崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
ミナトが八歳になったころ、崑崙山での暮らしにもだいぶ慣れてきた。慣れてきたというか、慣れないとやっていけなかった。朝起きたら、まず父がいる。白い服を着て、いつもの涼しい顔で立っている。そしてだいたい変なことを言う。
「今日は安全な修行だ」
玄清がそう言った時点で、ミナトは少し嫌な予感がした。
「父さんの安全って、どのくらいの安全?」
「少なくとも昨日よりは安全だ」
「昨日、俺、崖から落ちたんだけど」
「下に水があった」
「そういう問題じゃないんだよ」
「では、今日は水がない場所でやる」
「もっと不安になった」
父は真顔だった。冗談を言っているようにも見えるし、本気で言っているようにも見える。というか、たぶん両方だった。玄清はいつもそうだ。声は静かで、顔もほとんど変わらないのに、たまに言っていることがおかしい。母に言わせると「昔からああいう人」らしい。昔からなら直してほしかった。
最初の修行は、滝だった。崑崙山の中腹に、白龍瀑という滝がある。名前だけ聞くときれいだが、実物はだいぶ荒い。崖の上から冷たい水がまっすぐ落ちていて、近づくだけで服が濡れるし、声も聞こえにくくなる。前の世界の感覚で言えば、観光地の柵の向こう側にあるやつだ。子どもが近づくものではない。
玄清はその滝を指さした。
「上まで行け」
「道は?」
「そこにある」
「滝しか見えない」
「よく見ろ」
ミナトはしばらく滝を見た。水が落ちている。ものすごい勢いで落ちている。何度見ても滝だった。
「やっぱり滝しかない」
「なら、滝を登れ」
「最初からそう言えばいいのに」
「嫌そうな顔をするだろう」
「今してるよ」
「知っている」
父は少しだけ口元を動かした。たぶん笑った。すごくわかりにくい笑い方だった。こっちは滝を登れと言われているのに、笑うところではないと思う。
ミナトはため息をついて、滝に近づいた。水しぶきが顔に当たる。冷たい。足元の岩は濡れていて滑る。普通に踏めば落ちる。力任せに登ろうとしても、水に叩き落とされる。だから、見る。水そのものではなく、水の中にある弱いところを見る。岩に当たって流れが曲がる場所、泡になって少し軽くなる場所、下から風が巻いて一瞬だけ浮く場所。そこに足を置く。足を置くというより、流れに一瞬だけ乗る。
一歩目で、息が止まった。水が背中を叩いてくる。二歩目で、足が滑った。三歩目で、もう帰りたくなった。
「父さん!」
ミナトは滝の音に負けないように叫んだ。
「これ、やっぱり安全じゃない!」
「安全だ」
「どこが!」
「私が見ている」
「父さんが見てると安全になるの?」
「落ちたら拾う」
「落ちる前に助けてよ!」
「それでは修行にならん」
そういうところだった。玄清は息子を殺す気はない。そこは信じている。ただ、死ななければいいと思っている節がある。基準が広い。広すぎる。
それでも、登れないわけではなかった。そこがまた腹立たしい。ミナトは足裏に氣を集めすぎないようにした。強く出すと水に弾かれる。弱すぎると岩に乗れない。腹の奥に氣を落として、そこから細く足へ流す。朝から晩までやらされている呼吸の修行が、こういうときだけ役に立つ。役に立つから文句も言いにくい。
滝の半分くらいまで登ったところで、上から大きな水の塊が落ちてきた。普通に見てから避けたのでは遅い。水の氣が先に重くなる。そこだけ流れが暗くなる。ミナトはそれを見て、半歩だけ身体をずらした。水の塊が肩をかすめて落ちる。岩が割れるみたいな音がした。
当たったらどうなっていたのか、あまり考えたくなかった。
最後はほとんど意地だった。手を岩にかけ、足を滑らせ、また踏み直し、腹の中が熱くなるまで氣を回して、ようやく滝の上へ這い上がった。全身ずぶ濡れで、息も荒い。八歳の朝にやることではない。絶対に違う。
玄清はなぜか先に上にいた。服も濡れていない。
「悪くない」
「いつ登ったの」
「少し前だ」
「滝を?」
「横を」
「横に道あったの?」
「ある」
「先に言ってよ」
「聞かれなかった」
