崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
気がついたら、生まれていた。
たぶん、生まれていた、でいいのだと思う。正確にはよくわからない。とにかく寒い。息が苦しい。身体が勝手に震えている。喉からは勝手に声が出ていた。泣いているらしい。泣こうと思って泣いているわけではない。悲しいとか、怖いとか、そういう気持ちより先に、身体が勝手に騒いでいる。
目はほとんど見えない。手も足も思ったように動かない。首も動かせない。声を出そうとしても言葉にならない。というか、自分の舌がどこにあるのかすらよくわからない。そこで、俺はかなり嫌なことに気づいた。
これ、赤ん坊だ。
俺は今、赤ん坊になっている。
いや、待て。意味がわからない。赤ん坊が「俺は赤ん坊だ」なんて考えるか。普通は考えないだろう。少なくとも、俺の知っている赤ん坊はそんなことを考えていなかったはずだ。……俺の知っている? そこまで考えたところで、頭の奥に変なものが浮かんだ。スマホの光。夜の電車。コンビニ。布団の中で読んでいた漫画。仕事帰りの疲れた足。どれもぼんやりしている。自分の名前も、顔も、最後に何があったのかも思い出せない。ただ、前に別の場所で生きていた感覚だけは残っている。
つまり、たぶん俺は死んだ。
そして、なぜか生まれ変わった。
異世界転生。
そんな言葉が頭に浮かんだ。浮かんだが、正直それどころではない。赤ん坊の身体というのは、想像以上に不便だった。泣くのも勝手。息を吸うのも下手。目も見えない。身体のどこにも自由がない。前世でどんな人生を送っていたのかは思い出せないが、少なくともこんなに何もできなかったことはないと思う。
「生まれたか」
男の声がした。
低くて、落ち着いた声だった。子どもが生まれた直後にしては、ずいぶん冷静な声だと思った。俺はそちらを見ようとした。もちろん首は動かないので、目だけをなんとか向ける。視界はぼやけている。それでも、白い服を着た男が立っているのはわかった。長い髪を後ろで束ねている。姿勢がやけにいい。立っているだけなのに、なんだか普通の人間ではない感じがした。
仙人みたいだな、と思った。
いや、みたい、ではなく、たぶん本当にそういう人なのだと思う。根拠はない。でも、根拠がないのに妙に納得してしまう雰囲気があった。前の世界で仙人を見たことがあるわけではない。そもそも仙人なんて作り話だと思っていた。けれど目の前の男は、作り話の中にいるはずの人間が、そのまま現実に出てきたような感じだった。
「見せて……」
今度は女の声がした。弱っている声だった。けれど、聞いていると少し落ち着く。俺はその女に抱かれた。銀色に近い髪が頬に触れる。薬草みたいな匂いと、汗の匂いがした。顔色は悪い。たぶん出産直後だから当たり前なのだろう。でも目はきれいだった。ぼやけた視界でも、それだけはわかった。
この人が母親か。
そう思った瞬間、胸の奥が少し変な感じになった。前の人生の母親のことは思い出せない。思い出せないのに、「母親」という言葉だけで何かが引っかかる。寂しいような、申し訳ないような、でも今はどうしようもないような感じだった。考えたいが、考えきれない。目の前の情報が多すぎる。
父親らしき男は仙人みたいで、母親らしき女は仙女みたいだった。
なんだそれ。
生まれ変わっただけでも大変なのに、いきなり設定が濃すぎる。普通の家に生まれ直すという選択肢はなかったのか。いや、誰に文句を言えばいいのかもわからない。神様みたいな存在に会った記憶もないし、転生前に説明を受けた覚えもない。気づいたら赤ん坊で、目の前には仙人と仙女。雑だ。あまりにも雑に二度目の人生が始まっている。
部屋は木でできていた。壁には乾いた草のようなものが吊るされている。たぶん薬草だと思う。窓の外は白い。霧なのか雲なのかはわからない。ただ、ずいぶん高い場所にいる気がした。病院ではない。前の世界でもない。電気もなさそうだし、スマホを充電する場所もなさそうだ。思っていたより本格的に、別世界だった。
