進四速の油圧プリセレクター式セミオートマチック)→ヘンシェルL600C操向変速機(メリット・ブラウン式改造版)→最終減速機→前部起動輪、という「前輪駆動」方式だ。
操向変速機は各ギアで二通りの旋回半径を提供し、八速×二通りで合計十六通りの旋回半径設定が可能。最小旋回半径は一速で四メートル。さらに小さな旋回にはブレーキを使用。ステアリングはパワーアシスト式のホイールで行う。
このシステムは整備が複雑で重量も増えたが、信頼性ではポルシェ案を上回っていた。とはいえティーガーⅠ自体も決して信頼性の高い戦車とは言えず、変速機と足回りのトラブルは全戦歴を通じて悩みの種であり続けた。
ポルシェ博士の電気式駆動という方向性は、現代の軍用車両が採用しているガス・タービン電気式駆動やハイブリッド駆動という形で後世に実現した。時代が追いついていなかった、という評価は、必ずしも誤りではない。