崑崙山で生まれたけど、外の世界では氣のことを念と呼ぶらしい 作:awazat
ジンが崑崙山に来てから、七年が経った。
八歳だったミナトは十五歳になっていた。背は伸びたし、手足も長くなったし、声も昔より少し低くなった。自分ではそこまで変わったつもりはないが、滝を前にして「まあ、今日は水が重いな」くらいで済ませているあたり、たぶんかなり変わっている。少なくとも、前の世界の自分が今の自分を見たら、まず何をやっているんだと思うだろうし、次に、いや十五歳の朝に滝を登るなよ、と普通に引くと思う。
白龍瀑という名前だけ聞くと、いかにも仙人の山にありそうなありがたい滝に思えるが、実際のところは高い崖から冷たい水が馬鹿みたいな勢いで落ちてくるだけの場所で、音はうるさいし、水しぶきは顔に当たるし、普通の感覚なら子どもが修行に使う場所ではない。けれど、ここで暮らしていると、普通の感覚というものは少しずつ削れていく。削れていくというより、父に削られる。
「今日は三息で上がれ」
滝の上の岩場から、玄清が言った。
白い衣を着て、手には茶碗を持っている。息子に滝を登らせる父親の姿としては、どう考えても間違っている気がするが、玄清はいつも通り大真面目な顔をしている。あの顔で、わりとお茶目なことを言うから困る。
「三息って、三回呼吸する間ってこと?」
「そうだ」
「長く吸ったら?」
「それも技だ」
「父さん、そういう抜け道みたいなの、わりと認めるよね」
「抜け道を抜けられる者は少ない。たいていは、抜け道の入口で転ぶ」
「今の、ちょっと名言っぽい」
「名言として使ってよい」
「自分で言うんだ」
玄清は茶を飲んだ。表情は変わらない。けれど、たぶん少し楽しんでいる。昔はそれがわからなかった。父はただ厳しくて、静かで、山の岩みたいな人だと思っていた。今は少し違うとわかる。父は岩みたいな顔で、たまに小石を投げてくる。しかも、こっちがつまずくかどうかを見ている。
ミナトは滝に入った。
一息目で、肩に水が落ちた。重い。だが、押し返さない。昔は水を壁だと思っていたから、正面からぶつかって弾かれた。何度も落ちたし、そのたびに玄清は本当に拾った。拾う前に助けろと言ったら、「拾える高さだった」と返された。そういう人である。
水は一枚ではない。岩に当たって割れるところがあり、泡になって軽くなるところがあり、風が入り込んでほんの一瞬だけ力の抜ける場所がある。そこに足を置く。足場なんてないが、足場にする。言葉にすると無茶だが、七年やっていると身体の方が先に覚える。
二息目で、身体が上がった。手はほとんど使わない。掴もうとすると遅くなるし、掴んだ場所に意識が止まる。腹の奥に沈めた氣を、足と背中へ細く通して、水に逆らうのではなく、流れの中で少しだけずれる。そうすると身体が上へ行く。上へ行くというより、落ちる力の中から、上に行く分だけを拾う。
三息目、上から大きな水の塊が落ちてきた。
避けない。
肩を落とし、背中で受ける。氣を張って弾くのではなく、身体の中を通して足から逃がす。水はミナトに当たり、左右に割れた。そのまま滝の上に出る。
岩場に着地したとき、息はほんの少し乱れていた。ほんの少しだ。父には見えているだろうが、こちらから言う必要はない。
「四息」
「三息だよ」
「最後に止めた」
「止めてる間は呼吸してないから、一息に入らないんじゃない?」
「屁理屈も鍛えたか」
「父さんの修行の成果だね」
「半分はな」
「もう半分は?」
「性格だ」
「父親がそれを言うの、どうなの」
「父親だから言う」
玄清は茶碗を置いた。それから、珍しくすぐに続けた。
「だが、昔よりずいぶん良い。水を怖がらなくなったのではなく、怖がったまま通れるようになった」
ミナトは少し返事に詰まった。こういうふうに褒められると、変にむずがゆい。いつもの「悪くない」なら軽口で返せるのに、ちゃんと言われると困る。
「今のは、けっこう褒めた?」
「褒めた」
「じゃあ受け取る」
「欲深くなったな」
「父さんが出し惜しみするからだよ」
玄清の口元がわずかに動いた。笑ったのだと思う。小さすぎて、知らない人なら見逃す。でもミナトは見逃さない。そういうところだけは、たぶん成長した。
次に向かったのは龍背石だった。細い尾根のような岩場で、左右は崖、下は霧で何も見えない。八歳のころは、ここに立つだけで膝の裏が変な感じになった。今は歩ける。走れる。目を閉じても、たぶん数十歩ならいける。ただ、怖さがなくなったわけではない。怖いまま動けるようになっただけで、そこを勘違いすると、たぶん落ちる。