そして、もう一つおかしなものが見えた。
男の身体のまわりに、薄い膜のようなものがある。光というほど明るくはない。煙というほど形もない。でも、何かがある。身体の表面を包むように、静かに揺れている。女の身体のまわりにも同じようなものがあった。ただ、男のものは硬くて静かな感じがする。女のものは、もっとやわらかい。水みたいだと思った。
なんだ、これ。
怖いというより、気になった。見えてはいけないものを見ている感じもある。けれど、目をそらしたくはなかった。むしろもっと見たい。どうして二人で違うのか。これは身体の外に出ているのか。それとも俺の目が変なのか。自分にも同じものがあるのか。
考えているうちに、なぜか少しだけわかった。
これは、命の力だ。
誰かに教わったわけではない。説明されたわけでもない。ただ、そう見えた。火を見れば熱そうだと思う。水を見れば濡れると思う。それと同じように、目の前の薄い膜みたいなものが、二人の身体からにじみ出ている力だとわかった。
男が少しだけ目を細めた。
「見えているな」
俺はぎくりとした。
見えてます、と言いたかった。かなり見えてます。むしろ気になって仕方ありません。あなたの身体の周りに変なものが出ています。母さんのものとは感じが違います。これはいったい何ですか。そう聞きたい。聞きたいことが多すぎる。でも、赤ん坊なので当然言えない。口から出るのは、かすれた泣き声だけだった。
「生まれたばかりで、もう氣を見ている」
氣。
男はたしかにそう言った。
ああ、氣か。なるほど。
そう思いかけて、すぐに、いや何もなるほどじゃないだろと思い直した。氣って、武侠ものとか仙人ものに出てくる、あの氣だろう。身体の中を流れて、修行で練って、達人が飛ばしたりするやつだ。前の世界では作り話だったはずのものだ。それが今、目の前で普通に存在している。
「この子、もう見えるの?」
母親らしき女が驚いたように言った。
「見えている。私の外氣を目で追っている」
「あなたの子ですもの」
「いや、お前の血だろう。私は氣を練るだけだが、お前は氣に触れる」
「またそうやって、面倒なことだけ私のせいにする」
二人は普通の夫婦みたいに話している。けれど、内容は全然普通ではない。氣を練る。氣に触れる。外氣を見る。生まれたばかりの赤ん坊に聞かせる話ではないと思う。というか、俺が赤ん坊なのに話を理解している方もおかしいのだが。
ただ、気になる。
氣を練るのと、氣に触れるのは違うのか。男のまわりにあるものと、女のまわりにあるものが違って見えるのは、そのせいなのか。男は自分の中で力を作っている感じがする。女は、部屋の空気とか、窓の外の霧とか、そういうものと薄くつながっている感じがする。うまく言えない。赤ん坊なので言えないのは当然として、たぶん大人の身体でもうまく言えない。でも、違いはある。
面白い。
そう思ってしまった。
怖いとか、困ったとか、どうしようとか、それもある。でも、一番奥にあるのは、たぶん好奇心だった。自分がなぜここにいるのかもわからない。何もできない。身体は小さい。泣くことしかできない。それでも、目の前に知らないものがあると、知りたくなる。前の人生のことはほとんど覚えていないのに、そういう性格だけは残っているらしい。
男が近づいてきた。そして俺の額に指を置いた。
その瞬間、身体の中で何かがすっと流れた。胸のあたりで苦しく詰まっていたものが、腹の方へ落ちていく。手足のばたつきが少し収まり、呼吸が楽になった。泣き声も自然に止まる。
何をされたのかはわからない。
でも、身体の中の流れを整えられたのだということだけは、なんとなくわかった。
すごい。
怖い。
でも、やっぱり気になる。