ミナトは濡れた前髪をかき上げた。父は本気でそう思っている顔だった。腹が立つ。けれど、どこか楽しそうでもあった。楽しそうに見えない顔で、たぶん楽しんでいる。この人、本当に性格が悪いかもしれない。
昼前には、谷の浮石を渡らされた。谷と谷の間に、拳より少し大きいくらいの石がいくつも浮いている。誰が置いたのか知らない。なぜ浮いているのかも知らない。母に聞いたら、「昔の人が置き忘れたのよ」と言っていた。崑崙では置き忘れた石が空に浮くらしい。だいぶ困る。
しかも、ただ渡るだけではなかった。両手に水の入った椀を持たされ、頭の上には薄い葉を一枚乗せられた。
「水をこぼすな。葉も落とすな」
「落ちたら?」
「拾う」
「またそれ?」
「今日は谷が深い。少し急いで拾う」
「急いで拾う前に助けて」
「考えておく」
父の「考えておく」は信用ならない。
ミナトは浮石に足を置いた。石は少し沈む。焦って体重を乗せると逃げる。だから、まず足裏の氣だけをそっと置く。石の中心を探って、そこに自分の重さを少しずつ流す。強く踏まない。乗せる。水の椀を持つ手は固めない。肩を固めると水が揺れる。頭の葉は、もう祈るしかない。
一つ目、二つ目、三つ目。思ったよりいける。そう思った瞬間、横から小石が飛んできた。
「ちょっ」
ミナトは首を傾けて避けた。椀の水が揺れる。頭の葉も揺れる。ぎりぎり落ちない。
「今の何!」
「不意打ちだ」
「不意打ちって言えば何してもいいと思ってる?」
「実戦では言ってから来ない」
「俺、今何と戦ってるの?」
「油断だ」
父は真顔でまた小石を投げた。今度は二つ。ミナトは一つを避け、一つは肩の氣で少しだけ軌道をずらした。水はこぼれない。葉も落ちない。自分でも少し驚いた。
やればできる。
そう思ったら、足元の石が落ちた。
「嘘でしょ」
考えるより先に身体が動いた。沈む石を蹴る。蹴ると言っても、力任せではない。沈む速さに合わせて、足裏の氣を一瞬だけ弾く。身体がふわっと浮く。椀の水が盛り上がる。頭の葉が浮きかける。ミナトは空中で身体を小さくひねり、次の石へ落ちるように乗った。
水はこぼれなかった。
葉も落ちていない。
ミナトは思わず笑った。
「今の見た?」
「見た」
「すごくない?」
「少しな」
「少し?」
「調子に乗ると次で落ちる」
ひどい。けれど、たぶん本当なので言い返せなかった。
午後は母の蓮華に薬草を教わった。これは父の修行ほど危なくはない。危なくはないが、油断すると指がしびれる。蓮華は優しい顔で毒草のそばに連れていく人だった。
「この花は、きれいだけど触ると半日ほど手が動かなくなるわ」
「先に言ってくれてありがとう」
「もう触った?」
「触る前でよかった」
「えらい」
褒め方が幼児向けだった。八歳なので間違ってはいないのかもしれないが、滝を登った後に「えらい」と言われると少し変な気分になる。
薬草を見るのも、ただ名前を覚えるだけではなかった。同じ草に見えても、根に集まる氣が違う。葉の裏に冷たい氣を持つものは熱を下げる。茎の奥に苦い氣があるものは毒を散らす。花だけがやたら甘く光っているものは、だいたい危ない。前の世界でこんな授業があったら、テスト前に泣いていたと思う。でも今は、間違えると本当に倒れるので覚えざるを得ない。命がかかると記憶力は上がる。
そして夕方、最後の修行になった。
竹林の奥に、古い石庭がある。石柱がいくつも立っていて、その間に小さな銅鈴が吊るされている。風が吹いても鈴は鳴らない。鈴のまわりには細い氣の糸が張ってある。触れれば鳴る。強い風を起こしても鳴る。氣を雑に出しても鳴る。つまり、かなり面倒な場所だった。
「庭を抜けろ」
玄清が言った。
「条件は?」
「鈴を鳴らすな」
「父さんは?」
「追う」
「やっぱり」
「今日は優しく追う」
「その優しさ、信用していい?」
「だめだ」
「そこは嘘でもいいって言ってよ」
玄清はほんの少しだけ笑った。いや、笑った気がした。夕方の光でそう見えただけかもしれない。
線香に火がつけられた。短い線香だった。燃え尽きるまで逃げれば勝ち。捕まるか、鈴を鳴らせばやり直し。単純だが、単純だからこそきつい。父から逃げるだけなら、全力で走ればいい。鈴を鳴らさないだけなら、ゆっくり歩けばいい。でも、父から逃げながら鈴を鳴らさないとなると、話が変わる。