尾根の真ん中に、黒い岩が置かれていた。人の背丈ほどある。昨日はなかった。
「置いた」
「どこから持ってきたの」
「近くから」
「近くにこんな岩あったっけ」
「今はない」
「持ってきたからね」
「そうだ」
そこは確認しなくてもいいところだった。
「割れ」
「拳で?」
「好きにしろ」
「父さんの“好きにしろ”って、好きにやるとだいたい怒られるやつだよね」
「怒りはしない。手が痛くなるだけだ」
「教育がだいぶ雑なんだよ」
「痛ければ覚える」
「それも一理あるのが嫌だな」
ミナトは岩に掌を当てた。冷たい。硬い。けれど、ただの塊ではない。岩の中にも筋がある。水が染みた跡、冷えた跡、重さに耐えてきた跡。そういうものが細い線になって走っている。
昔は、見えるものを全部見ようとしていた。水の流れも、岩の筋も、父の呼吸も、葉の揺れも。見えたものは気になるし、気になったら追ってしまう。でも、全部を追うと遅れる。目が忙しい、とジンに言われたことを、ミナトはまだ覚えている。あの言い方は少し腹が立ったが、たぶん正しかった。
だから今は、一本だけ見る。
一番深く、奥まで素直に伸びている線。
そこへ氣を通す。
押し込まない。殴らない。壊そうとしない。腹から胸へ、肩へ、肘へ、掌へ。細く流して、岩の中にもともとあった道に、そっと置く。
ぱきん、と音がした。
黒い岩に縦の線が入り、左右に分かれた。砕けたのではない。割れた。最初からそうなるつもりだったみたいに、静かに。
ミナトは少し黙った。
できた。
今のは、自分でもよかったと思う。
「今のは?」
聞くと、玄清は断面を見たまま言った。
「良い」
「悪くない、じゃなくて?」
「良い」
「父さん、今日どうしたの。優しい日?」
「昨日も優しかった」
「昨日、俺を崖から落としたよ」
「受け止めた」
「落とした事実は消えないんだよ」
「では、昨日は半分優しかった」
「半分がでかい」
ミナトは笑った。普通にうれしかった。八歳のころは、父の修行がただの無茶にしか見えなかった。滝を登る意味も、石庭を抜ける意味も、薬草の根を見る意味も、わかったふりすらできなかった。今でも全部わかっているわけではない。ただ、水の中に道を見ることと、岩の中に道を見ることと、父の手が動く前のほんの小さな空気の沈みを見ることが、どこかで同じものだとは思えるようになっていた。
氣という言葉は、便利すぎる。
ミナトは今でも、氣が何なのかうまく言えない。前の記憶はかなり薄れているくせに、変なところだけ残っている。氣と聞くと、まずドラゴンボールみたいなものを思い出す。手のひらに力を集めて、どかんと撃つ。強い奴ほど大きくて、山が吹っ飛んだり空を飛んだりする。あれはわかりやすい。たぶん、今でも少し好きだ。
呼吸で身体に波を作る漫画も思い出す。あれも近い気がする。息を整えて、血を巡らせて、身体の奥に熱を作る。武侠小説の奥義の名前も、ときどき頭をよぎる。降龍十八掌とか、独孤九剣とか、九陽神功とか。細かい内容はかなり怪しいが、名前だけで強そうだったことは覚えている。
でも、崑崙で触っている氣は、それらのどれか一つではなかった。
撃つこともできる。たぶん父なら、できる。呼吸でもある。血の流れでもある。身体の癖でもある。怒りや恐れの形でもある。嘘をつくと、氣は変なところで固くなる。怖がっている人間は、胸のあたりがきゅっと縮む。何かを決めた人間の氣は、逆に細くなる。大きく広がるのではなく、細く、硬く、折れにくくなる。だから、大きいから強いとも言い切れないし、小さいから弱いとも限らない。
父の氣は、普段は静かすぎて何もないように見える。でも深い。底の見えない湖みたいだ。母の氣は柔らかい。柔らかいのに、こちらが触れるより先にもう触れられている感じがする。
では、自分は何なのか。
そこがまだ、よくわからない。
ただ、見える。
見えすぎる。
流れの端。癖。詰まっている場所。隠そうとして、逆に目立っているところ。見えるから追ってしまう。追うから疲れる。疲れるのに、やめられない。たぶん、それが自分の悪いところで、同時に、始まりでもあるのだと思う。
「父さん」
「なんだ」
「氣って、力なの?」
何度目かわからない質問だった。けれど、何度聞いても少しずつ違う。
「力でもある」
「息?」
「息でもある」
「血?」
「血でもある」
「心?」
「心でもある」
「欲とか、恐れとか」
「それもある」
「じゃあ、全部じゃん」
「全部ではない」