今のはどうやったのか。氣を入れられたのか。自分の中にあった何かを動かされたのか。これを覚えれば、自分でも同じことができるのか。いや、赤ん坊が何を考えているんだという話だけど、気になるものは気になる。
「内息を整えた。これで苦しくはない」
男は当然のように言った。
いや、当然みたいに言うことではないだろ。
俺は心の中でそう思った。どうやらこの父親らしき人は、かなり普通ではない。普通の基準がまだよくわからない世界ではあるが、それでも普通ではない気がする。少なくとも、赤ん坊の胸の苦しさを指一本でどうにかする人間は、普通ではない。
「名は決めてあります」
女が言った。
「聞こう」
「ミナト」
その名前を聞いた瞬間、少しだけ頭の中が静かになった。
ミナト。
前の人生の名前ではない。少なくとも、そういう気がする。けれど、嫌ではなかった。不思議と、すんなり入ってきた。今の自分は、この名前で呼ばれるのだと思った。
「山に閉じる名ではなく、外へ開く名を。この子には、港の名を」
母親はそう言って、俺――いや、ミナトの頬にそっと触れた。
名前をもらっただけで、自分が少しこの世界に結びついた気がした。さっきまでは、ただ放り込まれた感じだった。どこの誰かもわからないまま、赤ん坊の身体に閉じ込められたような感覚だった。でも、名前を呼ばれると少し違う。ここにいていい、と言われたような気がした。
父親は少し黙ってから、窓の外を見た。
「崑崙に生まれて、港の名を持つか。悪くない」
崑崙。
その言葉を聞いて、ミナトはもう一度、窓の外を見ようとした。白い霧の向こうに、黒い山の影が見える。高い山だ。人が簡単に来られる場所ではなさそうだった。
崑崙山。
仙人と仙女が住むと言われる秘境。
どうやらミナトは、そういう場所に生まれたらしい。
正直、情報が多すぎる。死んだらしい。赤ん坊になった。父親は仙人で、母親は仙女っぽい。氣が見える。名前はミナト。場所は崑崙山。普通なら混乱するところだ。いや、普通に混乱している。今すぐ誰かに説明してほしい。でも、たぶん説明されても半分もわからない。
それでも、嫌ではなかった。
怖い。身体は動かない。何もわからない。前の人生のこともほとんど思い出せない。けれど、この世界には知らないものがある。氣という力があり、仙人がいて、仙女がいて、窓の外にはまだ見たことのない山がある。そう思うと、ミナトの中で小さく何かが熱くなった。
知りたい。
この力のことを。父と母のことを。崑崙山のことを。自分がなぜここに生まれたのかも、できれば知りたい。
もちろん、今すぐには無理だ。赤ん坊だから。首も動かせないし、質問もできない。できるのは見ることくらいだ。だからミナトは見た。父親の氣を見た。母親の氣を見た。それから、自分の胸の奥にも何か流れていないか探ろうとした。
うまくは見えない。
でも、何かある気がする。
細くて、頼りなくて、まだ形も名前もない流れ。それが自分の中にある。そんな気がした。
「よく見る子ね」
母親が小さく笑った。
「見すぎる子だ」
父親が言った。
「悪いこと?」
「悪くはない。ただ、見える者は、見なくていいものまで見る」
「それでも、この子は見るでしょうね」
「だろうな」
二人の声を聞きながら、ミナトは少し眠くなってきた。赤ん坊の身体は本当に勝手だ。もっと考えたい。もっと見たい。聞きたいことも多い。でも、まぶたが重くなる。身体が眠りたがっている。
眠るのは少し怖かった。
目を閉じたら、また別の場所に行くのではないか。せっかく見つけたこの世界が、夢みたいに消えてしまうのではないか。そんなことを一瞬考えた。けれど、母親の腕は温かかった。薬草の匂いも、鈴の音も、父親の静かな氣も、ちゃんとそこにあった。
たぶん夢ではない。
少なくとも、今はそう信じるしかない。
ミナトは眠りに落ちながら、最後にもう一度だけ思った。
この世界は、いったい何なんだろう。
わからない。
でも、退屈はしなさそうだった。