ミナトは最初の一歩を静かに置いた。砂の上に足跡が深く残らないよう、足裏の氣を薄く広げる。次の石柱の横を抜ける。鈴の糸が少し揺れる。息を浅くして、胸の氣を内側に引く。鈴は鳴らない。
二歩、三歩。
背後の空気が薄く沈んだ。
父だ。
振り向かない。振り向くと遅れる。ミナトは身体を少しだけ右にずらした。父の手が左肩の横を通る。速い。音がない。怖い。父なのに怖い。いや、父だから怖いのかもしれない。
「今の避けたの、けっこうすごいよね」
「喋ると鳴るぞ」
「褒めてから注意して」
「よく避けた」
「ありがとう」
「次で捕まえる」
「ひどい」
父の手がまた伸びる。ミナトは走らない。走れば鈴が鳴る。砂が跳ねる。だから、歩く。歩いているように見せて、身体の中だけは全力で回す。足裏、膝、腹、肩、指先。氣を外に漏らさず、内側で回して、必要な瞬間だけ薄く出す。朝の滝では強く流した。浮石では細く乗せた。薬草では微細な違いを見た。全部が、今ここで少しずつ使われている。
父が足元の砂を軽く蹴った。
砂が舞う。ミナトは反射的に目を閉じたくなったが、閉じない。砂を見る。いや、砂ではなく、砂を運ぶ流れを見る。右から来るように見える。でも、本命は左の鈴へ向かう細い風だ。父は砂で目を奪って、鈴を鳴らさせようとしている。
「ずるい!」
「戦いにずるいはない」
「修行じゃなかったの?」
「今、戦いになった」
「勝手に変えないで!」
ミナトは袖に氣を通し、左へ流れる風を下へ落とした。鈴は鳴らない。そのまま一歩前へ出る。出口まであと少し。いける。そう思った瞬間、父の氣が消えた。
完全に消えた。
ミナトは立ち止まりかけた。だめだ。止まると捕まる。見る。いや、見てもいない。父は庭に溶けている。石柱、砂、鈴、竹、夕方の影。その全部が父の隠れ場所になる。情報が多すぎる。頭が痛い。全部見ようとすると、何も見えない。
そこで、ミナトは目を閉じた。
怖かった。でも、目を閉じた方が見えることもある。鈴の糸が張る音。砂がほんの少し沈む気配。竹の影が動く前の、空気の迷い。父が動くと、父そのものは見えない。でも、庭がわずかに父を避ける。
そこだ。
ミナトは左手を出した。父の手がそこに来る。触れる。掴まれる前に、ミナトは自分の氣の輪郭をふっと薄くした。力で逃げるのではない。掴む場所を一瞬だけなくす。父の指が空をつかむ。その隙に、ミナトは身を沈めて父の脇を抜けた。
鈴は鳴らなかった。
出口まであと一歩。
そのとき、竹林の入口から声がした。
「今の、いいな」
知らない声だった。
ミナトは驚いて、危うく鈴を鳴らしかけた。父の手も止まっていた。竹林の入口に、男が一人立っている。頭には布を巻いている。ターバンみたいなやつだ。顔は半分隠れていて、髪もよく見えない。外套は汚れていて、崑崙の人間ではないことはすぐにわかった。
それより、氣が変だった。
見えないわけではない。けれど、見ようとするとずれる。父の氣は岩みたいに静かで、母の氣は水みたいに広い。この男の氣は、道みたいだった。今ここにいるのに、どこか遠くへ続いている。立っているのに、もう歩き出している。そんな感じがした。
「……誰?」
ミナトは思わず聞いた。
「客」
男は普通に答えた。
「客は普通、修行中の庭に勝手に入ってこないと思う」
「玄関がわからなかった」
「この山に玄関なんてないけど」
「じゃあ仕方ないな」
なんだこの人。
ミナトは本気でそう思った。
玄清は男を見ても驚かなかった。ただ、少し面倒くさそうだった。
「勝手に入るな」
「入れたんだから仕方ないだろ」
「入れるようにはしていない」
「じゃあ、俺がすごかったんだな」
「昔からそういうところは変わらん」
ミナトは父を見た。父がこんなふうに話す相手は珍しい。というか、初めて見たかもしれない。父にも友人がいたのか。かなり失礼なことを思ったが、たぶん顔に出ていた。
「父さんの知り合い?」
「古い友人だ」
「本当に?」
「疑うな」
「いや、父さんに友人がいるの、ちょっと意外で」
「私にも友人くらいはいる」
玄清は真顔で言った。
「少しだけだが」