「今の流れだと全部でよかったじゃん」
「惜しい方が考える」
「父さん、やっぱりわざとやってるよね」
「少し」
「少しって認めるんだ」
「多くはない」
「そこじゃないんだよなあ」
玄清は真顔だった。けれど、絶対に楽しんでいる。母なら、茶目っ気があるのよ、と言うだろう。ミナトは、性格が悪いのでは、と思うこともある。まあ、半分くらいは同じ意味かもしれない。
氣は、言葉にすると少しだけわかった気になる。力、息、血、心。欲とか恐れとか、癖とか。名前をつければ楽になる。楽になると、見なくなる。たぶんそこが危ない。ミナトは、岩の断面に残った自分の氣の感触を見ながら、そんなことをぼんやり考えた。
「名前をつけると、わかりやすくなる」
ミナトは言った。
「でも、その名前に寄りかかると、ほかのものが見えなくなる」
玄清は少し黙った。それから、ゆっくりうなずいた。
「それがわかるなら、今日はもう一つ見せてもよい」
「何を?」
「私の形だ」
「奥義?」
「入口だ」
「父さんの入口って、だいたい入口の顔してないんだよね」
「奥は、もっと奥にある」
「そういう返し、ちょっと好きでしょ」
「少し」
玄清は割れた岩の前に立ち、右の掌を上げた。
氣が集まる。
光らない。炎も出ない。派手な気功波みたいにはならない。けれど、重い。掌の上に、小さな山が乗ったみたいだった。尾根を渡る風が止まる。滝の音が遠くなる。空気が沈む。撃たれてもいないのに、もう逃げ場がない気がした。
父はそれを撃たなかった。
ただ、保った。
そのまま、掌をゆっくり前へ出す。
音はなかった。
割れた黒い岩の片方が、すっと後ろへずれた。吹き飛ぶのではない。砕けるのでもない。ただ、そこにあったものが、世界ごと押されたみたいに静かに動いた。
遅れて、空が割れた。
雲がまっすぐ裂け、青い空が細い線になって見えた。光が落ちて、濡れた岩の色が少し明るくなる。
ミナトは、しばらく何も言えなかった。
「……空、割れたけど」
「雲だ」
「そういう冷静な訂正じゃなくて」
「よく晴れた」
「天気の話にしないで」
玄清は掌を下ろした。何でもなかったような顔をしている。父の基準では、今のも本当に何でもないのかもしれない。そう思うと少し怖い。
「今のは、お前の道ではない」
「じゃあ、なんで見せたの」
「道は一つではないと知るためだ。私は練る。蓮華は触れる。お前は見る。どれが上という話ではない。借りてもよい。学んでもよい。だが、他人の形に住むな」
ミナトは少し黙った。
父はときどき、こういうことを言う。わかりにくいようで、妙に残る。今のもたぶん大事な話だ。父の形をそのままなぞるな、ということなのだろう。
自分は、見るところから始まった。
なら、自分の氣も、そこから探すしかない。
そう思ったときだった。
足元に、黒い線が見えた。
最初は岩の影かと思った。違う。氣だ。細く、湿った糸みたいなものが、割れた岩の隙間から、尾根の石の下へ這っている。父の氣ではない。母の氣でもない。崑崙の澄んだ流れとも違う。
嫌な感じがした。
でも、見たかった。
どこから来たのか。どこへ行くのか。何に触れているのか。
ミナトは反射的に指を伸ばした。
「触るな」
玄清の声が飛んだ。
遅かった。
指先が黒い糸に触れた瞬間、身体の奥から熱が抜けた。痛い、というより気持ち悪い。自分の中の流れに、冷たい針を刺されたみたいだった。ほんの一瞬なのに、胸の奥まで持っていかれる。
玄清の指が、黒い糸を断った。
糸は地面の上で小さくのたうち、煙のように消えた。
ミナトは指先を押さえた。冷たい。指先だけではない。胸の奥にも、少しだけ冷たさが残っている。
けれど、見えた。
黒い糸は山の下へ続いていた。谷を越え、川へ向かい、その先へ。まだ見たことのない外の世界へ。
「父さん」
「なんだ」
「これ、外から引かれてる」
玄清の顔から、さっきまでの茶目っ気が消えた。
父は山の奥を見た。龍穴の方角だった。
「蓮華を呼べ」
低い声だった。
ミナトは、黒い糸が消えた場所を見た。山は崩れていない。滝も流れている。風も吹いている。割れた雲の間から、青い空が見えている。何も変わっていないように見える。
でも、指先にはまだ冷たい感覚が残っていた。
遠くで、崑崙につながる何かが使われている。
怖いとは思った。父の顔から茶目っ気が消えたのも、指先に残った冷たさも、まったく笑えなかった。
それでもミナトは、黒い糸が消えた場所から目を離せなかった。見えてしまったものを、見なかったことにする方が、たぶんもっと気持ち悪かった。