「自分で言うんだ」
ターバンの男が笑った。
その男は石庭に入ってきた。鈴の間を雑に歩く。なのに鳴らない。避けているようにも見えない。ただ歩いているだけだ。鈴の方がこの男に気づいていないみたいだった。ミナトは目を見開いた。父とは違う。父は庭と一体になる。この男は、庭から勝手に外れている。
男はミナトの前でしゃがんだ。
「お前がミナトか」
「そうですけど」
「八歳で今の抜け方なら、だいぶ変だな」
「それ、褒めてます?」
「かなり」
「かなりにしては言い方が雑です」
「雑な方が覚えやすいだろ」
ミナトは少しむっとした。でも、目は離せなかった。気になる。どうしてこの男は見えないのか。どうして鈴が鳴らないのか。どうして父と普通に話せるのか。聞きたいことが多すぎる。
「あなたは、外の人ですか」
「そうだな」
「外にも、あなたみたいな人がいるんですか」
「俺みたいなのは、あまりいない方がいいな」
「それは何となくわかります」
「失礼だな」
男は笑った。玄清は笑わなかったが、少しだけ口元が動いた。
ミナトは迷ったあと、聞いた。
「外って、面白いですか」
男はすぐに答えた。
「面白いぞ。危ないし、面倒だし、嫌な奴も多いけどな」
「それでも?」
「それでもだ」
その答えは、よくなかった。かなりよくなかった。そんなふうに言われたら、気になる。見たくなる。崑崙にも知らないものは山ほどある。でも、外にはもっとあるのかもしれない。父も母も知らないものが。もしかしたら、この男でさえまだ追いかけているものが。
「あなたは何をしてる人ですか」
「狩人」
「獣を狩るんですか」
「獣も狩る。遺跡も追う。人も探す。知らないものも追う」
「知らないものを狩るんですか」
「そういうこともある」
知らないものを狩る。
変な言い方だった。でも、ミナトの胸に残った。
男は懐から小さな金属片を取り出した。古い札の欠けらみたいな形で、星にも爪にも見える印が刻まれている。
「持っとけ」
男はそれを軽く投げた。ミナトは受け取る。見た目より重かった。
「何ですか、これ」
「外に出たとき、物好きに見せろ。まともな奴には見せるなよ。だいたい面倒になる」
「説明が雑すぎます」
「細かく説明しても、今はわからんだろ」
「それはそうかもしれないけど」
「なら雑でいい」
この人はたぶん、何でも雑で済ませる人なのだろう。でも、不思議と嫌ではなかった。父の説明は難しい。母の説明はやわらかい。この男の説明は雑だ。けれど、その雑さの向こうに、外の匂いがした。
男はもう帰るように竹林へ向かった。
「もう行くのか」
玄清が言った。
「長居すると山に嫌われる」
「もう嫌われている」
「なら今さらだな」
男は背を向けたまま手を振った。
「ジン」
父が呼んだ。
男は振り返らなかった。
「こいつを焚きつけるな」
「もう勝手に燃えてるだろ」
そう言って、男は竹林の奥へ消えた。氣は最後まで掴めなかった。ただ、遠くへ続く道みたいな気配だけが、しばらく残った。
ジン。
ミナトはその名前を覚えた。
変な人だった。雑で、適当で、でもたぶんすごく強い。父と対等に話し、崑崙の結界を抜け、鈴を鳴らさず石庭を歩いた人。外には、ああいう人間がいる。
「父さん」
「なんだ」
「外って、本当に面白いのかな」
「面白いものもある」
「危ない?」
「危ない」
「行ったら怒る?」
父は少し黙った。
「今は早い」
「今は、ってことは、いつかはいいの?」
「お前が、自分で見るべきものを持ったならな」
ミナトは金属片を握った。まだ外へは行けない。八歳だし、父には全然届かない。今日の石庭だって、最後は客に気を取られて終わったようなものだ。
でも、いつか。
いつか外を見てみたいと思った。
崑崙の外。危なくて、面倒で、嫌な奴もいて、それでも面白い世界。
その日から、竹林の向こうが少しだけ違って見えるようになった。山の外はまだ遠い。けれど、ただ遠いだけの場所ではなくなった。そこには、ジンという変な狩人が歩いている。知らないものを追いかけて、勝手に道を見つけて、たぶん笑いながら面倒ごとに首を突っ込んでいる。
ミナトは金属片を懐にしまった。
小さな重みが、しばらく胸のあたりに残っていた。